磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第122号(池田渡船研究 四)
大名と渡船の特約 ── 紀州藩・尾張藩・仙台藩と池田村渡船方
参勤交代がむすんだ渡船場と大名
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
参勤交代の大通行が渡河した天竜川の池田渡船場では、御三家の紀州藩・尾張藩をはじめとする有力大名が、池田村渡船方のなかの特定の家と個別に「特約」を結び、その藩の渡船一切を請け負わせていた。本稿は、昭和51年(1976年)刊の郷土研究資料『天竜川池田の渡船』が伝える渡船目録帳・通覚帳の記載を唯一の根拠として、この特約の実態を史料に即して復元する。奥州仙台藩とその分家筋は池田村渡船方の中田太郎右衛門・中田三左衛門親子と結び、宝暦10年(1760年)の京・近衛家の姫君輿入れ、延享4年(1747年)の越前福井藩通行には、高瀬船や小船の艘数・人足・費用が金銭の単位まで書き留められている。あわせて『福井様御通覚帳』が伝える御船賦の先調べ、悪天候時の急使や増船・増人足の手順を検討する。本稿は特約を、大名側の格式確保と渡船方側の実収益とのあいだに落差をはらんだ在地の請負として位置づけ、参勤交代の交通システムを末端で支えた仕組みとして記述する立場をとる。
キーワード:池田の渡し/天竜川渡船/参勤交代/大名特約/仙台藩姫君輿入れ/渡船目録帳/中田太郎右衛門
1. 問題設定 ── 渡船の「特約」とは何か
近世の東海道において、天竜川の渡河は容易な行程ではなかった。徒歩で渡ることの許されない大河であり、旅人も大名行列も、池田の渡船場で船に乗るほかに川を越える手立てをもたなかった。池田の渡しを主題とした別稿で論じたとおり、この渡船は徳川家康の証文を起点として制度化され、周辺の村々を巻き込む大がかりな運営組織を伴っていた。本稿が扱うのは、その渡船をめぐって大名と渡船方とのあいだに結ばれた、いま一段私的な取り決め──「特約」である。
ここでいう特約とは、渡船の一般的な契約とは別枠に、特定の大名家が池田村渡船方のなかの特定の家を窓口と定め、その藩の参勤交代にともなう渡船一切を任せる、格別の取り決めを指す。利用者と提供者という一回きりの関係ではなく、藩の通行のたびにくり返し発動する継続的な請負である点に、この仕組みの特徴がある。大名にとっては大通行の渡河を安定して確保する手立てであり、渡船方にとっては有力大名との結びつきを示す立場であった。
本稿の課題は、この特約の実態を、残された史料に即してできるかぎり具体的に描き出すことにある。特約という語はしばしば漠然と語られがちであるが、誰が誰と、どのような条件で結び、通行のたびに現場では何が動いたのか。その一つひとつを、艘数・人足・費用といった記録の水準まで下りて確認していく。そのうえで、特約が大名側にもたらしたものと渡船方側が得たものとのあいだに、無視しがたい落差があったことを示したい。
あらかじめ本稿の姿勢を断っておく。以下で扱う年紀・数値・人名は、いずれも後掲の郷土研究資料が引く一次史料の記載に依拠したものであり、筆者が推測で補ったものではない。史料が語らない部分については、参勤交代制度や東海道の宿駅制度に関する一般的な理解の範囲で背景を補うにとどめ、断定を避ける。史料で確認できる事柄と、背景として推測される事柄とを、語の水準で区別することを一貫した方針とする。
この区別を保つ理由は、特約という主題が、ともすれば「大藩が地方の渡し場を優遇した美談」として語られやすいからである。だが史料をていねいに読むと、そこに見えてくるのはむしろ、格式に応じて増える負担を、天候と時間の制約のなかで渡船方が引き受けていた実務の姿である。美談でも収奪でもない、参勤交代という巨大な人の移動を末端で成り立たせていた請負の実態を、記録に即して復元することが本稿の目的である。
2. 史料 ── 『天竜川池田の渡船』が伝える渡船方の記録群
