磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第114号(磐田用水研究 二)
社山疏水の構想 ── 台地に水を引く夢
実現しなかった疏水計画と後の磐田用水
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田原台地は、天竜川という大河を眼下にしながら、その水を容易には得られない乾いた台地であった。本稿は、この台地へ天竜川の水を導こうとした社山疏水の構想を、実現しなかった計画として検討する。『磐田用水のあゆみ』は、社山疏水を天保2年(1831年)ごろ犬塚祐一郎が構想したものとし、天竜川東岸の社山付近に隧道を穿ち、取水門と水路によって中遠の農地を潤す計画であったと伝える。幕末には延久・西島・木原などの村々の有志が幕府へ普請役の招請を求め、明治に入ると足立孫六・浅羽要衛武・寺田彦太郎らが台地の高低と水路の位置を再調査して地域を説得した。だが隧道の難工事と費用・負担の壁に阻まれ、計画は構想のまま完成を見なかった。本稿は、資料が伝える年紀と一次史料で確かめうる事柄とを区別しつつ、この未完の計画を失敗として片づけるのではなく、水利土功会や普通水利組合という組織の記憶を後世へ残し、後の磐田用水事業を準備した過程として位置づける。
キーワード:社山疏水/犬塚祐一郎/磐田原台地/天竜川/隧道/普通水利組合/磐田用水
1. 問題設定 ── なぜ実現しなかった計画を論じるのか
磐田原台地は、西を天竜川、東を太田川に挟まれた洪積台地である。大河を目の前にしながら、台地の上は水に乏しかった。川面と耕地とのあいだには高低差があり、低いところを流れる水を高い台地へ引き上げるのは、近世の技術では容易でない。天竜川の豊かな流れは、台地の農民にとって、見えていながら手の届かない水であった。社山疏水の構想は、この矛盾に正面から向き合おうとした計画である。
本稿が扱うのは、完成した施設ではなく、構想のまま終わった計画である。ふつう地域史は、成し遂げられた事業を顕彰の対象として語る。橋が架かり、水路が通り、田が潤ったという達成の物語は、記録に残りやすく、語り継ぎやすい。これに対して、実現しなかった計画は、いつのまにか記憶から抜け落ちる。だが本稿は、あえて未完の計画を主題に据える。実現しなかったからこそ、そこには当時の地域が何を望み、何につまずいたのかが、達成の物語よりもかえって鮮明に刻まれていると考えるからである。
ここで一つ、方法上の断りを述べておきたい。社山疏水について本稿が拠るのは、主として『磐田用水のあゆみ』をはじめとする後年の記念誌・地域史であって、天保期の計画そのものを記した一次史料に筆者が直接あたっているわけではない。したがって、以下に記す年紀や人名は、これらの資料が伝えるところに従う1。資料が伝える事柄と、一次史料によって確かめられる事柄とは、確度の水準が異なる。この区別を保ったまま、資料の記述を丁寧に読み解くのが本稿の姿勢である。断定を急がず、しかし資料が伝える具体を軽んじない。その二つのあいだで筆を運びたい。
もう一点、なぜいま社山疏水を取り上げるのかを述べておく。既刊の磐田用水の歩みに関する論考では、天竜川の水が磐田原台地の農地と暮らしを変えていく長い過程を通観した。そのなかで社山疏水は、磐田用水の歴史の出発点に置かれる計画として名を挙げられていた。本稿は、その出発点を単独で取り出し、構想・運動・再調査・未完・継承という段階に分けて精しく検討する。用水史の総論に対する各論として、未完の計画一つを深く掘り下げることが、本稿の役割である。
以下ではまず、拠るべき資料の性格を確かめ(第2節)、天保期の犬塚祐一郎の構想を検討する(第3節)。続いて幕末の起工運動(第4節)と明治の再調査(第5節)を時系列で追い、なぜ計画が未完に終わったのかを技術・費用・負担の三点から分析する(第6節)。そのうえで台地の地理的条件と後の磐田用水への接続を論じ(第7節)、結論に至る(第8節)。全体を貫くのは、資料の伝える具体を確度の層に腑分けしながら、未完の計画が残したものを読み取るという一貫した手続きである。
