人と荷を次の宿へ送り継ぐ。その一件は、実際にはどのような手順で進んだのか。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)の記述と近世宿駅制度一般の理解を組み合わせて、先触の到着から次宿への引渡しまでをたどる。あわせて、その手順が前提とする問屋場という施設がいつから存在したのかという、同書自身が提起した論点を整理する。
- 継立は先触の到着から始まり、証文の照合、人馬の割当、荷の積替え、次宿への引渡しと進んだ。
- 証文の照合は「引合」と呼ばれ、無賃・有賃の線を確定する作業であった。
- 有賃の継立は駄賃問屋、無賃の御用継立は御朱印問屋3人が10日交代で担当した。
- 明和・安永以前は問屋が自宅で交代に事務をとったとする田中友次郎の推定があるが、本稿は断定しない。
先触が届く
継立の一件は、通行そのものより先に、一枚の紙から始まる。先触である。通行に先立って宿へ送られ、日取り、人数、必要な人馬数、休泊の要否が予告された。宿はこれを受けて準備に入る。
先触という仕組みが持つ意味は、宿の側に立つとよくわかる。人足も馬も、その場で湧いて出るものではない。見付宿の人馬割で述べたとおり、役の持ち分に応じて誰を出すかを決め、病気や不在を差し引き、足りなければ助郷村へ触れを回す ── この作業には時間が要る。先触は、宿に準備の時間を与えるための制度であった。
なお、見付宿に届いた先触の実物や、先触から通行までの標準的な日数を示す記述を、本稿は『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)のうち確認できた範囲に見いだしていない。先触の制度そのものは近世宿駅制度一般に属する事項として述べる。
証文を照合する。 行列が到着すると、問屋場でまず行われるのが証文の照合である。同書は、いわゆる御伝馬御合印之御朱印に「御通行所持御朱印引合人馬相立様」── 御朱印を照合したうえで人馬を出すように ── と、当時の中泉代官彦坂九右衛門の添書があることを、見付宿問屋御用留から引いている。
「引合(ひきあわせ)」という語が要点である。示された朱印が本物か、記載された人馬数が正しいか。これを確かめてから人馬を立てる。御用継立の実務で見たとおり、幕府の公用は無賃、諸藩は御定賃銭、一般の旅人は相対賃銭という三通りの値段があった。証文の照合は、この線引きを確定する作業そのものであった。
そしてこの作業には、担当者まで決まっていた。同書が引く寛文5年(1665年)の問屋給米の記録によれば、駄賃問屋1人が「諸大名とその家中の、賃銭を払う継立に常時勤務」し、御朱印問屋3人が「1ヶ月に10日ずつの交代で幕府公用の無賃継立にあたった」。有賃と無賃で窓口が分かれていたのである。
人馬を揃える。 必要数が確定すると、割当に移る。宿内の役を負う家から人と馬を出し、不足があれば助郷へ回す。馬をどう補ったかで述べたとおり、補充の経路は宿内での更新・雇い馬・助郷出役の三つであった。
ここで単位の選択も行われる。本馬・軽尻・人足で見たとおり、荷が重ければ本馬、人が乗るなら軽尻、小口の荷なら人足。荷の量と性質に応じて何をいくつ立てるかが決まり、それがそのまま賃銭の計算根拠になった。
荷を積み替え、次宿へ送る。 継立とは、宿ごとに人馬を交替させる仕組みである。前の宿から来た馬はそこまでで戻り、荷は見付宿の馬へ積み替えられて、次の宿へ向かう。この積替えの作業場が、問屋場の裏手にあった。
問屋場と六枚の高札で見たとおり、同書によれば問屋場の裏手には人足部屋、人馬継立場、馬小屋が設けられていた。人足部屋は継立の順番を待つ人足の詰所、人馬継立場は荷を積み替える作業場、馬小屋は宿の役馬をつなぐ場所である。表通りに面した事務所と、裏手の広い作業スペース ── これが宿駅の実務を支える一体の施設であった。
送り先は、東なら袋井宿へ1里半、西なら浜松宿へ天竜川を舟で越して4里半。見付宿から天竜川へで述べたとおり、西へ継ぐ場合は渡河が挟まるため、次宿への引渡しまでの不確実性が格段に大きかった。
学説の整理 ── 問屋場はいつからあったのか
ここまで述べた手順は、すべて問屋場という一つの場所を前提としている。ところが同書は、その前提が成り立たない時期があった可能性を指摘している。