本稿が事実の根拠とするのは、豊田町郷土を研究する会が編み、昭和51年(1976年)3月に豊田町教育委員会が刊行した『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』である1。この資料は、池田村渡船方に伝来した渡船目録帳・通覚帳・勘定辻調帳といった帳簿類を翻刻・整理し、渡船制度の実態を伝えるもので、特約に関する記載もそのなかに含まれる。以下で引く艘数・人足・費用・人名は、いずれもこの資料が引用する近世の帳簿に由来する。
史料の性格について、あらかじめ二点を確認しておきたい。第一に、これらの帳簿は渡船方が自らの実務のために作成した記録であり、通行を演出するための対外的な文書ではない。増船や増人足の理由、天候の具合、費用の内訳といった、現場の判断がそのまま書き留められている点に、実務記録としての価値がある。第二に、しかしそれゆえに、記録は渡船方の視点から書かれている。大名側がこの特約をどう位置づけていたかは、渡船方の帳簿からは間接的にしか読み取れない。この視点の偏りは、史料を読むうえで一貫して意識しておく必要がある。
また、特約を結んでいた大名の全体像は、この資料からは復元できない。後述するとおり、紀州藩・尾張藩・仙台藩・福井藩については具体的な記載が残るが、それ以外の大名についての史料は乏しく、詳細は不明である。同様の特約を結んでいた大名は他にもあったと考えられているが、その範囲を確定する史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。ここで「未確認」というのは、そうした史料が存在しないと断定できるという意味ではなく、管見の限りそれを裏づける記録に行き当たっていない、という状態を指す。この「未確認」と「史料に記載がない」ことの区別は、以下でも保持する。
帳簿の種類ごとに、読み取れる事柄も異なる。渡船目録帳は、特定の通行に際して用いた船・人足・費用を通行単位で書き上げた記録であり、宝暦10年の姫君輿入れのような個別の大通行の実態を、一件ずつ具体的に伝える。これに対して通覚帳は、通行に先立つ先調べや役人の配置、悪天候時の手順といった、くり返し適用される段取りを覚え書きとして記したものである。前者が「その一度に何が起きたか」を、後者が「通行のたびに何をすべきか」を伝えるという役割の違いを踏まえると、二種の帳簿を突き合わせることで、個別の事例と恒常的な手順の両面から特約の実態に迫ることができる。本稿が仙台藩の目録帳と『福井様御通覚帳』の双方を用いるのは、この相補性を生かすためである。
したがって本稿が描けるのは、特約という仕組みの全体地図ではなく、記録の残った数例を通じて見えるその断面である。だが断面であっても、艘数や費用の水準まで下りた具体的な記載は、制度の実態を一般論以上の解像度で伝える。以下では、まず御三家との特約という概括的な記述から入り、続いて仙台藩・福井藩という記録の残る二例を詳しく検討し、そのうえで特約の経済的な意味を考える順序をとる。
3. 御三家との特約 ── 紀州藩・尾張藩と優遇のかたち
資料によれば、紀州藩・尾張藩という御三家の大藩は、それぞれ池田村渡船方の特定の家と特約を結び、その藩の渡船一切を指揮させていた2。御三家は将軍家に連なる家格をもち、その参勤交代の行列は供の人数も荷物も膨大であった。大藩の通行ともなれば、渡船方は前もって出府の日程の連絡を受け、月日が定まると早速村々へ触れを回し、大名一行が到着するまでに川を渡りきる態勢を整えたという。図2に示した準備の流れは、こうした大藩の通行を念頭に置いたものである。
特約が渡船方にもたらした処遇は、大名によってまちまちであった。ある藩は渡船賃の3割増しや、扶持米にして20人扶持といった実質的な優遇を与えたが、別の藩では目録や祝儀程度で済まされることもあった。同じ「特約」の語のもとでも、その中身は一様ではなく、藩の方針や渡船方との関係の深さによって大きく異なっていたと考えられる。ここで重要なのは、特約が必ずしも一定の金銭的見返りを約束する契約ではなかった、という点である。
実際、資料は特約について、渡船契約とは別枠の格別な取り決めであり、必ずしも大きな実入りにはならなかったとも記している。3割増しや20人扶持といった優遇は魅力的に見えるが、それは大藩の膨大な通行に対応するための増船・増人足の負担と引き換えのものであった。優遇の額面だけを取り出して特約を利得の源泉とみなすのは、史料の含意を取り違えることになる。この点は、第6節で経済的な観点からあらためて検討する。
