磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第121号(磐田用水史研究 三)
天竜川下流農業水利事業 ── 台地と低地を潤した国営事業
戦後の水利再編と磐田の農業
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
戦後の天竜川下流域では、佐久間ダムをはじめとするダム群の建設、砂利採取、河川改修が重なって河床低下が進み、既存の取水施設が機能を損なう危機に直面した。本稿は、この危機に対する国営「天竜川下流農業水利事業」を対象とし、事業がいかなる背景と計画のもとに構想され、河口頭首工から船明ダムへの取水計画の変更を経て、磐田の農業の基盤をどう作り替えたかを、素材資料に即して整理する。事業は1954年(昭和29年)に閣議決定された天竜東三河特定地域総合開発計画の一環に位置づけられ、農業用水のみならず上水道・工業用水を含む広域水資源計画のなかへ磐田用水を組み込んだ。あわせて国営・県営・団体営の役割分担、浅羽地区のパイプライン化を検討し、明治の社山疏水構想から磐田用水、そして国営事業へと連なる磐田水利史の到達点として本事業を位置づける。史実と計画値、推定を語の水準で区別し、事業を「完成して終わる工事」ではなく世代を越えて引き継ぐ社会資本として記述する立場をとる。
キーワード:天竜川下流農業水利事業/船明ダム/河口頭首工/河床低下/磐田用水/パイプライン化/土地改良区
1. 問題設定 ── 用水史のなかの国営事業
磐田原の台地とその南に広がる低地の農業は、天竜川の水をどう引き、どう配るかという課題とともに歩んできた。明治期の社山疏水構想に始まり、昭和前期の磐田用水幹線改良事業を経て、戦後になると、それまで地域ごとに営まれてきた水利が、さらに大きな体系のなかへ組み込まれていく。その転機となったのが、本稿が扱う国営「天竜川下流農業水利事業」である。
この事業は、単に古い水路を新しくしたというだけの営みではない。天竜川という一本の大河の水を、農業用水・上水道・工業用水という複数の用途へ振り分ける広域水資源計画の一部として、磐田の農業用水を位置づけ直した。それまで「自分たちの田へ水を引く」ことに焦点が置かれていた水利が、「流域全体の水をどう分けるか」という問いのなかへ移されたのである。本稿の出発点は、この位置づけの転換を、事実に即して丁寧にたどることにある。
本稿がとる方法は、素材とした地域資料が記す事実を土台に置きつつ、事業名や金額・数値をそのまま羅列するのではなく、それぞれの施設や制度が何のために置かれ、どの範囲の水を支えたのかを分けて整理することにある。読者にとって意味があるのは、事業主体の名称を暗記することではなく、基幹施設から末端の水路までがどうつながって初めて一枚の水田に水が届くのか、その仕組みを理解することだからである1。
また本稿では、資料で確認できる事実、計画段階で示された数値、そして地理や制度から導かれる推定を、語の水準で書き分ける。事業の年代や諸元には、資料に明記されたものと、後年の記録や一般的背景から補ったものとが混在しうる。両者を混同すれば、計画値をあたかも達成された実績のように語ったり、推定を史実のように断定したりする誤りに陥りやすい。以下ではまず事業前史としての河床低下の危機を押さえ、続いて計画の骨格、取水計画の変更、事業主体の分担、浅羽地区の近代化を順に検討し、最後に磐田水利史のなかへ本事業を置き直して結論に至る。
2. 事業前史 ── 河床低下という危機
国営事業が構想された直接の背景には、天竜川下流の河床が低下していくという物理的な危機があった。『磐田用水のあゆみ』によれば、天竜川の河床変動に関する調査は、1956年(昭和31年)の佐久間ダム完成の前後から本格化し、1959年(昭和34年)に設けられた静岡県河状調査委員会へ引き継がれたとされる2。上流のダム群の建設、河川からの砂利採取、河川改修といった人為的な要因が重なり、下流の河床が掘り下がっていったのである。
河床が下がると、なぜ農業用水が危うくなるのか。開水路の時代、田へ水を引く取水は、川の水位が取水口より高いことを前提に成り立っていた。ところが河床が低下すれば川の水位も下がり、従来の取水口では水を引き込めなくなる。渇水期にはこの落差の不足が致命的となり、必要な時期に必要な量の水が確保できなくなる。用水の不安定は、そのまま水田経営の不安定を意味した。