2. 史料と前提 ── 『磐田用水のあゆみ』が伝える社山疏水
検討に入る前に、本稿が拠る資料の性格を確かめておく。社山疏水についてまとまった記述を残すのは、主として磐田用水東部土地改良区が刊行した記念誌『磐田用水のあゆみ』であり、あわせて磐田市史や旧町村史などの地域史である。これらはいずれも、計画が構想された天保期からは大きく隔たった後年に、事業の来歴を回顧してまとめられた二次的な記録である。したがって、そこに記された年紀や人名を、そのまま一次史料による確定事実と見なすことはできない。
この点をあらかじめ明示しておくのは、確度を偽らないためである。記念誌は、達成された用水事業の起点を語ろうとする文脈のなかで社山疏水を位置づけている。回顧という性格上、後の視点から過去を整序する働きが加わっているとみるのが穏当であろう。とはいえ、記念誌の編纂にあたっては、旧家に伝わる文書や関係者の記憶が参照されたはずであり、そこに記された延久村・西島村といった具体的な村名、足立孫六・寺田彦太郎といった具体的な人名は、まったくの虚構とは考えにくい。二次資料であることは、その内容を無価値とすることを意味しない。史料の性格を踏まえたうえで、伝えられる具体を丁寧に読むべきである。
そこで本稿では、資料が伝える事柄を確度に応じて三つの層に腑分けして扱う。第一に、資料が具体的な年紀とともに記す事柄。これは資料に基づく記述として、そのまま断定はせず「資料では〜とされる」という形で提示する。第二に、その記述から地理や技術の一般的条件に照らして無理なく導ける事柄。これは推定として示す。第三に、資料に記載がなく、筆者が一次史料にも突き当たっていない事柄。これは未確認として、空白のまま残す。ここで「未確認」とは、そうした記録が存在しないと断定すること(記載なし)ではなく、あくまで筆者の管見の限り確かめえていないという状態を指す。この区別は、以下の各節を通じて一貫して保つ。
もう一つ、前提として押さえておきたいのは、磐田原台地における水不足が観念ではなく現実の困難であったという点である。台地上の耕地は、天水と溜池、あるいは深い井戸に頼らざるをえず、日照りが続けば収穫は容易に脅かされた。太田川・原野谷川の流域でも、用水施設の不備から干ばつの被害が繰り返されたと資料は伝える2。社山疏水の構想は、こうした具体的な困難を背負った土地から生まれた。単なる理想の絵図ではなく、現に水に苦しむ地域が、その苦しみを解くために描いた計画だったのである。この現実の重みを見落とすと、なぜ幾度も再興が試みられたのかが理解できなくなる。
3. 犬塚祐一郎の構想 ── 隧道と取水門という着想
天保2年ごろ、一人の役人が描いた台地への導水
構想の骨子。資料では、社山疏水の計画は天保2年(1831年)ごろ、犬塚祐一郎が構想したものとされる。犬塚は幕末の下級の役人でありながら、太田川・原野谷川流域の農民が用水施設の不備から干ばつの被害を受ける実情を目のあたりにし、天竜川の水を磐田原台地へ導く構想を練ったと説明される。役人としての職掌の内側からではなく、土地の困難を見た一個人の着想として計画が始まった点は、記憶しておいてよい。
着想の核心。構想の核心は、天竜川の水をただ願うことではなく、実際に水を通す道筋と、それを支える制度とを具体的に考えたことにあった。すなわち、天竜川東岸の社山付近で岩山に隧道を通し、取水門を設け、堤防と水路によって中遠地域へ水を導くという構想である。これは水路を一本掘れば済むという話ではない。台地の高低差、耕地の面積、水路を通すべき位置、そして工事の難度を調べたうえで、天竜川の豊水を地域の農業へ移そうとする、総合的な水利計画であった。
