見付は磐田原台地の南裾に、東西に細長く発達した町である。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)は、寛永18年(1641年)の古絵図についてすでに「街村形態は現在と大した変化がない」と述べる。台地の裾を縫う東海道に沿って家々が連なり、北は畑と山林、南は水田と湿地。この地形の枠のなかで、見付宿は江戸時代を通じて家数をほぼ倍以上に増やしていった。本稿では同書第一章にもとづき、まず天保13年(1842年)の絵図で宿を東西に歩き、次に戸口の変遷を数える。
- 見付宿は京へ70里、江戸へ59里半と、東海道のほぼ中間に位置した。西は天竜川を控えた橋頭の宿駅である。
- 天保13年、幕府の宿場取締の一行に提供された絵図が、宿の景観を克明に伝えている。
- 家数は寛永15年(1638年)の225軒から明和7年(1770年)の600軒、天保13年の1,014戸へと増加した。
- 宿の総石高は1,175石余。最古の定納畑には今川氏の朱印があると同書は記す。
東海道のほぼ中間 ── 見付という位置
『東海道遠州見付宿』によれば、見付宿は京へ70里、江戸へ59里半と、東海道のほとんど中間に位置する。東の袋井宿へは1里半、西の浜松宿へは天竜川を舟で越して4里半(4里8町)。大井川をはさんで島田宿と金谷宿が向かい合うように、見付は天竜川の東岸に立つ「橋頭の宿駅」であった。渡河という難所を控えた位置は、平時には人と物の滞留がもたらす繁華となり、増水の川留めの際には宿泊客であふれる混雑となって現れる。
地名の由来について、同書は「昔東海道を下った旅人達はこの地にさしかかって初めて富士の高嶺を仰ぐことができたので、見付という地名が生じたという」と伝承のかたちで記している。あくまで「という」と伝えられる話であり、史料で確認できる語源ではないが、磐田原台地の南裾という見付の立地をよく言いあてた説話ではある。なお見付の地が古代遠江国府の所在地と関わることは同書も詳述するが、国府政庁の正確な位置は「遺憾ながら決定し難い」とし、町の南端の国府八幡宮(府八幡宮)の地域とする説が有力と述べるにとどめている。国府論争の現在については見付の成り立ちもあわせて読まれたい。
天保13年の絵図で歩く ── 境松から一里塚まで
宿の景観を伝える中心史料は、天保13年(1842年)の「宿表通軒別職業別絵図」である。この年、五街道の宿場取締の御用として、御勘定御留役松井助左衛門・田辺彦十郎、御普請役上条要助・倉橋藤一・中川亮平・磯益之助の一行が見付宿に到着し、30日あまり逗留した。絵図はこの一行に提供されたもので、街道沿いの一軒一軒の職業までを書き上げている。同書の記述にそって、西から宿を歩いてみよう。
浜松宿から東へ向かうと、まず天竜川の渡しである。ここは池田村が管理した舟渡しで、川を渡ると池田、森下、宮之一色、下万能の村々を過ぎ、中泉村で街道は北へ折れる。宿の入口の境松では、松並木道の両側に国府八幡宮と国分寺跡が向かい合い、この辺りには茶店が並び、名物の蕎麦五文取(あん餅)を売っていたと絵図は伝える。只来坂を下ると左右に横町の家並みが見え、西光寺前で加茂川の土橋を渡れば、そこが宿の西の木戸である。
木戸の内は西坂町、ついで馬場町。中川に架かる板橋(中川橋)を渡って東坂町までの一帯が宿の中心部で、問屋場と高札場を核に、本陣・旅籠屋が軒を並べ、その間に飲食店や雑貨店が混じる繁華な町並みが続いた。東坂のはずれの東木戸を過ぎ、左手に裸祭で知られた天神の社(見付天神)を見て東坂の坂道を上ると、一里塚がある。右が椎、左が松であったという。この辺りが三本松で、ここから街道は磐田原を横切り、みかの坂を下って太田川の流域に出、袋井宿へ至る。宿の木戸と高札場については見付宿の東木戸・西木戸・高札場に詳しい。
