失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 掛塚の百万遍念仏

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第113号(掛塚湊研究 二)

掛塚の百万遍念仏 ── 数珠繰りにみる湊町の信仰

大数珠がむすぶ供養と共同体

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋(掛塚)

要旨

掛塚に伝わる百万遍念仏は、参加者が輪になって一連の大きな数珠を繰りながら念仏を唱える集団の行事である。本稿は、NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」に残る短い記録を唯一の直接的手がかりとし、そこに確認できる「掛塚」「寺」「念仏」「百八個」という要素を出発点として、百万遍念仏という民俗行事の所作・数の意味・供養の性格・共同体的基盤の四点を、史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に腑分けして読み直す。数珠繰りの作法や百万遍念仏の全国的な系譜は民俗行事として広く知られる一方、掛塚における開始年代・所属寺院・現況を直接記す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。この「未確認」と「記載なし」の区別を保ちつつ、本稿は天竜川河口の湊町という掛塚の地理を背景に、大数珠がむすんできた供養と共同体のかたちを記述する立場をとる。あわせて既刊の念仏行事論考との比較を通じ、掛塚の行事が数珠繰り型に属することの意味を位置づける。

キーワード:百万遍念仏/数珠繰り/大数珠/掛塚湊/念仏講/供養/融通念仏

1. 問題設定 ── 短い記録をどう読むか

掛塚の百万遍念仏について、まとまった記述はきわめて乏しい。筆者が直接の手がかりとしうるのは、NPO磐田まちづくりネットワークが編んだ「磐田お宝見聞帳」の一項目1であり、そこには「掛塚」「寺」「念仏」「百八個」といったわずかな語が記されるにとどまる。年代も、行事を担った寺院の名も、現在も続けられているのかどうかも、この記録だけからは確定できない。素材となる一般向けの読み物「掛塚地区での百万遍念仏に残る信仰と文化の記憶」も、まさにこの資料の薄さを前提に、確認できる要素と今後の確認点とを分けて示す構成をとっていた。

短い記録を前にしたとき、研究者がとりうる態度は二つある。一つは、資料が薄いことを理由に主題そのものを措くことである。もう一つは、記録された数語を出発点とし、その語が属する民俗行事の一般的な作法・意味・背景を参照しながら、確度の層を明示して輪郭を描くことである。本稿は後者をとる。ただしその際、掛塚という土地に固有の事実として断じてよいことと、百万遍念仏一般について言いうることとを、決して混同しない。この線引きこそが、薄い資料を扱う論考の生命線である。

この姿勢をとる理由は、地域史の記述にとって、正解を一つ急いで確定することよりも、いま何がどこまで言えるのかを読者が自分で判断できる形に整えることのほうが、はるかに価値をもつと考えるからである。断定を急げば、一般論を掛塚固有の史実へと横滑りさせ、あるいは価値ある伝承を根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥りやすい。薄い記録ほど、この二つの誤りは起こりやすい。以下ではまず素材の内実を点検し、続いて数珠繰りの所作・数の意味・供養の性格・共同体的基盤を順に検討し、類型比較と起源の腑分けを経て結論に至る。

本稿では、記述の確からしさを四つの層に分けて扱う。第一に史実、すなわち史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界や民俗研究で広く共有されているが掛塚の事例について一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。掛塚の百万遍念仏について「お宝見聞帳」に記録された数語は、地域の記憶を反映した記述の入口であって、その一語一語がただちに史実の重みをもつわけではない。四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。

史実 史料で確認 通説 民俗研究で共有 推定 根拠あり未確定 伝承 地域で語り継ぐ 確度の四段階 ── 混同しないための弁別 薄い記録ほど、一般論を固有の史実へ横滑りさせる誤りが起きやすい。
図1 確度の四段階。掛塚固有の事実として断じうることと、百万遍念仏一般について言いうることとを、語の水準で分けることが本稿の前提となる。

2. 素材と資料的限界 ── お宝見聞帳が伝えること

まず、直接の手がかりである「磐田お宝見聞帳」の記録が、何を伝え何を伝えないのかを確定しておく。この見聞帳は、地域の人々が身近な文化財や言い伝えを持ち寄って編んだ市民参加型の記録であり、掛塚の百万遍念仏に関する項目もその一つである。そこから確実に読み取れるのは、掛塚という場所、寺という施設の関与、念仏という行為、そして「百八個」という数量の四点である。逆に、この記録が語らないことも同じくらい重要である。行事がいつ始まったのか、どの寺が担ったのか、いまも行われているのかについて、見聞帳は明示しない。