着想の先進性。岩山に隧道を穿って大河の水を導くという発想は、天保期の土木技術に照らせば、きわめて大胆なものである。近世の用水普請の多くが、既存の河川から堰で水を取り、自然の勾配に沿って水路を引くものであったのに対し、社山疏水は、山を貫くという能動的な地形改変を計画の中心に据えていた。この点で構想は、当時の一般的な用水普請の水準を超えて、天竜川という難河の水を台地へ移すという、一段高い技術的目標を掲げていたといえる。ただし、その大胆さこそが、後に工事を阻む最大の壁ともなった。
確度についての留保。ここで確度に一言しておきたい。天保2年という年紀、および犬塚祐一郎という人名は、いずれも資料が伝えるところであって、天保期の計画そのものを記した一次史料に筆者が直接あたって確かめたものではない。したがって本稿は、この年紀を確定した史実としてではなく、資料に基づく記述として提示する。とはいえ、幕末の下級役人が土地の困難を見て台地への導水を着想したという筋立ては、当時の水利をめぐる状況と矛盾せず、退けるべき理由も見あたらない。年代の確定は今後の課題として残しつつ、構想の内容そのものは資料に即して受け取ることとする。
4. 幕末の起工運動 ── 有志の請願と普請役招請
犬塚祐一郎の構想は、着想されてすぐに事業化したわけではない。構想が一人の頭のなかにとどまるかぎり、それは絵図にすぎない。計画を現実の工事へ動かすには、負担を引き受ける地域の合意と、普請を差配する公権力の関与とが要る。天保期の構想から実際の起工運動が立ち上がるまでには、なお時間を要した。
資料によれば、嘉永・安政のころから、豊田郡延久村、山名郡西島村、木原村、浅羽村、梅山村などの有志が、社山疏水の起工実現を願い、幕府へ普請役の招請を求めたとされる3。ここで注目すべきは、運動の担い手が特定の一村にとどまらず、複数の郡・村にまたがっていた点である。延久村は豊田郡、西島村は山名郡というように、行政区分を異にする村々の有志が、台地への導水という共通の利益のもとに動いた。水利は、しばしば村と村との争いの種となるが、この局面では、水を得たいという共通の願いが村境を越えて有志を結びつけていた。
もっとも、幕府へ普請役の招請を求めるという運動の形は、当時の普請の仕組みを踏まえると理解しやすい。大河にかかわる大規模な水利普請は、一村や数村の力では担いきれず、公儀の関与を仰ぐのが通例であった。有志が幕府へ普請役の招請を求めたのは、社山疏水がそれだけ大きな事業であり、地域だけでは背負いきれない規模だと認識されていたことの裏返しでもある。裏を返せば、公儀の本格的な関与を引き出せなければ、計画は動かないという構造的な弱さを、運動は最初から抱えていた。
結果として、幕末の運動は起工には至らなかった。資料は、有志が願い出たにもかかわらず起工までは至らなかったと簡潔に記すのみで、その具体的な経緯を詳しくは伝えない。幕末という時代状況を思えば、公儀の側に大規模な地方水利普請へ資源を割く余裕が乏しかったことは想像に難くないが、これは背景からの推論であって、資料が明記するところではない。ここでも、資料が伝える事実(起工に至らなかったこと)と、背景から導かれる推定(その理由)とを、慎重に区別しておく必要がある。
この幕末運動の意義は、たとえ起工に至らなかったとしても、計画を「一個人の着想」から「地域の共同の願い」へと押し上げた点にある。犬塚が描いた絵図は、嘉永・安政の有志たちの運動を経ることで、複数の村が共有する具体的な目標へと姿を変えた。後の明治の再調査は、この幕末運動が耕した地ならしの上に立って進められることになる。未完に終わった運動もまた、次の段階への確かな一歩であった。
5. 明治の再調査 ── 足立孫六・浅羽要衛武・寺田彦太郎
幕府が倒れ、明治の世が始まると、社山疏水をめぐる状況は新たな段階に入る。資料は、明治に入ると地券の発行や地租改正など、土地と税をめぐる行政制度の大きな変化を背景に、計画が改めて動き出したと伝える。天保・嘉永の時代とは、土地の権利のあり方も、水利をめぐる制度の枠組みも異なる。同じ社山疏水の構想が、新しい制度の地平のうえで、もう一度息を吹き返すことになった。
