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新豊院山古墳群と台地上の支配者 ── 弥生から古墳へ、向笠の丘に眠る記憶
国指定史跡・新豊院山古墳群。弥生時代の土器棺墓から古墳時代前期の前方後円墳まで、一つの丘に積み重なった墓制の変化と、三角縁神獣鏡が語る台地上の支配者の姿をたどる。
西貝塚・明ヶ島・大原周辺の遺跡群 ── 磐田原台地南東縁の考古学的景観
縄文の貝塚群・西貝塚を中心に、磐田原台地南東縁に広がる遺跡群を俯瞰する。城之崎遺跡・御厨古墳群への接続と、明ヶ島・大原という地名について確認できることとできないことを分けて読む。
旧東海道と国道1号・県道の主役交代 ── 磐田バイパスが変えた道の地図
見付の旧東海道が国道1号として拡幅され、渋滞に悩んだ末に磐田バイパスへ主役を譲るまで。1981年の開通から2015年の本線昇格・旧道の県道格下げまでをたどる。
見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道 ── 南部の低地を渡る道
内陸の見付と、沿岸の福田・掛塚を結んだ道を、南部の低地地形から考える。微高地づたいの旧道という原則を手がかりに、確認できることとできないことを分けて読む。
磐田駅前・中泉の近代商業 ── 中泉駅開業から「天平のまち」まで
明治22年の中泉駅開業から、見付との合併・磐田駅への改称、駅舎の変遷、令和の複合施設「天平のまち」まで。磐田駅前・中泉の近代商業と町の移り変わりをたどる。
令和の薬師堂移築 ── 国分寺奉賛会と2度目の史跡公園
国分寺奉賛会の歩みと、令和4年の薬師堂移築落慶までの経緯。史跡公園整備が進む現在の遠江国分寺跡と、信仰の現在地としての薬師堂を読む。
森本善苗尼と近藤文六 ── 昭和の国分寺復興
廃寺から80年、境松の招請で入寺した森本善苗尼と、それを支えた近藤文六。昭和17年の国分寺認可までの復興の歩みを読む。
明治の廃寺 ── 上知令と国分寺の断絶
明治の上知令による寺社領没収と、最後の住職の死去による廃寺。無住職・無檀家となった薬師堂を境松の人々が守り続けた経緯を読む。
境松の門前町 ── 東海道の立場と饅頭屋のあった風景
見付と中泉の境にあたる境松。東海道の立場として栄えた門前町の家並みと、饅頭屋・鍛冶屋の記憶を絵図と発掘成果からたどる。
遠江四十九薬師霊場と庶民の信仰 ── 絵馬・巡礼・木喰上人
遠江四十九薬師霊場第一番札所としての国分寺薬師堂。享保期に始まった霊場巡りと、病気平癒を願った人々の絵馬を読む。
卵塔墓が語る260年 ── 国分寺住職たちの墓碑を読む
江戸初期から明治初期まで14基の墓塔が伝える国分寺住職たちの歩みと、寺子屋を開いた住職・真浄の記憶を読む。
中泉代官と薬師堂の再興 ── 中野七蔵・高室昌重と憲能和尚
元亀3年の焼失を経て、江戸初期の中泉代官・中野七蔵と高室昌重による本堂再建と、初代住職・憲能和尚の事績を読む。
堀越氏延の鰐口 ── 大永2年、見付端城主の寄進
大永2年(1522年)、見付端城主・堀越氏延が国分寺薬師堂に奉納した鰐口。現存する薬師如来坐像との関係から、戦国期の薬師堂再興を読む。
記録が消えた理由 ── 東海道と国分寺の前を通らなくなった道
鎌倉・室町期の紀行文に国分寺が登場しない理由を、中世東海道のルート変更と発掘成果から読み解く。
鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき
建久2年の源頼朝による国分二寺修造令と、承元3年の「薬師堂」表記の史料から、本尊信仰の変化と国分寺から薬師堂への転換を読む。
講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と太政官への嘆願
治安2年(1022年)の大風で倒壊した遠江国分寺講堂。太政官への修復申請と勘査の手続きから、摂関政治期の地方国分寺の実態を読む。
国分寺ものがたり ── 天平の寺はどう生き続けたか(特集・全12ページ公開)
遠江国分寺跡に隣接する薬師堂を軸に、平安中期の講堂倒壊から令和4年の移築落慶まで、約千年続いた信仰の歴史をたどる総合学術特集。
伝承はなぜ生まれるのか ── 城之崎城と中泉御殿が一つの物語になるまで
時代も仮想敵も異なる城之崎城と中泉御殿が、なぜ一つの伝承として語り継がれてきたのか。地域の記憶が形づくられていく過程を、磐田物語の視点から考察する。
「秀吉に配慮した城」の正体 ── 中泉御殿との混同を解く
秀吉配慮説は城之崎城ではなく中泉御殿に対応する話ではないか。1580年代に造営された中泉御殿の性格を、城之崎城と比較しながら整理する。
磐田が戦場になった時代 ── 一言坂・三ケ野・社山城・匂坂城
元亀3年の武田信玄による遠江侵攻。一言坂の戦い、本多忠勝の殿、三ケ野坂、社山城・匂坂城の落城まで、磐田市域が戦場になった対武田戦の実像を整理する。