磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第106号(池田の渡船研究 二)
渡船を支えた助郷 ── 定助郷・大助郷と池田の渡し
街道の負担が村々に及ぼしたもの
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
天竜川の池田の渡しでは、池田村・船越一色村が渡船を専業する代わりに他の諸役を免除される特権をもったが、両村だけで東海道の莫大な交通需要をまかなうことはできなかった。この不足を補ったのが、周辺の村々が人足と船を出す助郷の制度である。本稿は、豊田町郷土を研究する会編『天竜川池田の渡船』を主たる史料とし、宝永4年(1707年)・正徳元年(1711年)の天竜川高札、寛政4年(1792年)の書上帳、嘉永4年(1851年)頃の差村表を手がかりに、助船制度の起源、定助郷と大助郷の二層構造、手伝人足・野道人足・築出役・簑火人足・薦鋪人足の5種の役、そして村ごとの勤高割合の格差を整理する。全22村の平均勤高割合は5割7分に達し、大通行が重なる年には低廉な賃銭での夫役が村々を圧した。本稿は数値と史料の性格を史実・推定・伝承の層に区別し、渡し場の記憶が池田村のみならず周辺村々の負担の記憶でもあったことを記述する立場をとる。
キーワード:助郷/定助郷/大助郷/池田の渡し/寄せ船/東海道の交通史/村方負担
1. 問題設定 ── 特権の裏にあった負担
天竜川の池田の渡しは、東海道が大河を越える難所として、近世を通じて人と物の往来を担い続けた。その渡船を専業としたのが池田村と船越一色村である。天正元年(1573年)、徳川家康は両村に対し、今切渡船(浜名湖)と同様に、渡船以外の諸役を免除する朱印状を与えたと伝えられる1。渡船に専念する見返りに伝馬や陣夫などの負担を免れるこの特権は、渡船場の運営を支える制度的な土台であった。渡船制度そのものの成立と機能については、本論考シリーズ第19号「池田の渡し」で扱ったとおりである。
しかし、特権をもつ両村だけで、街道の交通需要のすべてをまかなえたわけではない。参勤交代の大名行列、将軍の上洛、日光への代参、公家や幕府役人の通行、さらには琉球使節の参府など、通行が一時的にふくれ上がる場面では、両村常備の船と人手だけでは到底さばききれない。この不足を補うために、周辺の村々に人足や船を分担させる仕組みが整えられた。それが本稿の主題である助郷(すけごう)の制度である。
助郷という語は、一般には東海道の宿駅に付随する制度として知られる。宿場が常備する伝馬・人足が不足したとき、あらかじめ指定された近隣の村々が人馬を差し出して補う。この宿駅助郷は近世交通史の中心的な論点であり、村方に課された重い夫役として広く論じられてきた。池田の渡しの助郷は、この宿駅助郷とは対象を異にし、陸上の伝馬ではなく川の渡船を補うための人足役・船役であった点に特徴がある。渡船という特殊な労働を補完する助郷が、どのような区分と役割のもとに編成され、周辺の村々にどれほどの負担を課したのか。これを史料に即してたどることが、本稿の課題である。
本稿の記述の姿勢を、あらかじめ一言しておきたい。助郷に関わる帳簿・高札・差村表は、年紀と数値をともなう近世文書として比較的よく残っており、そこから読み取れる事柄の多くは史実として扱える。一方で、負担の軽い村への賃銭支給の実態のように、史料が乏しく確定できない事柄もある。本稿は、確認できることと確認できないことを語の水準で区別し、後者を推測で埋めることを避ける。史料が語る範囲を丁寧に見定めたうえで、街道の負担がこの地の村々に何を及ぼしたのかを描くことを目指す。
もう一点、渡船助郷を論じる意義について述べておく。東海道の交通史は、宿場と大名行列を主役に語られることが多く、宿駅の伝馬助郷については蓄積のある研究がある。これに対し、大河の渡しを支えた助郷は、渡船場という限られた場に固有の制度であるだけに、全国的な制度史のなかでは周縁に置かれてきた。しかし磐田の郷土史にとっては、天竜川という難所を越える営みそのものが街道の要であり、その渡しを陰で支えた村々の負担は、地域の近世社会を理解するうえで欠かせない主題である。渡船場の華やかな側面ではなく、それを支えた村々の労働の側から街道を見直すこと──ここに本稿の視座がある。
