失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 加茂・寺谷の歴史 ── 台地と谷が育てた村

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第111号(旧豊田町地域史研究)

加茂・寺谷の歴史 ── 台地と谷が育てた村

用水・寺社・遺跡が語る豊田北部

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市豊田(加茂・寺谷)

要旨

旧豊田町の北部に位置する加茂・寺谷は、天竜川左岸の磐田原台地のすそと、その南に開ける沖積の低地とが接する地にある。本稿は、この「台地と谷」という地形の枠組みから、加茂・寺谷の歴史を用水・寺社・遺跡の三つの観点で読み解く。まず加茂・寺谷という地名の由来をめぐる諸説を、史料で確認できる範囲と伝承として伝わる範囲とに分けて検討する。次に、この地に名を残す寺谷用水の開削を扱い、天竜川からの取水という難事業が、家康の時代の代官・平野重定らによって進められたと伝えられる経緯を、史実と伝承の層に腑分けする。さらに平野重定を葬ったと伝わる加茂の大円寺と、その命日に営まれてきた例祭・周年祭を、記憶の継承という観点から位置づける。最後に、台地縁辺という地形が遺跡の分布と関わりうることに触れ、素材に「記載がない」ことと本稿で「未確認」であることを区別しながら、確度の層を保ったまま豊田北部の村の歩みを記述する立場をとる。

キーワード:加茂/寺谷/寺谷用水/平野重定/大円寺/磐田原台地/世界かんがい施設遺産

1. 問題設定 ── 台地と谷という視点

加茂・寺谷は、平成の大合併で磐田市に編入されるまで、旧豊田町を構成していた地区の北側に広がる。天竜川左岸、磐田原台地の縁が南へ向かってゆるやかに沖積低地へと落ち込んでいくあたりに位置し、古くから農を生業とする集落が営まれてきた土地である。東海道の宿場町であった見付や中泉からもさほど遠くない。人と物の流れに連なりながら、この一帯は遠江でも有数の農業地帯として知られてきた。

加茂・寺谷の歴史を語るとき、しばしば選ばれる筋立ては「古代の信仰に始まり、近世に用水が開かれ、近代に豊かな農村へと育った」という一本の流れである。この筋立て自体は誤りではない。だが、確度の異なる事柄を一本の物語へ束ねてしまうと、史料で確認できる事柄と、社伝や口碑として語り継がれてきた事柄とが、同じ平面に並んで見分けがつかなくなる。本稿の出発点は、この土地の歩みを、確度の層を分けたうえで読み直すことにある。

その際に手がかりとするのが、この地の地形である。加茂・寺谷は、水を得にくい台地の縁と、水に恵まれる一方で洪水にさらされやすい低地とが接する場所にある。台地と谷という二つの地形が隣り合うこの条件こそが、地名の付き方、用水の引き方、寺社や集落の立地、そして遺跡の分布までを一貫して規定してきた。本稿は用水・寺社・遺跡という三つの観点を、いずれもこの地形の枠組みのなかに置き直して検討する。事実関係は、一般向け記事として整理した加茂・寺谷の歴史に依拠しつつ、研究者向けに確度の腑分けと史料批判を加える。

あらかじめ、本稿で用いる四つの確度の層を定義しておく。第一に史実、すなわち文書や編纂物など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界や地域で広く受け入れられているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避ける。あわせて、本稿で「未確認」と述べるのは管見の限り一次史料に突き当たっていない状態を指し、史料に「記載がない」ことと区別する。この二つの区別を保つことが、以下の検討の基本姿勢である。

この姿勢は、加茂・寺谷という土地の性格から要請されるものでもある。この地の歴史は、寺谷用水のように諸元が明確に伝わる主題もあれば、地名の由来のように諸説が並び立つ主題もあり、遺跡のように依拠する素材そのものが沈黙する主題もある。確からしさの水準がこれほど不揃いな主題を、同じ調子で書き連ねれば、読者は何が確かで何が伝えられてきた語りにすぎないのかを見分けられなくなる。三つの観点を貫いて確度の層を明示することは、この土地の歴史を、後から検証できる形で書き残すための、避けて通れない手続きなのである。以下では、まず地形という与件を確認したうえで、地名・用水・寺社・遺跡の順に、それぞれの資料的な基盤を点検していく。

