失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 記録が消えた理由 ── 東海道が国分寺の前を通らなくなった道

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第125号(遠江国分寺研究 三)

記録が消えた理由 ── 東海道が国分寺の前を通らなくなった道

道の付け替えと寺の記憶の断絶

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

遠江国分寺は、奈良時代の建立から千年を超えて磐田市中泉の地に存続してきたが、鎌倉・室町期に限っては、その姿を直接に伝える文献史料が乏しい。本稿は、この中世の記録の空白をどう読むかを主題とし、郷土史料『国分寺ものがたり』が提示する「東海道の付け替え」説を軸に検討する。『吾妻鏡』『海道記』『十六夜日記』ほか、東海道を旅した人々が残した紀行文・軍記物のいずれにも遠江国分寺の名が見えない事実を、寺の衰退の証とみる読みと、旅人の通り道が中泉の前を外れた結果とみる読みとに腑分けし、両説の根拠と弱点を対等に併記する。あわせて、平安後期以降に瓦の出土が減じる考古学的所見と、170回を超える発掘調査が確認してきた建物痕跡の連続とを対照させ、文献の沈黙を実体の消滅と短絡しない立場をとる。因果を断ずるのではなく、記録の空白そのものが、街道と寺との位置関係の変化を映す一個の資料でありうることを述べる。

キーワード:遠江国分寺/中泉/中世東海道/池田の渡し/紀行文/道の付け替え/発掘調査

1. 問題設定 ── 中世の記録の空白をどう読むか

遠江国分寺は、奈良時代の国分寺建立の詔を受けて遠江国に営まれた官寺であり、その伽藍跡は現在の磐田市中泉に遺跡として残る。古代の大寺としての国分寺については、創建の経緯や伽藍の規模をめぐる考察を別稿「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」で扱った通り、発掘成果と限られた史料によって、その輪郭をおおよそ描くことができる。ところが、時代を鎌倉・室町へと下すと、事情は一変する。この中世の数百年について、国分寺の姿を直接に語る文献史料は、驚くほど乏しい。

記録が乏しいという事実は、しばしば短絡的に読まれてきた。すなわち「国分寺は中世のいずこかで廃れ、寺としての実体を失ったのではないか」という推論である。古代に威容を誇った官寺が、中世の史料からほとんど姿を消すのだから、そのあいだに衰亡したと考えるのは、一見もっともらしい。だが本稿は、この短絡をいったん保留するところから出発する。記録が残っていないことと、その対象が実在しなかったこととは、論理的に別の事柄だからである。史料の沈黙は、対象の不在を必ずしも意味しない。

本稿が主たる手がかりとするのは、郷土史料『国分寺ものがたり』(国分寺奉賛会、小杉達著、令和4年〔2022年〕発行)である。同書は、鎌倉・室町期の国分寺にまとまった記録が残らない理由を、寺そのものの衰退にではなく、東海道という街道の経路変更に求める。旅人の通り道が国分寺の前を外れたために、旅の記録に国分寺の名が残らなかった、という読み筋である。この見方は、記録の空白を「寺の側の出来事」ではなく「道の側の出来事」として捉え直す点で示唆に富む。本稿は、この説を紹介するにとどめず、その根拠と限界を史料批判の観点から点検することを課題とする。

あらかじめ本稿の方法上の姿勢を述べておく。第一に、史料によって確認できる事柄(史実)と、根拠はあるが未確定の事柄(推定)と、地域に語り継がれてきた事柄(伝承)とを、語の水準で書き分ける。第二に、「一次史料に突き当たっていない(未確認)」ことと「史料に記載がない(記載なし)」こととを区別する。この二つは似て混同されやすいが、前者は筆者の探索が及んでいないという筆者側の状態を指し、後者は史料そのものの性格を指す。中世国分寺をめぐる議論では、この区別を保つことがとりわけ重要になる。第三に、道の付け替えと記録の空白とを結ぶ因果については、これを確定した史実としてではなく、複数の状況証拠から導かれる推定として扱い、断定を避ける。