この危機に対して、浜名・磐田両用水の関係者は、早い時期から恒久的な対策を求めていたとされる。個々の取水口を補修するだけの対症療法では、河床低下という流域規模の変化には追いつかない。既存の河口頭首工による取水だけでは不十分となる可能性があり、下流域全体を見わたした広域の用水体系そのものを見直す必要が高まっていった。ここで重要なのは、危機の性格が「一つの水路の老朽化」ではなく「流域の地形変化」であったという点である。原因が流域規模である以上、対策もまた流域規模でなければ釣り合わない。
もっとも、河床低下の進行度合いや、それが各取水口に及ぼした影響の程度を、年ごとに定量的に跡づける一次資料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。これは「そうした記録が存在しない(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、その数値を裏づける資料に行き当たっていない(=未確認)」という状態である。ここでは、河床低下が調査と対策を促す現実の圧力として働いた、という事実関係の骨格までを確認するにとどめ、その定量的な描写には踏み込まない。この抑制は、資料が語る以上のことを語らないための、方法上の禁欲である。
3. 事業計画の骨格 ── 天竜東三河特定地域総合開発計画
河床低下という危機への恒久的対策は、農業用水だけを対象とする単独事業としてではなく、より大きな国土開発計画の枠のなかで構想された。素材資料によれば、天竜川下流農業水利事業は、1954年(昭和29年)6月11日に閣議決定された天竜東三河特定地域総合開発計画の一環として、農業用水・上水道・工業用水の確保を図るものと整理される3。ここに、この事業の性格がよく表れている。磐田用水は、農民の共同事業という枠を超え、地域開発政策の一部として位置づけ直されたのである。
計画の諸元として、資料は具体的な数値を挙げる。かんがい面積は、既成の水田・新規の水田・既存の畑・新規の畑を合わせて計12,235ヘクタール、これに農業用水として毎秒45.009立方メートルをかんがいし、あわせて上水道・工業用水として毎秒2.63立方メートルを供給する計画とされている。これらは事業が目標として掲げた計画値であり、そのまま完成後の実績を意味するわけではない点に注意を要する。だが、この規模の数字が示すのは、事業が旧来の田へ水を引く水利の延長線上ではなく、都市用水までを含む水資源の総合利用として設計されていたという事実である。
農業用水に上水道・工業用水を並べたこの計画の性格は、事業が構想された時代の背景と切り離せない。戦後復興から高度成長へ向かう時期、天竜川下流域でもまた、都市の拡大と産業の立地が新たな水需要を生んでいた。農業用水だけを考えればよかった時代から、限られた河川の水を農業・都市・工業のあいだでどう分け合うかを、一つの計画のなかで調整せざるをえない時代へと移っていたのである。天竜東三河特定地域総合開発という枠組みの名が示すとおり、この事業は静岡県西部から愛知県東部にまたがる広い地域を視野に置いていた。磐田の農業用水は、その広域計画の一翼として据え直されたことになる。
用水系統は、天竜川を挟んで左岸と右岸に大別された。左岸では、河口頭首工から導水した水を豊岡村の上神増で東西に分け、寺谷地区、東部地区、そして福田方面へと送る構想が示されている。さらに社山幹線は、原野谷川を横断したのち浅羽町に入り、県営用水の三路線へ分水する計画であった。こうした系統の記述からは、一本の幹線が単純に水を流すのではなく、地形と受益地の配置に応じて水を段階的に分けていく、分水の設計思想を読み取ることができる。水は上流で一括して取り、下流へ向かうにつれて枝分かれしながら、それぞれの農地へ配られる。
ここで一つ、資料の性格について注意を促しておきたい。以上の面積・水量・系統は、いずれも計画段階で示された設計値であり、事業の進行のなかで変更や調整を受けた可能性がある。実際、後述するように取水地点そのものが計画途中で大きく変わっている。したがってこれらの数値は、事業がどれだけの規模を目指して構想されたかを示す指標として読むべきであって、完成した施設の最終仕様として固定的に受け取るべきものではない。計画値と実績値の区別は、水利事業のように長期にわたって段階的に建設される社会資本を論じるうえで、とりわけ重要な留保である。
4. 河口頭首工から船明ダムへ ── 取水計画の変更