2. 地理で確認できること ── 台地・低地・天竜川

三つの観点に入る前に、地形という最も確かな与件を押さえておく。加茂・寺谷は、天竜川の左岸に広がる磐田原台地のすそと、その南に開ける沖積の低地とが接するあたりに位置する。台地は水はけがよく洪水を免れる代わりに、地表を流れる水に乏しい。低地は水と土に恵まれる代わりに、川の氾濫に洗われやすい。加茂・寺谷は、この対照的な二つの地形のちょうど境目にあたる土地であった。

すぐ西を流れる天竜川は、古来「暴れ天竜」と恐れられた大河である。豊かな水量を抱えながら、ひとたび出水すれば田畑を押し流し、平時にはかえって水を引きにくい。肥沃な土を運んでくれる恵みの川であると同時に、その水を安定して利用することの難しい川でもあった。加茂・寺谷を含む磐田南部一帯が長く水に苦しんだのは、この川の性格に由来する。水が足りないのではなく、そこにある水を思うように使えない土地だったのである。

この「水を使えない低地」という条件をどう克服するかが、後述する寺谷用水の開削につながる。地形の与件を先に確認しておけば、用水がなぜこの地で必要とされ、どのような経路で引かれ、なぜ400年を超えて維持されねばならなかったのかが、無理なく理解できる。用水は単なる土木事業ではなく、台地と低地という地形の制約に対する、長期にわたる応答であった。

台地と谷の対照は、寺社や集落の立地にも影を落とす。低くくぼんだ谷あいの地は、水利に恵まれる一方、湿潤で聖なる場所とも見なされ、しばしば寺社の営まれる地となった。台地の縁は、洪水を避けつつ低地の農地を見おろす位置にあたり、古くから人が住まいを構えるのに適した場所であった。地名・用水・寺社・遺跡という四つの主題が、いずれもこの地形の条件から説明できることを、本稿は繰り返し確認していくことになる。

あわせて、加茂・寺谷の位置を街道との関係でも押さえておきたい。東海道の宿場町であった見付・中泉は、この地からさほど遠くない南東にあり、人と物の往来に連なる場所であった。田で穫れた米が近隣の町や市場へ運ばれ、また町の需要が村の生産を支えるという関係は、加茂・寺谷が孤立した農村ではなく、街道の経済圏の内側に組み込まれた村であったことを示す。地形が村の内側の条件を規定したとすれば、街道はその村を外の世界へつなぐ回路であった。台地と谷という地形の枠組みは、この街道との近接という与件と組み合わせて初めて、加茂・寺谷という土地の性格を十全に説明する。

磐田原台地 水はけよく水に乏しい 沖積低地 加茂・寺谷の水田 天竜川 台地の縁 ── 集落・寺社の立地 台地と谷が接する地 ── 加茂・寺谷の地形 水はけのよい台地と、水に恵まれ洪水にさらされる低地の境目に、村は営まれた。
図1 加茂・寺谷の地形模式断面。西の天竜川、磐田原台地のすそ、南へ開ける沖積低地という三者の関係が、用水・寺社・遺跡の立地を規定した。

3. 地名の由来をめぐる諸説 ── 加茂と寺谷

地形を押さえたうえで、まず地名から検討する。地名は、その土地の性格や、そこに暮らした人々の営みを読み解くための、最も基本的で息の長い手がかりである。ただし地名の由来は、多くの場合、確たる文書で裏づけられるものではなく、複数の説が並び立つのが常である。加茂・寺谷も例外ではない。

諸説・地名由来/伝承

「加茂」「寺谷」の名は何に由来するか

加茂の三説。「加茂(かも)」という地名の由来には、いくつかの説が伝えられている1。第一に、水辺に集う鳥の「鴨」に由来するとする説。第二に、神聖な場所を意味する「神(かみ)」が転じたとする説。第三に、高い土地を指す「上(かみ)」が訛ったとする説である。いずれの説も、この地が水と土地に深く結びついた古い集落であったことを、別々の角度から映し出している。

