磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第124号(御厨・田原地区研究)
田原地区の学校史 ── 寺子屋・西島学校から田原小学校へ
学制期の学校づくりと村
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
本稿は、磐田市御厨の田原地区における学校の歩みを、寺子屋・寺院での手習いから明治初期の仮校舎、西島学校、そして町村制後の田原小学校へと続く一連の過程として整理する。手がかりとするのは『田原の史話』の学校章であり、そこに記された「寺子屋」「学校の沿革」「西島学校」「落第制度の記録」「小学校の移り変わり」の各項を、史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に腑分けして読み直す。明治5年(1872年)の学制頒布と明治22年(1889年)の町村制という二つの制度改革は年代の確かな史実であるが、西島学校の具体的な創立年や校舎の規模を直接記す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。この「未確認」と「記載がない」ことの区別を保ちつつ、本稿は学校史を単なる制度史ではなく、旧村ごとの学びが田原という一つの圏域へまとまっていく地域史として記述する立場をとる。あわせて、既刊の田原地区論考(集落と地名・お宮とお寺)と重ね合わせることで、学校史をこの地の地名と信仰の圏域の上に位置づけ直すことを試みる。
キーワード:田原地区/寺子屋/西島学校/田原小学校/学制/町村制/『田原の史話』
1. 問題設定 ── 学校史を村の歴史として読む
学校は、子どもが通う場所であると同時に、村のまとまりを目に見える形にする場所であった。どの集落の子がどの校舎へ集まるか、その通学路がどこを通り、誰が校舎を建て、誰が村費を負担するか──そうした事柄の一つ一つが、地域の範囲そのものを規定していく。田原地区の学校史をたどることは、行政の記録をなぞる作業にとどまらず、旧来の村がどのように一つの地域社会へ組み替えられていったかを、子どもの通う先という具体的な指標から読み取る作業でもある。
田原地区は、磐田原台地の東部に広がる田原・玉越・西島・彦島・三ケ野・明ケ島といった集落の総称であり、近世には御厨の一角をなしてきた1。これらの集落は、それぞれに氏神と菩提寺をもち、独立した村としての生活単位を保っていた。学校がこの地に置かれるとき、その学校はどの集落を圏域とするのか、という問いが必ず生じる。学校史とは、この圏域が寺子屋の時代から近代の小学校へと移り変わるなかで、どのように引き直されてきたかの記録にほかならない。
そもそも「田原地区」という一つの単位で学校史を語れること自体が、近代の産物である。近世においては、田原・玉越・西島・彦島・三ケ野・明ケ島は、それぞれが年貢を負い、氏神をまつり、自前の生活を営む独立した村であった。これらを「田原」という一つの地域として束ねる感覚は、町村制による行政村の編成と、その村を単位とする学校の設置によって、はじめて具体的な形を得ていく。学校史を読むとは、この「田原という単位」がどのように立ち上がってきたかを、教育という側面から跡づける作業でもある。したがって本稿は、学校の変遷そのものを追うと同時に、その変遷が地域のまとまりをどう組み替えたかにも注意を払う。
本稿が出発点とするのは、『田原の史話』という一冊の郷土誌である。この冊子の学校章には、寺子屋にはじまり、学制頒布後の仮校舎、寺院を使った教育、西島学校、そして町村制後の田原小学校へと続く流れが、断片的ながら記録されている。ただし、そこに記された事柄の確からしさは一様ではない。明治5年(1872年)の学制頒布のように国家の制度として確定できる史実もあれば、寺子屋の師匠や生徒数のように口碑や記憶に頼る伝承の水準にとどまるものもある。本稿の課題は、これらを同じ平面で語るのではなく、確度の層を分けて読み直すことにある。
こうした姿勢をとる理由は、学校史がしばしば「進歩の物語」として語られやすいからである。寺子屋という古い形から近代学校という新しい形へ、遅れた教育から進んだ教育へ──そのような一直線の図式に当てはめると、田原地区で実際に起きたことの手ざわりが失われる。近代学校は、更地に建てられたのではない。寺院や既存の建物を借り、寺子屋以来の学びの土台の上に、制度としての学校が重ねられていったのである。本稿は、この重なりの過程を、確度を分けながら丁寧に記述したい。