資料によれば、明治元年(1868年)から明治12年(1879年)ごろにかけて、山科村の足立孫六、浅羽村の浅羽要衛武、福田村の寺田彦太郎らが、社山の高低、水路の位置、工事の難易を調査して、地域を説得したとされる4。ここで重要なのは、彼らの営みが単なる請願ではなく、具体的な調査に裏づけられていた点である。社山の高低を測り、水路をどこに通すべきかを検討し、工事がどれほど難しいかを見積もる。こうした実地の調査は、計画を情熱の段階から技術的な検討の段階へと進めるものであった。幕末の運動が「願い」であったとすれば、明治の再調査は「設計へ向けた準備」であったといえる。
担い手の顔ぶれが、山科村・浅羽村・福田村と、やはり複数の村にまたがっている点も見落とせない。台地の水不足は一村の問題ではなく、広く中遠の農地に共通する困難であったから、それを解こうとする調査もまた、村を越えた広がりのなかで進められた。足立・浅羽・寺田といった名は、資料が具体的に書きとめているものであり、彼らが地域を説得して回ったという記述は、計画が観念ではなく、人と人との合意形成の営みとして進んだことを伝えている。
そして資料は、明治16年(1883年)ごろ、ようやく実現へ向けた準備が進んだと整理する。天保2年の構想からかぞえれば、実に半世紀を超える歳月が流れていた。一人の役人の着想が、幕末の有志運動を経て、明治の再調査によって設計の準備段階にまで達するのに、これだけの時間を要したのである。この長い時間そのものが、社山疏水という計画の困難さと、それでも諦められなかった地域の執念とを、同時に物語っている。半世紀にわたって一つの構想が受け継がれたという事実は、それ自体が記録に値する。
ただし、明治16年ごろに「準備が進んだ」という記述を、そのまま「事業が本格的に着工された」と読むことはできない。資料が伝えるのは、あくまで実現へ向けた準備の進展であって、隧道の掘削が完遂したことでも、通水が実現したことでもない。ここでも確度の腑分けが要る。準備が進んだという事実と、事業が完成したという事実とは、峻別しなければならない。次節で見るとおり、この準備は、いくつもの壁に突き当たることになる。
6. なぜ未完に終わったのか ── 技術・費用・負担の壁
社山疏水は、構想当初のかたちのまま完成することはなかった。資料は、隧道のやり直し、費用の増大、関係者の負担の限界などによって、再興の検討は重ねられながらも難航したと伝える。半世紀を超えて受け継がれた構想が、なぜ最後の一歩で実を結ばなかったのか。ここでは、その要因を技術・費用・負担の三つの面から整理し、あわせて各要因の確度を吟味する。
技術の壁。最大の難関は、計画の核心そのもの、すなわち社山の岩山を貫く隧道であった。資料が「隧道のやり直し」に触れていることは、この工事が一度で成功せず、掘り直しを迫られるほどの難事であったことを示している。近世から近代初頭の掘削技術で、硬い岩盤に長大な隧道を通し、しかも大量の水を安定して流せるだけの断面と勾配を確保するのは、容易なことではない。構想の大胆さが、そのまま工事の困難として跳ね返ってきたのである。技術的な野心と、それを実現する技術的な手立てとのあいだの隔たりが、計画を苦しめた。
費用の壁。隧道のやり直しは、当然ながら費用の増大を招く。当初の見積もりを超えて工事が長引けば、必要な資金は膨らみ続ける。大河の水を山越しに台地へ引くという事業の規模からして、もともと巨額の費用を要する計画であったところへ、難工事による超過が重なった。地域の有志や地主が負担しうる資力には限りがある。費用の膨張は、そのまま次の負担の壁へと直結した。
負担の壁。資料が「関係者負担の限界」と記すとおり、最終的に計画を押しとどめたのは、費用を誰がどう担うかという問題であった。水利事業では、上流と下流、既存の水利用者と新たに水を得たい地域とのあいだで、利益と負担が複雑に交錯する。工事費が膨らむほど、その負担配分をめぐる合意はまとめにくくなる。半世紀にわたり計画を支えてきた地域の熱意も、負担が資力の限界を超えれば、そこで足を止めざるをえない。技術が費用を押し上げ、費用が負担を重くし、負担の限界が合意を崩す ── この連鎖が、計画を未完にとどめた。