2. 史料と方法 ── 郷土研究資料・書上帳・差村表
本稿が依拠する主たる史料は、豊田町郷土を研究する会が編み、豊田町教育委員会が昭和51年(1976年)3月に刊行した『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』である。これは近世の渡船関係文書を郷土史家が翻刻・整理した資料集であり、高札・帳簿・差村表など性格の異なる一次史料を横断的に参照できる。本稿の年紀・村名・数値は、断りのない限りこの資料と、そこに引かれた原史料に拠る。
助郷の編成を具体的に伝えるのが、寛政4年(1792年)の『天竜川渡船勤方並役助郷定助大助船手伝人足書上帳』である。書上帳とは、村や役所が求めに応じて事実を書き上げて差し出した帳簿であり、当事者による記録という点で史料的な信頼度が高い。この帳簿には、定助船郷・定助人足郷・大助船郷・大助人足郷という助郷の区分と、それぞれに属する村々が列挙されている。助郷が単一の枠ではなく、役の種類と規模によって幾重にも区分されていたことが、ここから読み取れる。
村ごとの負担の重さを数量的に示すのが、嘉永4年(1851年)頃のものとみられる「渡船場築出橋(桟橋)掛役定助船役大助船役差村表」である。差村表とは、どの村にどれだけの役を割り当てるかを一覧にした帳票であり、村高と勤高、およびその割合が村ごとに記されている。この差村表は服部晴代・柿澤佐江子の論文によって紹介されたものであり、本稿の負担分析はこの数値に基づく。差村表の数値は、村々の負担を相対化して比較できる貴重な材料である一方、作成の背景や勤高算定の基準そのものを直接に説明する史料は乏しく、割合の意味を過度に一義的に解することには慎重でありたい。
方法の面では、これらの史料が語る事柄を三つの層に分けて扱う。第一に、高札・書上帳・差村表に明記された年紀・村名・数値は、史料によって確認できる史実として記述する。第二に、負担の軽い村への賃銭支給のように、資料が可能性を述べつつも確証を欠く事柄は推定として示す。第三に、家康朱印状の授与のように、資料が「与えたと伝わる」形で伝える事柄は伝承の層に置く。この区別を保つことで、確度の異なる情報を同じ平面に混ぜ込む誤りを避ける。なお、助郷制度は磐田・豊田一帯の交通史の一環であり、渡船そのものの通史については既存の一般向け記事「天竜川池田の渡船」も参照されたい。
3. 助船制度の起源 ── 寄せ船とあきらせ船
助郷のうち船を出す役、すなわち助船の制度は、いつごろから整えられたのか。その早い時期の証明とされるのが、宝永4年(1707年)5月の天竜川高札である。そこには「往還通行人多キ時ハ寄せ船を出し、人馬荷物等滞りなく相わたすべし」という一条があり、通行人が多いときには寄せ船を出して滞りなく渡すよう命じている2。ここにいう寄せ船こそ、常備の渡船を補うために周辺から差し出される助船にほかならない。高札という公的な掲示にこの一条が掲げられていることは、18世紀初頭には助船の仕組みが制度として認知されていたことを示す。
この寄せ船は、天竜川に固有の工夫ではなく、東海道のもう一つの水上の難所である今切渡船(浜名湖)と軌を一にする。近世交通史の研究書である『近世交通史論』には「今切渡船(浜名湖)と寄せ船制度」の項があり、そこでは後にあきらせ船と称して助船制度が行なわれたと記されている。今切と天竜川という二つの渡船場が、同種の助船制度を並行して発達させていたことがうかがえる。渡船場の助船は、個別の場の臨機の対応ではなく、街道全体の交通行政のなかで整えられた仕組みの一部であった。