この事業の経過のなかで、最も注目すべき論点は、取水地点が計画の途中で根本的に変更されたことである。素材資料によれば、国営事業は1968年(昭和43年)3月に法手続きを終え、当初は河口頭首工からの取水を前提としていた。ところが天竜川の電源開発計画と船明ダム計画との調整が進むなかで、1969年(昭和44年)12月の電源開発調整審議会において船明ダムの建設が決定され、これにより河口頭首工からの取水計画は、船明ダムからの取水へと変更された4。
この変更は、単なる取水口の移動ではない。河口頭首工は、その名のとおり川の下流側で水を受ける施設であり、河床低下の影響を最も強く受ける位置にある。これに対して船明ダムからの取水は、ダムによって流量そのものを調整したうえで下流へ水を送る仕組みである。ダムが流量を平準化すれば、渇水期にも一定の水を確保しやすくなり、下流の農業用水を安定的に取水する条件が整う。つまりこの変更は、河床低下という前史で述べた危機に対する、より根本的な解として選ばれたものと理解できる。
船明ダムの建設と通水の経過を、資料に即して押さえておく。船明ダムは1972年(昭和47年)11月に着工し、1978年(昭和53年)3月に完成した。そして農業用水と上工用水の共同区間の導水路が完成し、船明ダムから通水が始まったのは、1979年(昭和54年)7月とされる。着工から通水まで、およそ七年の歳月を要した計算になる。この年数の長さは、基幹施設の建設が一朝一夕には成らないこと、そして農業用水が電源開発という別の大きな計画との調整のうえに成り立っていたことを、あわせて物語っている。
取水計画の変更が磐田用水にとって持った意味は大きい。当初の河口頭首工案は、あくまで農業用水を主目的とする取水施設であった。しかし船明ダムからの取水へ移ることで、磐田用水は、電源開発と上工用水をも担う多目的ダムの水利用体系のなかに、一つの受益者として組み込まれた。これは、磐田用水が単独の農業用水事業から、広域水資源計画の一部へと位置づけられたことを端的に示す出来事である。水を引く相手が、川の一地点から、多目的に管理される貯水池へと変わったことは、水利をめぐる関係者の構図そのものを更新した。
取水地点の変更が、農業側の都合だけで決まったのではないことも見落とせない。船明ダムは、そもそも天竜川の電源開発計画のなかで構想された施設であり、その建設決定は電源開発調整審議会という、発電を主管する場でなされた。農業用水は、この発電のための貯水池から水を分けてもらう立場で、計画に加わったのである。ダムが多目的に用いられるということは、農業・発電・都市用水という利害の異なる主体が、一つの水源をめぐって調整の席に着くことを意味する。磐田用水にとって、この調整の枠組みへ加わったこと自体が、単独の農業用水事業の時代には存在しなかった新しい経験であった。
ここでも計画値と実績、そして決定と完成の区別を保っておきたい。1969年の審議会決定は建設の意思決定であって、施設の完成ではない。着工・完成・通水はそれぞれ別の段階であり、資料はこれらを異なる年紀として記録している。事業を論じるとき、決定の年をもって施設が使えるようになったかのように語るのは、時間の圧縮による誤りである。決定から通水まで十年の隔たりがあったという事実そのものが、基幹施設整備の重さを示す証言となる。
5. 国営・県営・団体営 ── 事業主体の分担
これほど大規模な水利事業は、単一の主体が一手に担うものではない。素材資料は、大規模な水利事業には国営・県営・団体営という事業主体の役割分担が生まれると述べ、国営事業は基幹施設を、県営事業は地域の幹線や関連施設を、団体営事業は末端や地域に近い施設を担うことが多いと整理する。この三層の分担は、水利施設が持つ性格の違いに対応している。
なぜこのような分担が生まれるのか。基幹施設──ダムや頭首工、幹線水路──は、広い受益地に共通して関わり、建設に巨額の費用と高度な技術を要する。これは一地域の農民組織が単独で担いうる規模を超えるため、国が事業主体となる。一方、末端の水路や地域に密着した施設は、その地域の受益者がもっとも実態をよく知っており、地域の団体が担うほうが実情に合う。県営事業は、その中間で、地域の幹線や関連施設を受け持つ。つまり分担は、施設の広がりと費用規模、そして地域の実情への近さという三つの尺度によって、おのずと定まってくる。
この分担は、費用負担のあり方とも結びついている。基幹施設は受益地が広く、便益が特定の集落に限られないため、国が主たる費用を負い、県や地域がこれに応分の負担を加える形がとられる。逆に末端の施設は、便益を受ける範囲が地域に限られるぶん、地域の負担割合が相対的に高くなる。誰がどの施設の便益を受けるかという問いと、誰がその費用を負うかという問いは、水利事業においては表裏の関係にある。三層の事業主体は、施設の性格の違いを、費用負担の分かち合いという形で制度に落とし込んだものと見ることもできる。