賀茂社との関わり。全国に広く分布する「加茂・賀茂」の地名は、京都の賀茂社の信仰や、その荘園に関連して生まれたものが少なくない。当地もまた、そうした古い信仰圏の名残をとどめる土地と考えられている。ただし、加茂という地名がいつ成立し、賀茂社の信仰と具体的にどう結びついたのかを直接記す史料は、本稿の範囲では確認できていない。したがってこの結びつきは、地名分布から導かれる推定の域にとどまる。

寺谷の地形性。「寺谷(てらだに)」の地名は、より直接的に地形と土地の性格を表している。「谷(やつ・たに)」は、低くくぼんだ地形や谷あいの土地を指す言葉であり、こうした場所は水利に恵まれると同時に、しばしば寺社の営まれる聖なる地とも見なされた。寺谷の名は、この地に寺院の存在した記憶を伝えるものと考えられている。そしてこの地名は、後に磐田南部一帯の水田を潤す「寺谷用水」の名として、歴史にあらためて刻まれることになる。

本稿の評価:加茂・寺谷の地名由来は、いずれの説も一点に確定しがたい伝承の層に属する。どれか一つを正解として選び取るのではなく、鳥・神・高地・寺院・谷という複数の含意が地名に折り重なっていることを、この土地の性格を示す手がかりとして読むべきである。

地名の由来を確定できないことは、地名研究の限界であると同時に、地名がもつ豊かさの表れでもある。加茂の三説は、水鳥の集う低湿地、神をまつる聖地、低地を見おろす高み──という、いずれもこの土地の地形と信仰に根ざした像を差し出している。三説は互いを打ち消すのではなく、加茂という地がそれらの性格を同時に帯びていた可能性を示唆する。この地名の重層性は、旧豊田町一帯の地名を体系的に読み解いた第93号「旧豊田町の地名」で扱った、天竜川左岸の地名群に共通する特徴でもある。地名は、確定を急がず、その土地の記憶の層として丁寧に扱うのがよい。なお、加茂の地名が賀茂社の信仰圏に連なるとする見方は魅力的だが、その結びつきを立証するには、当地における賀茂社関連の祭祀や荘園の痕跡を、別途に史料で跡づける必要がある。地名の類似だけを根拠に信仰圏への帰属を断ずることは避け、あくまで今後の検証を要する推定として書きとめておく。

水辺の鳥 神(かみ)聖なる地 上(かみ)高い土地 加茂 賀茂社の信仰圏 「加茂」に重なる三つの由来
図2 加茂の地名由来三説。鳥・聖地・高地という三つの含意は排他的ではなく、いずれも水と土地に根ざしたこの地の性格を別々の角度から映している。

4. 寺谷用水の開削 ── 史実と伝承の腑分け

加茂・寺谷の歴史を語るうえで欠かすことのできないのが、この地に名を残す寺谷用水である。天竜川左岸の磐田南部一帯を潤すこの用水は、徳川家康の時代に開かれ、400年を超えた今もなお水田に水を送り続けている。もっとも、その開削の経緯には、史料で確認できる事柄と、社伝や口碑として伝えられてきた事柄とが混じり合っている。ここでは両者を腑分けしながら整理する。

史実と伝承/用水開削

寺谷用水はいつ、誰によって開かれたか

開削の骨子。浜松城主として遠江を治めていた徳川家康は、天正16年(1588年)、「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川から水を引き、安定した米づくりを実現するための用水開発に着手したと伝えられる。工事を任されたのは、家臣の伊奈忠次(いな ただつぐ)と、代官をつとめた平野重定(ひらの しげさだ)であった。両者は現在の磐田市寺谷の地先に取水口(大圦樋〈おおいり〉)を設け、そこから浜部(はまべ)まで、およそ12キロメートルにおよぶ大井堀(おおいぼり=幹線用水路)を整備した。こうして引かれた水は、約2000ヘクタールにもおよぶ水田を潤したという。用水が通水したのは天正18年(1590年)のこととされる2