助船に課された規律を具体的に伝えるのが、正徳元年(1711年)5月の天竜川高札である。そこには「役船は御定めのごとく懈怠なく、昼夜相勤むべき事。附、往来の旅人に対しかさつな事すべからず、無礼悪口等の事あるべからず。たとえかるき旅人たりといふとも」とある3。役船は定めどおり怠りなく昼夜勤めよ、そして旅人には、たとえ身分の軽い者であっても粗略な振る舞いや無礼・悪口をしてはならない、という趣旨である。助船から出される船が、単に人を渡すだけでなく、旅人への応対の作法まで求められていたことがわかる。渡船場は幕府の交通行政の末端であり、そこに動員される村々の人足もまた、その規律の内に組み込まれていた。
ここで助船制度の起源について、確度の腑分けをしておきたい。宝永4年の高札に寄せ船の条文があること自体は史料で確認できる史実である。しかし、この高札が助船制度の「始まり」を意味するのか、それとも既に行なわれていた慣行を改めて明文化したものにすぎないのかは、この一条だけからは決しがたい。制度がいつ発生したかという問いと、いつ文書に現れるかという問いは別である。本稿の立場は、宝永4年をもって助船制度の成立年とみなすのではなく、遅くとも18世紀初頭には助船が高札に載る公的な制度として機能していた、という限定された事実を確認するにとどめる、というものである。
4. 定助郷と大助郷 ── 二層の負担構造
助郷は、日常的な渡船業務を分担する定助郷(じょうすけごう)と、将軍上洛や大通行など需要が一時的にふくれ上がる際に増員を出す大助郷(おおすけごう)とに、大きく二層に分かれていた。寛政4年(1792年)の書上帳によれば、定助船郷は高瀬船・小船を出す中野町村・国吉村・常光村・禅地村・神増村・平松村・掛下村・寺谷村などの村々からなり、定助人足郷は立野村(長森を含む)・森本村・前野村であった4。船を出す郷と人足を出す郷が別に立てられていた点に、渡船助郷の特徴がよく表れている。大助船郷・大助人足郷には、さらに多くの村が名を連ねていた。
定助と大助を分ける基準は、通行の格と規模である。定助人足郷が実際に出勤したのは、日光宮様、御公家様、御名代、御老中様、御所司代様、御城代様といった、格の高い通行がある時であった。これに加え、急な増水や大風で川越えが不自由なときにも、臨時の船役として出勤したという。すなわち定助郷は、日常の渡船に加えて、一定の格式をもつ通行と、水勢による川支えという二つの非常時に応じる役であった。大助郷は、これをもってしてもなお手が足りない、将軍上洛級の大通行に動員される、いわば第二の予備であったとみてよい。
船を出す郷と人足を出す郷が別に立てられていたことは、渡船助郷の労働が均質でなかったことを物語る。船役に指定された村は、高瀬船や小船といった船と、それを操る漕ぎ手を用意しなければならず、船の維持そのものが負担となる。一方、人足役に指定された村は、身体一つで出役し、荷の上げ下ろしや川支え時の力仕事に従事した。両者は同じ助郷でありながら、村が備えるべきものも、出役の内実も異なっていた。書上帳が船郷と人足郷を書き分けているのは、この負担の質の違いを行政が把握し、村々に応じて役を割り振っていたことの反映とみてよい。
この二層構造の背景には、渡船場に常備された船だけでは需要をまかないきれないという現実があった。天竜川の渡船場には、常時、大番船・早船といった御用船6艘のほか、渡船方が造立した小番船22艘・高瀬船11艘が配備され、日常の通切渡船をまかなっていた。それでも、大通行が集中すれば、この常備の船団だけでは足りない。定助郷が日常と中規模の非常時を、大助郷が最大規模の通行を受けもつという段階的な編成は、需要の変動に対して人足と船を過不足なく動員するための、合理的な工夫であったといえる。
もっとも、この合理性は渡船場の側から見た合理性であって、動員される村々の側から見れば、いつ出役を命じられるか知れない不確実な負担でもあった。定助郷の村は日常の勤めに縛られ、大助郷の村は、めったにないが避けられない大通行のために備えを強いられる。二層の構造は、負担を村々に広く分散させる仕組みであると同時に、渡船場に近い村ほど重い役が集中する仕組みでもあった。次節では、その役の中身を5種に分けて具体的に見ていく。
5. 5種の助郷仕事 ── 役の内実
