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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(10)

伝馬賃銭のしくみ ── 御定賃銭・相対賃銭と幕末の物価騰貴

見付から浜松まで馬一疋234文、袋井まで69文。宿場の値段表には、公定価格と自由価格という二つの世界が同居していた。

宿場町で人と馬を借りるには、いくらかかったのか。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第一章は、見付宿の伝馬賃銭を具体的な文数で示している。そこから見えてくるのは、単純な料金表ではない。幕府だけが無賃で使え、諸藩は公定価格を払い、一般の旅人はまったく別の自由価格で契約する ── 同じ人足と馬に、身分と用向きによって三通りの値段がついていた仕組みである。本稿ではこの構造と、幕末の物価騰貴がそれをどう歪めたかを読む。

本稿の要点
  • 伝馬制はもともと徳川氏の専用交通機関で、無賃で使えるのは幕府のみ。諸藩は規定の伝馬賃を支払った。
  • 見付・浜松間は本馬234文、見付・袋井間は本馬69文。これを御定賃銭(正徳の元賃銭)という。
  • 文政2年(1819年)より2割増、同8年より3割増、都合5割増。幕末には6倍5割増にまで達した。
  • 御定賃銭は伝馬以外には適用されず、一般の通行は当事者が自由に契約する相対賃銭によった。相対賃銭は御定賃銭のおよそ2倍が普通であった。

幕府だけが無賃であった

同書は伝馬制の性格を、まずこう説明する。「伝馬制はがんらい徳川氏の専用交通機関として設けられたもので、参勤交代の必要から諸藩の使用をも認めたが、無賃使用は幕府のみであり諸藩の人貨はすべて規定の伝馬賃を支払って使用するのである」。

つまり伝馬は、公共の運送サービスとして始まったのではない。徳川の公用のための仕組みが先にあり、参勤交代という制度上の必要から諸大名にも開放された、という順序である。この由来が、無賃と有賃の線引きをそのまま決めていた。宿の側から見れば、幕府の御用通行は人馬を出しても代金が入らない仕事であり、諸藩の通行は代金の入る仕事であった。長州征伐と見付宿で見たとおり、幕末に幕府軍の通行が激増したとき宿が疲弊したのは、まさにこの無賃の原則が効いたためである。

宿が伝馬を務める根拠となったのが、幕府の朱印状である。同書は、いわゆる御伝馬御合印之御朱印に「御通行所持御朱印引合人馬相立様」──御朱印を照合したうえで人馬を出すように──と、当時の中泉代官彦坂九右衛門の添書があることを、見付宿問屋御用留から引いている。宿の窓口では、まず御朱印を確かめ、それから人馬を立てたのである。

公定価格 ── 御定賃銭。 諸藩が支払った規定の伝馬賃が御定賃銭である。同書が挙げる見付宿の額は次のとおりである。

区間本馬(ほんま)1疋軽尻(からじり)1疋人足1人
見付 ─ 浜松間(4里半)234文151文117文
見付 ─ 袋井間(1里半)69文45文35文

出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』第一章。本馬は荷物を積んだ馬、軽尻は人を乗せるか軽い荷を積んだ馬をいう。

この表は、宿場の料金が距離に応じて素直に決まっていたことを示している。浜松までは天竜川を舟で越して4里半(4里8町)、袋井までは1里半。距離の比はおよそ3倍で、本馬の賃銭も234文対69文とおおむね3倍強である。また同じ区間でも、本馬・軽尻・人足の順に安くなる。運べる荷の量に応じた合理的な価格差である。

同書はこれを「御定賃銭(いわゆる正徳の元賃銭)」と呼ぶ。正徳年間(1711〜1716年)に定められた基準額という意味であり、以後の賃銭はすべてこの額を基本として割増率を掛けるかたちで運用された。基準額そのものは動かさず、割増率だけを改定していく ── 江戸幕府の物価政策に共通する方式である。

割増の積み重ね ── 幕末には六倍五割増。 物価が上がれば、正徳の基準額のままでは人足も馬士も割に合わなくなる。そこで幕府は割増を命じた。同書はその推移を次のように記す。文政2年(1819年)より2割増、同8年(1825年)より3割増、都合5割増。これは「その一例であり、幕末には六倍五割増にもなっている」。

六倍五割増とは、基準額のおよそ7.5倍という意味に読める。正徳期に234文であった見付・浜松間の本馬賃が、幕末には1貫700文を超える計算になる。同書が宿を動かした人々の節で「幕末に至り物価は三倍に五倍に騰貴しても」と述べていたことを思い出せば、賃銭の割増はむしろ物価の上昇を追いかけていたというべきかもしれない。ただし注意したいのは、宿役人の給料や問屋給米が「一定不変であった」のに対し、伝馬賃銭には割増が認められたという非対称である。運送の実費には手当てがされ、宿の運営を担う役職の報酬は据え置かれた。宿役人が家業を持つ富商でなければ務まらなかった理由が、ここにも見える。

自由価格 ── 相対賃銭という別の世界。 本稿でもっとも重要な指摘は、次の一文である。「そしてこの御定賃銭ならびにその割増は伝馬以外には適用されない」。

すなわち、これまで見てきた公定価格は、あくまで伝馬 ── 幕府と諸藩の公用通行 ── のための値段であった。ではそれ以外の、一般の士農工商の旅人はどうしたのか。同書は続けてこう述べる。「一般の士農工商の通行に応じた人馬賃銭は当事者の自由に契約するいわゆる相対賃銭(あいたいちんせん)によったものである。相対賃銭は大体御定賃銭の二倍が普通であった」。

相対とは、当事者どうしの直接交渉のことである。庶民の旅人が馬を借りたければ、馬士と値段を交渉して決める。その相場はおおむね公定価格の2倍であった。つまり同じ区間の同じ馬に、幕府は無賃、諸藩は234文、一般の旅人は470文前後 ── 三通りの値段が並立していたことになる。

この構造は、宿場の経営を考えるうえで示唆に富む。公用の通行は宿の義務であり、無賃または安い公定価格でしか収入にならない。宿が現金を得られるのは、むしろ一般の旅人を相手にした相対の商売の側であった。江戸の旅ブームと見付宿が描くように、庶民の旅が盛んになる江戸後期は、宿場にとって公用負担を埋め合わせる収入源が育っていく時期でもあった。そして問屋場と六枚の高札で見た駄賃高札は、この二つの価格世界のうち公定の側を、誰の目にも見えるかたちで掲示するものだったのである。

橋頭の宿駅という位置。 最後に、賃銭表が前提としている見付の地理をあらためて確認しておきたい。同書によれば、見付宿は京へ70里、江戸へ59里半で、東海道のほとんど中間に位置する。東の袋井宿へは1里半、西の浜松宿へは天竜川を舟で越して4里半。「浜松とともに天竜川の橋頭宿駅で、大井川の島田金谷といった位置を占めている」と同書は書く。

橋頭の宿駅であることは、賃銭にも直接影響した。西へ向かう旅人は必ず渡船を要し、増水すれば川留めとなる。人馬を出す側にとって、天竜川越えを含む見付・浜松間は他の区間より手間のかかる仕事であった。本馬234文という額の背後には、この川がある。天竜川の渡しについては池田宿の賑わいと本陣の記憶もあわせて読まれたい。

更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第10ページ)。

参考資料

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