あわせて、本稿は既刊の関連論考との接続を意識する。田原地区の集落と地名については第63号「田原地区の集落と地名」で、その神社・寺院については第115号「田原地区のお宮とお寺」で、それぞれ扱った。学校史は、この地名と信仰の圏域の上に重ねて読むとき、はじめてその意味が立ち上がる。以下ではまず史料と枠組みを確認し、寺子屋から田原小学校までの各段階を順に検討したうえで、学校が村にもたらしたものを考え、結論に至る。
2. 史料と枠組み ── 『田原の史話』と確度の四層
各段階の検討に入る前に、本稿が依拠する史料の性格と、分析の枠組みを確定しておきたい。田原地区の学校史を語る中心的な史料は『田原の史話』であり、その本文13〜19頁に「寺子屋」「学校の沿革」「西島学校」「落第制度の記録」「小学校の移り変わり」といった項が置かれている2。これは地域の記憶をまとめた郷土誌であって、行政が編んだ公文書ではない。したがってそこに記された事柄を、そのまま一次史料に基づく確定事実として扱うことはできない。冊子の記述を、それが由来する資料の性格に応じて腑分けする作業が、まず必要になる。
本稿では、その腑分けの物差しとして四つの確度層を用いる。第一に史実、すなわち国家の制度や公的な記録によって年代まで確認できる事柄。学制頒布や町村制の施行がこれにあたる。第二に通説、郷土史の分野で広く受け入れられているが、一点の年代までは史料で確定しがたい事柄。第三に推定、根拠はあるが確証を欠く事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきたが文書の裏づけをもたない事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。
この枠組みを田原地区の学校史に当てはめると、たとえば「明治5年に学制が頒布された」ことは史実、「田原地区でも寺院を仮校舎として学校が開かれた」ことは学制期の一般的な状況から導かれる通説的推定、「西島に学校が置かれた」ことは冊子が項目を立てて記録する以上おおむね確かとみてよいが、その創立年や規模は伝承ないし未確認、というように、同じ学校史の内部でも確度は幾層にも分かれる。冊子の一文をどの層に置くかを一つ一つ判断していくのが、本稿の作業の実質である。
ここで、方法上の区別を明示しておきたい。西島学校の創立年や田原小学校への改称の時期を直接記した一次史料に、本稿はいまだ突き当たっていない。これは「そのような史料が存在しない(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、それを裏づける一次史料を確認できていない(=未確認)」という状態である。学校沿革を記す学籍簿や県の教育関係文書が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それ自体が別途の検証を要する問いである。この「未確認」と「記載なし」の区別は、以下の各段階の評価において一貫して保持する。
郷土誌を史料として用いる際の作法にも、一言しておきたい。『田原の史話』のような冊子は、地域の古老の記憶、旧家に伝わる文書の断片、行政の記録、そして編者自身の見聞といった、性格の異なる情報を一つの叙述へまとめている。読み手はしばしば、そこに書かれた事柄をすべて同じ重みの事実として受け取ってしまうが、それは冊子の性格を取り違えた読み方である。冊子の一文が、公文書に裏づけられた記述なのか、古老の回想を書きとめたものなのかによって、その確からしさは大きく異なる。本稿が確度の四層を持ち出すのは、この郷土誌という史料の混成的な性格を、読解の手続きのなかで明示的に扱うためでもある。
もう一点、田原地区に固有の事情を補っておく。学制期の学校づくりは、全国一律の制度として上から降ろされたが、実際にどの建物を校舎とし、どの集落を校区とするかは、地域の側の事情に大きく左右された。田原地区のように複数の小さな集落が台地上に散在する地形では、一つの校舎にどこまでの範囲の子どもを集めるかが、そのまま通学の負担に直結する。したがって田原の学校史を読むには、制度の年表だけでなく、集落の配置と地理を重ねて見る視点が欠かせない。この点は第6節以降であらためて立ち返る。
3. 寺子屋・寺院の手習い ── 近代学校以前の土台
寺子屋という学びの土台
段階の骨子。田原地区の学校史は、明治になって突然始まったものではない。『田原の史話』が「寺子屋」の項を立てているとおり、制度としての学校が整う前から、この地には読み書きや算用を教える場があった3。寺院での手習いや、地域の有力者・僧侶が師匠を務める寺子屋が、近代学校の受け皿となる素地を用意していたのである。
