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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(21)

見付宿の人馬割 ── 誰が何人・何疋を出したのか

街道に面した間口の広さが、そのまま公役の重さになった。宿場町の負担は、目に見える尺度で配分されていた。

人馬を出せと言われたとき、宿は誰にそれを割り当てたのか。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)が示す見付宿の答えは明快である ── 家の表間口の間数に応じて割り当てた。本稿では、171軒の間口分布、役の刻み方、免除された家々、そして貞享から宝暦にかけての金納化の経緯をたどり、最後になぜ間口が基準に選ばれたのかを考える。

本稿の要点
  • 伝馬役は東坂・馬場・西坂三町の171軒に、表間口の間数に応じて賦課された。
  • 役は一軒役から二ヶ月役まで刻まれ、一軒役以上65軒・半軒役以上75軒・それ以下31軒に分かれた。
  • 場末61軒、寺領27軒、社領24軒、問屋2軒、庄屋8軒、御朱印屋敷1軒が免除された。
  • 貞享元年の四等級の役金は、宝暦元年に上位層の困窮を理由として平均割へ改められた。

割当は間口から始まる

人馬を出せと言われたとき、宿は誰にそれを割り当てたのか。見付宿の答えは明快である。家の表間口の間数に応じて割り当てた。

『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)によれば、寛永15年(1638年)に伝馬居屋敷とされたのは、宿の中央部 ── 東坂・馬場・西坂の三町の街道両側に並ぶ171軒である。その負担は、家の表間口の間数に応じて定められた。街道に面した間口の広さが、そのまま公役の重さになった。

171軒の間口分布。 同書が伝馬役人軒別絵図から集計した間口の分布は次のとおりである。

表間口割合(同書による)備考
2間約2割 ── 最も多いもっとも標準的な宿の家
4間約15%
5間約15%
6間約10%
11間・13間各1軒いずれも庄屋の家

出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』第二章。同書が伝馬役人軒別絵図(年代不詳・明和安永以前と推定)から集計したもの。割合は同書の記載による概数であり、合計は100%にならない。

見付宿の財政で触れたとおり、明和7年(1770年)の明細差出帳には宿の惣間口787間4尺8寸とある。171軒で割れば1軒平均およそ4間半となり、上の分布の中央よりやや上に位置する。少数の大間口が平均を押し上げているためである。11間・13間という突出した間口が庄屋の家であったことは、負担の配分がそのまま宿内の序列を映していたことを示している。

役の刻み方 ── 一軒役から二ヶ月役まで。 間口に応じた負担は、細かい単位に刻まれていた。同書によれば、労役の単位は一軒役を最高に、十ヶ月役・九ヶ月役・七ヶ月役・半軒役、さらに六ヶ月役から二ヶ月役までがあった。

役の区分該当する家の数
一軒役以上65軒
一軒役未満・半軒役以上75軒
半軒役未満31軒
合計171軒

出典:同書第二章。「十ヶ月役」「七ヶ月役」といった呼称は、一軒役を12ヶ月分としたときの持ち分を表すものと解される。ただし同書はこの換算を明示していないため、本稿では解釈として示す。

中位層 ── 一軒役未満・半軒役以上の75軒 ── がもっとも厚く、上下に65軒と31軒が分かれる。負担がごく少数に集中する構造ではなく、宿の中央三町に薄く広く配分されていたことがわかる。

役を負わなかった家々。 一方で、伝馬役を免ぜられた家もあった。同書が挙げるのは次のとおりである。

区分軒数免除の理由
場末61軒宿の中央三町の外に位置するため
寺領27軒寺社奉行に属し諸役を免除される
社領24軒同上
問屋2軒宿役人として継立事務にあたるため
庄屋8軒同上
御朱印屋敷1軒(上村清兵衛)「古来より御朱印居屋敷高反別無之候」と記される旧家

出典:同書第二章。右欄の理由のうち、寺領・社領については十一ヶ寺と二社で述べた寺社奉行の管轄によるものである。

免除の一覧は、宿の権力構造をそのまま裏返した図になっている。十一ヶ寺と二社で見たとおり、見付宿の寺の朱印高は合計191石余にのぼり、同書は「有力なる寺院は名主問屋に伯仲する勢力を有した」と評した。寺領27軒・社領24軒の免除は、この別系統の存在を負担の面から示している。もう一つ、東坂町の御証文屋敷・安間平次弥家も、代官伊奈備前守の証文によって除地とされていた。

