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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(15)

御用継立の実務 ── 証文・無賃・割増を見分ける

同じ区間の同じ馬に、無賃・二百三十四文・四百七十文前後 ── 三通りの値段が並んでいた。その線を引いたのは一枚の証文である。

宿場で人と馬を借りるには、いくらかかったのか。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第一章が示すのは、単純な料金表ではない。幕府だけが無賃で使え、諸藩は公定価格を払い、一般の旅人はまったく別の自由価格で契約する ── 身分と用向きによって三通りの値段がついていた仕組みである。本稿ではその線引きの実務と、幕末の物価騰貴がそれをどう歪めたかを読む。

本稿の要点
  • 幕府は無賃、諸藩は御定賃銭、一般の旅人は相対賃銭という三区分が並立していた。
  • 窓口では御朱印を「引合」せて照合し、無賃の範囲を確定してから人馬を立てた。
  • 基準額は正徳の元賃銭のまま固定し、割増率だけを改める方式がとられた。
  • 見付宿は伝馬宿ゆえに御蔵前入用と六尺給米を免除されたが、無賃負担との差引は数値で比較できない。

三通りの値段が並んでいた

同じ宿の、同じ馬を、同じ区間だけ借りる。それでも支払う額は、借りる者によってまったく違った。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)が示す構造を整理すると、次の三つになる。

使う者支払い根拠
幕府の公用無賃御朱印状。宿は人馬を出しても代金が入らない
諸藩(参勤交代など)御定賃銭+割増公定価格。正徳の元賃銭を基準とする
一般の士農工商相対賃銭当事者の自由契約。御定賃銭のおよそ2倍が普通

出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』第一章の記述にもとづき本稿で整理した。

同書はこの構造の由来を明確に述べる。「伝馬制はがんらい徳川氏の専用交通機関として設けられたもので、参勤交代の必要から諸藩の使用をも認めたが、無賃使用は幕府のみであり諸藩の人貨はすべて規定の伝馬賃を支払って使用するのである」。つまり順序が逆なのである。公共の運送サービスがまずあって幕府がそれを使ったのではなく、徳川の公用のための仕組みが先にあり、そこへ諸藩が制度上の必要から相乗りした。この由来が、無賃と有賃の線をそのまま引いていた。

証文を確かめるところから始まる。 三通りの値段があるということは、窓口でまずどの通行かを見分けなければならないということである。その見分けの根拠が証文であった。同書は、いわゆる御伝馬御合印之御朱印に「御通行所持御朱印引合人馬相立様」── 御朱印を照合したうえで人馬を出すように ── と、当時の中泉代官彦坂九右衛門の添書があることを、見付宿問屋御用留から引いている。

「引合(ひきあわせ)」という語が肝心である。宿の側は、示された朱印が本物か、記載された人馬数が正しいかを照合したうえで人馬を立てた。証文の確認は形式ではなく、無賃の範囲を確定する作業であった。問屋場と六枚の高札で見たとおり、見付宿が所持していた高札六枚のうちに駄賃高札と御朱印高札があったのは、この線引きを誰の目にも見えるかたちで掲示するためである。手続きの段取りは先触れから出発までで詳述する。

窓口も二つに分かれていた。 三通りの値段があるという構造は、宿の組織そのものにも反映していた。宿を動かした人々で見たとおり、同書が見付宿問屋御用留から引く寛文5年(1665年)の問屋給米の内訳は、駄賃問屋1人に3石5斗、御朱印問屋3人に3石5斗である。そして両者の勤務形態は異なっていた。駄賃問屋は「諸大名とその家中の、賃銭を払う継立に常時勤務」し、御朱印問屋3人は「1ヶ月に10日ずつの交代で幕府公用の無賃継立にあたった」。

これは注目に値する。有賃の継立と無賃の継立とで、担当する問屋が別だったのである。値段の区分が、そのまま人の配置に翻訳されていた。給米の額が両者同額であることも見逃せない。無賃継立には代金が入らないが、その事務を担う人には有賃と同じ報酬が支払われていた ── 無賃の負担が宿の会計に転嫁されていたことを、この配分は端的に示している。

なお同書は、のちに二種の問屋事務が統合され、天保10年(1839年)までには給米が金に換算した「給米金」として支給されるようになったと記す。窓口の二分が解消された時期と、その理由については同書に説明がなく、本稿でも推測しない。

無賃継立の重さ

宿の側から見れば、幕府の御用通行は人馬を出しても代金が入らない仕事である。この負担がどれほど重かったかは、幕末の状況が示している。伝馬賃銭のしくみで触れたとおり、幕府軍の通行が激増した時期に宿が疲弊したのは、まさにこの無賃の原則が効いたためであった。

ただし宿は、無賃の見返りをまったく持たなかったわけではない。中泉代官と見付宿の年貢で見たとおり、見付宿は伝馬宿であるがゆえに御蔵前入用と六尺給米を免除されていた。御蔵前入用は幕府の年貢米貯蔵の諸経費で村高100石につき米2斗、六尺給米は江戸城中の雑役人足の給料に充てる賦課である。全国の村々が負っていたこれらの賦課を、伝馬宿は免れた。伝馬という重い公役と、いくつかの全国的賦課の免除 ── 宿場町の負担は、この差引勘定の上に成り立っていた。

もっとも、この差引が均衡していたかどうかは別の問題である。同書は免除の事実を記すが、免除額と無賃継立の逸失分を比較した数値は示していない。本稿でも、どちらが重かったかは断定しない。