助郷の仕事は、資料によれば大きく5種に分かれていた。役の内実を一つずつ確認しておくと、助郷の負担が単なる漕ぎ手の提供にとどまらず、渡船場の運営を多方面から支える労働であったことがわかる。
第一は「手伝人足」で、渡船場に着岸する船の安全な通行や、格式の高い通行に出勤し、荷物の積み下ろしなどを手伝う仕事である。第二は「河原之内野道人足役」で、同じく重要な通行に出勤するとともに、急な増水や大風で徒歩渡り(越立)が不自由なときにも、臨時の船役として出動した。第三は「渡船場築出役」で、旅人が安全に渡船場から乗船したり、舟から桟橋(さん橋)へ降りたりできるよう、桟橋を築く仕事であった。前二者が人と荷を扱う役であるのに対し、この築出役は渡船場の施設そのものを整える普請の役である点に注意したい。
第四は「簑火(みのび)人足」で、池田村地方から19人が動員された。夜になっても渡船に支障が出ないよう、渡船場に篝火(かがりび)を焚いて照明を確保し、渡し舟を船着場に容易に寄せられるよう手伝う役目である。渡船が昼夜を分かたず勤められたことは正徳元年の高札にも見えたが、その夜間の渡しを実際に可能にしていたのが、この簑火人足の火であった。第五は「薦鋪(こもしき)人足」で、将軍への献上物である茶壺道中の際に、渡船場に薦(こも)を敷いて荷物が汚れないようにする仕事であった。将軍の権威をもって運ばれる茶に対しては、渡船場もまた細やかな配慮を求められたのである。
この5種のなかで、簑火人足と薦鋪人足は、他の役とはやや性格を異にする。簑火人足は夜間の渡しを支える照明の役であり、渡船が昼夜を分かたず勤められたという建前を、火の管理という具体的な労働によって裏づけていた。池田村地方から19人という具体的な人数が資料に残ることは、この役が慣行として定着し、村ごとの割り当てが定まっていたことを示している。薦鋪人足は、将軍が飲む茶を運ぶ茶壺道中という、格別に権威づけられた通行に際して、渡船場に薦を敷いて荷を養生する役であった。渡すのは同じ荷でも、それが将軍の献上物であれば、渡船場は普段以上の配慮を尽くさねばならない。助郷の負担が、通行の格式に応じて質を変えていたことが、この二役からうかがえる。
これら5種を通覧すると、助郷が担ったのは、渡しそのもの、荷の扱い、施設の普請、夜間の照明、そして格式ある荷への養生という、渡船場運営の広範な領域であったことがわかる。渡船を専業とする池田村・船越一色村が中核を担い、その周囲を助郷の村々がこれら多様な役で取り巻く。渡船場は、そうした重層的な労働の集積の上に、はじめて日々の往来を支えることができた。以下に、5種の役を対象と内容の面から一覧に整理しておく。
| 役の名称 | 主な対象 | 仕事の内容 | 動員・特徴 |
|---|---|---|---|
| 手伝人足 | 着岸船・格式ある通行 | 船の安全な通行、荷物の積み下ろしの手伝い。 | 格の高い通行時に出勤する日常補助の役。 |
| 河原之内野道人足役 | 重要な通行・川支え時 | 重要通行への出勤に加え、越立が不自由なときの臨時船役。 | 増水・大風など非常時の予備を兼ねる。 |
| 渡船場築出役 | 渡船場の施設 | 旅人が安全に乗降できるよう桟橋(さん橋)を築く。 | 人・荷ではなく普請を担う役。 |
| 簑火人足 | 夜間の渡船 | 篝火を焚いて照明を確保し、舟を船着場へ寄せる手伝い。 | 池田村地方から19人を動員。 |
| 薦鋪人足 | 茶壺道中 | 渡船場に薦を敷き、献上の茶が汚れぬよう養生する。 | 将軍献上物に対する特別の配慮。 |
6. 負担の重さと村ごとの格差
助郷の負担は、決して均等ではなかった。嘉永4年(1851年)頃とみられる「渡船場築出橋(桟橋)掛役定助船役大助船役差村表」を見ると、村高に対する勤高の割合には、村ごとに大きな差がある5。ここにいう村高とは、その村に課された年貢の基準となる石高であり、村の経済的な規模を示す。勤高とは、助郷役として実際に負担すべき分を高に換算したものであり、両者の割合が、村がその規模に対してどれほど重い助郷役を課されていたかを表す。
