東海道の宿には人足100人・馬100疋を常備する義務があった ── よく知られたこの一文を、どう読むべきか。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)が伝える見付宿の数字は、定数という考え方の性格をよく示している。本稿では、常備人馬の数値をどう読むかという方法の問題を整理し、そのうえで二百年間動かなかった171軒という枠の意味を考える。
- 「人足100人・馬100疋」は東海道の宿一般についての制度上の基準であり、見付宿の史料で本稿は未確認である。
- 常備人馬の数値には、実在の常備数とみる読み方と、賦課の基準・上限とみる読み方がある。
- 伝馬役を負う171軒という枠は、寛永15年から幕末までほぼ動かなかった。
- 宿の家数は4倍以上に増えたが、増えたのは役を負わない無高層であった。
「百人百疋」という数字の出どころ
東海道の宿には人足100人・馬100疋を常備する義務があった ── 宿駅制度の解説でしばしば目にする一文である。この数字は近世交通史の通説として定着しており、慶長6年(1601年)の伝馬定では伝馬36疋であったものが、寛永期に100人100疋へ引き上げられたとされる。児玉幸多『近世宿駅制度の研究』(吉川弘文館、1957年)以来の制度史研究が整理してきた枠組みである。
ここで正直に断っておかなければならない。この「100人100疋」は東海道の宿一般についての制度上の基準であり、見付宿の史料でこの数値を直接確認した記述を、本稿は『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)のうち確認できた範囲に見いだしていない。同書第三章「伝馬制と人馬継立の実際」に記載がある可能性はあるが、確認しないまま「見付宿には100人100疋が置かれていた」と書くことはしない。以下は、この基準をどう読むべきかという方法の話である。
学説の整理 ── 常備人馬の数字をどう読むか。 宿駅の常備人馬をめぐっては、学派の対立というより、史料の読み方の分岐がある。どちらの読み方を採るかで、同じ数字の意味が変わる。
読み方A:実在の常備数とみる。 触書や差出帳に記された人馬数を、その宿に実際に置かれていた人と馬の数として読む立場である。根拠は、宿がこの数値を幕府への公式報告として提出していること、そして人馬が不足すれば通行が滞る以上、宿は現実に数を揃える必要があったことである。宿の規模を他宿と比較したり、街道の輸送能力を推計したりする際には、この読み方が前提となる。弱点は、報告数値が実態を上回る方向に歪みやすいことである。不足を報告すれば宿の落ち度になりかねない。
読み方B:賦課の基準・上限とみる。 同じ数値を、宿が負うべき義務の量、あるいは宿の責任範囲の上限を示す規定として読む立場である。根拠は、実際の継立が助郷からの応援を常態としていたこと、そして不足時の補充手順が制度として整備されていたことである。馬をどう補ったかで見たとおり、宿内での更新・雇い馬・助郷出役という三つの経路が用意されていたのは、定数を宿内だけで満たすことが常に可能ではなかったことの裏返しでもある。弱点は、この読み方では宿の実際の輸送能力を数量的に押さえられなくなることである。
本稿の立場。 本稿は、数値を読み方Bに寄せて扱う。理由は、見付宿に残された帳簿の大半が道中奉行と代官所へ差し出すために作られた文書であり、そこに記された数値は第一義的に「義務としての数」だからである。ただしAを否定はしない。実務が現実に回っていた以上、報告数値と実態が大きく乖離し続けたとも考えにくい。本稿では数値を引くたびに、それが定数か実数かを本文中で明示する方針をとる。
定数を支えた土地と家
定数を満たすには、家と土地が要る。同書によれば、寛永15年(1638年)に伝馬居屋敷とされたのは、東坂・馬場・西坂の三町の街道両側に並ぶ171軒であった。人と馬を出す義務は、この171軒に賦課された。