以下ではまず、前提として鎌倉初期の本尊転換を確認する。次に、紀行文・軍記物が国分寺に触れないという沈黙の内実を検討し、続いて『国分寺ものがたり』の道の付け替え説を紹介する。そのうえで、記録の空白を寺の衰退とみる読みと動線の変化とみる読みとを対等に並べて史料批判を加え、発掘調査の所見と地理的背景を経て、結論に至る。論の全体を貫くのは、文献の沈黙を実体の消滅とただちに読み替えない、という一貫した禁欲である。

中世の国分寺 ── 二つの層から見る 文献史料の層 紀行文・軍記物 = 空白(沈黙) 発掘調査の層 建物痕跡 = 連続(堆積) 同じ中世を、文献は空白として、発掘は連続として映す。本稿はこの落差そのものを問う。
図1 文献と発掘の落差。中世の国分寺は、文献史料の層では沈黙し、発掘調査の層では建物痕跡の連続として現れる。両者の落差を、寺の衰亡ではなく記録経路の問題として読み直すのが本稿の企図である。

2. 前提の確認 ── 本尊の転換と「薬師堂」への呼称

中世の記録の空白を論じる前に、その直前までの状況を確認しておく。鎌倉初期の国分寺については、なお史料が残る。建久2年(1191年)、源頼朝は国司に対して国分二寺の修造を命じた。承元3年(1209年)の記録では、その本尊が「国分寺」ではなく「薬師堂」の名で現れる1。本尊が釈迦から薬師へと転じたこと、そして寺の呼称そのものが「国分寺」から「薬師堂」へ移りつつあったことを、これらの記録は伝えている。

ここで注意すべきは、この呼称の変化を、ただちに寺格の低下や信仰の断絶と読んではならないという点である。本尊が薬師に転じ、建物が「薬師堂」と呼ばれるようになったとしても、そこで営まれる祈りが途切れたわけではない。むしろ、古代の官寺としての国分寺が、地域に根ざした薬師信仰の場へと性格を変えながら存続していった過程の、ひとつの画期としてこの転換を捉えるのが穏当であろう。呼び名が変わることと、実体が失われることとは、ここでも別の事柄である。

この点は、次章以降で扱う「記録の空白」を読むうえでの伏線となる。史料に「国分寺」の名が見えなくなる背景には、寺が廃れたという理由のほかに、そもそも別の呼び名で呼ばれるようになっていたという理由もありうる。承元3年の「薬師堂」表記は、まさにその可能性を具体的に示す一例である。もし中世を通じて国分寺跡の堂が「薬師堂」や別の通称で呼ばれ続けたのであれば、「国分寺」という語を手がかりに史料を探しても、それが見つからないのは当然ということになる。名称の変遷は、史料の沈黙を生む一因となりうる。

したがって、鎌倉初期の段階で確認できるのは、次の二点である。ひとつは、頼朝の修造命令に見られるように、この時期の国分寺がなお公権力の関心の対象であったこと。もうひとつは、その呼称と本尊が転じつつあり、後世の史料検索を難しくする条件が、すでにこの時点から生じ始めていたことである。中世の記録の空白は、寺が忽然と消えたことによって生じたのではなく、こうした緩やかな変化の積み重なりの上に立っている。

国分寺から薬師堂へ ── 転換と空白の年表 1191国分二寺修造令 1209「薬師堂」表記 中世の記録の空白 紀行文に名が見えない 1522堀越氏延の鰐口 呼称と本尊の転換が、後世の史料検索を難しくする条件を早くから用意していた。
図2 転換と空白の年表。橙は本尊・呼称の転換を示す史料、青は空白を挟んだ後の戦国期の寄進を示す。1209年の「薬師堂」表記は、以後「国分寺」の名で史料を探しても見いだしにくくなる一因となった。