具体的な数値を挙げると、茅場村は村高176石のうち勤高5石にとどまり、割合は0.2にすぎない。これに対して駒場村は村高604石のうち勤高338石で割合5.5、向新田は村高98石のうち勤高91石で割合9.2にも達する。向新田は、村の規模がさほど大きくないにもかかわらず、村高にほぼ匹敵する勤高を課されていたことになる。村の規模と実際の負担の重さは、必ずしも比例していなかった。全22村の合計では、村高4,192石に対して勤高2,394石、平均で5割7分もの高い割合が助郷役として課せられていた。村高の半ば以上に相当する役が、助郷として村々にのしかかっていたのである。
この格差は何に由来するのか。資料は、負担の重い村について、渡船場と近接するがゆえに勤役においてとりわけ重い位置を占めていたと考えられる、と述べている。渡船場に近ければ、人足も船もすぐに差し出せるだけに、日常の役が集中する。逆に、負担の軽い村については、その代償として一定の賃銭が支給されていたとみられる、とされる。ただしこの点について資料は、詳しい史料が残っていないため不明な点も多い、と明記している。したがって、軽負担村への賃銭支給は、可能性として述べられた推定であって、確認された史実ではない。本稿もこれを推定の層にとどめ、支給の有無・額・方式を断定することはしない。
ここで差村表という史料の性格にも触れておきたい。この表は嘉永4年頃、すなわち幕末に近い時期の一時点の割り当てを写したものであり、助郷の負担配分が近世を通じて一定であったことを保証するわけではない。負担の割り当ては、村の盛衰や渡船場の需要、あるいは村々からの訴えに応じて、時期ごとに改められた可能性がある。したがって、平均5割7分という数値も、幕末のある時点における負担の水準として読むのが適切であり、これを近世二百数十年の全期間に一律に当てはめることには慎重でありたい。数値の確かさと、その数値が代表する時間の幅とは、別に見積もる必要がある。
差村表の数値が示すのは、助郷という制度が、村々の間に著しく不均等な負担を生んでいたという事実である。渡船場に近い村は日常の役に追われ、割合9.2という向新田のような村は、その存立の基盤に食い込むほどの役を負った。街道の交通を支える負担が、天竜川沿いの一部の村々に極端に集中していたこと──これが差村表から読み取れる、最も確かな像である。次節では、この負担が、大通行の集中する局面で村々に何を及ぼしたのかを見る。
7. 街道の負担が村々に及ぼしたもの
助郷の負担が最も重くのしかかったのは、大通行が集中する局面である。将軍の上洛は、江戸幕府草創期と幕末に集中しており、とりわけ文久4年(1864年)正月からの上洛のように大通行が重なる年には、助人足の負担はいっそう重くなった。日常の役に加えて、めったにない大通行の増員が突如として求められるのだから、村々の生活は、街道の政治的な動きに直接に揺さぶられた。渡船助郷の負担は、村の内部の事情ではなく、幕府と大名の往来という、村の外で決まる要因によって左右されたのである。
その負担の実態を、資料は具体的に伝える。農民は、家業に差し支えがあっても、極めて低廉な賃銭で強制的に夫役を課された。負担のあまりの重さに、天竜川を渡る時の渡船場の混雑ぶりは想像に余りあるものであった、と資料は記す。あまりに重い課役を課された村々の農民が、中泉代官所へ訴え出たこともあったといい、15歳から60歳までの男が、昼夜の別なく、約1か月もの間、同一賃銭で助人足に勤めさせられたこともあったという。働き盛りの男手を一か月にわたって拘束される負担は、農作業の時季と重なれば、村の生産そのものを脅かしたであろう。あまりの課役の厳しさに、宿駅から逃げ出す者さえあったといわれる、と資料は結んでいる。
ここで史料の性格に一言しておきたい。中泉代官所への訴えや、宿駅からの逃亡といった事柄は、「あったといい」「といわれる」という伝聞の形で資料に記されている。これらは村々の記憶として伝えられてきた事柄であり、個別の訴訟文書や逃散の記録によって一件ごとに裏づけられているわけではない。したがって本稿は、これらを助郷負担の過重さを物語る伝承として受けとめつつ、その一つ一つの事実性については、なお個別の史料による確認を要する未確認の事柄として区別しておく。ここで「未確認」というのは、そのような事実がなかったという意味ではなく、管見の限りそれを裏づける一次史料に突き当たっていない、という状態を指す。
