大名行列や幕府役人の一行が通る日、宿場町はどう動いたのか。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)が引く帳簿からは、行列の到着より前に始まっていた準備の姿が見えてくる。文久2年(1862年)の御上洛御宿割下帳は、見付宿の家数を1,083軒、うち表町732軒と数え上げた。本稿では、宿泊の割り当て、寺の収容、助郷への触れという三つの局面から、大通行の日の宿を読む。
- 文久2年の御上洛御宿割下帳は見付宿を1,083軒(表町732軒)と記録する。宿泊割当のための帳簿である。
- 本陣2軒・脇本陣1軒・旅籠屋41軒では受けきれず、一般の家と寺が収容を分担した。
- 省光寺は「宿方差支の節は諸家様御休泊御請申上候」と文書で約束していた。
- 大通行は収入と負担の両方をもたらし、諸藩の通行か幕府の御用通行かで意味が逆転した。
行列が来る前に、紙が来る
大通行の一日は、行列が到着するはるか前に始まっている。通行に先立って先触が宿へ届き、日取り、人数、必要な人馬数、休泊の要否が予告された。宿はこれを受けて、宿内で用意できる人馬を数え、足りない分を助郷村へ触れ、宿泊の割り当てを組む。先触れから出発までで述べるとおり、この事前作業こそが継立実務の中心であった。
大通行の場合、事前作業の規模がまったく違う。通常の継立が当日の割当で済むのに対し、大通行では宿全体を組み替える必要があった。その痕跡が、宿の帳簿に残っている。
1,083軒を数え上げる ── 文久2年の御宿割下帳。 『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)が引く帳簿のなかに、「御上洛御宿割下帳」がある。文久2年(1862年)のもので、同書によれば見付宿の家数を1,083軒(うち表町732軒)と記録している。見付宿のすがたと戸口で見たとおり、同書が拾い上げた見付宿の戸口の数字のなかで、この文久2年の数値だけは他と性格が異なる。天保13年(1842年)の1,014戸は書上帳、明和7年(1770年)の600軒は明細差出帳 ── いずれも宿の一般的な報告文書だが、文久2年のそれは宿割、すなわち宿泊の割り当てのために作られた帳簿である。
| 年 | 数値 | 帳簿の性格 |
|---|---|---|
| 明和7年(1770年) | 600軒・約2,200人 | 明細差出帳(宿の概況報告) |
| 天保13年(1842年) | 1,014戸・3,918人 | 書上帳(宿の概況報告) |
| 文久2年(1862年) | 1,083軒(表町732軒) | 御上洛御宿割下帳(宿泊割当のための帳簿) |
出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』第一章所引の各帳簿。表町とは街道に面した町並みを指す。
「表町732軒」という内訳が、この帳簿の目的をよく示している。宿泊の割り当てにあたって意味を持つのは、街道に面してすぐ入れる家がどれだけあるかである。裏手の家まで含めた総数と、実際に人を入れられる表町の数は別に数えなければならない。大通行の準備とは、宿の空間を収容力という物差しで数え直す作業であった。
本陣・旅籠屋だけでは足りない。 同書によれば、文久2年の見付宿には本陣2軒・脇本陣1軒・旅籠屋41軒があった。天保末年頃には旅籠屋56軒に達していたから、幕末にかけてはむしろ減っている。大名行列の本体は本陣・脇本陣に入るとしても、随行の家中を旅籠屋41軒で受けきれる規模ではない。
不足を埋めたのが、一般の家への割り当てと、寺である。十一ヶ寺と二社で見たとおり、朱印高48石と十一ヶ寺で最大の省光寺について、同書は天保15年(1844年)の問屋御用留から次の一文を引いている。「外寺院より手広ニ付宿方差支の節は諸家様御休泊御請申上候」── ほかの寺より広いので、宿の受け入れが間に合わないときには諸大名の休泊をお引き受けします、という趣旨である。
この一札は、寺が宿場の収容機能の一部を正式に引き受けていたことを示す。見付宿の伝馬制で見たとおり、寺は寺社奉行に属して宿役人の支配の外にあった。その寺が、宿の求めに応じて休泊を受けると文書で約束している。大通行は、二重の支配の線を越えて宿の総力を動かす出来事であった。
宿の格式と、割り当ての順序
宿泊の割り当てには順序があった。行列の主人は本陣、次席は脇本陣、家中は旅籠屋、それでも足りなければ一般の家と寺 ── というのが近世の宿場に共通する原則である。この順序が意味するのは、宿場町の建物が身分の序列に対応して並んでいたということである。
見付宿の場合、その頂点にあたる本陣は2軒であった。宿を動かした人々で見たとおり、天保13年(1842年)の宿役人のうち、問屋兼名主の三郎右衛門(56歳、持高75石3斗余、味噌と鉄の商売)は「本陣を相勤める」と名前帳に記されている。宿役人であり、富商であり、本陣でもある ── 大通行の日、この人物は継立の事務と自家での接待を同時に担ったことになる。
それだけに、本陣が焼けることの意味は重い。火事・洪水・祭礼で見たとおり、文政4年(1821年)の大火では本陣2軒が類焼し、天保11年(1840年)の大火では問屋・両本陣・脇本陣がいずれも焼けている。継立の事務所と最上位の宿泊施設が同時に失われる事態が、19世紀前半に二度起きていた。