3. 紀行文に映らない国分寺 ── 沈黙する史料群

中世の記録の空白を最も鮮明に示すのが、紀行文・軍記物の沈黙である。鎌倉・室町期には、都と鎌倉とを結ぶ東海道を旅した貴族・武士・僧侶が、道中の見聞を書き残す例が少なくなかった。宿々のにぎわい、名所旧跡、心に触れた景物などが、そこには細やかに記されている。ところが『国分寺ものがたり』は、こうした紀行文・軍記物のいくつかを挙げ、そのどれにも遠江国分寺が登場しないことを指摘する2

同書が名を挙げるのは、『吾妻鏡』『平家物語』『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』『太平記』『覧富士記』といった作品である。いずれも東海道の様子や宿々の風景を伝える、当時としては貴重な旅の記録であり、あるいは時代の動乱を描いた軍記である。遠江国府が置かれた見付や、その近くの中泉を通過したはずの旅人たちの筆に、国分寺の名がまったく残っていない。かつて遠江一国を代表する官寺であった建物が、これほど多くの旅の記録から一様に抜け落ちているのは、それ自体が注意を引く事実である。

ひとつの資料に出てこないだけであれば、偶然の書き漏らしとして片づけることもできよう。旅人の関心は人それぞれであり、たまたま筆が及ばなかったということは十分にありうる。しかし、性格を異にする複数の作品に共通して名が現れないとなると、話は変わる。それを単なる偶然の累積とみるより、そこに何らかの構造的な理由を想定するほうが、説明としては自然である。『国分寺ものがたり』が、この沈黙の背後に東海道そのもののルート変更を読み取るのは、まさにこの点においてである。

ただし、史料批判の観点からは、この沈黙の内実を慎重に見きわめる必要がある。第一に、これらの作品が国分寺に「触れていない」のか、それとも別の呼称や漠然とした表現で触れている可能性が「未確認」なのかは、原典に当たって確かめられるべき事柄である。『国分寺ものがたり』は紀行文・軍記物の記述を紹介するかたちをとっており、本稿の依拠もそこにとどまる。原典そのものの博捜は、なお残された課題である。第二に、これらの作品は成立年代も性格もさまざまであり、東海道の同じ経路を前提としているとは限らない。沈黙を一括りに扱うのではなく、作品ごとに成立時期と道筋を照合していく作業が、本来は求められる。

とはいえ、これらの留保を踏まえてもなお、複数の紀行文・軍記物が遠江国分寺に言及しないという事実は動かない。問題は、この沈黙をどう説明するかにある。次章では、まず『国分寺ものがたり』が提示する道の付け替え説を紹介し、しかるのちに、この説を含む複数の読みを対等に並べて検討する。

表1 『国分寺ものがたり』が挙げる紀行文・軍記物と遠江国分寺への言及 ── おおよその成立時期・性格・沈黙の別
作品名おおよその成立時期性格遠江国分寺への言及
吾妻鏡鎌倉後期幕府側の編年記録見えない(本稿の依拠範囲)
平家物語鎌倉期軍記物語見えない
海道記鎌倉前期東海道紀行見えない
東関紀行鎌倉前期東海道紀行見えない
十六夜日記鎌倉後期東海道紀行(阿仏尼)見えない
太平記南北朝期軍記物語見えない
覧富士記室町期富士遊覧の紀行見えない

表1は、成立時期の異なる作品が一様に遠江国分寺に触れないことを示す。ここで「見えない」とは、あくまで『国分寺ものがたり』の紹介と本稿の調査範囲において確認できないという意味であり、原典に一切の関連記述が存在しないと断ずるものではない。この慎重な留保を保ったうえでも、鎌倉前期から室町期に至る長い時間幅にわたって沈黙が続く点は、偶然の書き漏らしという説明を退ける方向に働く。