ここで方法上の区別を立てておきたい。掛塚の百万遍念仏の開始年代や所属寺院を直接記す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる(=記載なし)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、それを裏づける一次史料に突き当たっていない(=未確認)」という状態である。市民が編んだ見聞帳は、地域に伝わる記憶を掬い上げた貴重な二次的記録であるが、行事の来歴を年代付きで証する性格の史料ではない。掛塚の寺院明細帳、檀家や講の記録、あるいは近世の村方文書に手がかりが眠っている可能性は残されており、それらへの博捜は今後の課題として開かれている。

もう一点、市民参加型記録の性格にも触れておく。こうした記録は、地域の人々が「これは残すべきだ」と感じた記憶を選び取って書き留めたものであり、その選択そのものが、掛塚において百万遍念仏が語り継ぐに値する行事と受け止められてきたことを示す。記録が薄いことは、行事が軽んじられていたことを意味しない。むしろ、正式な由緒書や芸能台本を残さずとも、身体の所作と講のつながりによって世代から世代へ手渡されてきた民俗行事の伝わり方そのものを、この薄さは反映しているとも読める。文字に多くを残さない伝承のかたちがあることを、資料の乏しさから逆に読み取っておきたい。

したがって本稿は、「お宝見聞帳」の記録を、掛塚に百万遍念仏という行事が確かに存在した(あるいは存在する)ことの証言として受け止めたうえで、その具体的な作法・意味・背景については、百万遍念仏という民俗行事一般の知見を参照して補うという手続きをとる。以下で述べる数珠繰りの所作や数の意味は、掛塚の現場を筆者が直接記録したものではなく、この行事の型に照らした一般的理解であることを、あらかじめ断っておく。

お宝見聞帳が伝えること・伝えないこと 確認できる要素 掛塚(場所) 寺(施設の関与) 念仏(行為) 百八個(数量) 保留すべき要素 開始年代(未確認) 所属寺院名(未確認) 現況・継承状況 講の範囲・順路
図2 素材の腑分け。左は記録から確認できる四要素、右は本稿が未確認として保留する事項。両者を分けることが、薄い資料を扱う出発点となる。

3. 数珠繰りの所作 ── 百万遍念仏とは何か

百万遍念仏とは、参加者が輪になって座り、多数の珠を長い紐に連ねた一連の大きな数珠を、膝の前で手繰り送りながら、そろって念仏を唱える行事である2。この、数珠を回し繰る所作を数珠繰り(じゅずくり)または百万遍と呼ぶ。念仏の一句ごとに、あるいは房や親珠と呼ばれる目印の珠が手元に回ってくるたびに礼拝し、輪の全員で繰り返すことによって、称える念仏の総数を積み上げていく。個人が一人で百万遍を称えるには膨大な時間を要するが、大勢が輪をなして分担すれば、短い時間のうちに多数の念仏を積むことができる。この「分担して数を積む」という発想が、行事の中核にある。

数珠繰りの作法には、地域によってさまざまな変異がある。座って行う場合もあれば、立って大数珠を担ぐように回す場合もある。大きな親珠が手元に来た者が数珠を押しいただいて礼拝する型、鉦(かね)や太鼓の拍子に合わせて繰る型など、土地ごとに細部は異なる。掛塚の百万遍念仏がこのうちどの型をとっていたのかは、「お宝見聞帳」の記録からは判別できず、本稿の範囲では未確認である。ただし、輪をなして大数珠を繰るという基本の骨格は、百万遍念仏と呼ばれる行事に広く共通するものであり、掛塚のそれも大枠ではこの型に属したと考えてよい。

この所作が民俗行事として広く分布した背景には、平安末期に良忍が説いたとされる融通念仏の思想がある。一人の念仏が万人の念仏に通じ、万人の念仏が一人に融通するという考え方は、念仏を個人の営みから共同の営みへと押し広げた。数珠繰りは、まさにこの思想を身体の所作に翻訳したものと解しうる。輪の一点で繰られた珠が全員の手を巡り、称えられた念仏が輪の全体で一つの功徳へと束ねられていく――この情景は、融通念仏の理念を目に見える形で演じている。掛塚の行事をこの系譜のなかに置くことは、断定ではなく、行事の型からの推定としてであれば許されるだろう。