この段階の意味。寺子屋を単なる前史として片づけると、近代学校がいかに寺子屋の蓄積の上に立っていたかが見えなくなる。読み書き算用という基礎の需要、子どもを一定の場所へ通わせるという生活習慣、そして師匠に子どもを預けるという信頼の作法──これらはいずれも、寺子屋の時代に育まれ、そのまま近代学校へと引き継がれた。学制がこの地で比較的すみやかに受け入れられたとすれば、その背景には、すでに学びの場を知っていた地域の下地があったと考えるのが自然である。
資料的裏づけと限界。寺子屋の具体的な姿──師匠が誰であったか、何人の子が通ったか、どのような手本を用いたか──を伝える一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。冊子の記述も、多くは後年の記憶や口碑に基づくとみられ、その意味でこの段階は伝承の層に属する。しかし伝承であることは、価値の低さを意味しない。むしろ、地域が近代教育以前の学びをどのように記憶してきたかを示す資料として、丁重に扱うべきものである。
寺院と学びの結びつき。寺子屋や手習いの場がしばしば寺院と結びついたことは、田原地区でも例外ではない。寺院は、集落の中心にあって人が集まる場所であり、文字を扱う僧侶がいて、雨露をしのげる建物をもっていた。近代学校が最初に寺院を仮校舎として用いたのは、この寺子屋以来の結びつきの延長線上にある。田原地区の神社・寺院の配置については第115号「田原地区のお宮とお寺」で扱ったが、その寺院の分布は、そのまま初期の学びの場の分布と重なっていた可能性が高い。
学びの需要という土台。寺子屋がこの地に成り立っていたということは、そこに読み書き算用を必要とする暮らしがあったことを意味する。近世の田原地区は、台地上の畑作と、街道や宿場に接する交通の条件のなかで、証文を交わし、年貢の帳面を読み、書状をやりとりする場面をもっていた。文字と計算の需要は、支配のためだけでなく、日々の生活と生業のなかから生まれていた。近代学校は、この生活に根ざした学びの需要を引き継いだからこそ、制度として根づくことができた。寺子屋を前史として軽く扱えないのは、それが単なる教育の古い形ではなく、地域が学びを必要とする理由そのものを準備していたからである。
4. 明治初期の仮校舎 ── 学制と既存施設の転用
学制頒布と寺院の仮校舎化
段階の骨子。明治5年(1872年)、政府は学制を頒布し、全国に小学校を設置する方針を打ち出した。これは年代の確かな史実である4。だが制度が頒布されたことと、専用の校舎がただちに建ったこととは別である。田原地区でも、当初は寺院や既存の建物を借りて子どもを通わせる仮校舎の段階から学校づくりが始まった。
この段階の意味。仮校舎の段階は、制度と地域が最初に折り合いをつけた局面として重要である。国は学校の設置を命じたが、校舎を建てる費用も、教える人材も、多くは地域が自前で用意しなければならなかった。手近な寺院を校舎に転用したのは、単なる間に合わせではなく、限られた資源のなかで制度を受け止めるための、地域の側の合理的な選択であった。既存の建物を使いながら学校を開くというこの過程は、制度を自分たちの場所に合わせて置き直す営みでもあった。
資料的裏づけと限界。田原地区のどの寺院が、いつ、どの範囲の子どもを対象に仮校舎となったかを、年月まで特定できる一次史料には、本稿は突き当たっていない。したがってこの段階の具体は通説的な推定にとどまる。学制期に寺院を仮校舎とすることは全国的に広く見られた現象であり、田原地区もその一般的な流れのなかにあったと考えるのが穏当であるが、個々の寺院名や開校の月日を断定することは慎むべきである。ここでも「未確認」と「記載なし」の区別を保つ必要がある。
見付との対比。同じ磐田の学制期の学校づくりでも、宿場町として人口の集まる見付では、やがて擬洋風の独立校舎が建てられた。現存最古級の校舎として知られる旧見付学校がそれであり、その建築と学びのまちについては第40号「旧見付学校」で論じた。田原地区のように集落が散在する農村部では、見付のような堂々たる独立校舎ではなく、寺院を借りる仮校舎から段階的に整えていく道をたどった。同じ学制期でも、町と村とで学校づくりの姿は大きく異なったのである。この対比は、学制という一律の制度が地域の条件に応じて多様に着地したことをよく示している。