とはいえ、たとえ個別の逃散を一件ごとに立証できなくとも、差村表が示す平均5割7分という勤高割合と、大通行時の増員という制度の仕組みそのものが、村々に構造的な過重負担を生じさせたことは、史料から十分に導ける。過酷な夫役の伝承は、この構造的な負担の帰結として、無理なく理解できる。街道の交通という、村の外で生まれた需要が、渡船助郷という制度を通じて、天竜川沿いの村々の労働と生活の内側にまで及んでいた。渡船場のにぎわいの裏に、日光宮様の通行から将軍の上洛まで、格式の高い通行のたびに出役を命じられた助郷村々の労苦があったのである。
渡船助郷の負担が村々を圧した背景には、この地の地理そのものがある。天竜川という大河が東海道を分かつがゆえに、渡しは避けて通れず、渡しがある以上、それを支える人手も避けて通れない。橋を架けることが容易でなかった時代、大河は交通の結節点であると同時に、沿岸の村々に恒常的な役を課す源泉でもあった。豊田・池田一帯の村々が助郷を負ったのは、それらが天竜川の渡船場を間近に控える位置にあったからであり、地理的な宿命というべき負担がそこにはあった。街道が通る便利さと、その街道を支える役の重さとは、同じ地理の表と裏であった。
この負担の構造は、渡船場の運営に関わる別の局面とも通じている。大通行が渡船場と助郷にもたらした繁栄と負担の両面、あるいは大河が氾濫し常設の渡船が使えなくなった際の臨時の対応など、渡船をめぐる村々の営みは幾筋にも分かれる。天竜川に臨時の橋が架けられた大通行の記憶については、本論考シリーズ第52号「天竜川に架けられた船橋」で扱った。船橋の架設もまた、大通行という村の外からの要請が、地域に一時的な大動員を強いた事例であり、助郷負担と同じ構造の上にある。
8. 結論 ── 渡し場の記憶を村々の記憶へ
本稿は、池田の渡しの渡船を陰で支えた助郷の制度を、宝永4年・正徳元年の高札、寛政4年の書上帳、嘉永4年頃の差村表という近世文書に即して整理してきた。得られた像は次のとおりである。池田村・船越一色村の渡船専業の特権は、周辺村々の助郷役と表裏一体の制度であった。助郷は日常を担う定助郷と大通行に備える大助郷の二層に分かれ、その役は手伝人足・野道人足役・築出役・簑火人足・薦鋪人足の5種にわたって、渡船場運営の広い領域を覆っていた。そして差村表が示すとおり、その負担は村々の間で著しく不均等であり、全22村の平均勤高割合は5割7分に達していた。
この検討を通じて、本稿は確度の異なる情報を区別することに努めた。高札・書上帳・差村表に明記された年紀・村名・数値は史実として扱い、軽負担村への賃銭支給は資料自身が不明とする推定にとどめ、家康朱印状の授与や、代官所への訴え・宿駅からの逃散は、伝わる形に応じて伝承として受けとめた。とりわけ後者については、負担の過重さを物語る貴重な伝えでありながら、個別の事実性はなお未確認であることを明示した。数値で確認できる構造的な過重負担と、伝承が語る過酷な労働の記憶とは、互いを補い合いながら、この地の助郷の実像を形づくっている。
助郷という主題が磐田の郷土史に対してもつ含意は、渡し場の記憶を、渡船を専業とした池田村だけの記憶に閉じ込めないという点にある。池田の渡しといえば、家康の朱印状や大名との特約、船賃の分配といった、渡船場そのものの華やかな側面に目が向きがちである。しかし、その渡船場のにぎわいは、天竜川沿いの二十あまりの村々が、村高の半ばを超える役を負い、大通行のたびに男手を差し出すことによって、はじめて成り立っていた。渡し場の記憶は、池田村だけでなく、周辺の村々の負担の記憶でもある。
