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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(24)

伝馬を飼う ── 飼料・馬具・病馬から見る宿駅の維持費

伝馬の維持は、馬を買う金の話であると同時に、草を刈る場所の話でもあった。

宿駅制度を支えていたのは、制度でも帳簿でもなく、生きた馬である。生きているものは、餌を食い、病み、老いる。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)は、その飼養を支えた土地 ── 岩井野の秣場と無税の御伝馬林 ── を記録している。本稿では、飼料をめぐる争いの記録から伝馬の維持という仕事を読み、あわせて同書から確認できない領域を明示する。

本稿の要点
  • 問屋場の裏手には人足部屋・人馬継立場とならんで馬小屋が設けられていた。
  • 宿の東北の岩井野が役馬の秣場とされ、御伝馬林として無税の百姓持林も認められていた。
  • 見付宿最古の絵図は寛永18年の秣場出入の裁許図であり、草地は争いの場であった。
  • 飼料費・馬具費・病馬の負担を示す数値は同書から確認できず、本稿では推測しない。

馬小屋という設備

宿駅制度を支えていたのは、制度でも帳簿でもなく、生きた馬である。生きているものは、置いておくだけでは動かない。餌を食い、病み、老いる。

その世話の場所は、問屋場の裏手にあった。問屋場と六枚の高札で見たとおり、『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)によれば、問屋場の裏には人足部屋、人馬継立場、そして馬小屋が設けられていた。表通りに面した事務所と、裏手の広い作業スペース。宿駅の実務は、この二つがそろってはじめて成り立った。

草をどこから取るか。 馬を養う上で最初に必要なのは、草である。同書によれば、宿の東北に続く岩井野は宿の役馬のための秣場(採草地)であった。秣(まぐさ)とは馬の飼料となる草をいう。

あわせて、御伝馬林として無税の百姓持林も認められていた。これは見落とされやすいが、重要な仕組みである。中泉代官と見付宿の年貢で見たとおり、見付宿の土地には定納畑・午御改原畑・新田など細かく年貢が課されていた。そのなかで、伝馬に関わる林だけが無税とされた。伝馬役という公役に対して、幕府は金銭ではなく土地の非課税というかたちで手当てをしていたことになる。

この点は、御用継立の実務で見た御蔵前入用・六尺給米の免除と性格が同じである。伝馬宿への補償は、支給ではなく免除というかたちをとった。宿の会計に金が入るのではなく、出ていくはずの金が出ていかない。見付宿の財政で述べたとおり、宿の会計を額面だけで追うと、こうした現物・非課税のかたちの手当てが視野から落ちる。

秣場は争いの場だった。 草を刈る場所は、放っておいて確保できるものではなかった。同書が見付宿最古の絵図として挙げるのは、寛永18年(1641年)の「岩井野秣場出入御裁件御裏書絵図」である。「出入」とは訴訟のこと、「御裁件」は裁許にかかわる文書を指す。つまりこの絵図は、岩井野の秣場をめぐる争いの裁許にあたって作られ、裁許状の裏に描かれたものである。

見付宿にもっとも古く残る絵図が、馬の草をめぐる訴訟の産物であった ── この事実は、秣場の重要性を何より雄弁に語っている。絵図で読む見付宿の周縁で述べたとおり、江戸時代の絵図は風景を写した絵ではなく、権利と義務の線を引くための文書である。「見附宿御伝馬自林絵図」が御伝馬林・大久保御林・向笠御林といった官林と、加茂村自林などの村持林を一枚に描き分けているのも、同じ理由による。

草地は有限である。宿の役馬が食う草と、近隣村の百姓馬が食う草は、同じ野から出る。馬をどう補ったかで述べたとおり、街道の必要と村の生産は同じ馬をめぐって競合したが、その競合は馬そのものだけでなく、馬を養う土地にも及んでいた。

飼料・馬具・病馬 ── 確認できないこと

飼養にかかる費用について、正直に書いておかなければならない。見付宿における飼料の年間必要量、飼料の購入価格、馬具(鞍・沓・綱など)の費用、病馬の治療や斃馬の処理にかかる負担 ── これらを示す数値を、本稿は同書から確認できていない。

近世の宿駅一般では、これらが馬持の家の負担であったことは制度の建て付けから推測できる。しかし推測を数値で語ることはしない。馬をどう補ったかで述べたとおり、個々の馬持の家の経営を復元するには、宿方文書ではなく、その家に伝わる帳簿を探す必要がある。同書がこの領域に踏み込んでいないのは、著者の関心が宿の機構にあり、個別経営の分析にはなかったためと考えられる。

収入は公定、支出は市場。 確認できないことが多いなかで、構造として言えることが一つある。

馬持の収入は、公定された御定賃銭に縛られていた。本馬・軽尻・人足で見たとおり、見付・浜松間の本馬1疋234文という額は正徳年間(1711〜1716年)に定められた基準であり、以後の改定は割増率の変更というかたちでのみ行われた。同書は、文政2年(1819年)より2割増、同8年(1825年)より3割増、幕末には「六倍五割増」と記す。ただし最後の語義は徴収例を未照合のため、実額へ換算しない。

一方、支出の側 ── 飼料も馬具も馬そのものの購入価格も ── は市場で決まる。割増が飼料価格の上昇と同じ速さで動いたかどうかは、同書からは確認できない。したがって「馬持は赤字であった」とも「割増で十分に補われた」とも、本稿は断定しない。言えるのは、収入が公定価格に、支出が市場価格に連動するという非対称が制度上存在したことである。

ただし、この非対称を緩和する仕組みが皆無だったわけではない。秣場と無税の御伝馬林は、飼料費のうち少なくとも草の部分を現物で手当てするものであった。制度は、価格の非対称を土地で埋めようとしていたと読むこともできる。これは本稿の解釈である。

草地の意味が失われるとき。 明治5年(1872年)、問屋場が廃止され、人馬継立の仕組みは終わった。伝馬役という公役が消えれば、その公役のために設けられた秣場と無税林の根拠も消える。

小字・地名資料で見たとおり、同書が掲げる見付町の地名一覧には、宿場町の記憶を残す小字が数多く並んでいる。制度が消えても、土地の名は残る。岩井野という地名がいまも指し示しているのは、かつてそこが馬の草を刈る場所であり、そのために訴訟まで起きた土地だった、という事実である。

馬一疋の維持費を復元するための台帳。 秣場と無税林は確認できても、それだけで馬持の経営は分からない。馬一疋の維持には、現物で得るもの、市場で買うもの、突発的に失うものがある。必要な項目を先に分けておく。

費目想定される根拠史料本稿の確認状況
馬の購入・売却売買証文・家の出納帳価格・更新周期とも未確認
草・藁・穀類秣場の権利文書・飼料購入帳岩井野秣場と御伝馬林は確認、数量は未確認
鞍・沓・綱馬具商の帳簿・修繕記録未確認
厩の維持普請帳・屋敷図問屋場裏の馬小屋は確認、費用は未確認
病気・斃馬家日記・治療記録・損失届未確認
継立収入人馬継立帳・賃銭受取御定賃銭の基準は確認、家別収入は未確認

この収支台帳が埋まらない段階で、「維持費が高かった」「馬持は赤字だった」と結論することはできない。現在の資料が確実に示すのは、草を得る土地が制度上確保され、その境界をめぐって訴訟が起きたことまでである。土地の権利が大きな争点になった事実は、飼料確保が宿駅維持の中核だったことを示す。

更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。秣場出入絵図の位置づけ、無税林を現物補償として読む考察、収入と支出の非対称の整理を追加し、未確認の費目を明示した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。

参考資料

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