4. 道の付け替え説 ── 中世東海道はどこを通ったか

『国分寺ものがたり』が示す説は、おおむね次のようなものである。中世の東海道は、浜松側の引間(曳馬)から池田宿へ抜け、そこから渡船で天竜川を渡り、一言(ひとこと)のあたりを経て見付に出る道筋が使われていた。この経路をとると、川を渡ったあとの道は、国分寺のある中泉の前を素通りする形になる。旅人は国府のある見付へは向かうが、そこへ至る道が中泉の国分寺を避けて通っていた、というのがこの説の骨子である3

この読み方に立てば、旅人たちが国分寺について書き残さなかったのは、国分寺が荒れ果てて語るに値しなかったからではなく、そもそも彼らの通り道から外れていたからだ、ということになる。目に入らないものは、書かれない。渡船の着き場や宿の位置が変われば、人の流れも変わる。人の流れが変われば、旅の記録に何が書き留められるかも変わる。国分寺の記録が薄いのは、信仰の衰えの証拠というより、街道と旅人の動線の問題として説明できる──これがこの説の核心である。

ここで手がかりとなる地名は、いずれも現在の磐田市域に実在する。池田は天竜川の渡し場(池田の渡し)として知られた地であり、一言、見付もまた市内の土地である。天竜川を挟んで西と東、それぞれの岸辺の集落が、東海道の付け替えによってどちらへ人を集めるかが移り変わっていった。その移り変わりの痕跡のひとつとして、国分寺の記録の空白を読むことができる、というのである。街道の経路は、単なる地理の問題ではなく、どの土地がにぎわい、どの土地が記録に残るかを左右する、いわば記憶の分水嶺でもあった。

この説の魅力は、記録の空白という消極的な事実を、街道史という積極的な文脈のなかに置き直す点にある。国分寺が「書かれなかった」ことを、寺の側の欠落としてではなく、道の側の変化の反映として捉える。そうすることで、沈黙そのものが、中世東海道の経路を復元する手がかりへと転じる。文献に何が書かれたかだけでなく、何が書かれなかったかもまた、歴史を読む材料になる──この説は、その方法上の含意においても興味深い。

もっとも、この説を確定した史実として受け取ることには慎重でありたい。中世東海道の経路については、時期や史料によって復元に幅があり、池田宿・一言を経る道筋が中世を通じて一貫して主要路であったと断ずるには、なお検討の余地が残る。渡船の位置や宿の盛衰も、一様ではなかったはずである。したがって本稿は、この道の付け替え説を、記録の空白を無理なく説明する有力な推定として位置づけつつ、その因果を断定はしない。次章では、この説を含む複数の読みを対等に並べ、それぞれの根拠と弱点を検討する。

中世東海道の道筋と中泉の国分寺 天竜川 引間 池田宿 一言 見付 国府 中泉・国分寺道から外れる 渡船
図3 道の付け替え説の模式図。引間から池田宿へ、渡船で天竜川を越え、一言を経て見付(国府)へ至る道筋は、中泉の国分寺の前を素通りする。地名の位置関係は説明のための概念図であり、実際の地理を正確に縮尺したものではない。

5. 二つの読み ── 衰退説と動線説の史料批判

中世の記録の空白は、大きく二通りに読むことができる。ひとつは、空白を寺の実体の衰退の反映とみる読み(衰退説)。もうひとつは、空白を旅人の動線の変化の反映とみる読み(動線説)であり、これが前章で紹介した道の付け替え説にあたる。両者は排他的な対立というより、力点の置き方の違いでもあるが、記録の空白という同じ事実を異なる原因に帰す点で、区別して検討する価値がある。以下、それぞれの根拠と弱点を対等に並べる。

読み①・推定

衰退説 ── 空白は寺の縮小・衰微の反映とみる

説の骨子。古代に威容を誇った官寺が中世の史料からほとんど姿を消すのは、この時期に寺が実際に衰微し、語るに値する存在でなくなっていたからだ、とする読みである。後述する瓦の出土減少や建物規模の縮小といった考古学的所見は、この読みを一定程度支える。国家の手厚い保護を失った地方官寺が、中世を通じて規模を縮めていったこと自体は、遠江国分寺に限らず各地の国分寺に広く見られる傾向でもある。