数珠繰りという所作が、ほかの念仏行事と大きく異なるのは、それが芸能ではなく作法である点にある。後述する遠州大念仏のように、太鼓や鉦を打ち鳴らし踊りを伴う念仏は、見せる芸能の性格を強くもつ。これに対し数珠繰りは、輪の内側で黙々と珠を送り念仏を積む、内向きで静かな行である。観客を前提とせず、参加する者自身が功徳を積むための身体の反復。掛塚の百万遍念仏を理解するには、まずこの「見せる念仏」と「積む念仏」の違いを押さえておく必要がある。

数珠繰りにおいては、大数珠という道具そのものにも目を向けておきたい。輪をなす人々の手を巡る一連の数珠は、単に念仏の数をかぞえるための道具ではなく、行事のあいだ参加者の全員を物理的に一つへ結びつける媒体でもある。同じ紐に連なった珠が、次々と手から手へ渡っていくとき、その珠に触れる手は輪の全体で一続きになる。個々に念仏を称えているようでいて、大数珠を介して身体はつながっている。芸能的念仏が音と動きによって場を一つにするのに対し、数珠繰りは一連の珠という物を共有することによって輪を一つにする。掛塚の記録が「百八個」という珠の数を書き留めたことは、この行事において数珠という道具が中心的な位置を占めていたことの、間接的な証しとも読める。

数珠繰り ── 輪で大数珠を繰り、念仏を積む 親珠 大数珠 を手繰り送る
図3 数珠繰りの模式図。参加者が輪をなし、親珠を目印に大数珠を一方向へ繰り送りながら念仏を積む。芸能ではなく、参加者自身が功徳を積む静かな作法である。

4. 百八という数 ── 数の意味を腑分けする

「お宝見聞帳」が記録した「百八個」という数量は、掛塚の百万遍念仏を読むうえで見過ごせない手がかりである。百八という数は、仏教において人の煩悩の数を表す象徴的な数として広く知られ、正式な念仏や礼拝に用いる数珠は、この百八の珠を基本の構成とする3。除夜の鐘を百八回撞くのも同じ観念に基づく。記録された「百八個」が、掛塚で用いられた数珠の珠の数を指すのであれば、それはこの正式な数珠の構成を掛塚の行事が保っていたことを示す、確かな手がかりとなる。

ここで数の水準を腑分けしておきたい。第一に、百八が煩悩の数を表す象徴数であることは、仏教の一般的観念として通説の層に属する。第二に、掛塚の数珠が百八個の珠から成っていたことは、「お宝見聞帳」の記録に依拠する限りでの史実的手がかりである。ただし第三に、「百八個」が数珠の珠の数を指すのか、それとも別の何か(たとえば行事に用いる道具や供物の数)を指すのかについては、記録が簡略であるため、なお推定の余地が残る。本稿は、念仏行事という文脈から、これを数珠の珠の数と解するのが最も自然だと考えるが、その解釈が唯一のものだと断ずるところまでは踏み込まない。

百八個という数と「百万遍」という名称との関係も、腑分けを要する。百万遍とは、文字どおりには念仏を百万回称えることを指す。百八個の珠を一巡させて称える念仏は、一巡ごとに百八回を数える。これを何巡も、大勢で分担して繰り返すことによって、称える念仏の総数が百万という象徴的な大数へと積み上げられていく。すなわち百八個は一回性の礼拝の単位であり、百万遍はその反復の到達点である。掛塚の行事において、百八個の数珠と百万遍という名称が同居していたとすれば、それは単位と総和という二つの数の観念が一つの行事のなかに畳み込まれていたことを意味する。

もっとも、百万という数が実測されていたと考える必要はない。民俗行事における大数は、しばしば実数ではなく「限りなく多い」ことを示す象徴として機能する。百万遍という名は、念仏の功徳が計り知れないほど積まれることへの願いを込めた表現であって、正確に百万回を数え上げることが目的だったわけではないだろう。数を積むという所作の反復そのものに、供養や祈願の実質が宿る。掛塚の百八個も、その象徴の体系のなかに置かれた具体的な単位として読むのが穏当である。