割増 ── 基準額は動かさず、率だけを改める。 御定賃銭の基準額は、同書のいう「正徳の元賃銭」である。正徳年間(1711〜1716年)に定められた額を基本とし、以後の改定はすべてこの額に割増率を掛けるかたちで行われた。同書はその推移をこう記す。文政2年(1819年)より2割増、同8年(1825年)より3割増、都合5割増。そしてこれは「その一例であり、幕末には六倍五割増にもなっている」。

時期割増見付・浜松間 本馬1疋の概算
正徳期(元賃銭)234文
文政2年(1819年)〜2割増約281文
文政8年(1825年)〜都合5割増約351文
幕末六倍五割増原文の語義と徴収例を未照合のため算出しない

割増率は同書の記載による。文政期の概算は基準額234文に割増率を掛けた本稿の試算であり、実際の徴収額を史料で確認したものではない。「六倍五割増」は原文の用法と徴収例を未照合のため、幕末の実額へ換算しない。

同書の記述から確認できるのは、正徳期の基準額を残し、後代の割増率を別に示したという点までである。その理由や全国での運用を、この一冊だけから確定することはできない。帳簿に「二百三十四文」と書かれていても、それが基準額なのか、割増後の実額なのかを確かめずに比較すれば、別種の数字を並べてしまう。数値を読む手順は継立帳簿は何を記録したかで改めて述べる。

割増は誰の手に渡ったのか。 割増が認められたということは、その分だけ収入が増えた者がいるということである。ではそれは誰か。この問いに、同書は直接答えていない。

確かなのは、割増が認められなかった側である。同書は宿役人の報酬について「幕末に至り物価は三倍に五倍に騰貴してもこの給料給金の額はすべて一定不変であった」と明記する。問屋兼名主の給料金10両、年寄兼組頭の金5両、そして寛文5年(1665年)以来の問屋給米7石 ── これらは据え置かれた。運送の実費には割増という手当てがなされ、宿の運営を担う役職の報酬は動かなかったのである。

この非対称から、割増分は継立の実務を担う側 ── 馬持や人足 ── に向かうことを想定した制度であったと考えるのが自然である。ただし、割増が宿の会計をいったん経由したのか、直接支払われたのかを示す史料は本稿では確認できていない。見付宿の財政で述べるとおり、宿の会計そのものの復元は同書第四章「宿の財政」の主題であるが、本稿では踏み込まない。ここは推定にとどめる。

公定の外側 ── 相対賃銭という世界

同書の記述でもっとも重要なのは、次の一文である。「そしてこの御定賃銭ならびにその割増は伝馬以外には適用されない」。

公定価格は、あくまで伝馬 ── 幕府と諸藩の公用通行 ── のための値段であった。それ以外の一般の旅人については、同書はこう続ける。「一般の士農工商の通行に応じた人馬賃銭は当事者の自由に契約するいわゆる相対賃銭(あいたいちんせん)によったものである。相対賃銭は大体御定賃銭の二倍が普通であった」。

相対とは、当事者どうしの直接交渉である。庶民の旅人が馬を借りたければ、馬士と値段を交渉した。その相場はおおむね公定価格の2倍。つまり冒頭の表に戻れば、同じ区間の同じ馬に、幕府は無賃、諸藩は234文(+割増)、一般の旅人は470文前後という三通りの値段が並立していたことになる。

この構造は、宿の経営を考えるうえで示唆に富む。公用の通行は義務であり、無賃または公定価格でしか収入にならない。宿が現金を得られるのは、むしろ一般の旅人を相手にした相対の商売の側であった。見付宿のすがたと戸口で見たとおり、見付宿の旅籠屋は明和7年(1770年)の31軒から天保末年頃には56軒へと増えている。庶民の旅が盛んになる江戸後期は、宿場にとって公用負担を埋め合わせる収入源が育っていく時期でもあった。見付宿の伝馬制で整理した二つの学説の対立点は、まさにこの相対の世界をどれだけ重く見るかにある。

史料上の注意。 本稿で史実として述べたのは、無賃・御定賃銭・相対賃銭という三区分、御定賃銭の額、割増率の推移、御朱印の照合手続き、御蔵前入用と六尺給米の免除である。いずれも同書に記載がある。

一方、相対賃銭が「御定賃銭の二倍」とされる根拠を、同書は個別の史料で示していない。同書の記述は近世交通史の一般的な理解と整合するが、見付宿で実際に取り交わされた相対の契約書や、その額を記した帳簿は本稿では確認できていない。この点は推定として扱い、本稿では「二倍が普通であったと同書は記す」という以上には踏み込まない。

割増率を読む ── 「六倍五割増」は実額ではない。 正徳の元賃銭234文に文政2年(1819年)の2割増を掛けると280.8文、都合5割増なら351文となる。ここまでは基準額と割増率が対応するため計算を再現できる。しかし「幕末には六倍五割増」という表現は、基準額へ6.5倍分を加えるのか、合計を6.5倍とするのか、原文の用法と徴収例を見なければ決められない。本稿は幕末の実額を確定しない。

表記計算できる範囲本稿の扱い
2割増234文×1.2=280.8文概算約281文
都合5割増234文×1.5=351文概算351文
六倍五割増原文の語義と徴収例が必要倍率のみ紹介し、実額は試算しない

したがって比較に使えるのは、同じ基準額・同じ割増段階の数字だけである。帳簿上の金額が元賃銭なのか、割増後なのか、相対賃銭なのかを順に判定し、判定できない数字は比較表から外す。この手順を踏まない「物価が何倍になった」という結論は、宿の実収入を示さない。

更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。三区分の比較表・割増の試算表・免除賦課の記述を追加し、相対賃銭「二倍」の根拠について史料上の限界を明示した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。

参考資料

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