弱点。この読みの難点は、記録の空白を寺の衰退に直結させる点にある。史料に現れないことを衰微の証とすれば、逆に史料に現れれば栄えていたことになるが、記録の有無は寺の実勢だけで決まるものではない。旅人の関心や道筋、記録者の立場といった、寺の外側の条件にも大きく左右される。衰退説は、これら外的条件を十分に考慮せず、沈黙をただちに実体の縮小へと読み替える危うさをもつ。また、後述するように発掘は建物痕跡の連続を示しており、寺としての営みが中世に途絶えたとまでは言えない。

本稿の評価:衰退説は、瓦の減少や規模縮小という考古の所見に支えられる限りで推定として成り立つ。ただし「規模の縮小」と「実体の消滅」は別であり、記録の空白をそのまま衰亡の証と読むことはできない。
読み②・推定

動線説 ── 空白は旅人の通り道の変化の反映とみる

説の骨子。『国分寺ものがたり』が示す道の付け替え説である。中世東海道が池田宿・一言を経て見付へ至る道筋をとったため、中泉の国分寺は旅人の通り道から外れ、その結果として紀行文に名が残らなかった、とみる。記録の空白を、寺の側の出来事ではなく、街道と動線の側の出来事として説明する点に特徴がある。複数の紀行文が一様に沈黙するという事実は、個々の寺の盛衰よりも、旅人が共通してたどった道筋の問題と考えるほうが、無理なく説明できる。

弱点。この読みの難点は、前提となる中世東海道の経路そのものが、なお復元に幅をもつ点にある。池田宿・一言を経る道筋が中世を通じて一貫して主要路であったことを、一次史料で確定するには至っていない(この点は本稿の範囲では未確認である)。また、道から外れていたとしても、遠江一国を代表する官寺であれば、道中の話題として言及されてもよさそうなものである。動線だけで沈黙のすべてを説明しきれるかは、なお慎重に問われるべきである。

本稿の評価:動線説は、複数史料の一様な沈黙を無理なく説明する点で有力な推定である。ただし前提となる経路の復元に未確認の部分が残り、これを確定した史実として扱うことはできない。

両説を並べて見えてくるのは、記録の空白がひとつの原因に還元しきれないという事実である。寺の側の変化(規模縮小・呼称の転換)と、道の側の変化(動線の移動)と、記録者の側の条件(関心・立場)は、いずれも空白に寄与しうる。前章の呼称転換を思い起こせば、「国分寺」の名で史料を探しても見つからないのは、寺が「薬師堂」と呼ばれていたためかもしれない。原因は重層的であって、どれかひとつを選び出して他を排することには無理がある。本稿の立場は、衰退説と動線説のいずれか一方を採るのではなく、両説と呼称転換とを併せた複合的な要因として記録の空白を理解し、その因果を断定しないというものである。とりわけ動線説は、複数史料の一様な沈黙という特徴をよく説明する点で、有力な柱の一つと位置づけたい。

6. 発掘が語るもの ── 瓦の減少と170回の調査

文献が沈黙する時代について、別の角度から光を当てるのが発掘調査である。『国分寺ものがたり』は、考古学的な所見からも、この時期の国分寺の変化に触れている。それによれば、平安時代後期になると、遺跡から瓦の出土が少なくなるという4。これは、建物の屋根が瓦葺きから茅葺きへと変わっていったこと、また建物そのものの規模が縮小していったことを示すと考えられている。

瓦葺きの大伽藍を維持するには、相応の費用と人手がかかる。瓦は焼成にも葺き替えにも手間を要する高価な建材であり、それを支え続けるには、国家なり地域なりの継続的な負担が欠かせない。国府の機能や地域の中心性が移り変わるなかで、国分寺の建物も、創建当初の威容をそのまま保ち続けることは難しくなっていったのだろう。屋根が茅葺きに変わり、建物が小さくなっていく──瓦の出土減少は、そうした変化を物質の側から裏づける所見である。