優遇の内実を史料の語彙に即して押さえておきたい。渡船賃の3割増しとは、平時に定められた渡船料の割増しであり、通行のたびに支払われる実費的な性格をもつ。これに対して20人扶持は、扶持米、すなわち米による定期的な給付を指し、渡船方の特定の家を藩の準拠的な担い手として遇する処遇であった。前者が通行ごとの対価であるのに対し、後者は関係そのものへの手当という性格が濃い。両者は同じ「優遇」の語のもとにありながら、支払いの論理を異にしている。目録・祝儀にとどまる藩があったこととあわせて考えると、大名側が特約に与えた意味づけは、藩によってかなりの幅をもっていたと見てよい。
御三家との特約について、資料の記述はおおむね概括的なものにとどまり、紀州藩・尾張藩それぞれの窓口となった家の名や、通行ごとの具体的な費用までは、仙台藩・福井藩の例ほど詳しくは伝わらない。したがって、これらの藩の特約の詳細は、部分的に「未確認」の状態にある。にもかかわらず、御三家という最上級の家格の藩が渡船方の特定の家を頼みとしていたという事実そのものは、特約という仕組みが単なる便宜ではなく、大藩の側からも一定の重みをもって位置づけられていたことを示している。次節以降で見る仙台藩・福井藩の詳しい記録は、この概括的な像に具体的な肉付けを与えるものである。
4. 仙台藩と中田家 ── 宝暦10年の姫君輿入れ
中田太郎右衛門・中田三左衛門親子と『渡船目録帳』
特約の相手方。特約の具体的な姿がもっともよく見えるのが、奥州仙台藩との関係である。仙台藩とその分家筋にあたる藩は、池田村渡船方の中田太郎右衛門・中田三左衛門親子と特約を結び、両藩の渡船一切を指揮させていた。親子二代にわたって同じ大藩の窓口を務めていたことは、特約が一時の取り決めではなく、家と家との継続的な関係として営まれていたことを物語る。
宝暦10年の大通行。宝暦10年(1760年)2月9日、京都の近衛家の姫君が仙台藩へ輿入れする際の大通行にあわせて、『渡船目録帳』が作成された3。近衛家は五摂家の筆頭に位置する公家であり、その姫君を迎える通行は、通常の参勤交代にもまして格式の高いものであった。中田太郎右衛門・中田三左衛門の名で作成されたこの目録帳には、御輿入れの大通行に際して高瀬船6艘を用い、御召船の漕ぎ手を増員し、水量の関係から船を増したことなどが具体的に記され、費用は合計で金16両1分と銭6貫800文にのぼったと記録されている。
費用の水準。合計金16両1分と銭6貫800文という額は、通常の参勤交代の一往復の渡河に比べても、相当に大きな出費であったとみられる。姫君の輿入れという格別の通行であったこと、そこに出水と強風という悪条件が重なったことが、この額を押し上げた主因であろう。ただし、この額はあくまで通行にかかった費用の総額であって、渡船方の手元に残った利益ではない。高瀬船の仕立て、御召船の漕ぎ手の増員、人足の増員に要した実費が、そのうちの相当部分を占めたはずである。目録帳の数字を渡船方の収益と読み違えないためには、それが支出の記録であることをつねに念頭に置く必要がある。
現場の判断。目録帳には、増船の理由が「是ハ当年出水殊ニ風強ク御座候ニ付増船也」と書き添えられている。その年はことのほか出水と風が強かったために船を増やした、という現場の判断が、そのまま帳簿に残されているのである。姫君の輿入れという格式高い通行にあわせ、天候の具合にまで細かく気を配りながら渡船を差配していた様子が、この一句からうかがえる。格式は人が定めるものだが、川を渡す条件を定めるのは天候であり、渡船方はその両方に同時に応えなければならなかった。
5. 延享4年の福井藩通行と渡船準備の実務
延享4年の通行記録と『福井様御通覚帳』
