江戸時代の見付宿は、旅人が泊まる町であるだけでなく、人と荷物を次の宿へ送り継ぐ交通機関であった。田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』(1974年)の第三章「伝馬制と人馬継立の実際」は、その実務を宿方文書からたどっている。本稿は特集第2部の総論として、まず宿が誰に対して責任を負っていたかを確かめ、慶長6年(1601年)から明治5年(1872年)までの年表を組み、宿駅制度をどう性格づけるかという論点を整理する。
- 宿の事務は地方(中泉代官所)と往還(道中奉行)に分かれ、伝馬役は往還の系統に属した。
- 制度の骨格は17世紀前半に固まり、以後の調整は負担の割り方と賃銭の割増率に集中した。
- 継立は先触の到着から次宿への引渡しまで五段階からなり、すべてが問屋場を経由した。
- 宿駅制度を公用交通体系とみる立場と、民間の輸送・旅を支えた運輸機構とみる立場があり、本稿は両者を併記する。
二つの役所に仕える宿
見付宿の交通実務を理解するには、まずこの宿が誰に対して責任を負っていたかを押さえる必要がある。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第二章によれば、宿の事務は「地方(じがた)」と「往還(おうかん)」に区別されていた。年貢・宗門人別といった土地と人にかかわる事務が地方で、これは宿の南に隣接する中泉代官所が主管する。人馬継立と、それに付随する道路・警察の事務が往還で、こちらは江戸の道中奉行の管轄であった。宿を動かした人々で見たとおり、見付宿の差出書類の宛名に「道中御奉行様」と「中泉御役所」が並ぶのは、この二重の系統がそのまま現れたものである。
幕府に道中奉行が置かれたのは万治2年(1659年)で、大目付と勘定奉行の兼帯とされた ── これは宿駅制度一般に属する事実であり、同書が個別に述べるところではない。重要なのは、伝馬役という負担が中泉代官所ではなく江戸の道中奉行の系統に属していたことである。年貢を軽くしてほしいという願いと、人馬を減らしてほしいという願いは、別の役所へ、別の筋道で出さなければならなかった。
制度の始まり ── 慶長6年の伝馬定から明治5年の廃止まで。 見付宿が宿駅として動きはじめた時点を、同書は慶長6年(1601年)に置く。この年、東海道の各宿へ伝馬の定めが下され、見付宿も正式に宿駅となった。さらに同書は、見付と掛川に御伝馬継立の命令があったのは慶長8年(1603年)3月であったと記す。以下に、本特集第2部で扱う事項の年代を一覧しておく。出典欄に「同書」とあるものは『東海道遠州見付宿』の記載、「制度一般」とあるものは近世交通史の通説的な理解であり、見付宿の史料で直接確認したものではない。
| 年 | できごと | 出典の別 |
|---|---|---|
| 慶長6年(1601年) | 東海道の各宿へ伝馬の定めが下され、見付宿が宿駅となる | 同書 |
| 慶長8年(1603年)3月 | 見付・掛川へ御伝馬継立の命令 | 同書 |
| 寛永15年(1638年) | 宿の中央三町(東坂・馬場・西坂)の171軒が伝馬居屋敷とされる | 同書 |
| 同年ころ | 東海道の宿の常備人馬が人足100人・馬100疋とされる(通説) | 制度一般 |
| 万治2年(1659年) | 道中奉行が置かれる | 制度一般 |
| 寛文5年(1665年) | 見付・浜松両宿へ問屋給米「宿ニ付米七石宛」が下される | 同書 |
| 貞享元年(1684年) | 伝馬役の金納化(役屋敷を四等級に分けた役金) | 同書 |
| 元禄7年(1694年) | 助郷役令。定助郷が制度化される | 制度一般 |
| 正徳年間(1711〜1716年) | 御定賃銭(正徳の元賃銭)が定まる | 同書 |
| 寛延3年(1750年) | 宿役人9人が全員退役し、問屋兼名主制度が始まる | 同書 |
| 宝暦元年(1751年) | 役金の等級差を廃し、表間口数に応じた平均割へ | 同書 |
| 文政2年(1819年)/同8年(1825年) | 伝馬賃銭の2割増、次いで3割増(都合5割増) | 同書 |