ここで読者にとって大切なのは、事業主体の名称そのものではなく、どの施設がどの範囲の水を支えているかという点である。水利は、基幹施設から末端水路までが一続きにつながって初めて機能する。船明ダムがどれほど立派でも、末端の水路が届かなければ田に水は入らないし、逆に末端の整備だけを進めても、基幹の取水が不安定なら意味をなさない。三層の事業主体は、それぞれの持ち場でこの一続きの体系を分担して支えている。次の表は、この分担関係を、施設の性格・費用負担・地域との距離という観点から整理したものである。
| 事業主体 | 主に担う施設 | 受益の範囲 | 費用・技術の規模 | 地域との距離 |
|---|---|---|---|---|
| 国営事業 | ダム・頭首工・幹線水路などの基幹施設 | 流域全体・複数地域に共通 | 巨額・高度な技術を要する | 広域を統轄し、地域の実務からは遠い |
| 県営事業 | 地域の幹線・関連施設 | 県内の一定地域 | 中規模 | 広域と地域の中間に立つ |
| 団体営事業 | 末端水路など地域に近い施設 | 個々の受益地・集落 | 比較的小規模 | 地域の実情に密着する |
この三層構造は、水利という社会資本が本来もつ性格をよく映している。水は上流の一点で取られ、幹線を下り、枝分かれして末端の田へ届く。この空間的な階層に、事業主体の階層が対応しているのである。もっとも、素材資料は「担うことが多い」という含みのある書き方をしており、個々の施設がどの主体に属したかを一つひとつ確定する記述までは示していない。したがって本稿でも、三層の分担を一般的な枠組みとして提示するにとどめ、特定施設の帰属を断定することは控える。分担の実際は、事業ごと・時期ごとに調整されるものであり、原則を述べることと個別を確定することは、区別しておかねばならない。
6. 浅羽地区のパイプライン化 ── 「浅羽一万石」の近代化
末端に近い水利の近代化がどのような課題を抱えたかは、浅羽地区の事例によく表れている。素材資料によれば、浅羽地区は磐田用水東部土地改良区管内の受益のおよそ40パーセントを占める1,300ヘクタールの水田地帯であり、かつて「浅羽一万石」と呼ばれた米の生産地であった5。豊かな穀倉であった一方で、この地区は水利の面で固有の困難を抱えていた。
困難の第一は地形である。浅羽地区は南へ行くほど標高が高くなる地形をもつと資料は記す。ふつう水は高いところから低いところへ流れるから、南に向かって標高が上がる土地では、自然流下だけで末端まで水を届けることが難しい。第二に、中央部には排水の難しさがあり、第三に、水を持ち上げるための補給ポンプへの依存があった。豊かな水田地帯でありながら、水を「引く」よりも「押し上げる」必要がある土地だったのである。
「浅羽一万石」という古い呼び名は、この土地が近世以来の穀倉であったことを伝えている。それだけの米を産する水田地帯でありながら、水を安定して行きわたらせることには絶えず苦労が伴った。豊かさと水利の困難とが同居していたこの地区で、水利の近代化がとりわけ強く求められたのは、いわば自然な成り行きであった。受益面積が管内の約40パーセントに及ぶという規模は、この地区の水利が安定するか否かが、磐田用水東部土地改良区全体の経営を左右しかねないことをも意味していた。
こうした条件のもとで、用水のパイプライン化が強く求められた。開水路から管水路へ移ることには、いくつもの利点がある。管水路は漏水を減らし、維持管理の負担を軽くし、水路の途中で水が失われることなく効率的に送水できる。とりわけ、水を圧力で送れる管水路は、標高が上がる土地へ水を届けるうえで開水路よりはるかに有利である。開水路から管水路への移行は、水の流れを目に見えにくくする代わりに、制御しやすさを大きく高める。
ただし、この近代化は手放しの前進ではなかった。素材資料は、1,000ヘクタールを超える揚水機場の計画が静岡県内でも例が少なく、ポンプの故障といったリスクも考慮しながら慎重に検討されたと伝える。ポンプに依存する送水は、電力や機械の停止がそのまま断水につながる。開水路であれば重力で流れ続けた水が、管水路・ポンプの体系では、機械の稼働を前提としてしか流れない。便利さと引き換えに、地域は新しい種類の脆弱さと維持責任を引き受けたのである。水利施設の近代化は、単に便利になることではなく、広い農地を安定して支えるための、更新と点検を伴う継続的な責任を意味した。