史料で確認できる範囲。取水口の位置、幹線水路のおよその延長、受益面積、通水年といった用水そのものの諸元は、寺谷用水を管理する土地改良区の資料や近代以降の記録によって、比較的確度高く伝えられている。用水が現に存在し、400年を超えて機能してきたという事実は、疑いようのない史実である。他方、着手・完成の年紀を天正年間の一点に結ぶ記述や、家康・伊奈忠次・平野重定という三者の関与の度合いについては、後世の編纂・顕彰のなかで整えられてきた側面があり、一次史料でどこまで裏づけられるかは慎重に見る必要がある。

伝承として伝わる範囲。用水開発の中心となった平野重定は、もとは美濃国(現在の岐阜県)の出身で、戦国の世を避けて遠江国豊田郡賀茂村(現在の磐田市加茂)に移り住んだと伝えられる3。「農民の福利の基は水利の安定にあり」との信念のもと水源を求め、難工事をやり遂げたとされ、その人柄と功績は名奉行として多くの農民に慕われた──こうした人物像は、地域が用水の恩恵をどう記憶してきたかを語る伝承であり、事業の意義を情緒的に伝える語りとして読むべきものである。

本稿の評価:寺谷用水の存在と機能は史実であるが、開削の年紀や個々の人物の関与の細部には、後世の顕彰によって整えられた伝承の層が重なっている。用水が「いつ・誰によって」開かれたかを一点で断定するのではなく、確実な諸元と、記憶として語られてきた物語とを分けて記述するのが穏当である。

寺谷用水がもたらした最大の変化は、水を使えなかった低地を、遠江でも有数の穀倉地帯へと変えたことである。安定した用水を得たことで、加茂・寺谷をはじめとする磐田南部一帯は、江戸時代を通じて豊かな水田地帯へと育っていった。収穫された米は年貢として納められるとともに、見付・中泉といった近隣の町や市場へも供給された。用水によって潤された村々では、堰や水路をどう分け合い、どう維持するかが村の暮らしそのものを左右し、水の配分や普請は村々の共同で担われた。

この共同の営みは、村落社会のしくみを読み解くうえでも見逃せない。用水路は複数の村を貫いて流れるため、上流の村と下流の村とのあいだで、水をどう配分し、堰の普請の費用や労力をどう分担するかは、しばしば村々の利害が交錯する問題となった。そうした取り決めや負担をめぐる記録は、当時の村の自治のありようを今に伝える史料となる。年貢の徴収、用水の管理、村の共同──これらの営みの積み重ねの上に、この地の豊かな農業は成り立っていた。用水は水利施設であると同時に、村と村を結びつけ、ときに争わせもする、地域社会の骨格をなす存在であった。

この用水の開削と前後して、天竜川左岸の各所では新田の開発も進む。江戸期の新田開発が地名に刻んだ痕跡については、第33号「『新田』と名のつく土地」で論じたとおりで、寺谷用水はそうした一連の開発の水利的な基盤をなすものであった。水が引かれて初めて、それまで手をつけられなかった土地が水田として開かれる。用水と新田とは、いわば一続きの開発の表と裏であり、寺谷用水を磐田南部の土地開発史の起点に位置づけることができる。

天竜川暴れ天竜 取水口寺谷・大圦樋 大井堀幹線 約12km 浜部末端 水田 約2000ヘクタールを潤す 寺谷用水の流路 ── 取水から通水まで 天正18年(1590年)通水と伝わる。諸元は土地改良区資料による。
図3 寺谷用水の流路模式図。寺谷の取水口から大井堀を経て浜部へ至り、約2000ヘクタールの水田を潤す。用水そのものの諸元は史実として確度が高い。

5. 平野重定と大円寺 ── 寺社が継いだ記憶

用水を開いた人物として語り継がれる平野重定の記憶は、加茂の寺院に受け継がれてきた。ここでは寺社という観点から、用水の記憶がどのように継承されてきたかをたどる。物質としての用水路が水を送り続ける一方で、その事業を担った人物への感謝は、寺という場と、そこで営まれる年中行事を通じて、世代を越えて伝えられてきた。