| 幕末 | 同書は「六倍五割増」と記す(語義・徴収例は未照合) | 同書 |
| 明治5年(1872年) | 問屋場廃止。人馬継立の仕組みが終わる | 同書 |
この年表からまず読み取れるのは、制度の骨格 ── 誰が役を負うか、常備の人馬は何人何疋か ── が17世紀前半に固まり、以後の二百数十年はもっぱらその運用の調整に費やされた、という時間の配分である。171軒という伝馬役の枠は幕末までほとんど動かず、動いたのは負担の割り方(貞享・宝暦)と、賃銭の割増率(文政以降)であった。制度そのものではなく、制度と現実の物価・人口とのずれを埋める作業が、宿役人の仕事の大半を占めていたことになる。
継立という仕事の輪郭
人馬継立とは、宿から次の宿へ人と荷を送り継ぐことである。見付宿の場合、東は袋井宿へ1里半、西は浜松宿へ天竜川を舟で越して4里半(4里8町)。この二方向に向けて、必要な人足と馬を出すのが宿の公役であった。
この流れの全段階が集約された場所が問屋場である。問屋場と六枚の高札で見たとおり、見付宿の問屋場は大見寺門前の御殿小路から往還を西へ4間余り行った北側、東坂町分にあり、裏手には人足部屋・人馬継立場・馬小屋が設けられていた。同書は明治5年の廃止まで「この一帯は往来の人馬輻輳を極めたところ」と書いている。
ここで強調しておきたいのは、継立が一軒の商売ではなかったということである。証文を確かめるのは問屋・年寄といった宿役人、馬を出すのは馬持の家、荷を担ぐのは人足、宿内で足りなければ周辺の助郷村 ── 複数の主体が一つの通行を分担していた。したがって「宿が人馬を出した」という一文の背後には、毎回、割当と差配の作業があった。誰が何人・何疋を負担したかは見付宿の人馬割で扱う。
学説の整理 ── 宿駅制度を何の制度とみるか。 近世の宿駅制度をどう性格づけるかについては、力点の置き方に大きく二つの流れがある。本稿の主題に直接かかわるため、ここで整理しておきたい。
説A:幕府の公用交通体系とみる立場(制度史の通説)。 宿駅制度を、幕府の公用通信・公用輸送を確保するために編成された行政制度として捉える見方である。児玉幸多『近世宿駅制度の研究』(吉川弘文館、1957年)に代表される制度史研究がこの立場を体系化し、伝馬役・助郷役といった賦課を、幕府が宿と村に課した公役として分析した。『東海道遠州見付宿』の記述もこの枠組みに立っている。同書は「伝馬制はがんらい徳川氏の専用交通機関として設けられたもので、参勤交代の必要から諸藩の使用をも認めたが、無賃使用は幕府のみ」と明言する。根拠は、無賃・有賃の線引きが朱印状によって規定されていたこと、宿の帳簿が道中奉行への報告文書として作られていることである。弱点は、宿場に現実に落ちた金の多くが公用ではなく庶民の旅から来ていた可能性を、制度の側からは十分に捉えきれない点にある。
説B:民間の輸送・旅を支えた運輸機構としての側面を重くみる立場。 近年の交通史・流通史研究では、街道を実際に流れていた人と物の量に着目し、宿駅を商品流通と庶民の旅を担う運輸機構として評価する視点が強まっている。根拠となるのは、江戸後期に旅籠屋数と旅人が大きく増えたこと、そして御定賃銭が適用されない相対賃銭の世界が公定価格の外側に広がっていたことである。『東海道遠州見付宿』自身、「一般の士農工商の通行に応じた人馬賃銭は当事者の自由に契約するいわゆる相対賃銭によったものである。相対賃銭は大体御定賃銭の二倍が普通であった」と記しており、この立場を裏づける材料を同書も含んでいる。弱点は、相対賃銭の取引が帳簿に残りにくく、その規模を数量的に押さえにくいことである。
本稿の立場。 本特集は、いずれか一方を選ばない。見付宿に残された史料の大半は道中奉行と代官所へ差し出すために作られた公文書であり、そこから見えるのは説Aの世界である。しかし同じ史料が、公定価格の外に別の価格世界があったことを書き留めてもいる。判断材料が拮抗している以上、両者を併記し、どの記述がどちらの世界の話かを本文中で区別することを方針とする。二つの価格の実際は御用継立の実務と伝馬賃銭のしくみで扱う。
史料をどう扱うか