延享4年の通行。紀州藩・仙台藩以外の大名通行の記録も残されている。延享4年(1747年)3月28日、越前福井藩・松平兵部大輔家の通行に際しての記録によれば、御下り両川昼、すなわち富田より池田への渡しに小船22艘が用いられ、藤太夫・五兵衛の名で処理された費用は金5両2分にのぼった4。このほか例年の御増金として金5両が計上され、茶屋での接待費用なども別途記録されている。これらを合わせると、この一度の通行にかかった費用は、合計で金11両1分2朱と銭150貫文余りに達したと記されている。一度の大名通行が、これだけの規模の出費と手配を要したのである。
先調べの役目。『福井様御通覚帳』(元文5年〔1740年〕)によれば、渡船の数日前になると、大名家から「御船賦(ふなぶ)」あるいは「御船割」と呼ばれる先調べの役目を担う者が数名派遣され、居番の家に宿泊して渡船準備が完了するまで滞在したという5。渡船は当日の思いつきで行われるものではなく、大名側から派遣された役人が事前に現地に入り、渡船方と綿密に打ち合わせたうえで実施される、周到に準備された行事だったことがわかる。特約の家が単なる船の出し手ではなく、大名家の役人を受け入れる交渉の窓口でもあったことが、ここに読み取れる。
役人衆の規模。仙台様の通行の場合、渡船にかかわった御役人衆は、大船賦衆2名、大御番衆2名、下役1名、相役衆8名の計16名にのぼった。渡河という一場面のために、これだけの人数の役人が現地に配されていたことは、大通行の渡船がいかに大きな組織的行事であったかを物語る。渡船方は、これらの役人と対応しながら、船と人足の手配を進めなければならなかった。
天候との駆け引き。渡船準備の際には、天候が悪化した場合に備え、綿密な計画を立てておく必要があった。例えば大水で渡船が中止になった場合は、浜松宿から見付宿まで急使を出して知らせなければならず、夜越や風雨が強くなった時には、増船・増人足で対応しなければならなかったという。宝暦10年の目録帳に見えた「出水殊ニ風強ク」という記載は、こうした恒常的な天候対応の一例であった。特約という仕組みの裏には、川と空とを相手にした絶えざる駆け引きがあり、格式に応じた渡河を天候の変動のなかで実現することこそが、渡船方に課された実務の核心であった。
6. 特約の経済 ── 格式と実収益の落差
ここまで見た紀州藩・尾張藩・仙台藩・福井藩の例を、特約の相手方・記録・費用・留意点という同じ枠で並べると、特約という仕組みの輪郭がより鮮明になる。以下の表は、各例を対等の粒度で整理し、記録として残る度合いの差も含めて可視化することを目的とする。特定の藩を特別に大きく扱うのではなく、記録の残存状況そのものを一つの情報として並べた。
| 大名家 | 渡船方の窓口 | 残る記録 | 費用・優遇 | 留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 紀州藩・尾張藩(御三家) | 特定の家(家名は詳細不明) | 概括的記述のみ | 渡船賃3割増し・20人扶持・目録祝儀など(藩により差) | 窓口の家名・通行費用は本稿の範囲では未確認。 |
| 奥州仙台藩・分家筋 | 中田太郎右衛門・中田三左衛門親子 | 宝暦10年(1760年)渡船目録帳 | 高瀬船6艘・御召船増員・人足5人増、金16両1分・銭6貫800文 | 近衛家姫君輿入れの大通行。出水強風による増船。 |
| 越前福井藩(松平兵部大輔家) | 藤太夫・五兵衛ほか居番 | 延享4年(1747年)通行記録、御通覚帳 | 小船22艘 金5両2分、御増金5両、総計 金11両1分2朱・銭150貫文余 | 御船賦の先調べ、役人16名、悪天候時は急使・増人足。 |
この整理から見えてくるのは、特約が渡船方にとって必ずしも大きな実収益をもたらす仕組みではなかった、という点である。資料自身が、特約は渡船契約とは別枠の格別な取り決めであり、必ずしも大きな実入りにはならなかったと記している。御三家からの3割増しや20人扶持という優遇は、額面だけを見れば厚遇に映る。しかしそれは、膨大な供を抱える大藩の通行を、船を増し人足を増して滞りなく渡しきる義務と一体のものであった。優遇と負担は、いわば同じ取り決めの表裏をなしていた。