最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、軽負担村への賃銭支給の実態は、なお不明のままである。近世の村方文書や代官所の記録を博捜することで、推定を史実へ押し上げる余地がある。第二に、代官所への訴えや逃散の具体的な事例は、訴訟関係の文書によって裏づけられれば、未確認の伝承を確かな史実に変えうる。第三に、池田の渡しの助郷を、東海道の宿駅助郷や今切渡船の助船と比較することで、渡船助郷の特質をより精確に位置づけられるだろう。これらはいずれも、確度の層を保ったまま史料を積み上げていく作業に属する。渡し場を支えた村々の負担を、伝承の余韻としてだけでなく、史料に裏づけられた記録として書き留めていくこと──その地道な手続きの先にこそ、街道の負担が村々に及ぼしたものの全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 天正元年(1573年)、徳川家康が池田村・船越一色村に与えたと伝わる朱印状による。今切渡船(浜名湖)と同様に渡船以外の諸役を免除する内容とされる。授与そのものは資料が「与えた」と伝える形で記す事柄である。↩
- 宝永4年(1707年)5月の天竜川高札に「往還通行人多キ時ハ寄せ船を出し、人馬荷物等滞りなく相わたすべし」とある。助船(寄せ船)制度の早い時期の証明とされる。↩
- 正徳元年(1711年)5月の天竜川高札に「役船は御定めのごとく懈怠なく、昼夜相勤むべき事。附、往来の旅人に対しかさつな事すべからず、無礼悪口等の事あるべからず。たとえかるき旅人たりといふとも」とある。↩
- 寛政4年(1792年)『天竜川渡船勤方並役助郷定助大助船手伝人足書上帳』による。定助船郷・定助人足郷・大助船郷・大助人足郷の区分と所属村を記す。↩
- 嘉永4年(1851年)頃とみられる「渡船場築出橋(桟橋)掛役定助船役大助船役差村表」による。村高・勤高・割合の数値は服部晴代・柿澤佐江子論文が紹介する同表に拠る。↩
付記:本稿は一般読者向け資料記事 t047「渡船を支えた助郷たち」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、高札・書上帳・差村表の記載を史実、軽負担村への賃銭支給を推定、朱印状の授与および訴え・逃散の伝えを伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』豊田町教育委員会発行、昭和51年(1976年3月)。
- 服部晴代・柿澤佐江子論文(「渡船場築出橋(桟橋)掛役定助船役大助船役差村表」の出典)。
- 『天竜川渡船勤方並役助郷定助大助船手伝人足書上帳』寛政4年(1792年)。
- 天竜川高札(宝永4年〔1707年〕5月、寄せ船に関する条)。
- 天竜川高札(正徳元年〔1711年〕5月、役船の心得に関する条)。
- 徳川家康朱印状(天正元年〔1573年〕、池田村・船越一色村宛と伝わる)。
- 『近世交通史論』(「今切渡船(浜名湖)と寄せ船制度」の項)。
- 児玉幸多『近世宿駅制度の研究』(助郷制度一般の背景として参照)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(近世の交通・村方に関する章)。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 磐田物語 t047「渡船を支えた助郷たち ── 定助郷・大助郷と助船・助人足制度」 https://iwata-monogatari.net/t047 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第19号「池田の渡し ── 天竜川をわたる東海道」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/019/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第52号「天竜川に架けられた船橋」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/052/ (最終閲覧:2026年7月25日)。