ただし、ここでも短絡は避けねばならない。屋根が茅葺きに変わり、建物が小さくなったとしても、そこで営まれる信仰や行事までが消えたとは限らない。むしろ前章で見た「薬師堂」という呼び名の変化と重ね合わせると、規模を縮小しながらも祈りの場としては存続していた、という筋道のほうが、資料の示す事実に近い。瓦の減少が語るのは建物の姿の変化であって、信仰の断絶ではない。「大伽藍でなくなること」と「寺でなくなること」とを、慎重に区別する必要がある。

そして、この時代の空白を最も雄弁に埋めているのが、発掘調査の蓄積である。国分寺周辺ではこれまでに170回を超える発掘調査が行われており、その積み重ねのなかで、鎌倉期から江戸期にかけての建物の痕跡が確認されている5。紀行文のなかに国分寺の名がなくても、地面の下には、その時代その時代の建物が存在した跡が残っていたことになる。文献の沈黙する数百年は、けっして無人の空白ではなかった。

文献史料と発掘調査は、同じ過去を別々の角度から映す。文献は、記録者の関心と道筋というフィルターを通した過去を伝え、発掘は、そのフィルターを経ずに地層に堆積した痕跡を伝える。旅人が書き残さなかった時代でも、そこで暮らし、祈っていた人たちの痕跡は、土の中に積もっていく。両者を突き合わせてはじめて、中世の国分寺は、文献だけでも発掘だけでも描けない立体的な像を結ぶ。前節までに検討した記録の空白は、この発掘の連続を背景に置いたとき、いっそう「実体の消滅」ではなく「記録経路の問題」として読むべきものとなる。

瓦葺きから茅葺きへ ── 規模は縮み、祈りは続く 瓦葺きの大伽藍 創建期の威容 茅葺きの堂 規模縮小・存続 平安後期〜
図4 屋根の変化と存続。瓦の出土減少は、瓦葺きの大伽藍から茅葺きの堂へという建物の変化を物質の側から裏づける。ただし規模の縮小は祈りの場としての存続を否定しない。矢印は図1で定義したマーカーを共有する。
文献の沈黙と発掘の堆積 ── 170回を超える調査 170回超 文献:空白 鎌倉 → 室町 → 江戸(発掘調査の累積)
図5 文献と発掘の対照。緑の柱は発掘調査の累積を、赤い破線は文献の沈黙を表す概念図である。文献が語らない時代にも、地層には建物痕跡が堆積し続けた。件数の推移は模式的な表現であり、実データの厳密な集計ではない。

7. 背景としての地理 ── 天竜川の渡河と中泉・見付の位置

道の付け替え説を支えているのは、この地の地理そのものである。遠州平野を南北に貫く天竜川は、東海道の旅人にとって最大の難所のひとつであった。橋のない大河を越えるには渡船に頼るほかなく、渡し場の位置が、そのまま道筋を規定した。池田の渡しがどこに設けられ、川を越えた旅人がどちらの岸のどの集落へ導かれるかによって、東側の道は大きく向きを変えたはずである。中世東海道が中泉の前を通らなかったという説は、この渡河地点の問題と不可分である。

川を渡った旅人が向かった先は、遠江国府の置かれた見付であった。見付は、近世には東海道の宿場町として栄え、見付宿として二十八番目の宿に数えられる。国府以来の政治的中心という求心力が、旅人の足を見付へと引き寄せた。一方、国分寺のある中泉は、その見付へ至る道筋のわずかに脇に位置した。距離としてはさほど離れていなくとも、旅人の通り道から一歩外れているかどうかは、記録に残るか否かを分ける決定的な差となる。

この見付と中泉のあいだ、東海道の道沿いには、後の世に立場(たてば)として栄える場も生まれた。境松の門前町のように、街道の要所には人と物とが集まり、記録にも残る。街道がどこを通るかは、そこに商いが生まれ、家並みが連なり、やがて記録が蓄積されるかどうかを左右した。裏を返せば、街道から外れた中泉の国分寺の周辺は、そうした街道由来のにぎわいと記録の蓄積からは、相対的に遠い位置に置かれたことになる。記録の空白は、この地理的な位置取りの帰結として理解できる。