費用の記載を読むうえでも注意が要る。宝暦10年の金16両1分余、延享4年の金11両1分2朱余といった額は、いずれも「その通行にかかった費用」であって、渡船方の手元に残る利益ではない。船賃・人足賃・増船費・接待費などを含む支出の総額であり、そこから渡船方が実際に得た収益がいかほどであったかは、この記載だけからは直ちには算出できない。渡船を支えた助郷を論じた別稿で見たとおり、大通行の渡河は池田村渡船方だけでは担いきれず、周辺の村々が助船・助人足として動員されていた。費用の相当部分は、こうした村々への手当や実費に充てられたとみるのが自然である。
とすれば、特約の意味は金銭的な利得だけでは測れない。特約が渡船方にもたらしたものは、むしろ有力大名と継続的に結びつく立場そのものであったと考えられる。中田家が親子二代にわたって仙台藩の窓口を務めたことは、その家の格式と信用を裏づけるものであり、渡船方の共同体のなかでの位置を安定させたであろう。もっとも、これは記録の残り方から導かれる推定であり、渡船方自身がそう意識していたことを直接に示す史料に突き当たっているわけではない。ここでは、経済的利得に還元しきれない関係の側面がありえたことを指摘するにとどめ、断定は避ける。
いずれにせよ、額面の優遇に目を奪われて特約を利得の仕組みと見るのも、費用の総額だけを見て渡船方の負担ばかりを強調するのも、片面的である。史料が伝えているのは、格式に応じて膨らむ負担を引き受ける代わりに、大藩との結びつきという無形の資産を得るという、損得の単純には割り切れない関係であった。
7. 背景 ── 参勤交代・東海道と池田渡船場の地理
特約という仕組みが成り立った背景には、参勤交代という制度と、天竜川の地理的条件とがある。江戸幕府の参勤交代制度のもとで、西国・奥州の大名は定期的に江戸と国元とを往復し、その多くが東海道を通行した。東海道が磐田の地を貫き、天竜川を渡る以上、大名行列は必ずどこかで川を越えねばならない。そして天竜川は、徒歩での渡河を許さない大河であった。池田の渡船場は、この東海道の大動脈と天竜川という障壁とが交差する結節点に位置していたのである。
渡河の手段が渡船に限られていたことは、渡船方に構造的な立場を与えた。大名がいかに大身であろうと、川を渡るには渡船方の船と人足を頼むほかない。この不可避性こそが、特約という継続的な取り決めを生む土壌であった。大藩にとって、通行のたびに渡船の確保を一から交渉するよりも、特定の家を窓口と定めて任せておくほうが、安定と確実を得られる。特約は、渡河の不確実性を制度的に低減する装置だったと理解できる。
渡河が渡船に限られていたことは、大名の側にも一定の緊張を強いた。川止めに遭えば、参勤の日程そのものが狂う。定められた期日までに江戸へ参着することが求められる参勤交代において、天竜川の渡河は行程上の要注意箇所の一つであった。大名家が数日前から役人を先発させ、居番の家に泊まり込ませてまで準備を整えたのは、この渡河の不確実性を少しでも下げるためであった。特約は、大名にとってその不確実性への備えであり、渡船方にとっては大藩の期日を預かる責任でもあった。
この地理的条件は、天竜川の水量が季節や天候によって大きく変動したことによって、いっそう切実なものとなった。宝暦10年の「出水殊ニ風強ク」という記載や、大水による渡船中止の際の急使の手順は、渡船場が絶えず川の変動にさらされていたことを示す。増水がはなはだしければ渡船そのものが不可能となり、大名行列は川止めに遭う。天竜川に架けられた船橋を論じた別稿で見たように、格別の大通行に際しては臨時に船を連ねて橋とすることもあったが、それは例外的な措置であって、日常の渡河はあくまで渡船に依存していた。特約の家は、この変動する川を相手に、大名の格式に見合う渡河を年々くり返し実現する責めを負っていた。
もう一点、特約を支えた社会的な母体として、渡船を担う村々の共同体の存在を挙げておかねばならない。池田村渡船方は単独で大通行を渡しきれたわけではなく、周辺の村々が定助郷・大助郷として動員され、助船・助人足を提供して初めて、御三家や仙台藩の膨大な通行を渡すことができた。特約の家は、大名家と村々のあいだに立って両者を媒介する要の位置にあった。大名から見れば渡船方の代表であり、村々から見れば大名の意向を伝える差配人である。特約という取り決めが機能したのは、この媒介の役割を担う家が定まっていたからにほかならない。
