『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)の第三章「伝馬制と人馬継立の実際」は、問屋場の位置を特定するところから始まる。問屋場は宿駅制度の実務の中心であり、ここで人足と馬が集められ、荷が積み替えられ、次の宿へ継ぎ送られた。同書の記述をたどると、その場所は宿のほぼ中央、東坂町分にあった。そして興味深いことに、この専用の建物は宿の成立当初からあったわけではないらしい。本稿では問屋場の位置と設備、掲げられた六枚の高札、そして問屋が自宅で交代事務をとっていた時代までをさかのぼる。
- 問屋場は大見寺門前の御殿小路から往還を西へ4間余行った北側、東坂町分にあった。宿のほぼ中央である。
- 天保13年(1842年)の宿絵図から、表間口は5〜6間と推定される。
- 裏手には人足部屋、人馬継立場、馬小屋が設けられ、明治5年(1872年)の廃止まで人馬でにぎわった。
- 明和・安永以前と推定される絵図には問屋場が見えず、東西2軒の問屋がそれぞれ自宅で交代に事務をとったと同書は推定する。
大見寺門前から西へ四間余
同書は問屋場の位置を次のように特定する。大見寺の門前を通る御殿小路から、往還(旧東海道)を西へ4間余り行った北側 ── そこが問屋場であった。同書は当時(1974年の執筆時点)の目印として「いま警察署(現、磐田市家畜診療所)のある辺りである」と付記している。半世紀前の記述であり、現在の土地利用は変わっている可能性があるため、現地を訪ねる際は現況を確かめられたい。
規模については、天保13年(1842年)の宿絵図によって表間口5〜6間と推定される、としている。5間はおよそ9メートル。宿の家々のなかで最も多かった間口2間(宿を動かした人々参照)の倍以上であり、宿では大きな建物の部類に入る。所在は東坂町分で、東西に細長い見付宿のちょうど中央にあたる。宿の東西どちらから来た人馬も、ここで継ぎ立てを受けたのである。
裏手の人足部屋と馬小屋。 問屋場は表の建物だけで完結しない。同書によれば、その裏手には人足部屋、人馬継立場、馬小屋などが設けられていた。人足部屋は、継立の順番を待つ人足たちの詰所である。人馬継立場は荷を積み替える作業場、馬小屋は宿の役馬をつなぐ場所であった。表通りに面した事務所と、裏手の広い作業スペース ── これが宿駅の実務を支える一体の施設だった。
「明治五年(一八七二)問屋場が廃止されるまで幕末を通じて人馬継立場として、この一帯は往来の人馬輻輳を極めたところ」と同書は書く。輻輳(ふくそう)とは、混み合ってごった返すことである。旅人が本陣や旅籠で休んでいるあいだ、この裏手では荷が下ろされ、馬が引かれ、人足が呼ばれ、帳面がつけられていた。宿場町の華やかな表の顔の裏側に、この土と汗の現場があった。長州征伐と見付宿で見た幕末の大通行のとき、最も過酷な現場となったのもここである。
六枚の高札。 問屋場の近く、馬場町には御高札場があった。同書によれば、高さ1丈(約3メートル)、長さ2間半、横1間の構えで、幕府からの高札が掲げられた。見付宿が所持していた高札は次の六枚である。
| 高札 | 内容の性格 |
|---|---|
| 親子高札 | 親子・主従の道徳など、儒教的な生活規範を説くもの |
| 切支丹高札 | キリシタン禁制と訴人への褒賞を定めるもの |
| 毒薬高札 | 毒薬・偽薬の販売を禁じるもの |
| 駄賃高札 | 人馬の賃銭を公定額として掲示するもの |
| 御朱印高札 | 朱印状による無賃継立の取り扱いを示すもの |
| 火之元高札 | 火の用心を命じるもの |
高札名は同書の記載による。右欄の内容の性格は、江戸幕府の高札制度一般にもとづく説明である。
この六枚の並びは、幕府が宿場の人々と旅人に何を守らせようとしたかを、そのまま示している。道徳(親子)、宗教統制(切支丹)、商取引の安全(毒薬)、交通の公定価格(駄賃・御朱印)、そして防火(火之元)。とりわけ駄賃高札は、宿の人足や馬士と旅人とのあいだで賃銭をめぐる争いが起きないよう、公定額を誰にも見えるかたちで示すものであった。伝馬賃銭の実際については見付宿のすがたと戸口および特集第3ページで扱っている。宿の境界に置かれた木戸と高札場全体の配置は見付宿の東木戸・西木戸・高札場に詳しい。
問屋場が「なかった」時代。 本稿でもっとも興味深いのは、同書が示す次の推定である。明和・安永以前のものと推定される伝馬役人軒別絵図には、とくに問屋場(会所)が見えない ── というのである。
ではその頃、継立の事務はどこで行われていたのか。同書は絵図に描かれた二人の問屋の家に注目する。一つは東坂の御朱印屋敷の東隣にある問屋長吉宅(表間口8間1尺9寸)で、これが後世の問屋場の位置に該当するようである、とする。もう一つは西坂の玄妙小路前の南側にある問屋十右衛門宅(表間口7間3尺5寸)である。そして「当時はこの東西の二軒の問屋がそれぞれ自宅で交代に継立事務をとったものであろう」と推定する。
これは推定であって、史料に明記された事実ではない。同書自身「ようである」「であろう」と慎重に述べている。しかし、もしそうであれば、見付宿の実務の歴史には大きな転換点があったことになる。すなわち、有力な問屋の家が私宅で順番に事務を引き受けていた段階から、宿として一つの専用施設を構える段階への移行である。宿を動かした人々で見たとおり、寛延3年(1750年)には宿役人9人が全員退役して問屋兼名主制度が始まり、文政期には兼職制が明瞭になっていく。問屋場という建物の成立も、こうした宿役人制度の整備と歩調を合わせた出来事だったのかもしれない。
いずれにせよ、明治5年に問屋場が廃止されたとき、二百数十年続いた人馬継立の仕組みは終わった。東海道の宿駅制度が終わるということは、この建物の裏手から人足の声と馬のいななきが消えるということでもあった。宿場町としての見付の終わりは、まずこの場所から始まったのである。
更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第8ページ)。