数の象徴性にもう少し立ち入っておく。百八という数は、除夜の鐘や数珠の珠数を通じて日本人の身体に深く馴染んだ数であり、その一巡が煩悩を一つずつ払い落としていく所作として観念されてきた。数珠を一巡繰るあいだに、称える者は自らの内なる百八の迷いに向き合い、それを念仏の功徳によって鎮めていく。そこへ「百万遍」という総和の観念が重なると、行事は個人の内省を超えて、共同体全体の願いを積み上げる規模へと開かれる。単位としての百八が個の救済に対応し、総和としての百万が共同の祈願に対応するという、この二重の構造こそが、数珠繰りという行事の宗教的な奥行きを支えている。掛塚の記録がとどめた百八個という数は、その奥行きの入口に置かれた一つの標である。

単位と総和 ── 百八個から百万遍へ 百八個 煩悩の数=単位 輪で分担 反復・累積 百万遍 象徴的な総和 百万は実測値ではなく、功徳が計り知れず積まれることを願う象徴の数である。
図4 数の構造。百八個は一巡の礼拝の単位、百万遍はその反復と分担が到達する象徴的な総和である。掛塚の記録はこの単位の側を伝える。

5. 供養としての念仏 ── 湊町掛塚という場

百万遍念仏は、何のために積まれたのか。数珠繰りの目的は土地によって幅があるが、大別すれば先祖供養、水難や疫病で亡くなった者の供養、そして疫病除け・虫送りといった災厄の祓いに整理できる4。念仏を大量に積んでその功徳を故人や共同体へ振り向けるという発想は、供養と祈願の両面をあわせもつ。掛塚の百万遍念仏が具体的にどの目的を主としたかは、「お宝見聞帳」の記録からは特定できず未確認だが、掛塚という土地の性格を重ねると、供養の念仏が根づく素地は十分にあったと考えられる。

掛塚は、天竜川がまさに海へ注ぐ河口に開けた湊町である。近世には東海屈指の川湊として、木材や塩、その他の物資を積み出す廻船の拠点として栄えた。川と海が出会うこの地形は、富をもたらすと同時に、水の危険とも隣り合わせであった。天竜川はしばしば氾濫し、河口の湊は海難と無縁ではいられない。水とともに生きる町には、水に呑まれた者への供養や、水の安全を願う祈りが、暮らしの底に沈殿していく。掛塚湊の信仰については、本論考シリーズの貴船神社と水神信仰の論考(第54号)で、海の安全を祈る水神祭祀を扱った。百万遍念仏もまた、この水の町の信仰の層の一つとして位置づけられる可能性がある。

湊町の信仰を考えるうえで見落とせないのは、そこが人と物の集散する場だったことである。廻船で結ばれた掛塚には、他所からの人の出入りが絶えず、遠隔地の信仰や行事が持ち込まれる回路が開かれていた。念仏行事が各地へ広まった経路の一つに、こうした水運による人の移動があったことは、民俗研究でしばしば指摘される。掛塚の百万遍念仏がいつ、どの経路で伝わったかは未確認だが、湊町という土地の開かれた性格が、外来の念仏行事を受け入れ根づかせる母体となった可能性は、推定として述べておいてよい。

供養の念仏が湊町に根づくもう一つの理由は、共同体の側にある。水難のように、共同体の誰の身にも起こりうる死は、遺族だけでなく町全体で悼み鎮める必要をもった。個人の家の仏事にとどまらず、輪をなして大勢で念仏を積む百万遍の形式は、こうした共同の悼みの器としてよく適う。掛塚の百万遍念仏を、単なる信心の行事としてではなく、水とともに生きる町が、失われた命と自らの安全とを引き受けるための共同の営みとして読むとき、この行事が湊町に伝わったことの意味が、いっそう立体的に見えてくる。

湊町掛塚 ── 水とともに生きる町の供養 天竜川 遠州灘 掛塚湊 川湊・廻船 水難の供養 共同の悼み 外来の念仏 水運で伝播(推定) 富と危険が隣り合う河口の町に、供養と祈願の念仏が根づく素地があった。
図5 湊町の地理と信仰。天竜川河口の川湊・掛塚は、水の富と危険が隣り合う場であり、供養の念仏が根づく素地をもった。伝播経路は推定である。