特約の家がこの結節点で果たした媒介の働きは、渡河当日にとどまるものではなかった。大名家からの出府月日の連絡を受け、村々へ触れを回し、御船賦として派遣される役人を居番の家に迎え入れ、天候を見ながら船と人足の数を最終的に定める。これら一連の段取りは、いずれも大名側と村側の双方に通じた者でなければ担えない。特定の家が窓口として固定されていたのは、こうした継続的な調整の蓄積が、一代限りでは受け継がれないからでもあった。中田家が親子二代にわたって仙台藩の窓口を務めたことは、この調整の知が家に蓄えられ、世代を越えて引き継がれていた一例とみることができる。
こうしてみると、特約は孤立した私的契約ではなく、参勤交代・東海道・天竜川・助郷という複数の条件が交わる地点に成立した、地域的な仕組みであったことがわかる。大名の格式という上からの要請と、天候と地形という自然の制約と、村々の労働という下からの支えとが、特約の家という一点で束ねられていた。池田の渡船場をめぐる特約は、近世の交通が在地の社会にどう根を下ろしていたかを、具体的な一断面として示している。
8. 結論 ── 特約を交通システムの末端として読む
本稿は、池田村渡船方と大名とのあいだに結ばれた渡船の特約を、郷土研究資料『天竜川池田の渡船』が伝える記録に即して検討した。得られた見取り図は次のとおりである。御三家の紀州藩・尾張藩は渡船方の特定の家と特約を結び、その処遇は渡船賃の3割増しから目録・祝儀まで幅があった。奥州仙台藩は中田太郎右衛門・中田三左衛門親子と結び、宝暦10年(1760年)の姫君輿入れには高瀬船6艘を含む渡船編成と金16両1分余の費用が、天候の判断とともに記録された。越前福井藩の延享4年(1747年)の通行には、小船22艘と総計金11両1分2朱余の費用、そして御船賦の先調べや役人16名の配置、悪天候時の急使という準備の実務が伝わる。
これらを通じて確認できるのは、特約が大名側の格式確保と渡船方側の負担引き受けとを一体に束ねた取り決めであった、という点である。優遇の額面だけを取り出せば渡船方の利得に見え、費用の総額だけを取り出せば渡船方の負担に見えるが、そのいずれも一面にすぎない。史料が伝えているのは、格式に応じて膨らむ渡河の負担を引き受ける代わりに、大藩との継続的な結びつきという無形の資産を得るという、損得に還元しきれない関係であった。特約を「優遇」か「収奪」かの二択で語ることは、この関係の実態を取り逃がす。
したがって本稿の立場は次のように定まる。池田の渡船をめぐる特約は、それ自体を独立した契約として論じるよりも、参勤交代という巨大な人の移動を末端で成り立たせた交通システムの一部として読むべきである。大名の格式、天竜川の変動、東海道の地理、助郷の労働という複数の条件が、特約の家という一点で束ねられていた。特約は、その束ねの仕組みに与えられた名であった。渡船方の帳簿に残る艘数や費用の記載は、この末端の実務が、いかに具体的で、いかに天候に左右され、いかに多くの人手を要したかを、数字の水準で今に伝えている。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、紀州藩・尾張藩の窓口となった家の名や通行ごとの費用は、本稿の範囲では未確認であり、他の帳簿類の博捜によって埋められる余地がある。第二に、特約を結んでいた大名の全体像は、仙台藩・福井藩以外については史料が乏しく、その範囲の確定は今後の課題として残る。第三に、費用の総額から渡船方の実収益を析出する作業は、船賃の分配や助郷への手当の構造を、渡船経済の全体のなかで検討することを要する。これらはいずれも、本稿が用いた「史料で確認できることと推定されることを区別する」という手続きのなかで、未確認を一歩ずつ史実へと押し上げていく作業に属する。特約という小さな取り決めの記録から、参勤交代の交通が在地に残した具体的な痕跡を、なお読み取っていきたい。
注
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』(豊田町教育委員会、1976年〔昭和51年〕3月)。本稿で引く艘数・人足・費用・人名は、いずれも同書が翻刻・引用する近世の渡船目録帳・通覚帳等の記載に依拠する。↩