仮校舎という段階の性格。仮校舎を「本格的な校舎が建つまでの一時的な間に合わせ」とだけ捉えると、この段階の意味を見誤る。学制期において、専用校舎の新築は多くの村にとって容易な事業ではなく、寺院を借りる状態が相当の期間続くことも珍しくなかった。つまり仮校舎は、しばしば長く続く常態であり、その間に通学の習慣、教員と子どもの関係、村と学校の結びつきが着実に育っていった。田原地区の学校が、寺院という場所を経由しながら地域に根づいていった過程は、この仮校舎の期間を、断絶や停滞ではなく、地域が学校を自らのものとして受け止めていく醸成の時間として読むべきことを示している。
5. 西島学校という節目
集落の内側に根づく近代教育
段階の骨子。『田原の史話』は「西島学校」の項を独立して立てている。西島は、寺社の記憶と学校の記憶が重なる場所であり、近代教育が集落の内側へ根づいていく過程を象徴する5。仮校舎という間に合わせの段階から、特定の集落に名を冠した学校が定着する段階への移行を、西島学校の名は示している。
この段階の意味。学校が「西島学校」という固有の名をもったことは、それが単なる仮の場所ではなく、地域に位置づけられた施設になったことを意味する。校名を得た学校は、通学路、保護者の負担、村費、教員の確保といった具体的な課題を地域に投げかける。西島に学校が置かれたことで、周辺の集落の子どもたちがそこへ集まるという圏域が形づくられ、田原地区の教育が一つの拠点をもつことになった。冊子が西島学校を独立の項として扱うのは、この段階が田原地区の近代教育史における節目であったことの反映と読める。
資料的裏づけと限界。ここで慎重を期したいのは、西島学校の創立年、校舎の規模、校区の範囲といった具体を、直接記す一次史料に本稿が突き当たっていない点である。冊子が項目を立てて記録している以上、西島に学校が存在したこと自体はおおむね確かとみてよいが、その細部は推定と未確認の層にとどまる。西島学校が仮校舎の延長として同じ寺院に置かれたのか、別に校舎を構えたのかも、現段階では断定できない。この空白を埋めるには、県の教育関係文書や学籍簿の博捜が必要である。
寺社の記憶との重なり。西島が「寺社の記憶と学校の記憶が重なる場所」であることは、この段階を理解するうえで示唆に富む。近代学校が寺院を母体として始まったこと、そして西島がその寺社を核とする集落であったことを重ねると、西島学校は寺子屋・寺院の手習いの土台の上に、ごく自然に接ぎ木されたものと考えられる。第63号「田原地区の集落と地名」で見たとおり、西島は台地東部の集落群のなかで一定の中心性をもつ場所であり、そこに学校が置かれたことは、集落の配置からみても理にかなっている。
校名が生む帰属。学校が固有の名をもつことには、施設の定着以上の意味がある。「西島学校」という名は、そこへ通う子どもたちに、自分がどの学校に属するのかという帰属の意識を与える。仮校舎の段階では、子どもは「寺で手習いをする」に過ぎなかったが、校名をもつ学校の段階では、「西島学校の子」として括られる。この括りは、やがて周辺集落の子どもをも同じ名のもとに包み込み、集落を越えた新しいまとまりの芽を育てる。校名の成立は、教育の制度化であると同時に、地域の帰属意識が集落から一段広い圏域へと開かれていく契機でもあった。
6. 町村制と学校区の再編 ── 旧村から田原の学校へ
明治22年(1889年)の町村制は、田原地区の学校にも大きな影響を与えた。町村制は、近世以来の小さな村を合併して行政村を編成する制度であり、これも年代の確かな史実である。旧村ごとに残っていた学びの場は、この行政村のまとまりに合わせて整理され、田原という地域単位で学校を考える方向へと進んだ。校名や校区の変更は、制度上の変更であると同時に、子どもたちがどの集落から同じ学校へ通うのかを決める、生活上の変更でもあった。
この再編を、単なる行政区画の付け替えとみるのは一面的である。町村制以前、田原地区の各集落は、それぞれの氏神と菩提寺を核とする独立した生活単位であった。学校もまた、集落ごとの学びとして分散していた可能性がある。町村制はこの分散した単位を一つの行政村へ束ね、その村の学校として小学校を位置づけ直した。西島学校の名が、やがて田原の名を冠する学校へと移り変わっていく背景には、この行政村の編成があったと考えられる。ただし、その改称の具体的な時期や経緯を記す一次史料には、本稿はなお突き当たっていない。