ここで史料批判の観点から一つ注意を加えておきたい。以上の三つの壁は、いずれも資料が簡潔に記す語(隧道のやり直し・費用の増大・負担の限界)を手がかりに、水利事業一般の構造に照らして敷衍したものである。資料はこれらの要因を列挙するにとどまり、どの時点で、どの工区で、どれほどの費用超過が生じたのかといった具体を詳しくは伝えていない。したがって本節の三分法は、資料の記述を筆者が整理した解釈であって、資料そのものに書かれた区分ではない。個々の工事の実態を精しく描くには、なお一次史料の博捜が要る。この点は未確認の課題として明記しておく。次の比較表は、以上の各段階を一覧にし、それぞれの確度と留意点を並べたものである。
| 段階 | 時期(資料による) | 主な主体 | 内容 | 確度と留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 構想 | 天保2年(1831年)ごろ | 犬塚祐一郎 | 天竜川東岸の社山に隧道を穿ち、取水門・水路で台地へ導水する計画を着想。 | 資料に基づく記述。年紀の一次史料的確定は未確認。 |
| 起工運動 | 嘉永・安政ごろ | 延久・西島・木原・浅羽・梅山などの有志 | 起工実現を願い、幕府へ普請役の招請を求めたが起工に至らず。 | 起工に至らなかったことは資料が明記。理由は背景からの推定。 |
| 再調査 | 明治元年〜12年(1868〜1879年)ごろ | 足立孫六・浅羽要衛武・寺田彦太郎ら | 社山の高低・水路位置・工事難易を調査し、地域を説得。 | 地券発行・地租改正を背景とする。人名・年紀は資料による。 |
| 準備の進展 | 明治16年(1883年)ごろ | 地域有志 | 実現へ向けた準備が進む。ただし完成・通水を意味しない。 | 「準備」と「完成」は峻別を要する。着工完遂は未確認。 |
| 未完・継承 | 以後 | 水利土功会・普通水利組合 | 隧道のやり直し・費用増大・負担限界により難航。組織の枠組みが残る。 | 三要因は資料の語を筆者が整理した解釈。工事実態は未確認。 |
7. 背景としての地理 ── 台地の高低差と後の磐田用水
社山疏水が未完に終わった根の深い理由は、突き詰めれば磐田原台地の地理そのものにあった。台地は天竜川より高い。低いところを流れる水を高い台地へ導くには、自然の勾配に逆らって、隧道と水路で無理に水位差を乗り越えねばならない。この地理的条件は、天保の犬塚も、幕末の有志も、明治の足立・浅羽・寺田も、等しく突き当たった同じ壁であった。技術・費用・負担の三つの壁は、いずれもこの根本的な高低差から派生したものだといってよい。
だからこそ、社山疏水の経験は無駄にはならなかった。資料は、計画が難航するその過程で、水利土功会・普通水利組合・水利区域といった考え方が地域に残ったと伝える5。水を引くという物理的な事業が挫折しても、水をどう共有し、負担をどう配分し、施設をどう維持するかという組織の枠組みは、幾度もの検討のなかで地域に蓄積されていった。半世紀にわたる調整と説得の営みは、たとえ水路を完成させられなくとも、水を共同で管理するための制度的な知恵を確かに育てていたのである。
この蓄積が、後の磐田用水事業の土台となる。既刊の磐田用水の歩みに関する論考で通観したとおり、天竜川の水が磐田原台地の農地を潤すという犬塚以来の夢は、昭和期に入ってようやく現実のものとなる。磐田用水幹線改良事業は、戦時下の突貫工事を経て昭和19年(1944年)に初通水にこぎつけ、台地への導水を実現した。近代の土木技術と国家的な事業の枠組みが、社山疏水の時代には越えられなかった高低差の壁を、ついに乗り越えたのである。