6. 共同体の行事として ── 念仏講と類型比較

百万遍念仏を実際に担ったのは、念仏講と呼ばれる地域の集まりであったと考えられる。講とは、信仰や行事を共同で維持するために結ばれた住民の組織であり、道具の管理、日取りの決定、参加者の招集などを担った。大きな数珠を保管し、毎年あるいは特定の年忌や縁日に人々を輪へ集めるには、こうした継続的な組織が不可欠である。掛塚の百万遍念仏に念仏講が伴っていたかどうかは記録上未確認だが、数珠繰りという行事の性格上、それを支える講的な組織が存在したと考えるのが自然である。「お宝見聞帳」が記す「寺」の関与も、講と寺院とが結びついて行事を維持した一般的なあり方に照らせば理解しやすい。

掛塚の百万遍念仏の輪郭を、より鮮明にするために、本論考シリーズがこれまで扱ってきた念仏行事と比較しておきたい。念仏を核とする民俗行事は磐田周辺にも複数伝わるが、その形式は一様ではない。加茂大念仏の論考(第59号)で扱った盆の念仏行事、豊岡の遠州大念仏の論考(第72号)で扱った複数集落にまたがる盆の念仏は、いずれも太鼓や鉦を打ち、踊りや囃子を伴う、いわば動的で芸能的な念仏である。これに対し掛塚の百万遍念仏は、輪の内で数珠を繰る静的で作法的な念仏であり、同じ「念仏行事」の語で括られながら、身体のありようは対照的である。

この対照は、念仏行事を一枚岩とみる見方を退ける。次の表は、三つの念仏行事を形式・所作・主たる目的・担い手の観点から並べ、掛塚の百万遍念仏が数珠繰り型に属することを可視化したものである。芸能的念仏と数珠繰り念仏は、優劣の関係にあるのではなく、念仏という同じ信仰が異なる身体表現へと分化した並行の形態である。

表1 念仏行事の類型比較 ── 掛塚の百万遍念仏を既刊論考の事例に照らす
行事形式の型主な所作主たる目的担い手(想定)
掛塚の百万遍念仏(本稿)数珠繰り型(静的・作法的)輪で大数珠を繰り念仏を積む供養・祈願(数の功徳)念仏講と寺院(未確認を含む)
加茂大念仏(第59号)芸能的念仏(盆の行事)太鼓・鉦を打ち念仏を唱える盆の先祖供養集落の保存組織
豊岡の遠州大念仏(第72号)芸能的念仏(集落横断)太鼓・鉦・踊りを伴う念仏盆の供養・新盆回向複数集落の連合

この比較から浮かび上がるのは、掛塚の百万遍念仏が、磐田周辺の念仏行事のなかでやや特異な位置を占めるという事実である5。遠州大念仏の系統が太鼓踊りを核とする芸能的念仏であるのに対し、数珠繰りは芸能化の方向へ進まず、作法としての静けさを保った。この違いは、行事の伝わった経路や、それを受け入れた共同体の性格の差を反映している可能性がある。湊町という開かれた場が、盆の芸能とは別系統の、数珠繰りという作法的念仏を選び取り根づかせたとすれば、その選択そのものが掛塚の信仰の個性を語っている。もっとも、この解釈は比較から導かれる推論であって、掛塚が数珠繰りを選んだ理由を直接記す史料があるわけではないことは、重ねて断っておく。

念仏講という担い手に注目することは、行事の継承という問題にも直結する。芸能的念仏が太鼓や踊りの技を伝える必要をもつのに対し、数珠繰りは所作が比較的簡素で、誰もが輪に加わりうる。この参入のしやすさは、講の裾野を広く保つうえで有利に働いたはずである。一方で、大数珠という道具の保管と、輪を招集する組織とが失われれば、行事は容易に途絶えうる。掛塚の百万遍念仏の現況が未確認であることは、この継承の脆さと無縁ではないだろう。行事が現に続いているのか、記憶のなかに退いたのかを確かめることは、今後の現地調査に委ねられる。