ここで、旧村から地域の学校への移行が何を意味したかを、いま一度考えておきたい。旧村ごとの学校は、その村の子どもだけを対象とし、その村の負担で維持される。これに対し、田原という広い単位の学校は、複数の旧村の子どもを一つの校舎へ集め、その維持を地域全体で担う。この移行は、教育の主体が「村」から「地域」へと一段大きくなったことを意味する。同時にそれは、遠い集落の子どもにとって通学の負担が増すことでもあり、近代の統合が一律に利便をもたらしたわけではないことも、あわせて記録しておくべきである。
校区の再編は、地理と不可分であった。田原地区の集落は磐田原台地の東部に散在しており、どこに校舎を置くかによって、各集落からの通学距離は大きく変わる。西島が拠点に選ばれた背景には、集落群のなかでの位置や、寺社を核とする中心性があったと推測されるが、それでも台地の縁に位置する集落の子どもにとっては、少なからぬ距離を歩く通学となったはずである。学校区の再編とは、この地理的な負担の分配を、地域全体でどう引き受けるかという問題でもあった。台地上の集落の配置、街道や谷筋の走り方、そして季節ごとの道の状態が、どの子がどれだけの距離を歩くかを左右し、その負担の重みは集落ごとに決して均等ではなかった。学校をどこに置くかという一見単純な決定の背後には、こうした地理と負担をめぐる、集落間の目に見えない調整があったと考えられる。
次の比較表は、寺子屋から田原小学校までの各段階を、時期・施設・教育の圏域・確度の層・史料批判上の留意点において対等の粒度で並べたものである。特定の段階を優れたもの・遅れたものとして序列化するのではなく、それぞれが置かれた条件と、そこから何が確実に言えるのかを可視化することを目的とする。
| 段階 | 時期 | 施設と圏域 | 確度の層 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 寺子屋・寺院の手習い | 近世〜明治初期 | 寺院や有力者の場。集落内の小規模な学び。 | 伝承 | 師匠・生徒数など具体を伝える一次史料は未確認。口碑・記憶に依拠。 |
| 明治初期の仮校舎 | 1872年の学制以後 | 寺院・既存建物を転用。集落単位で開校。 | 史実(学制)+通説的推定 | 学制頒布は史実。個々の寺院名・開校月日は断定できない。 |
| 西島学校 | 時期は未確認 | 西島を拠点に周辺集落の子を受け止める教育圏。 | 推定・未確認 | 存在は冊子に基づき確か。創立年・規模・校区は史料未確認。 |
| 田原小学校へ | 1889年の町村制以後 | 行政村の学校。田原地区全体を結ぶ公共施設。 | 史実(町村制)+推定 | 町村制は史実。改称の時期・経緯を記す一次史料は未確認。 |
あわせて、田原村そのものの成り立ちが、この学校区の再編と表裏をなしていたことも押さえておきたい。町村制による行政村の編成は、単に学校の校区を引き直しただけでなく、村役場・戸籍・村費といった地域行政の枠組みを、田原という単位で新たに立ち上げるものであった。学校は、その新しい行政村が住民に対して最初に整えた公共の施設の一つであり、村の一体性を子どもの世代から育てる装置でもあった。行政村としての田原村の誕生と、田原の学校の成立とは、同じ一つの近代化の過程の異なる側面として、切り離さずに読むのが正しい。
この表から読み取れるのは、田原地区の学校史が、確度の異なる事柄の積み重なりだという点である。学制と町村制という二本の史実の柱の間に、寺子屋の伝承、仮校舎の推定、西島学校の未確認といった、確証を欠く事柄が挟まっている。この空白を「わからないから書かない」として切り捨てれば、学校史は二つの制度改革の年表に痩せ細ってしまう。逆に、空白を憶測で埋めれば、確度の低い記述を史実のように語る誤りに陥る。本稿が確度の層を分けて記述するのは、この二つの過ちのいずれをも避けるためである。
7. 学校が村にもたらしたもの ── 規律・負担・共同体
ここまで学校史を段階ごとにたどってきたが、最後に、学校がこの地の村々に何をもたらしたのかを、制度の外側から考えておきたい。学校は、単に勉強をする建物ではなかった。試験、進級、出席、学用品、校舎の維持といった、村の日常にそれまでなかった新しい規律を持ち込む装置でもあった。『田原の史話』が「落第制度の記録」という項をわざわざ立てているのは、この規律の性格をよく物語っている。
落第制度の記録は、当時の学校が現在よりもはるかに厳格な進級制度のもとにあったことを伝えている。一定の成績に達しなければ進級できないという仕組みは、学びが家や村の生活と強く結びついていたこと、そして子どもの学業が村のなかで可視化されていたことを意味する。進級・落第という区切りは、子ども本人だけでなく、その家、ひいては集落にとっての関心事であった。学校は、村の子どもを一律の物差しで測る、新しい評価の場でもあったのである。
