宿場町・見付を実際に動かしていたのは誰か。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第二章「宿政一般」は、天保13年(1842年)に道中奉行へ提出された「宿役人助郷惣代并ニ人馬指名前帳」を引いて、この問いに固有名詞で答えている。名主・問屋・年寄・組頭の四役、実員9名。いずれも宿の富商であり、薬種商、味噌と鉄の商い、旅籠屋 ── それぞれの家業を持つ人々であった。本稿では宿役人の制度と顔ぶれ、その報酬、そして一般の宿民が負った伝馬役の仕組みを読む。
- 見付宿の宿役人は名主・問屋・年寄・組頭の四役で、天保13年の実員は兼職により計9名。終身・世襲の名誉職で、いずれも宿の富商であった。
- 問屋の報酬「問屋給米」は寛文5年(1665年)から年7石。幕末に物価が数倍に騰貴しても額は据え置かれた。
- 伝馬役は表間口の間数に応じて171軒に賦課され、一軒役から二ヶ月役まで細かく区分された。
- 貞享元年(1684年)には役の金納化(役金)が始まり、宝暦元年(1751年)から間口割の平均負担に改められた。
二重の支配 ── 地方と往還
宿役人の仕事を理解するには、まず見付宿が受けていた「二重の支配」を押さえる必要がある。同書によれば、宿の行政事務は「地方(じがた)」と「往還(おうかん)」とに区別された。宗門人別改や年貢など土地と人にかかわる事務が地方で、これは中泉代官所が主管する。駅伝すなわち人馬継立と、それに関連する道路・警察の事務が往還で、こちらは江戸の道中奉行の管轄である。見付宿が提出した書類の宛名には「道中御奉行様」「中泉御役所」などが並び、一つの宿場が二つの系統の役所に仕えていたことがそのまま現れている。
四役九人 ── 天保13年の顔ぶれ
天保13年の見付宿役人は、役職の数でいえば名主4・問屋3・年寄6・組頭5であるが、実員は名主と問屋を兼ねる者3名、年寄と組頭を兼ねる者5名などにより、計9名であった。同書は「宿役人は終身職であり、また世襲の名誉職であり、いずれも宿の富商であり有力者であった」と性格づける。名前帳から主な人物を拾うと、次のようになる。
| 役 | 名 | 年齢(当時) | 持高 | 家業ほか |
|---|---|---|---|---|
| 問屋兼名主 | 五兵衛 | 55歳 | 13石8斗余 | 薬種と質物の商売。家内8人 |
| 問屋兼名主 | 三郎右衛門 | 56歳 | 75石3斗余 | 味噌と鉄の商売、本陣を相勤める。文化14年から在職 |
| 問屋兼名主 | 平八 | 30歳 | 51石余 | 天保年間に問屋名主を継ぐ |
| 名主兼年寄 | 理平 | 70歳 | 21石5斗余 | 旅籠屋渡世。文化2年に帳付役から勤め上がる |
| 年寄兼組頭 | 幸八 | 33歳 | 36石6斗余 | 小間物と質の商売 |
| 年寄兼組頭 | 五郎右衛門 | ─ | 5石4斗余 | 醤油の配り商い |
この表からいくつものことが読み取れる。第一に、全員が家業を持つ兼業者であることである。同書は、問屋とは本来運送を業とする者が命ぜられた役であるが、見付宿では「全員兼業をもっている」と指摘する。第二に、持高の幅である。75石余の三郎右衛門から5石余の五郎右衛門まで、同じ宿役人でも経済力には大差があった。第三に、経歴である。70歳の理平は文化2年(1805年)に帳付役として勤め始め、文政2年(1819年)に年寄組頭兼帯、天保9年(1838年)に名主兼帯と、30年以上かけて宿役の階段を上っている。宿役人は一代の名誉であると同時に、長い年月をかけた家の勤めでもあった。
名主か庄屋か ── 呼び名の変遷
見付宿の宿役人の呼び名は時代とともに変わった。同書によれば、明和・安永以前と推定される伝馬役人軒別絵図には「庄屋」8名と問屋2名が見えるが、これよりさき寛延3年(1750年)、それまでの宿役人9人が全員退役した際に、4人の問屋のうち御朱印問屋の3人が名主を兼帯する制度が始まった。これが見付宿の問屋兼名主制度の最初であり、この頃から公式には「庄屋」に代わって「名主」の名称が用いられるようになる。文政10年(1827年)の記録には問屋兼名主・年寄兼組頭という兼職制が明瞭に現れ、これが幕末まで続いた。