家数と人口 ── 二百年の変遷を数える
同書が諸帳簿から拾い上げた見付宿の戸口は、次のように推移する。
| 年代 | 家数 | 人口 | 出典(同書所引) |
|---|---|---|---|
| 寛永15年(1638年) | 225軒 | ─ | 天保13年書上帳(伝馬役171軒+借地店借54軒) |
| 年代不詳(明和・安永以前) | 294軒 | ─ | 伝馬役人軒別絵図 |
| 明和7年(1770年) | 600軒 | 約2,200人 | 明和7年見付宿明細差出帳 |
| 文政7年(1824年) | 「家数とも千軒余り」 | ─ | 見付往来 |
| 天保13年(1842年) | 1,014戸 | 3,918人 | 天保13年書上帳 |
| 文久2年(1862年) | 1,083軒(表町732軒) | ─ | 御上洛御宿割下帳 |
| 明治12年(1879年) | 1,440戸 | 6,561人 | 同書第一章 |
数字の背後にある宿の構造も、帳簿は伝えている。寛永15年の225軒とは、伝馬役を勤める本百姓171軒に、借地店借(借家・店借の者)54軒を加えた数である。この「伝馬役171軒」という枠は驚くほど動かず、明和7年の絵図でも171軒、幕末の元治2年(1865年)でも167人と、二百年あまりほぼ一定である。増えたのは役を負わない家々 ── 借家人や場末の家であった。天保13年の宿内574軒の内訳は本百姓258軒(うち伝馬役171軒)、無高316軒で、宿の過半が土地を持たない層になっていたことがわかる。
人口は明和7年の約2,200人(明細差出帳の内訳は男約1,100・女約1,120・僧11。合計には帳簿上若干の異同がある)から、天保13年には3,918人へ増えた。この間、宿の職業も多様化し、天保13年には職業の種類が71を数え、「百姓から転業したものもすくなくない」と同書は述べる。本陣・旅籠屋は、明和7年に本陣2軒・旅籠屋31軒であったものが、天保末年頃には旅籠屋56軒に達し、文久2年には本陣2軒・脇本陣1軒・旅籠屋41軒となっている。宿場の人口規模や旅籠数は幕府の東海道宿村大概帳(天保14年調)が伝える見付宿の姿ともおおむね符合する。
宿の土地 ── 総石高1,175石と新田開発
見付宿の総石高は1,175石8斗3升3合であった。その内訳は、宿の北方一帯の畑地である定納畑約624石を最古とし ── 同書はこれに「今川氏の朱印あり」と注記する。つまり戦国期今川氏の時代から続く土地台帳上の由緒である ──、天神付近の午御改原畑147石余(延宝6年〈1678年〉検地)、西瀬新田326石余(慶長9年〈1604年〉検地)、卯新田64石余(寛文3年〈1663年〉検地)、亥新田5石余(寛保3年〈1743年〉検地)、久保請所・今之浦流新田(いずれも安永8年〈1779年〉検地)などが加わる。慶長から安永まで、検地年代の連なりはそのまま宿周辺の新田開発の歴史である。
このほか宿の東北に続く岩井野は、宿の役馬のための秣場(採草地)であり、御伝馬林として無税の百姓持林も認められていた。伝馬という公役を負う宿場町が、その働き手である馬の飼料地まで含めて一つの経済単位をなしていたことを、これらの土地は物語っている。年貢と土地制度の詳細は特集第4ページ中泉代官と見付宿の年貢で述べる。
なお、ここに挙げた数値はいずれも同書所引の帳簿によるもので、帳簿間には若干の異同がある。宿の成立過程そのものは見付宿の成立と宿場範囲を、宿場の通史は見付宿を参照されたい。
更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第2ページ)。