ここで確認しておきたいのは、社山疏水と磐田用水とのあいだに、直接の施設としての連続性があると断ずることはできない、という点である。社山疏水は構想のまま未完に終わったのだから、その隧道や水路がそのまま磐田用水の施設に受け継がれたわけではない。両者を結ぶのは、施設の連続ではなく、経験と組織の連続である。天竜川の水を台地へ導くという目標、そのために地域が調整を重ねるという営み、そして水利を共同で管理する組織のかたち ── これらが、社山疏水から磐田用水へと受け渡された。この区別を曖昧にすると、未完の構想をあたかも磐田用水の直接の前身であるかのように誇張することになりかねない。継承されたのは施設ではなく記憶と制度である、という腑分けを保っておきたい。
その意味で、社山疏水は磐田用水の歴史の「出発点」であるが、それは物理的な起点としてではなく、経験の起点としてである。犬塚が描いた台地への導水という夢は、彼の生きた時代には実現しなかった。だが夢は、水利土功会や普通水利組合という器に載せられて後世へ渡り、幾世代もの手を経て、昭和の用水事業として結実した。磐田用水東部土地改良区が今日まで管理を担う用水網の底には、天保期に一人の役人が抱いた着想が、静かに流れ続けているとみることもできる。
付言すれば、社山疏水が越えられなかった高低差の壁は、今日の目からは克服済みの過去に見えるかもしれない。だが、水に乏しかった台地の記憶は、地名や土地の使われ方のなかに、なお痕跡をとどめている。磐田原の台地上に広がる田畑や宅地の一枚一枚が、天竜川の水をどう分け合うかという長い調整の果てに成り立っていることを思えば、社山疏水の未完もまた、この土地の現在を形づくった前史の一部として読める。水が乏しかったという事実こそが、水を引こうとする執念を生み、その執念が組織を育て、組織が後の用水を支えた。未完に終わったからといって、この計画が地域史から抜け落ちてよいわけではないのは、こうした連なりのゆえである。
8. 結論 ── 未完の構想が残した記憶
本稿は、社山疏水の構想を、実現しなかった計画として、構想・起工運動・再調査・未完・継承という段階に分けて検討した。得られた見取り図は次のとおりである。資料によれば、社山疏水は天保2年(1831年)ごろ犬塚祐一郎が着想し、天竜川東岸の社山に隧道を穿って台地へ導水する計画であった。幕末には複数の郡村の有志が幕府へ普請役の招請を求め、明治には足立孫六・浅羽要衛武・寺田彦太郎らが高低と水路を再調査して地域を説得し、明治16年(1883年)ごろには実現へ向けた準備が進んだ。だが社山の隧道という難工事が費用を押し上げ、費用の増大が関係者の負担を限界へ追い込み、計画は構想のまま完成を見なかった。
本稿が一貫して保とうとしたのは、資料が伝える事柄と、一次史料で確かめうる事柄との区別である。天保2年という年紀も、犬塚祐一郎という人名も、明治の再調査に携わった人々の名も、いずれも後年の記念誌・地域史が伝えるところであって、筆者が計画当時の一次史料に直接あたって確かめたものではない。この確度の限界を偽らずに明示したうえで、なお資料が書きとめた具体を丁寧に受け取ること ── それが未完の計画を扱う本稿の作法であった。年代や人名の一次史料的な確定は、今後の課題として残る。
したがって本稿の立場は明確である。社山疏水は、失敗として片づけるべき計画ではない。水路を完成させられなかったことは事実だが、半世紀を超えて受け継がれたその構想は、水を共同で管理するための組織 ── 水利土功会や普通水利組合という枠組み ── を地域に残し、後の磐田用水事業を準備した。継承されたのは施設ではなく、天竜川の水を台地へ導くという目標と、それを実現するために地域が調整を重ねる経験であった。未完の構想が後世の用水事業を動かす記憶になった、という一点にこそ、社山疏水を論じる意味がある。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、天保2年の構想を記した計画当時の一次史料は本稿の範囲では未確認であり、犬塚祐一郎その人の事績とあわせて、なお博捜の余地がある。第二に、隧道のやり直しや費用超過の具体的な経緯は、資料が語の水準で触れるにとどまり、どの工区でいつ何が起きたのかを一次史料から跡づける作業が残されている。第三に、社山疏水から磐田用水への継承を「経験と組織の連続」として描いた本稿の見取り図は、水利土功会・普通水利組合の実態を個別に検証することで、さらに精密化されうる。天竜川を眼下にしながら水に渇いた台地の記憶と、その水を引こうとして届かなかった人々の営みとを、未完のままに書き留めておくこと ── それが、達成の物語だけでは掬いきれない地域史の一面を残す手立てになると、筆者は考えている。社山疏水以後の磐田用水の展開については、磐田用水の歩みに関する論考で稿を改めて論じた。