寛永元年(1624年)に重定が世を去ると、その亡骸は加茂の曹洞宗・大円寺(だいえんじ)に葬られたと伝えられる。今も毎年10月8日の命日には、大円寺において寺谷用水の関係者を招いて例祭が営まれている4。用水の恩恵に浴する人々が、その源をひらいた人物の菩提寺に集い、命日を期して感謝を新たにする──この営みは、用水という土木施設が、単なるインフラではなく、共同体の記憶を束ねる装置でもあったことを示している。

この記憶の継承は、節目ごとの周年祭という形でも重ねられてきた。明治39年(1906年)には没後300年を記念する祭が、昭和31年(1956年)には350周年祭が営まれ、令和5年(2023年)10月には没後400年を記念する400年祭が執り行われた。300年・350年・400年という長い時間の刻みを、地域が繰り返し祝い直してきたこと自体が、この用水と人物への敬意がいかに息長く保たれてきたかを物語る。周年祭は、過去の事業を現在の共同体が引き受け直す機会であり、記憶が自然に薄れるのに抗って、意識的に語り継ぐための仕組みであった。

ここで、史料批判の観点から一点補っておきたい。重定を大円寺に葬ったとする埋葬の伝えと、近現代に現に営まれている例祭・周年祭とは、確度の層を異にする。前者は寺の由緒として伝わる伝承であり、その真偽を一次史料で裏づけることは本稿の範囲では未確認である。他方、明治以降の周年祭は、開催の記録が近い時代のものとして残る点で、より確度の高い史実に近い。同じ「大円寺と重定」という主題のなかにも、遠い過去の埋葬伝承と、近い時代の行事記録という二つの層が併存している。この区別を保つことは、寺社を通じた記憶の継承を、単なる美談としてではなく、資料に即して読むための前提となる。

大円寺が用水の記憶を担う場であることは、加茂という土地が古くから信仰と結びついてきた地であることと無縁ではない。谷あいの聖地に寺院が営まれ、その寺が地域の年中行事の中心となる。加茂には、盆に営まれてきた大念仏の行事も伝わっており、その供養の作法と地域社会との関わりは第59号「加茂大念仏」で詳しく論じた。用水の恩人を祀る例祭と、盆の念仏による供養とは、いずれも死者を記憶し続けるという点で通じ合っている。加茂・寺谷において、寺社は信仰の場であると同時に、土地の歴史を記憶し伝える媒体でもあった。

平野重定1624年没 大円寺加茂・曹洞宗 例祭毎年10月8日 周年祭300・350・400年 用水の記憶を継ぐ寺社 ── 埋葬から周年祭へ 用水路が水を送り続ける一方、恩人への感謝は寺と年中行事を通じて継承された。
図4 記憶の継承。平野重定を葬ったと伝わる大円寺は、命日の例祭と節目の周年祭を通じ、用水の恩恵を共同体が繰り返し確認する場となってきた。

6. 用水の近現代 ── 組合・土地改良区・世界遺産

近世に開かれた寺谷用水は、明治以降も途切れることなく受け継がれ、その管理の形を時代に応じて変えながら今日に至っている。ここでは用水の近現代の歩みを、管理組織の変遷と、近年の国際的な評価という二つの側面から整理する。

明治を迎え、町村制の施行を経て、加茂・寺谷の村々もやがて豊田の名のもとに束ねられていった。用水の管理についても、明治24年(1891年)に寺谷用水組合が設けられ、それまで村々の共同で担われてきた水路の維持や水の配分が、より制度化された組織のもとに置かれるようになる。さらに昭和26年(1951年)には寺谷用水土地改良区が設立され、戦後の農地制度のもとで用水管理が担われて今日に至っている。管理組織の名称と枠組みは時代とともに変わったが、水を分け、水路を保つという営みの核は、近世以来変わっていない。

そして令和4年(2022年)10月、寺谷用水は、400年余りにわたり水田をかんがいし続けてきた歴史的・技術的な価値が認められ、国際かんがい排水委員会(ICID)の「世界かんがい施設遺産(WHIS)」に登録された5。この登録は、暴れ天竜の水を制御して低地を穀倉に変えた近世の事業が、単なる地域の遺産にとどまらず、灌漑技術の歴史のなかで世界的に評価されうるものであることを示す。古代の信仰に始まると語られる加茂・寺谷の歩みは、こうして世界に知られる水の遺産へとつながっている。