学校がもたらした負担にも目を向けねばならない。校舎を建て、維持し、教員を雇うための村費、子どもに持たせる学用品、そして何より、子どもが毎日歩く通学路そのものが、村の負担であった。田原地区のように集落が散在する地形では、遠い集落の子どもにとって、雨の日の道や冬の朝の登校は容易でなかったはずである。学校という制度は、教育の機会を村にもたらすと同時に、それを支える負担を村に課した。この両面を見ずに学校史を語ることはできない。
規律と負担は、しばしば対立するものとして語られるが、田原地区の学校史においては、両者は同じ一つの過程の表と裏であった。進級や落第という規律が村のなかで機能したのは、その規律を支える校舎や教員を、村が費用を負って維持していたからである。逆に、村が負担を引き受けたのは、その学校が子どもを一律に測り、育てる公的な場として認められていたからである。規律は負担によって支えられ、負担は規律に意味を与えた。学校を「制度が村に課したもの」とだけ見るのでは、この相互の関係は見えてこない。村は、負担を引き受けることによって、学校という新しい規律の場を自分たちのものとして手に入れたのである。
それでも、学校が村にもたらした最も大きなものは、共同体のまとまりであったと考えられる。複数の集落の子どもが同じ校舎に集い、同じ教員のもとで学び、同じ行事を経験する。この共通の体験は、旧村ごとに分かれていた人々の意識を、田原という一つの地域へと少しずつ束ねていった。学校は、制度が村に降りてきた場所であると同時に、村が自分たちの未来を引き受けた場所でもあった。子どもをどこへ通わせ、どのように育てるかという選択を通じて、村は自らの姿を描き直していったのである。
学校史を、行政史だけで説明しきることはできない。子どもが歩く距離、雨の日の道、弁当、校舎の広さ、教員の数、村費の負担──こうした一つ一つが、学校の記憶を形づくる。田原地区の学校史を読むことは、旧村から近代の地域社会へと移っていく過程を、制度の高みからではなく、子どもの目線からたどり直すことでもある。そして、その子どもたちが通った校舎の多くが、寺子屋以来の学びの場や、集落の寺社と地続きであったことを思えば、田原の学校史は、この地の信仰と集落の歴史そのものの一部であったと言える。
8. 結論 ── 学校史を地域史として書き留める
本稿は、田原地区の学校史を、寺子屋・寺院の手習いから明治初期の仮校舎、西島学校、町村制後の田原小学校へと続く四つの段階として整理し、各段階を史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。明治5年(1872年)の学制頒布と明治22年(1889年)の町村制は、年代の確かな二本の史実の柱である。だがその間に位置する寺子屋の姿、仮校舎となった寺院、西島学校の創立年や校区といった事柄の多くは、伝承・推定・未確認の層にとどまり、一次史料による確定を今後の課題として残している。
この確度の不均一さを、学校史の欠陥とみるべきではない。むしろ、制度の年表と地域の記憶とが幾層にも折り重なっているところにこそ、田原地区の学校史の実相がある。学制と町村制という上からの制度は、寺子屋以来の学びの土台の上に、寺院という既存の場所を借りて、集落の配置に合わせて着地した。西島学校は、その着地の一つの節目であり、やがて田原という地域の学校へと組み替えられていった。学校史とは、この上からの制度と下からの土台とが出会い、折り合いをつけていく過程の記録なのである。
したがって本稿の立場は明確である。田原地区の学校史は、「遅れた寺子屋から進んだ近代学校へ」という一直線の進歩の物語としてではなく、「旧村ごとの分散した学びが、制度改革を契機に田原という一つの地域の学校へまとまっていく」地域統合の過程として記述されるべきである。史実は史実として、伝承は伝承として、それぞれの確度の層を保ったまま書き留めること。「未確認」と「記載なし」を区別し、空白を憶測で埋めず、しかし空白を切り捨てもしないこと。この禁欲的な手続きこそが、地域の学校史を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、西島学校の創立年・校区・田原小学校への改称の時期については、静岡県の教育関係文書や学籍簿、旧村の村会記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、田原地区の寺子屋の具体像は、手本や師匠に関わる伝承をていねいに聞き取り記録することで、伝承の層のなかでその輪郭を厚くしうる。