もっとも、中泉が街道から外れていたことは、この地が寂れていたことを意味しない。中泉は遠江国府・国分寺以来の由緒ある地であり、後の世には中泉御殿や代官所が置かれ、近代には駅前の中心地へと展開していく。街道の主動線からわずかに外れていたことと、地域としての重要性とは、別の事柄である。旅人の紀行文に名が残らなかったからといって、中泉の国分寺が忘れ去られていたわけではない。地元の人々にとって、それは変わらずそこにある祈りの場であり続けたはずである。

こうして見ると、記録の空白は、天竜川の渡河、見付という国府の求心力、そして中泉の位置取りという、いくつもの地理的条件が重なり合った結果として立ち現れる。道の付け替え説は、この地理を背景に置いてはじめて説得力をもつ。逆に言えば、この説の当否を最終的に確かめるには、中世の渡し場や道筋を、地形と発掘の両面からさらに復元していく作業が欠かせない。地理は、記録の空白を読み解く鍵であると同時に、なお残された課題の在りかでもある。

渡河・求心・位置取り ── 空白を生む地理 天竜川 渡し 見付国府・求心 中泉・国分寺主動線の脇 主動線(渡し→見付)
図6 空白を生む地理。天竜川の渡し場から見付(国府)へ向かう主動線に対し、中泉の国分寺はわずかに脇に位置する。この位置取りが、旅の記録に名が残るか否かを分けた。概念図であり実際の方位・距離を正確に示すものではない。

8. 結論 ── 「書かれなかったこと」を「無かったこと」と読み替えない

本稿は、鎌倉・室町期の遠江国分寺に文献史料が乏しいという「記録の空白」を主題とし、その理由を史料批判の観点から検討した。得られた見取り図は次のとおりである。第一に、鎌倉初期には本尊が釈迦から薬師へ転じ、呼称も「国分寺」から「薬師堂」へ移りつつあった。この名称の変遷自体が、後世に「国分寺」の名で史料を探すことを難しくする一因となった。第二に、複数の紀行文・軍記物が一様に遠江国分寺に触れないという沈黙は、偶然の書き漏らしでは説明しにくく、そこに構造的な理由を想定させる。第三に、その理由として『国分寺ものがたり』は、中世東海道が池田宿・一言を経て見付へ至り、中泉の国分寺の前を素通りしたという道の付け替えを挙げる。

これらの読みを、本稿は衰退説と動線説として対等に並べ、それぞれの根拠と弱点を検討した。衰退説は瓦の減少や規模縮小という考古の所見に支えられるが、記録の空白をただちに実体の縮小へ読み替える危うさをもつ。動線説は複数史料の一様な沈黙を無理なく説明するが、前提となる中世東海道の経路復元に未確認の部分を残す。いずれの説も単独では空白のすべてを説明しきれない。本稿の立場は、記録の空白を、寺の側の変化・道の側の変化・記録者の側の条件が重なり合った複合的な帰結として理解し、その因果を単一の原因に断定しないというものである。