問屋給米 ── 据え置かれた報酬
問屋役の事務に対する報酬が問屋給米である。見付宿問屋御用留に写された寛文5年(1665年)の証文によれば、見付・浜松の二宿に対し「宿ニ付米七石宛」が当年から毎年下されることとなった。見付宿の内訳は、駄賃問屋1人に3石5斗、御朱印問屋3人に3石5斗。前者は諸大名とその家中の、賃銭を払う継立に常時勤務し、後者は1ヶ月に10日ずつの交代で幕府公用の無賃継立にあたった。この給米は西瀬新田の年貢米の中から支給され、のちに二種の問屋事務が統合されると、天保10年(1839年)までには金に換算した「給米金」として支給されるようになった。
このほか問屋兼名主の給料として一人金10両(宿会計から支出)、年寄兼組頭には一人金5両があった。注目すべきは、同書のいう「幕末に至り物価は三倍に五倍に騰貴してもこの給料給金の額はすべて一定不変であった」という事実である。報酬は実質的に目減りし続けたわけで、宿役人の勤めは収入源というより、富商の家格に伴う名誉と負担であったことがここからもうかがえる。
伝馬役 ── 間口で決まる負担
宿の一般民が負った公役が伝馬役である。寛永15年(1638年)に伝馬居屋敷とされたのは、宿の中央部、東坂・馬場・西坂三町の街道両側に並ぶ171軒であった。その負担は家の表間口の間数に応じて定められた。同書が軒別絵図から集計したところでは、間口2間の家が約2割で最も多く、4間・5間がそれぞれ約15%、6間が約10%。11間・13間という大間口は各1軒で、いずれも庄屋の家であった。
労役の単位は細かい。一軒役を最高に、十ヶ月役・九ヶ月役・七ヶ月役・半軒役、さらに六ヶ月役から二ヶ月役まであり、171軒のうち一軒役以上の家が65軒、一軒役未満半軒役以上が75軒、それ以下が31軒であった。また伝馬役を免ぜられた家として、場末の61軒、寺領27軒、社領24軒、問屋2軒、庄屋8軒、そして御朱印屋敷(上村清兵衛)があった。
負担のかたちは時代とともに金納化する。貞享元年(1684年)には役屋敷を上・中・下・下々の四段階に分け、「小間口一間ニ付上限十七貫、中限十四貫、下々限八貫」(問屋御用留)の役金を取り立てる制度となった。ところが宝暦元年(1751年)に至り、上位の間口の家がかえって困窮して取立てが難しくなったため、等級差を廃して表間口数に応じた平均割に改められ、これが幕末まで続いた。明和7年(1770年)の明細差出帳には、宿の惣間口787間4尺8寸に対し役金182両1分余(小間1間につき銀13匁8分8厘余)とある。間口という目に見える尺度で公役を割り付ける仕組みは、江戸時代の宿場町に広く見られるが、見付宿ではその変遷が帳簿で具体的に追えるのである。
役を免れた屋敷 ── 上村清兵衛と安間平次弥
伝馬宿の中にあって役を免ぜられた特別な屋敷が二つあった。一つは東坂町西端の御朱印屋敷・上村清兵衛家である。「古来より御朱印居屋敷高反別無之候」と記される名字帯刀の郷士格の旧家で、文政4年(1821年)と天保11年(1840年)の大火で類焼した際には、幕府から特別の救済として米100石が下されている。文政の火災の際の願書には酒造の由緒も見える。もう一つは東坂町の御証文屋敷・安間平次弥家で、代官伊奈備前守の証文によって除地とされた屋敷である。こうした特権屋敷の存在は、宿場町の成立時にさかのぼる由緒が幕末まで生き続けていたことを示している。
伝馬と人馬継立の実務、そして宿を外から支えた助郷村々については、見付宿の助郷制度と周辺村の負担および長州征伐と見付宿が扱っている。幕末の宿財政と年貢の実際は、特集第4ページ中泉代官と見付宿の年貢に続く。
更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第3ページ)。