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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(23)

待つことも負担だった ── 人馬の待機と見付宿の日常

継いだことは帳面に残る。待ったことは残らない。だからこそ、この負担は見落とされやすい。

人馬継立の負担を人馬数と賃銭だけで測ると、こぼれ落ちるものがある。待機である。先触の予定は狂い、前宿の到着は遅れ、天竜川は増水する。そのあいだ、割り当てられた人と馬は動かせないまま拘束された。本稿では、『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)の記述から待機という負担の構造を読み、あわせてそれが史料に残りにくい理由を考える。

本稿の要点
  • 割り当てられた人馬は、通行が来るまで他の仕事に就けない。待機そのものが拘束であった。
  • 御定賃銭は区間に対する運賃であり、待機時間への対価を含む仕組みではなかったと考えられる。
  • 見付宿における川留めの日数・頻度、待機の扱いを示す記述は本稿では確認できていない。
  • 継立帳簿は「継いだこと」を記録する文書であり、待機は集計の対象にならない。

予定どおりには来ない

継立の実務は、先触に書かれた予定を軸に組み立てられる。しかし予定どおりに事が運ぶことのほうが、おそらく少なかった。前の宿を出る時刻が遅れる。荷が増える。人数が変わる。天候が崩れる。そして西へ向かう通行の場合は、天竜川の水位が読めない。

宿の側から見れば、これらはすべて「人馬を用意したまま動かせない時間」を生む。見付宿の人馬割で述べたとおり、その日出る人と馬は前もって割り当てられている。割り当てられた以上、その家の者は他の仕事に就けない。待つという行為そのものが、宿にとっては人手と馬を拘束する負担であった。

川が止まれば、すべてが止まる。 待機を最も大きくしたのは、天竜川である。見付宿から天竜川へで述べたとおり、見付宿は同書のいう「天竜川の橋頭宿駅」であり、西へ継ぐには必ず池田村管理の舟渡しを通らなければならなかった。増水すれば渡船は止まる。川留めである。

川留めの日、宿では二つのことが同時に起きる。一方で旅籠屋は満ち、飲食の売上が立つ。他方で、継立の予定は総崩れになる。用意した人馬は動かせず、荷は留め置かれ、後続の通行の予定も狂う。御用継立の実務で見たとおり、宿が現金を得るのは相対の商売の側であったから、収入だけを見れば川留めは悪い話ではない。しかし公役としての継立から見れば、川留めは業務の停止であった。

見付宿における川留めの日数や頻度を示す数値を、本稿は確認できていない。同書第三章が「天竜川渡船」を扱うと自序に記されているため、当該箇所に記載がある可能性はあるが、確認しないまま推測はしない。

待機に対価はあったのか。 ここで生じる素朴な疑問がある。待たされた分の手当ては出たのか。

本馬・軽尻・人足で見たとおり、同書が示す御定賃銭は「見付 ─ 浜松間 本馬234文」というように、区間ごとに定められている。距離に対する運賃であって、拘束時間に対する報酬ではない。したがって制度の建て付けとしては、待機時間そのものに賃銭がつく仕組みではなかったと考えられる。

ただし、待機に対する手当てが一切なかったと断定することはしない。近世の宿駅では、川留めや長時間の待機について何らかの取り決めが結ばれる例があるが、見付宿でそうした扱いがあったかどうかを示す記述を、本稿は同書から確認できていない。ここは未確認として残す。

確かなのは構造だけである。御用継立の実務で見たとおり、幕府の御用通行は無賃であった。無賃の通行を待つ時間は、賃銭が発生しない仕事を待つ時間である。負担は二重になる。

帳簿に残らない時間

待機という負担が見えにくいのには、史料の側の理由がある。宿の実務記録は、継いだことを記録する文書である。何人・何疋を、いつ、どこへ、いくらで継いだか ── 継立帳簿は何を記録したかで述べるとおり、記録される項目はこの種のものである。

待った時間は、そこに欄がない。したがって帳簿を数量的に処理するかぎり、待機は集計の対象にならない。宿の負担を人馬数と賃銭だけで測れば、待機の分だけ実態を過小に見積もることになる。同書が引く史料のなかで、待機に近い状況が具体的に現れるのは、むしろ日記類 ── 庚申帳や水野日記 ── の側である。火事・洪水・祭礼で見た慶応2年(1866年)6月の大水の記事、「太田川の堤が切れて三ヶ野橋が流失し、袋井への往還は通行不能となった」という一文は、東の方向でも継立が止まりうることを、日記の側から伝えている。

止まる街道という前提。 近代以降の交通は、止まらないことを前提として設計されている。江戸時代の街道はそうではなかった。川は渡れないことがあり、橋は流れることがあり、道は通れなくなることがある。遠江の宿駅変遷で見たとおり、平安期の紀行文が伝える旅の心細さは、制度が整備された近世においても、程度を変えて残っていた。

宿がその不確実性を吸収していた、と言い換えることもできる。旅人が足止めされるとき、その旅人を抱えて待つのは宿である。荷が留まるとき、それを預かるのも宿である。人馬100人100疋という定数が意味を持つのは、まさにこの不確実性があるからだ ── 平常時の必要量ではなく、狂ったときに動かせる余力として、宿は人と馬を抱えていなければならなかった。人足100人・馬100疋とは何かで述べた「定数か実働数か」という論点は、この待機の問題と地続きである。

いま、宿の中央に立って。 問屋場があったのは、大見寺門前の御殿小路から往還を西へ4間余り行った北側、東坂町分である。同書は1974年の執筆時点の目印として「いま警察署(現、磐田市家畜診療所)のある辺りである」と付記している。半世紀前の記述であり、現在の土地利用は変わっている可能性があるため、現地を訪ねる際は現況を確かめられたい。

その裏手に、人足部屋があった。継立の順番を待つ人足たちの詰所である。問屋場と六枚の高札で述べたとおり、同書はこの一帯を「往来の人馬輻輳を極めたところ」と書いた。輻輳とは混み合うことである。混み合うということは、待っている人がいるということでもある。旧東海道のこの区間を歩くとき、賑わいだけでなく、そこで過ごされた膨大な待ち時間のことも、あわせて思い浮かべておきたい。

帳簿に見える負担、見えない負担。 継立帳簿は会計と引継ぎのための記録であり、負担の全体を測るために作られた資料ではない。記録欄の有無が、そのまま後世から見えるものと見えないものを分ける。

負担帳簿に残りやすいか残る形不足する情報
継いだ人馬残りやすい人数・疋数・区間準備に要した時間
賃銭残りやすい基準額・割増・証文区分家ごとの実収入
待機残りにくい遅延や川留めの注記拘束時間・逸失した仕事
飼養残りにくい秣場・御伝馬林の権利草・馬具・治療の実費

予定の時刻と暮らしの時刻。 先触は到着予定を基準に宿を動かす。一方、宿の家々は農作業、商い、家事の時刻で暮らしている。通行が遅れれば、前者の時計が後者の時間を奪う。帳簿には到着と出発が残っても、そのあいだに断念した畑仕事や商いは記されない。

待機の重さを数量化するには、継立帳簿だけでなく日記、天候記録、川留め記録、家の出納帳を同じ日付で照合する必要がある。本稿はその照合に至っていないため、待機時間の平均や損失額を示さない。見えないこと自体を、史料の性格として記録する。

更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。待機に対価があったかという論点、史料に残らない理由の考察、現地の記述を追加し、未確認事項を明示した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。

参考資料

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