人馬が宿の能力を超えるとき。 宿泊とならぶもう一つの問題が人馬である。通行の必要数が宿内の能力を超えれば、助郷村へ人馬が割り当てられた。馬をどう補ったかで述べたとおり、助郷は元禄7年(1694年)の助郷役令によって制度化された仕組みで、村高に応じて人馬を割り付けるのが基本である。同書は第六章に「見付宿の助郷制とその変遷」を立ててこの問題を扱っている。
ここで注意したいのは、大通行が宿にもたらしたものが単純な繁栄でも単純な困窮でもなかった点である。整理すると次のようになる。
| 宿にもたらしたもの | |
|---|---|
| 収入の側 | 本陣・旅籠屋・一般家への宿泊、飲食と物資の売上、諸藩からの御定賃銭 |
| 支出・負担の側 | 幕府公用の無賃継立、待機の時間、道路と橋の整備、飼料の臨時調達、助郷村との交渉 |
同書の記述にもとづき本稿で整理した。両者を突き合わせた収支の数値は同書に示されていない。
どちらが上回ったかは、通行の性格によって変わったはずである。御用継立の実務で見たとおり、諸藩の通行は賃銭が入る仕事、幕府の御用通行は代金が入らない仕事であった。幕末に幕府軍の通行が激増したとき宿が疲弊したのは、この無賃の原則が効いたためである。同じ「大通行」という語で呼ばれる出来事が、宿の帳簿の上ではまったく逆の意味を持ちえた。
幕末 ── 大通行が日常になった時期。 大通行が例外的な出来事でなくなった時期がある。同書は第七章を「幕末から維新へ推移する見付宿の種々相 ── 文久末年から明治4年の廃藩置県まで」に充てており、この時期に宿が置かれた状況を独立の章で論じている。文久2年(1862年)の御上洛御宿割下帳が作られたのも、まさにこの局面であった。
幕府軍の通行がもたらした負担については、磐田物語では長州征伐と見付宿が扱っている。御用継立の実務で見たとおり、幕府の御用通行は無賃である。通行の回数が増えるほど、宿が出す人馬は増え、入る代金は増えない。宿の疲弊は、行列の規模だけでなく、無賃という原則そのものから生じていた。
助郷村の側から見た同じ出来事は、見付宿の助郷制度と周辺村の負担に詳しい。宿が耐えられなくなれば、負担は村へ回る。村が耐えられなくなれば、助郷の枠そのものを組み替えるほかない。同書が第六章の表題に「助郷制とその変遷」と「変遷」の語を置いたのは、この繰り返しを指してのことであろう。
華やかさの裏で動いていた場所
大通行の日、旅人の目に映るのは本陣に立つ関札であり、街道を埋める行列である。しかし宿の実務が集中したのは、そこではない。問屋場と六枚の高札で見たとおり、問屋場の裏手には人足部屋・人馬継立場・馬小屋があり、同書はこの一帯を「往来の人馬輻輳を極めたところ」と書いている。輻輳とは、混み合ってごった返すことである。
荷が下ろされ、馬が引かれ、人足が呼ばれ、帳面がつけられる。継立帳簿は何を記録したかで述べるとおり、その一件ごとの記録が残されたからこそ、二百年後の私たちは大通行の規模を数えることができる。行列を見物する側の記憶ではなく、行列を通した側の帳簿が、この宿の交通史の主要な資料なのである。
史料上の注意。 本稿で史実として述べたのは、文久2年の御上洛御宿割下帳の数値、本陣2軒・脇本陣1軒・旅籠屋41軒、省光寺の一札、問屋場裏手の施設である。いずれも同書に記載がある。
一方、特定の大通行について、必要人馬数の実数、助郷村ごとの割当数、宿の収支を示す数値は、本稿では確認できていない。これらは同書第六章および第七章に関わる領域であり、原本にあたっての照合を要する。本稿では、大通行が宿に何をもたらしたかを構造として述べるにとどめ、個別の通行の規模は断定しない。動員規模の比較という論点は大通行の人馬数を比べるで改めて扱う。
宿割帳と動員表を同じものとして扱わない。 御宿割下帳の1,083軒は、宿泊先を配分するために家を数えた数字であり、人足や馬の実働数ではない。大通行の規模を復元するには、用途の違う帳簿を工程順に接続する必要がある。
| 準備段階 | 文書に現れる情報 | 読み取れること | 単独では分からないこと |
|---|---|---|---|
| 先触 | 到着日・予定人数・必要人馬 | 宿が準備した前提 | 実際の到着人数 |
| 宿割帳 | 本陣・旅籠・一般家・寺への割当 | 宿泊の収容範囲 | 継立に使った人馬数 |
| 助郷割付 | 村別の人馬割当 | 宿外へ及んだ負担 | 当日の欠勤・差替え |
| 継立記録 | 実際に送った人馬・荷・賃銭 | 通行後の実績 | 家ごとの待機時間 |
同じ通行について四種の記録が揃えば、予定と実績、宿内と助郷、宿泊と輸送を分けて読める。現在確認できるのは宿割帳の家数と省光寺の休泊請書であり、村別割付と継立実績は未確認である。そのため本稿は「総動員」の仕組みを説明するが、総動員数を推計しない。
更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。御上洛御宿割下帳の数値と帳簿の性格を対比する表、省光寺の一札、収入と負担の整理表を追加した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。