『東海道遠州見付宿』は、昭和20年(1945年)9月に擱筆された原稿を基礎として、1974年(昭和49年)3月に磐田市誌シリーズ第二冊として刊行された。著者の田中友次郎は旧制見付中学の教員で、見付宿の宿方文書を博捜してこの研究をまとめた。同書は近世文書の翻刻を大量に含むが、あくまで二次文献であり、翻刻の底本となった原本の現在の所在、異本の有無については別途の確認を要する。
また同書自身が、帳簿間の数値の食い違いに注意を促している。天保11年(1840年)の大火の出火日について庚申帳と水野日記の記載が異なることを示し、「何れが真なるや不明」と注記しているのがその例である。本特集でもこの態度にならい、数値は出典の帳簿名とともに示し、異同のあるものはその旨を記す。本稿を含め第2部の各ページでは、同書に明記された事項を「同書によれば」、宿駅制度一般の理解を「制度一般」、本稿の推論を「〜と考えられる」と書き分けている。
本特集第2部の構成。 第2部は、同書第三章「伝馬制と人馬継立の実際」を軸に、次の14ページで構成する。
| ページ | 主題 |
|---|---|
| 本稿(13) | 制度の全体像・二重の支配・年表・学説の整理 |
| 馬をどう補ったか(14) | 伝馬の補充と馬持の負担 |
| 御用継立の実務(15) | 朱印・証文・無賃・割増の見分け方 |
| 大通行が見付宿に来た日(16) | 行列の通過と宿の総動員 |
| 見付宿から天竜川へ(17) | 池田の渡船へつなぐ継立 |
| 見付宿の財政(18) | 役金・給米・普請費から読む宿場経営 |
| 人足100人・馬100疋とは何か(19) | 常備人馬の定数と実働数 |
| 本馬・軽尻・人足(20) | 荷物に応じて変わる継立の単位 |
| 見付宿の人馬割(21) | 間口が決めた負担の配分 |
| 先触れから出発まで(22) | 継立一件の手順 |
| 待つことも負担だった(23) | 川留めと滞留の時間 |
| 伝馬を飼う(24) | 秣場・飼料・馬具・病馬 |
| 継立帳簿は何を記録したか(25) | 問屋御用留という史料 |
| 大通行の人馬数を比べる(26) | 動員規模と助郷の広がり |
第1部(第1〜12ページ)は特集トップからたどられたい。宿そのものの通史は見付宿のすがたと戸口が扱っている。
先行研究と本書の位置 ── 制度史から一宿の実務へ。 近世宿駅を全国制度として捉える基礎には、児玉幸多『近世宿駅制度の研究』(1957年)がある。伝馬役・助郷役・御定賃銭を幕府交通政策の枠内で整理する研究である。これに対し、田中友次郎『東海道遠州見付宿』(1974年)は、見付宿問屋御用留や明細差出帳など、一宿に残った文書を用いて制度が現地でどう運用されたかを復元した。前者が制度の設計図、後者が見付での運転記録にあたる。
| 資料・研究 | 分かること | 本稿での使い方 | 限界 |
|---|---|---|---|
| 児玉幸多『近世宿駅制度の研究』 | 宿駅制度一般の枠組み | 伝馬・助郷・賃銭の用語整理 | 見付固有の実態を直接示さない |
| 田中友次郎『東海道遠州見付宿』 | 見付宿の制度・帳簿・絵図 | 見付固有の数値と史料名 | 原史料の翻刻を含む二次文献 |
| 同書所引の宿方文書 | 宿役人が記した実務 | 史実の根拠となる一次史料 | 本稿は原本へ直接照合していない |
国立国会図書館の書誌では同書は278頁、請求記号DK7-54、書誌ID000001163706である。CiNii Booksは見付宿資料目録・参考文献を267〜272頁、折込図を7枚と記録する。本稿が確認したのは書誌と章単位の記述であり、各引用の頁画像への再照合は未了である。この三層を混ぜず、制度一般は「制度一般」、同書の叙述は「同書によれば」、本稿の考察は「本稿では」と書き分ける。
更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。年表・学説の整理・史料批判・特集第2部の構成表を追加し、特集の体裁(c025基準)に統合した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。