そして、これらすべての読みの底に置かれるべき原則がある。文献の沈黙を、実体の消滅とただちに読み替えないという禁欲である。国分寺周辺で積み重ねられてきた170回を超える発掘調査は、文献が語らない数百年にも、そこに建物があり、人が暮らし、祈りが営まれていたことを、地層の側から証している。文献史料と発掘調査は、同じ過去を別々の角度から映す。旅人が書き残さなかったからといって、そこに何もなかったわけではない。史料に何かが登場しないとき、その理由には「存在しなかったから」のほかに、「旅人の道筋から外れていたから」「別の呼び名で呼ばれていたから」「記録者の関心の外にあったから」など、いくつもの可能性がある。中世国分寺の記録の空白は、これらの可能性を腑分けすべき典型的な事例である。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、『国分寺ものがたり』が挙げる紀行文・軍記物の原典に直接あたり、遠江国分寺への言及の有無を一つずつ確かめる作業は、なお残されている。これは「未確認」を「記載なし」あるいは「言及あり」へと精確化する作業である。第二に、中世東海道の経路、とりわけ天竜川の渡し場と池田宿・一言を経る道筋の復元は、地形・絵図・発掘の各面からさらに詰められるべきである。第三に、承元3年の「薬師堂」表記に始まる呼称の変遷を、中世を通じて追跡できれば、名称の側から記録の空白を説明する筋道が補強される。これらの課題はいずれも、記録の空白という消極的な事実を、街道史・信仰史の積極的な資料へと転じていく作業に属する。「書かれなかったこと」を「無かったこと」と読み替えない姿勢を保ちながら、文献の沈黙の内側に、中泉の国分寺が確かに存続していた数百年の像を、少しずつ描き出していきたい。

本稿の舞台である中泉や見付には、国分寺の千年とともに受け継がれてきた古い家や土地が、いまも数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 建久2年(1191年)の源頼朝による国分二寺修造命令、および承元3年(1209年)の「薬師堂」表記については、本論考シリーズの前段にあたる磐田物語 n036「鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき」および素材記事 n037 の整理による。
  2. 紀行文・軍記物として『吾妻鏡』『平家物語』『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』『太平記』『覧富士記』が挙がる点、およびそのいずれにも遠江国分寺が現れない点は、『国分寺ものがたり』p.24 の記述による。原典そのものは本稿では未確認であり、同書の紹介をもとに整理している。
  3. 中世東海道が引間(曳馬)から池田宿へ抜け、渡船で天竜川を渡り、一言を経て見付に至ったとする道筋は、『国分寺ものがたり』の示す説による。池田・一言・見付はいずれも現在の磐田市域に実在する地名である。中世東海道の経路復元には時期・史料により幅があり、本稿はこの道筋を確定した史実ではなく有力な推定として扱う。
  4. 平安時代後期以降に遺跡からの瓦の出土が減少し、瓦葺きから茅葺きへの変化と建物規模の縮小を示すとする所見は、『国分寺ものがたり』の発掘成果に関する記述による。
  5. 国分寺跡周辺で170回を超える発掘調査が行われ、鎌倉期から江戸期にかけての建物痕跡が確認されている点は、磐田市教育委員会等による調査の蓄積、および『国分寺ものがたり』の記述による。

付記:本稿は一般読者向け記事 n037「記録が消えた理由 ── 東海道と国分寺の前を通らなくなった道」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。記録の空白を寺の衰退とみる読みと旅人の動線の変化とみる読みとを対等に併記し、道の付け替えと記録の空白とを結ぶ因果を、確定した史実ではなく複数の状況証拠から導かれる推定として扱った。

参考文献・参考資料

  • 小杉達『国分寺ものがたり』国分寺奉賛会、令和4年(2022年)発行、p.24(紀行文・軍記物への言及)ほか。
  • 磐田市教育委員会ほか『遠江国分寺跡』発掘調査報告書類(170回を超える調査の蓄積)。
  • 『吾妻鏡』(新訂増補国史大系ほか)。
  • 『平家物語』(各校訂本)。
  • 『海道記』(中世日記紀行集所収)。
  • 『東関紀行』(中世日記紀行集所収)。
  • 阿仏尼『十六夜日記』(各校訂本)。
  • 『太平記』(各校訂本)。
  • 『覧富士記』(室町期紀行、各翻刻)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、中世・国分寺関係の章)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」史跡 遠江国分寺跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n037「記録が消えた理由 ── 東海道と国分寺の前を通らなくなった道」 https://iwata-monogatari.net/n037 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n036「鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき」 https://iwata-monogatari.net/n036 (最終閲覧:2026年7月25日)。