- 紀州藩・尾張藩が渡船方の特定の家と特約を結んでいたこと、および渡船賃の3割増し・20人扶持・目録祝儀という処遇の幅は、前掲『天竜川池田の渡船』の記述による。窓口となった家名は同書では明示されておらず、本稿の範囲では未確認である。↩
- 『渡船目録帳』宝暦10年(1760年)2月9日、中田太郎右衛門・中田三左衛門作成(前掲『天竜川池田の渡船』所収)。高瀬船6艘・御召船漕ぎ手増員・増船、合計金16両1分と銭6貫800文の記載、および「是ハ当年出水殊ニ風強ク御座候ニ付増船也」の一句による。↩
- 越前福井藩・松平兵部大輔家通行記録、延享4年(1747年)3月28日(前掲書所収)。小船22艘・金5両2分、例年御増金5両、総計金11両1分2朱と銭150貫文余の記載による。↩
- 『福井様御通覚帳』元文5年(1740年)(前掲書所収)。御船賦(御船割)の先調べと居番の家への宿泊、仙台様通行の御役人衆16名(大船賦衆2名・大御番衆2名・下役1名・相役衆8名)の構成、および大水による渡船中止時の浜松宿から見付宿への急使の記載による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 t049 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。艘数・費用・人名は前掲資料が引く近世帳簿の記載に忠実に拠り、史料で確認できる事柄と背景として推定される事柄とを語の水準で区別した。窓口の家名や特約大名の全体像など、資料が明示しない点は「未確認」として扱った。
参考文献・参考資料
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』豊田町教育委員会、1976年(昭和51年)。
- 『渡船目録帳』宝暦10年(1760年)、中田太郎右衛門・中田三左衛門作成。前掲『天竜川池田の渡船』所収。
- 『福井様御通覚帳』元文5年(1740年)。前掲『天竜川池田の渡船』所収。
- 越前福井藩松平兵部大輔家通行記録、延享4年(1747年)。前掲『天竜川池田の渡船』所収。
- 丸山雍成『参勤交代』吉川弘文館(日本歴史叢書)、2007年。
- 児玉幸多『近世宿駅制度の研究』吉川弘文館、1957年。
- 磐田市編『磐田市史』通史編、磐田市。
- 静岡県編『静岡県史』通史編(近世)、静岡県。
- 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』豊田町。
- 磐田物語 t049「大名と渡船の特約 ── 紀州藩・尾張藩・仙台藩と池田村渡船方」 https://iwata-monogatari.net/t049.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「池田の渡し ── 天竜川をわたる東海道」大石浩之の磐田論考 第19号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/019/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「渡船を支えた助郷 ── 定助郷・大助郷と池田の渡し」大石浩之の磐田論考 第106号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/106/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「天竜川に架けられた船橋 ── 臨時の橋がむすんだ大通行の記憶」大石浩之の磐田論考 第52号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/052/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 国土地理院「地理院地図」 https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。