用水管理の近現代を、明治・大正から昭和にかけての農村の変化のなかに置いてみると、その意味はいっそう明瞭になる。この時期、加茂・寺谷を含む地域では、耕地整理による田の区画の整え直し、農業の機械化、教育制度の整備、交通網の拡充が進み、景観と社会構造は大きく変わっていった。多くの営みが姿を変えるなかで、田を潤す水の流れだけは、400年を越えて変わることなく土地の根幹を支え続けている。用水の恒常性は、めまぐるしく変わる近代の農村にあって、この地の連続性を体現するものであった。

世界かんがい施設遺産への登録を、地域史の記述という観点からどう受けとめるかも、あわせて考えておきたい。この種の顕彰は、対象の価値を広く知らしめる契機となる一方で、しばしば由来の物語を単純化し、開削の経緯を英雄的な一点へ収斂させる語りを強めもする。登録の意義を正しく受けとめるには、用水そのものの確かな諸元と、開削をめぐって整えられてきた伝承とを、あらためて分けて見る目が要る。近世に低地を穀倉へと変えた技術と、その技術を担った人々への感謝の記憶とは、どちらも大切であるが、確度の層としては別のものである。国際的な評価を得た今だからこそ、その土台にある事実と物語の腑分けを怠らないことが、地域の側に求められている。

1588着手(伝) 1590通水(伝) 1624重定没 1891用水組合 1951土地改良区 2022世界遺産登録 2023400年祭 ■ 伝承・社伝の年紀 ■ 近代の管理制度 寺谷用水 400年の歩み
図5 寺谷用水の年表。橙は社伝・伝承として伝わる近世の年紀、青は近代の管理制度、緑は近年の国際的評価を示す。用水そのものの連続性は400年を超えて保たれている。

7. 台地縁辺の遺跡 ── 確度の腑分け

用水と寺社を検討してきた。残る観点は遺跡である。ただし、この主題については、あらかじめ資料的な限界を明示しておかねばならない。本稿が依拠する素材記事には、加茂・寺谷の具体的な遺跡名や発掘調査の成果は記されていない。したがって、この地の考古学的な様相を個別の遺跡に即して述べることは、本稿の資料の範囲を超える。ここで論じうるのは、地形と一般的な考古学の知見から導かれる、遺跡分布の蓋然性にとどまる。

その限界を踏まえたうえで、地形の観点から言えることがある。第2節で見たとおり、加茂・寺谷は磐田原台地のすそと沖積低地とが接する地にある。一般に、洪水を免れつつ水辺の資源に近い台地の縁辺は、古くから人が生活の場を営むのに適した立地であり、遺跡が分布しやすい地形条件として知られる。磐田原台地の各所に遺跡が確認されてきたことは広く知られており、その縁辺にあたる加茂・寺谷の一帯もまた、そうした立地条件を共有している。この点から、当地に遺跡が存在する蓋然性は地形的に高いと推定できる。ただしこれはあくまで地形からの推論であって、具体的な遺跡の確認をもって述べているのではない。

ここで、本稿が繰り返し用いてきた区別が重要になる。素材記事に遺跡の記載がないことは、「当地に遺跡が存在しない」ことを意味しない。それは単に、本稿が依拠した資料がその主題を扱っていないという「記載なし」の状態にすぎない。同様に、筆者が個別の発掘調査報告に当たっていない現段階は、「未確認」の状態であって、遺跡の不在を示すものではない。この二つの状態を、遺跡の不在という結論へ短絡させてはならない。台地縁辺という立地の蓋然性と、資料上の「記載なし」「未確認」とを、混同せずに並べておくことが、ここでの誠実な記述である。