馬を養う土地も宿に付属していた。同書は、宿の東北に続く岩井野が宿の役馬のための秣場(採草地)であり、あわせて御伝馬林として無税の百姓持林も認められていたと記す。絵図で読む見付宿の周縁で見た「見附宿御伝馬自林絵図」は、この御伝馬林・大久保御林・向笠御林といった官林と村持林を描き分けたものである。常備人馬という制度は、街道沿いの家並みだけでなく、その北に広がる林と草地まで含めた一体の仕組みとして成り立っていた。
動かなかった数字、動いた数字。 見付宿の史料でもっとも印象的なのは、171軒という枠がほとんど動かなかったことである。同書によれば、明和・安永以前と推定される伝馬役人軒別絵図でも171軒、幕末の元治2年(1865年)でも167人と、二百年あまりほぼ一定であった。
| 年代 | 宿の家数 | 伝馬役を負う家 |
|---|---|---|
| 寛永15年(1638年) | 225軒 | 171軒 |
| 年代不詳(明和・安永以前) | 294軒 | 171軒 |
| 明和7年(1770年) | 600軒 | ─ |
| 天保13年(1842年) | 1,014戸 | 171軒(宿内574軒のうち本百姓258軒の内数) |
| 元治2年(1865年) | ─ | 167人 |
出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』第一章・第二章所引の各帳簿。空欄は同書から確認できなかった項目である。
宿の家数が225軒から1,014戸へと4倍以上に増えるあいだ、役を負う家はほぼ同数のままだった。増えたのは役を負わない層である。天保13年の宿内574軒の内訳は本百姓258軒・無高316軒で、宿の過半が土地を持たない層になっていた。
この対比は、定数という考え方の性格をよく示している。100人100疋であれ171軒であれ、それは町の実勢に合わせて更新される数字ではなく、いったん定めたら動かさない枠として運用された。御用継立の実務で見た御定賃銭が正徳の基準額を固定したまま割増率だけを改めていったのと、発想は同じである。基準は動かさず、現実とのずれは別の手段で吸収する ── 江戸幕府の制度運用に共通する型がここにある。
定数が消えた日。 この枠組みが終わるのは明治5年(1872年)である。同書によれば、この年に問屋場が廃止され、二百数十年続いた人馬継立の仕組みが終わった。問屋場と六枚の高札で見たとおり、同書は廃止まで問屋場の一帯が「往来の人馬輻輳を極めたところ」であったと書いている。
定数が消えるということは、義務が消えるということでもある。171軒に課された伝馬役も、岩井野の秣場が持っていた意味も、この時点で根拠を失った。宿場町としての見付の終わりが、まずこの場所から始まったというのは、そういう意味である。
先行研究と用語の整理。 児玉幸多の制度史研究は、100人・100疋を東海道宿駅の制度上の基準として整理した。田中友次郎の見付宿研究は、その全国的な枠の下で、役を負う171軒、間口割、秣場など見付固有の構造を示す。両者は同じ種類の数字を述べているのではない。前者は幕府が宿へ求めた輸送力、後者は見付で負担を配分した家と土地を扱う。
| 用語 | このページでの意味 | 史料上の注意 |
|---|---|---|
| 定数 | 制度上、宿が用意すべき人馬数 | 当日の実働数とは限らない |
| 実働数 | 特定の日に実際に継いだ人馬数 | 日別帳簿が必要 |
| 伝馬役171軒 | 見付宿で役を負担した家の枠 | 100人・100疋と単純対応しない |
| 助郷 | 宿内で不足した人馬を補う村々 | 宿の常備数に含めるかを区別する |
したがって、「171軒で100疋を常時飼った」といった換算はできない。一軒が何疋を持ったか、雇い馬をどれだけ用いたか、助郷分をどう数えたかが未確認だからである。本稿の結論は、100人・100疋を義務の基準として読み、見付での実数は保留する、というところに置く。
更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。常備人馬の読み方をめぐる整理、戸数と伝馬役家数の対比表、定数固定という制度運用の型についての考察を追加した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。