第三に、田原の学校づくりを、見付をはじめとする周辺地域の学制期の学校史と比較することで、農村部と町場の学校づくりの違いをより鮮明に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を推定へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。田原地区の集落と地名、そのお宮とお寺、そして学校──この三つを重ねて読むとき、台地東部の村々が一つの地域として立ち上がっていく姿が、少しずつ像を結ぶはずである。
注
- 田原地区は、磐田原台地東部の田原・玉越・西島・彦島・三ケ野・明ケ島などの集落からなる。各集落の地名と成り立ちについては本論考シリーズ第63号「田原地区の集落と地名」で扱った。↩
- 『田原の史話』本文13〜19頁「学校の沿革」「落第制度の記録」「西島学校」「小学校の移り変わり」「寺子屋」ほかによる。地域の記憶をまとめた郷土誌であり、行政の公文書とは資料の性格を異にする。町村制施行(1889年)についてもあわせて参照した。↩
- 寺子屋の具体像を伝える一次史料は本稿の調査範囲では確認できておらず、冊子の記述は多く後年の記憶・口碑に基づくとみられる。この段階は伝承の層に属する。↩
- 明治5年(1872年)の学制頒布は近代教育制度の出発点であり、年代の確かな史実である。ただし専用校舎の整備には地域差が大きく、寺院や既存建物の転用が全国的に広く見られた。↩
- 『田原の史話』は「西島学校」を独立の項として立てるが、その創立年・規模・校区を直接記す一次史料には本稿は突き当たっていない。存在は確かとみてよいが、細部は推定・未確認の層にとどまる。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 u041「田原地区の学校史」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、1872年の学制頒布と1889年の町村制を史実、寺子屋・西島学校の具体像を伝承ないし未確認として扱った。
参考文献・参考資料
- 『田原の史話』本文13〜19頁「学校の沿革」「落第制度の記録」「西島学校」「小学校の移り変わり」「寺子屋」(田原地区郷土誌)。
- 文部省『学制』明治5年(1872年)太政官布告第214号。
- 「町村制」明治21年(1888年)法律第1号、明治22年(1889年)施行。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、近代教育の章)。
- 静岡県『静岡県史』通史編(静岡県、近代・教育関係の章)。
- 静岡県教育委員会『静岡県教育史』(該当巻)。
- 磐田市教育委員会編『磐田の教育のあゆみ』(該当章)。
- 大石浩之「田原地区の集落と地名 ── 台地東部の村々を読む」『大石浩之の磐田論考』第63号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/063/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「田原地区のお宮とお寺 ── 集落のまとまりを映す神社・寺院」『大石浩之の磐田論考』第115号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/115/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「旧見付学校 ── 現存最古級の擬洋風小学校校舎」『大石浩之の磐田論考』第40号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/040/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「御厨の成り立ち」u036、「田原村の誕生」u017 https://iwata-monogatari.net/u036.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 u041「田原地区の学校史 ── 寺子屋・西島学校から田原小学校へ」 https://iwata-monogatari.net/u041 (最終閲覧:2026年7月25日)。