念仏行事の分化 ── 二つの身体表現 念仏の信仰 功徳を積み供養する 芸能的念仏 太鼓・鉦・踊り/加茂・遠州大念仏 数珠繰り念仏 大数珠を繰る作法/掛塚の百万遍
図6 念仏行事の分化。同じ念仏の信仰が、太鼓踊りを核とする芸能的念仏と、大数珠を繰る数珠繰り念仏という二つの身体表現へ分かれる。掛塚は後者に属する。

7. 起源と年代 ── 史実と伝承の書き分け

掛塚の百万遍念仏はいつ始まったのか。この問いに、本稿は年代を答えることができない。「お宝見聞帳」の記録は年代を伝えず、開始を記す一次史料も本稿の範囲では未確認である。ここで重要なのは、答えられないことを率直に認めたうえで、なお何が言えるのかを、確度の層を分けて示すことである。掛塚固有の開始年代は未確認としながら、百万遍念仏という行事一般の歴史的背景については、通説として述べうる範囲がある。両者を混同せず並べておく。

百万遍念仏という呼称と行事の背景には、京都の知恩寺にまつわる由来が広く知られる。伝えによれば、鎌倉時代後期、疫病の流行に際して念仏を大量に修したことが、この寺が百萬遍の名を負う起こりとされる。これは掛塚の行事の起源ではなく、百万遍念仏という営みが全国に広まる淵源として語られる通説的な由来である。掛塚の百万遍念仏を、この全国的な念仏行事の一つの地方的現れとして位置づけることはできるが、知恩寺の由来をそのまま掛塚の起源へ結びつけることは、層を越えた断定であり慎まなければならない。

では掛塚の年代について、どこまで推し量れるか。数珠繰りが供養の作法として各地の村や町に定着していくのは、おおむね近世を通じてのことと民俗研究では考えられている。掛塚が川湊として栄え、人と物の往来が盛んだった近世に、外来の念仏行事を受け入れ根づかせる条件が整っていたことは、前章までに述べた。これらを重ねると、掛塚の百万遍念仏もまた近世のいずれかの時期に始まった可能性が高いと推定することはできる。ただしこれは状況からの推論であって、開始年を特定する史料的裏づけをもつものではない。「近世に始まったと推定される」と「何年に始まった」との間には、埋めがたい距離がある。

伝承の層についても一言しておく。地域には、行事の由来を語る言い伝えが伴うことが多い。疫病や水難を機に念仏が始められたといった起源譚は、数珠繰りの行事にしばしば付随する。掛塚にそうした由来譚が伝わっていたかは、「お宝見聞帳」の簡略な記録からは確かめられない。もし今後の聞き取りでそのような伝えが採取されたとしても、それは行事の情緒的意味を担う伝承として尊重すべきものであって、開始年代を確定する史実として扱うべきものではない。伝承を史実の劣位に置かず、しかし史実と偽らない――この書き分けを、年代の問いにおいても一貫して保つ。年代を確定できないことは、この行事について何も言えないことを意味しない。むしろ、いつ始まったかという一点に答えを急ぐよりも、掛塚という湊町がなぜこの数珠繰りの念仏を受け入れ、どのような供養と祈願の器としてそれを用いてきたのかを問うほうが、地域史の記述としては実り多い。年代の空白は、その問いへ向かうための余白として引き受けておきたい。

8. 結論 ── 数珠がむすぶもの

本稿は、掛塚の百万遍念仏について、「磐田お宝見聞帳」に残るわずかな記録を出発点とし、数珠繰りの所作・百八という数の意味・供養の性格・念仏講という共同体的基盤の四点を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして読み直してきた。得られた見取り図は次のとおりである。掛塚に百万遍念仏という行事が存在したことは記録が証言する。その具体的な作法や意味は、百万遍念仏一般の知見に照らして輪郭を描きうる。しかし掛塚固有の開始年代・所属寺院・現況を直接記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。

この未確認は、記載なしとは違う。掛塚の寺院記録や講の帳面、近世の村方文書に手がかりが眠っている可能性は開かれており、本稿の腑分けは、それらを探すべき方向を指し示す作業でもあった。薄い記録を前にして、一般論を固有の史実へ横滑りさせず、しかし主題そのものを手放しもしない――その中間に踏みとどまることが、地域史の記述には要る。掛塚の百万遍念仏は、まさにその踏みとどまりを試す好個の題材であった。