遺跡という観点をあえて空白のまま残さず、確度の腑分けとして提示するのには理由がある。地域史の記述では、資料に現れないものを「なかったこと」として黙って通り過ぎてしまいがちである。だが、資料が語らないことと、事柄が存在しなかったこととは、まったく別である。加茂・寺谷の考古学的な様相は、今後、市の埋蔵文化財の記録や発掘調査報告を博捜することで、「未確認」を「史実」へと押し上げていくべき余地の大きい領域である。本稿は、その空白を空白として正確に位置づけることを、遺跡という第三の観点への当面の回答とする。

付言すれば、遺跡と用水・寺社とは、この地形の枠組みのなかで互いに響き合う。台地の縁が古くから人の住まう場であったとすれば、そこに営まれた集落は、やがて谷の低地を開いて水田とし、聖なる谷あいに寺社をまつり、水を引く用水を必要とした──という一連の流れが、地形の条件から無理なく描ける。遺跡が示すはずの古い居住の痕跡は、後世の用水開発や寺社の営みと、同じ台地と谷の舞台の上に積み重なっている。個別の遺跡が未確認であっても、この地が古くから人の営みを重ねてきた土地であること自体は、地名・用水・寺社の各観点が間接に裏づけている。遺跡の空白は、他の三観点によって縁取られた空白なのである。

表1 加茂・寺谷を読む三観点 ── 主題・確度の層・依拠する資料・史料批判上の留意点
観点主な内容確度の層依拠する資料留意点(史料批判)
地名加茂=鴨・神・上の三説、寺谷=谷地形と寺院の記憶。伝承地名の分布、地名研究。成立年代を記す史料は未確認。一説に確定せず含意の重層として読む。
用水寺谷用水の取水口・大井堀・受益面積・通水年。史実(諸元)+伝承(年紀・人物)土地改良区資料、近代の記録。用水の存在と機能は史実。開削の年紀・人物の関与は顕彰による整えを含む。
寺社平野重定を葬る大円寺、命日の例祭、周年祭。伝承(埋葬)+史実(近現代の行事)大円寺由緒、例祭・周年祭の記録。埋葬の伝えと、近現代に確認できる行事とを層として区別する。
遺跡台地縁辺という立地からの遺跡分布の蓋然性。推定地形、一般的な考古学の知見。素材に個別遺跡の記載なし。地形からの推定であり、確認ではない。

この表に整理したとおり、加茂・寺谷を読む四つの観点は、それぞれ異なる確度の層に属している。地名は伝承の層に、用水は史実と伝承の両層に、寺社は伝承と近現代の史実にまたがり、遺跡は地形からの推定にとどまる。同じ土地の歴史を語る素材でありながら、その確からしさは主題ごとに大きく異なる。この差を平らにならして一本の物語に流し込むのではなく、層の違いを保ったまま並べておくことこそが、後世の調べものに耐える記述の作法である。

史実 用水の諸元・機能 通説 広く支持 推定 遺跡の蓋然性 伝承 地名・埋葬・年紀 確度の四段階 ── 加茂・寺谷への適用 同じ土地の歴史でも、主題ごとに確からしさは異なる。層をまたぐ断定を避ける。
図6 確度の四段階を加茂・寺谷に適用した弁別図。用水の諸元は史実、遺跡は推定、地名や埋葬の伝えは伝承に属する。層の違いを語の水準で書き分ける。

8. 結論 ── 台地と谷が育てた村

本稿は、旧豊田町北部の加茂・寺谷の歴史を、台地と谷という地形の枠組みのもとに置き、用水・寺社・遺跡の三つの観点から検討した。得られた見取り図は次のとおりである。加茂・寺谷は、水はけのよい磐田原台地のすそと、水に恵まれつつ洪水にさらされる沖積低地とが接する地にあり、この地形の制約こそが、地名の付き方、用水の引き方、寺社や集落の立地、遺跡の分布までを一貫して規定してきた。台地と谷という二つの地形の隣り合わせが、この村を育てた最も根本の条件であった。