注
- 社山疏水に関する本稿の記述は、主として磐田用水東部土地改良区設立50周年記念誌『磐田用水のあゆみ』および磐田市史・旧町村史などの地域史に拠る。これらは計画当時から隔たった後年の回顧的記録であり、記された年紀・人名を一次史料による確定事実とは区別して扱う。↩
- 太田川・原野谷川流域の農民が用水施設の不備から干ばつの被害を受けたという記述は、社山疏水構想の動機として資料が伝えるところによる。↩
- 嘉永・安政ごろに豊田郡延久村・山名郡西島村・木原村・浅羽村・梅山村などの有志が起工実現を願い、幕府へ普請役の招請を求めたが起工に至らなかったとする、資料の記述による。↩
- 明治元年(1868年)から明治12年(1879年)ごろにかけて、山科村の足立孫六、浅羽村の浅羽要衛武、福田村の寺田彦太郎らが社山の高低・水路位置・工事難易を調査したとする、資料の記述による。地券発行・地租改正を背景とする点も同資料による。↩
- 社山疏水の難航の過程で水利土功会・普通水利組合・水利区域の考え方が地域に残り、後の磐田用水幹線改良事業や土地改良区の設立の土台となったとする整理は、資料の記述に基づく。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 c029「社山疏水の構想」の内容を、郷土史研究者向けに史料の確度を腑分けして再構成した論考版である。天保2年(1831年)の構想、明治元年〜12年(1868〜1879年)の再調査、明治16年(1883年)の準備進展といった年紀は、いずれも後年の記念誌・地域史が伝える記述として提示し、一次史料による確定とは区別した。
参考文献・参考資料
- 磐田用水東部土地改良区(編)『磐田用水のあゆみ』(設立50周年記念誌)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、水利・農業に関する章)。
- 磐田市『磐田市史』資料編(近世・近代の村方文書を収める巻)。
- 『静岡県史』通史編(近世・近代、天竜川流域の治水・利水に関する記述)。
- 旧豊田郡・山名郡関係の郡誌・町村史(延久・西島・木原・浅羽・梅山などの村に関する記述)。
- 天竜川下流域の農業水利に関する事業誌・記念誌類。
- 磐田原台地の地形・地質に関する地誌・地形図解説(台地と天竜川の高低差に関する記述)。
- 近世・近代の用水普請・隧道工事に関する土木史の概説。
- 普通水利組合・水利土功会・土地改良区の制度史に関する概説。
- 磐田用水東部土地改良区 公式サイト https://www.iwatayosui.or.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 農林水産省「疏水百選」ほか農業水利関連ページ https://www.maff.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 c029「社山疏水の構想 ── 犬塚祐一郎と明治の水利計画」 https://iwata-monogatari.net/c029 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第58号「磐田用水の歩み ── 台地を潤した水利の歴史」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/058/ (最終閲覧:2026年7月25日)。