7. 疏水構想から国営事業へ ── 磐田水利史のなかの位置
ここまで検討してきた国営事業を、磐田の水利史という長い時間軸のなかに置き直しておきたい。天竜川下流農業水利事業は、突然あらわれた事業ではない。それは、明治以来この地で積み重ねられてきた水利への努力の、一つの到達点として立ち現れたものである。
その源流には、明治期の社山疏水構想がある。台地に水を引くという難題に、地域の有志が計画をもって挑んだこの構想は、実現には多くの調整を要したが、天竜川の水を台地へ導くという発想の起点となった。本論考シリーズでは、この構想を社山疏水の構想 ── 台地に水を引く夢として別稿で論じている。疏水構想は、水をどこから、どのように、どの土地へ引くかという問いを、この地域に最初に提起した営みであった。
その問いを引き継ぎ、実際の用水体系として結実させたのが磐田用水である。台地を潤した水利の歩みについては磐田用水の歩み ── 台地を潤した水利の歴史で総論的に扱った。昭和前期の幹線改良を経て、磐田用水は地域の農業を支える基盤として確立していく。そして本稿が扱う国営事業は、この磐田用水を、天竜川の広域水資源計画のなかへ組み込む段階に当たる。すなわち、疏水構想が「水を引く夢」を描き、磐田用水が「水を引く体系」を築き、国営事業が「その体系を流域の水資源計画へ接続した」という三段の展開として、磐田水利史は読み解ける。
この見取り図に立てば、国営事業の意義は、新しい施設を作ったこと以上に、水利の思考の枠組みを更新したことにある。疏水構想と磐田用水は、いずれも「この土地へどう水を届けるか」という、受益地を起点とする発想に立っていた。これに対し国営事業は、「流域の水をどう配分するか」という、水資源そのものを起点とする発想を持ち込んだ。農業用水が上水道・工業用水と同じ計画のなかで論じられるようになったのは、この発想の転換の帰結である。水は、田のためだけのものから、地域社会全体のためのものへと、その意味づけを広げた。
そして、こうして築かれた水網の日々の管理を担ってきたのが土地改良区である。基幹施設を国が、幹線を県が担ったとしても、末端の配水と維持を毎年くり返し支えるのは地域の組織にほかならない。この管理主体の系譜については、素材とした一般向け記事磐田用水東部土地改良区が、その設立と管理区域を整理している。国営事業という大きな枠組みも、最終的には、この地域の管理組織が日々水を配り続けることによってのみ、農地の上で意味を持ちえた。壮大な計画と、地道な日々の維持とは、地続きの営みである。
こうして磐田水利史のなかに置いてみると、国営事業は一つの到達点であると同時に、その先へ続く維持の営みの出発点でもあったことがわかる。疏水構想から数えれば、天竜川の水を台地と低地へ届けるという課題に、この地域は世代を継いで取り組んできた。計画の主体も、担い手も、技術も移り変わったが、水をどう引き、どう分け、どう保つかという問いそのものは、形を変えて受け継がれている。国営事業は、その長い問いの歴史のなかで、水の扱いを流域という最も大きな枠へ広げた段階として位置づけられるべきである。
8. 結論 ── 完成しない社会資本としての水利
本稿は、戦後の国営「天竜川下流農業水利事業」を、事業前史・計画の骨格・取水計画の変更・事業主体の分担・浅羽地区の近代化という五つの面から検討し、これを磐田水利史のなかに位置づけてきた。得られた見取り図は次のとおりである。天竜川下流の河床低下という流域規模の危機が、流域規模の対策としての国営事業を促した。事業は1954年(昭和29年)閣議決定の総合開発計画の一環として、農業用水に上水道・工業用水を加えた広域水資源計画のなかに磐田用水を組み込み、取水地点は河口頭首工から船明ダムへと変更されて、1979年(昭和54年)に通水をみた。
この経過を通じて一貫して見えてくるのは、水利事業が「完成して終わる工事」ではないという事実である。計画の決定から通水まで四半世紀を要し、その間に取水地点さえ根本的に変わった。そして通水はゴールではなく、むしろ日々の配水と維持の始まりであった。船明ダムも管水路も揚水機場も、点検・更新・費用負担という継続的な営みなしには機能を保てない。浅羽地区のパイプライン化が、便利さと引き換えに新たな維持責任を招き入れたことは、その象徴である。水利事業は、次の世代へ管理を引き継いでいく社会資本にほかならない。