金納化 ── 貞享元年から宝暦元年へ

負担のかたちは時代とともに変わった。同書によれば、貞享元年(1684年)には役屋敷を上・中・下・下々の四段階に分け、「小間口一間ニ付上限十七貫、中限十四貫、下々限八貫」(問屋御用留)の役金を取り立てる制度となった。等級に応じて単価を変える、いわば累進的な仕組みである。

ところが宝暦元年(1751年)に至り、この制度は廃止される。理由を同書はこう記す。上位の間口の家がかえって困窮して取立てが難しくなったためである。等級差を廃し、表間口数に応じた平均割に改められ、これが幕末まで続いた。

この経緯は示唆的である。負担能力に応じた累進的な配分は、能力の高いはずの層が実際には困窮したことによって崩れた。宿を動かした人々で見たとおり、宿役人には75石余の持高を持つ者から5石余の者までがおり、同じ「宿の富商」といっても経済力には大差があった。大間口の家=富裕という前提そのものが、18世紀半ばには成り立たなくなっていたと考えられる。ただしこれは本稿の解釈であり、同書は困窮の理由まで踏み込んでいない。

当日の差配 ── 割当から出発まで。 以上は制度としての割当である。実際の一日は、これとは別の作業を必要とした。先触れから出発までで述べるとおり、先触が届けば必要人馬数が判明し、問屋場でその日の割当が決まる。役の持ち分に応じて順番が回ってくるにせよ、病気や不在、農繁期の都合は毎回異なる。誰を出すかの調整は、その都度の差配であった。

宿内で足りなければ助郷である。見付宿の助郷制度と周辺村の負担で扱うとおり、負担は宿の外へ広がっていった。大通行が見付宿に来た日で見たような大規模な通行では、この外側への波及が動員の主要部分を占めた。

なぜ間口だったのか。 最後に、間口という基準そのものについて考えておきたい。負担を配分する尺度には、持高(土地の石高)、家族数、資産、営業の規模など、いくつもの選択肢がありえた。実際、年貢は持高を基準としている。それにもかかわらず伝馬役が間口を基準としたのはなぜか。

考えられる理由は二つある。第一に、街道に面した間口は、宿場という商売の場における取り分そのものだからである。間口が広ければ客に見える面が広く、商いの機会も大きい。街道から得る利益に応じて街道を維持する負担を負う ── そういう対応関係が成り立つ。第二に、間口は誰の目にも見え、測れば確定するからである。持高のように帳簿の操作が入り込む余地が小さい。絵図で読む見付宿の周縁で述べたとおり、江戸時代の宿場は「線を引く」ことで成り立っていた。間口という基準は、その線がもっとも引きやすい尺度であった。

なお、以上は本稿の解釈である。同書は間口を基準とした事実を記すが、その理由を論じてはいない。

三つの「割当」を区別する。 間口割、役の持分、当日の人馬差配は、すべて負担配分に関わるが同じものではない。ここを分けると、171軒という固定枠と、日ごとに変わる出役の関係が見えやすくなる。

段階決めるもの主な根拠変わり方
賦課の範囲どの家が伝馬役を負うか伝馬居屋敷171軒長期にわたりほぼ固定
持分の割合各家が何ヶ月役を持つか表間口と役の区分制度改定で金納・平均割へ変化
当日の差配その日に誰とどの馬を出すか先触・必要数・欠員通行ごとに変動

同書の間口分布と役区分から確かめられるのは前二段階である。当日の欠勤、代人、雇い馬、助郷への振替は、日別の継立記録を見なければ分からない。「誰が何人・何疋を出したか」という題名に対し、本稿が答えられるのは、まず誰が負担主体とされたかまでである。

更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。間口分布・役の区分・免除区分の三表、金納化の経緯、間口が基準に選ばれた理由の考察を追加した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。

参考資料

街道と宿場の記憶をたどると、いまの家や土地の来歴にも行きあたる。

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