説A:かつては問屋の自宅で交代に事務をとった(田中友次郎の推定)。 同書は、明和・安永以前のものと推定される伝馬役人軒別絵図に、とくに問屋場(会所)が見えないことに注目する。そして絵図に描かれた二人の問屋の家 ── 東坂の御朱印屋敷の東隣にある問屋長吉宅(表間口8間1尺9寸)と、西坂の玄妙小路前の南側にある問屋十右衛門宅(表間口7間3尺5寸)── を挙げ、「当時はこの東西の二軒の問屋がそれぞれ自宅で交代に継立事務をとったものであろう」と述べる。長吉宅については「後世の問屋場の位置に該当するようである」とも記す。根拠は絵図の記載内容と、問屋2軒の位置関係である。
説B:絵図に描かれていないことから施設の不在は導けない。 これに対して、絵図に問屋場が描かれていないという事実だけからは、施設が存在しなかったと結論できない、という慎重な立場もありうる。伝馬役人軒別絵図は、その名のとおり伝馬役を負う家を軒別に示すための図である。役を免除されていた問屋場(あるいは公共施設)が、作図の目的上そもそも記載対象外であった可能性を排除できない。根拠は絵図の作成目的そのものであり、弱点は、では問屋場がいつからあったのかを積極的に示せないことである。
本稿の立場。 本稿は、いずれとも断定しない。同書自身が「ようである」「であろう」と推定のかたちで述べており、断定していないことを重く見る。ただし説Aが提示する構図 ── 有力な問屋の家が私宅で順番に事務を引き受ける段階から、宿として一つの専用施設を構える段階への移行 ── は、宿役人制度の整備と時期的によく符合する。宿を動かした人々で見たとおり、寛延3年(1750年)には宿役人9人が全員退役して問屋兼名主制度が始まり、文政期には兼職制が明瞭になっていく。問屋場という建物の成立も、この一連の制度整備の一環であった可能性はある。判断材料が拮抗しているため、本稿では両説を併記し、今後の史料の発見を待ちたい。
帳面に残す。 一件が終われば、記録が残る。人馬の数、賃銭、証文の種別、通行の日付 ── これらが帳面に書き留められた。継立帳簿は何を記録したかで述べるとおり、同書が繰り返し引く見付宿問屋御用留は、まさにこの実務の記録である。
手順の一つひとつは地味である。紙を受け取り、印を照らし、名前を呼び、荷を担ぎ、数を書く。しかしこの反復が二百数十年続き、明治5年(1872年)の問屋場廃止で終わった。二百年後にこの宿の交通を語ることができるのは、当時の人々が毎回、面倒な照合と記帳を怠らなかったからにほかならない。
継立五段階と根拠の所在。 五段階の流れは、見付宿の一枚の帳簿をそのまま翻刻したものではない。同書が引く御朱印・問屋給米・問屋場施設の記述と、宿駅制度一般の手順を接続した復元である。各段階の確度を表に分ける。
| 段階 | 見付固有の根拠 | 制度一般から補う部分 | 未確認事項 |
|---|---|---|---|
| 1 先触 | 大通行に先立つ宿の準備記録 | 先触が必要数を予告する仕組み | 見付での到着日数・書式 |
| 2 証文照合 | 御朱印「引合」の添書 | 朱印・証文の区分 | 照合台帳の現物 |
| 3 人馬割当 | 171軒・間口割・問屋の分担 | 不足時に助郷へ回す手順 | 日別の差配記録 |
| 4 荷の積替え | 問屋場裏の人馬継立場・馬小屋 | 宿ごとに人馬を替える原則 | 作業人数・所要時間 |
| 5 記帳・引渡し | 問屋御用留という実務記録 | 次宿への引継ぎ | 一件分の完全な記載例 |
この区別から、問屋場成立時期の議論にも限界が見える。絵図の不記載は一つの証拠だが、専用施設の不在を決定する証拠ではない。建物の成立を確定するには、絵図だけでなく普請帳、屋敷替えの記録、問屋御用留の所在地記載を年代順に並べる必要がある。
更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。手順を五段階に整理し、有賃・無賃で窓口が分かれていた事実、および問屋場の成立時期をめぐる学説の整理を追加した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。