したがって本稿の立場は明確である。国営事業の意義は、巨大な施設を築いたことそれ自体にあるのではなく、疏水構想以来この地域が育ててきた「水をどう扱うか」という思考を、流域の水資源計画という段階へ押し上げたことにある。受益地を起点とする発想から、水資源そのものを起点とする発想へ──この転換のうえに、現在の磐田の農業の基盤は立っている。史実として確認できることは史実として、計画値は計画値として、地形や制度から導かれる推定は推定として、それぞれの層を保ったまま書き留めることが、この事業を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、計画値として掲げられた面積・水量が、完成後の実績としてどの程度達成されたかは、事業完了時の記録や土地改良区の年次資料を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、国営・県営・団体営の分担の実際、すなわち個々の施設がどの主体によって建設・管理されたかは、事業ごとの記録に立ち返って個別に確定していく作業を要する。第三に、浅羽地区の揚水機場が、その後の更新のなかでどのように維持・改良されてきたかは、水利施設の維持管理史という別の主題として検討されるべきである。これらはいずれも、本稿が設定した層の区別のなかで、未確認を史実へ、計画値を実績値へと詰めていく作業に属する。壮大な計画の背後にあった地道な維持の営みにまで目を届かせること──その先にこそ、磐田の水と農業が歩んできた歴史の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 事業名や金額を資料からそのまま並べるのではなく、目的・役割・効果を分けて整理するという本稿の方針は、素材とした磐田物語 c031「天竜川下流農業水利事業」の編集方針を踏襲したものである。↩
- 天竜川の河床変動調査が佐久間ダム完成(1956年・昭和31年)前後から進み、1959年(昭和34年)の静岡県河状調査委員会へ引き継がれたことは、『磐田用水のあゆみ』(磐田用水東部土地改良区設立50周年記念誌)による。↩
- 天竜東三河特定地域総合開発計画の閣議決定を1954年(昭和29年)6月11日とし、かんがい面積計12,235ha、農業用水45.009m³/s、上工用水2.63m³/sとする諸元は、素材資料に記された計画値であり、完成後の実績値とは区別を要する。↩
- 国営事業の法手続き完了を1968年(昭和43年)3月、電源開発調整審議会による船明ダム建設決定を1969年(昭和44年)12月、船明ダムの着工を1972年(昭和47年)11月、完成を1978年(昭和53年)3月、通水開始を1979年(昭和54年)7月とする年紀は、いずれも素材資料の記述による。↩
- 浅羽地区を磐田用水東部土地改良区管内の受益の約40パーセント・1,300haの水田地帯とし、「浅羽一万石」と呼ばれた米産地とすること、1,000haを超える揚水機場計画が県内でも例が少なかったことは、素材資料による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 c031 の内容を、郷土史研究者向けに再構成した論考版である。事実は素材資料に忠実に依拠し、計画値(面積・水量)と実績、決定・着工・完成・通水の各段階、および「未確認」と「記載なし」を語の水準で区別した。元号年は西暦に換算して算用数字で示した。
参考文献・参考資料
- 『磐田用水のあゆみ』(磐田用水東部土地改良区設立50周年記念誌)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 旧豊岡村・旧浅羽町ほか旧町村史などの地域史資料。
- 天竜東三河特定地域総合開発計画(1954年〔昭和29年〕6月11日閣議決定)関係資料。
- 静岡県河状調査委員会(1959年〔昭和34年〕設置)関係資料。
- 電源開発調整審議会 議事関係資料(船明ダム建設決定、1969年〔昭和44年〕12月)。
- 船明ダム関係資料(1972年〔昭和47年〕着工・1978年〔昭和53年〕完成)。
- 磐田用水東部土地改良区 公式資料。
- 農林水産省 国営土地改良事業(かんがい排水)関係資料。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 農林水産省「土地改良事業の概要」 https://www.maff.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 c031「天竜川下流農業水利事業 ── 船明ダムから地域の水網へ」 https://iwata-monogatari.net/c031.html (最終閲覧:2026年7月25日)。