本稿の立場は明確である。掛塚の百万遍念仏は、太鼓踊りを核とする遠州大念仏の系統とは別の、大数珠を繰る数珠繰り型の念仏行事として位置づけられる。それは天竜川河口の湊町という、水の富と危険が隣り合う場に根づき、失われた命への供養と共同体の安寧への祈願とを、輪をなして数を積むという静かな所作へと束ねてきた営みである。大きな数珠は、輪に連なる人々の手を巡ることで、生者と死者を、そして人と人とをむすぶ。この行事の核心は、称えられた念仏の数そのものよりも、数珠を繰る手が輪をなしていたという、その共同のかたちにある。

最後に、本稿が残した課題を明記する。第一に、掛塚の百万遍念仏の開始年代と所属寺院は、寺院明細帳・檀家帳・村方文書の博捜によって、未確認から一歩前進させうる余地がある。第二に、行事の現況と講の継承状況は、現地での聞き取りと自治会・保存会資料の照合によって確かめられるべきである。第三に、数珠繰り型の念仏が湊町に伝わった経路は、掛塚と結ばれた廻船の航路や、他地域の数珠繰り事例との比較を通じて、より精確に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。数を急いで確定する誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げること――その地道な手続きの先にこそ、大数珠がむすんできた湊町の信仰の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。掛塚湊の信仰をめぐる主題は、本論考シリーズの続編で稿を改めてさらに論じたい。

本稿が対象とした掛塚には、川湊とともに栄えた時代の古い家や土地が、いまも数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。地域の信仰や行事を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事ID 95「掛塚地区での百万遍念仏」。掛塚・寺・念仏・百八個の四要素を記す短い記録で、開始年代・所属寺院・現況は明示されない。
  2. 百万遍念仏および数珠繰りの一般的作法・由来については仏教民俗の概説による。京都・知恩寺が百萬遍の名を負う由来は鎌倉時代後期の疫病に際した念仏に発するとされるが、これは全国的背景であり掛塚の起源ではない。
  3. 百八が煩悩の数を表す象徴数であること、正式な数珠が百八の珠を基本とすることは仏教一般の観念による。「百八個」を数珠の珠数と解するのは本稿の推定を含む。
  4. 数珠繰りの目的が先祖供養・水難や疫病の供養・災厄の祓いに大別されることは民俗研究による整理。掛塚の主目的は記録上未確認である。
  5. 加茂大念仏(本シリーズ第59号)・豊岡の遠州大念仏(第72号)はいずれも太鼓・鉦を伴う芸能的念仏であり、数珠繰り型の掛塚とは形式を異にする。類型比較は表1を参照。

付記:本稿は一般読者向け記事 r058「掛塚地区での百万遍念仏に残る信仰と文化の記憶」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、「お宝見聞帳」が記録する掛塚・寺・念仏・百八個を史実の入口、百万遍念仏一般の作法・由来を通説的背景、掛塚固有の開始年代・所属寺院を未確認として扱った。

参考文献・参考資料

  • NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事ID 95「掛塚地区での百万遍念仏」。Internet Archive 保存ページ:http://web.archive.org/web/20170912200348/http://otakara-iwata.net/(最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 r058「掛塚地区での百万遍念仏に残る信仰と文化の記憶」(最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「貴船神社と水神信仰 ── 掛塚湊の海の安全を祈る」大石浩之の磐田論考 第54号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/054/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「加茂大念仏 ── 盆の念仏行事と供養の記憶」大石浩之の磐田論考 第59号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/059/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「豊岡の遠州大念仏 ── 複数集落にまたがる盆の念仏」大石浩之の磐田論考 第72号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/072/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「竜洋地区トップ」(最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 竜洋町史編さん委員会編『竜洋町史』竜洋町、通史編(該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 五来重『増補 高野聖』および同著者による念仏民俗の諸研究。
  • 『日本民俗大辞典』吉川弘文館(「百万遍」「数珠繰り」「念仏講」の項)。
  • 『仏教民俗事典』(「百万遍念仏」「融通念仏」「数珠」の項)。
  • 掛塚を含む天竜川河口域の川湊・廻船に関する地域史文献(掛塚湊関係史料・湊町の廻船業に関する研究)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(掛塚・竜洋関係)。