三観点の確度は、それぞれ大きく異なる。地名の由来は一点に確定しがたい伝承の層に属し、鳥・神・高地・寺院・谷という複数の含意が折り重なっている。寺谷用水は、その存在と機能こそ疑いない史実であるが、開削の年紀や個々の人物の関与には、後世の顕彰によって整えられた伝承が重なる。平野重定を葬ったと伝わる大円寺は、命日の例祭と周年祭を通じて用水の記憶を継承する場となってきた。遺跡については、台地縁辺という立地からその分布の蓋然性を推定するにとどまり、素材における「記載なし」と本稿の「未確認」とを、遺跡の不在へ短絡させないことを確認した。

したがって本稿の立場は明確である。加茂・寺谷の歴史は、「古代の信仰に始まり近世の用水を経て近代の農村へ育った」という一本の物語へ流し込むのではなく、主題ごとに確度の層を分けて記述されるべきである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に置かず、地形からの推定を確認された事実と偽らない。この禁欲的な手続きを保つことが、豊田北部の村の歩みを、後世の調べものに耐える形で書き留める方途である。用水が400年を越えて水を送り続けるように、記述もまた、確度の層を保ったまま次の世代へ手渡されるべきだと考える。最後に残された課題を記す。第一に、寺谷用水開削の年紀と人物の関与は、近世文書の博捜によって史実と伝承の境を精緻化しうる。第二に、加茂・寺谷の考古学的様相は、埋蔵文化財の記録に当たることで未確認を史実へ進めうる。第三に、大円寺の由緒と例祭の来歴は、寺誌や地域の記録によってなお確度を高めうる。いずれも、確度の層を保ったまま資料を積み上げていく、地道な作業に属する。

本稿の舞台である加茂・寺谷をはじめ、旧豊田町の村々には、用水とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 加茂の地名由来として鴨・神・上の三説を挙げる整理は、地名辞典類および地域の地名研究による。いずれも一点で確定するものではなく、伝承の層に属する。
  2. 寺谷用水の取水口(大圦樋)、幹線大井堀のおよその延長、受益面積、天正18年(1590年)の通水といった諸元は、寺谷用水土地改良区の提供資料および近代以降の記録による。
  3. 平野重定が美濃国から賀茂村へ移り住んだとする出自・移住の経緯、および「農民の福利の基は水利の安定にあり」とする人物像は、地域に伝わる伝承であり、一次史料による裏づけは本稿では未確認である。
  4. 大円寺(磐田市加茂・曹洞宗)における毎年10月8日の例祭、および明治39年(1906年)の300年祭・昭和31年(1956年)の350周年祭・令和5年(2023年)の400年祭については、寺および用水関係者の記録による。
  5. 寺谷用水は令和4年(2022年)10月、国際かんがい排水委員会(ICID)の「世界かんがい施設遺産(WHIS)」に登録された。登録の事実および評価点については同委員会および農林水産省の公表資料による。

付記:本稿は一般読者向け記事 t005 の内容を、郷土史研究者向けに確度の腑分けと史料批判の観点から再構成した論考版である。用水の諸元・機能を史実、開削の年紀・人物の関与および地名由来・埋葬の伝えを伝承、台地縁辺の遺跡分布を地形からの推定として扱い分けた。

参考文献・参考資料

  • 磐田物語 t005「加茂・寺谷の歴史 ── 遠江の信仰と農業が育んだ地」 https://iwata-monogatari.net/t005 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 国際かんがい排水委員会(ICID)「世界かんがい施設遺産(WHIS)」登録一覧 https://www.icid.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 農林水産省「世界かんがい施設遺産」紹介ページ https://www.maff.go.jp/j/nousin/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 寺谷用水土地改良区 提供資料。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市)。
  • 旧豊田町『豊田町誌』(豊田町)。
  • 磐田市教育委員会『豊田町地名地図』。
  • 大円寺(磐田市加茂・曹洞宗)由緒。
  • 静岡県編『静岡県史』通史編(静岡県)。
  • 大石浩之「旧豊田町の地名 ── 土地の記憶を読む」大石浩之の磐田論考 第93号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/093/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「加茂大念仏 ── 盆の念仏行事と供養の記憶」大石浩之の磐田論考 第59号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/059/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「『新田』と名のつく土地 ── 江戸の開発が刻んだ地名」大石浩之の磐田論考 第33号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/033/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 平野重定・寺谷用水関係 郷土史料。