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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(14)

馬をどう補ったか ── 見付宿の伝馬補充と馬持の負担

帳面に100疋と書いてあることと、明日100疋が歩けることは別である。その差を埋め続けた人々がいた。

人馬継立を止めないためには、帳面上の馬数だけでなく、実際に歩ける馬を確保し続けなければならなかった。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)は、伝馬役を負った171軒という枠と、それを支えた秣場・御伝馬林の存在を記録している。本稿では、馬の補充という視点から宿駅制度の足元にあった仕事を読み、あわせて同書から確認できないことを明示する。

本稿の要点
  • 史料に現れる馬数には制度上の定数と当日の実働数があり、両者は区別して読む必要がある。
  • 補充の経路は宿内での更新・雇い馬・助郷出役の三つで、見付宿での比率は同書から確認できない。
  • 収入は公定の御定賃銭に縛られ、支出は市場価格に連動するという非対称があった。
  • 伝馬役を負ったのは171軒。宿の戸数が1,000戸を超えても、この枠はほぼ動かなかった。

帳面の馬と、歩ける馬

宿駅の記録に現れる馬の数には、二つの意味がある。一つは制度上そこに置くべきとされた定数であり、もう一つはその日実際に働ける馬の数である。人足100人・馬100疋とは何かで述べるとおり、東海道の宿には人足100人・馬100疋の常備が求められたとするのが通説であるが、これは定数の話である。定数を満たし続けるには、減った分を補い続けなければならなかった。

馬が減る理由はいくつもある。長距離の継立による疲弊、病気、負傷、そして加齢である。近世の農村史料では、馬は数年から十数年で入れ替わる資産として扱われるのが普通であり、宿の役馬も例外ではなかったと考えられる。ただし見付宿について、馬の平均的な使用年数や更新の周期を示す数値は、『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)からは確認できない。本稿ではこの点を断定せず、補充が必要であったという構造だけを述べる。

補充の三つの経路。 不足した人馬をどう埋めるか。近世の宿駅では、おおむね次の三つの経路が使われた。見付宿でどの経路がどの程度使われたかを数量的に示す史料は、同書からは確認できないため、以下は制度一般の整理である。

経路内容宿にとっての性格
宿内での更新馬持の家が自前で馬を買い替える費用は馬持の負担。宿の役負担の根幹
雇い馬・借馬近在の百姓から一時的に馬を雇い入れる臨時の出費だが、当日の穴を埋められる
助郷からの出役助郷村に人馬を割り当てて出させる宿の直接負担は軽いが、村との交渉が要る

このうち三番目の助郷は、通行の規模が宿の能力を超えたときの正規の仕組みである。元禄7年(1694年)の助郷役令によって定助郷が制度化され、以後、加助郷・当分助郷といった追加の枠が重ねられていった ── これは制度一般に属する経過であり、同書が個別に述べるところではない。見付宿の助郷については、同書が第六章に「見付宿の助郷制とその変遷」を立てているほか、磐田物語では大通行の人馬数を比べるで扱う。

人をどう補ったか ── 無高層という労働力。 補充を要したのは馬だけではない。人足100人という定数も同じ問題を抱えていた。ここで見落とせないのが、伝馬役を課された家と、実際に荷を担いだ人とが同一ではなかった可能性である。

同書によれば、天保13年(1842年)の宿内574軒の内訳は本百姓258軒・無高316軒であり、宿の過半が土地を持たない層になっていた。同じ年、宿の職業の種類は71を数え、「百姓から転業したものもすくなくない」と同書は述べる。伝馬役という公役は表間口を持つ171軒に賦課されたが、その家々が毎回自ら人足として出たのか、それとも役を負う家が日雇いを立てたのかを、同書は明示していない。近世の宿場一般では、役を負う家が賃銭を払って人を雇い立てる形が広く見られたが、見付宿でそれがどの程度行われたかを示す史料は本稿では確認できない。ここは推定にとどめ、断定しない。

ただ一つ確かなのは、人口が増え、土地を持たない層が厚くなっていく宿場町において、継立の現場に立つ人手そのものは不足しにくかったであろうということである。不足しやすかったのは、むしろ馬 ── 買わなければ手に入らず、日々草を食う資産のほうであった。

馬を持つということ ── 収入と支出

馬持の家にとって、馬は収入をもたらす資産であると同時に、絶えず出費を要する存在であった。収入の側は継立の賃銭である。伝馬賃銭のしくみで見たとおり、同書が挙げる見付宿の御定賃銭は、見付・浜松間の本馬1疋234文、見付・袋井間の本馬1疋69文であった。支出の側は、購入費、飼料、馬具、厩の維持、そして病馬・斃馬(へいば)の損失である。

ここで問題になるのが、収入側に公定価格があったという点である。同書は、御定賃銭について文政2年(1819年)より2割増、同8年(1825年)より3割増、都合5割増とし、幕末には「六倍五割増」と記す。ただし最後の語義と徴収例は未照合であり、実額へは換算しない。また、割増が飼料価格の上昇と同じ速さで動いたかどうかも、同書からは確認できない。同書が宿を動かした人々の節で「幕末に至り物価は三倍に五倍に騰貴してもこの給料給金の額はすべて一定不変であった」と述べるのは宿役人の報酬であって、馬持の収支ではない。したがって本稿が示せるのは、公定賃銭と市場で決まる支出を別々に検討すべきだという点までであり、「馬持は赤字であった」とは断定しない。

役を負う家と、負わない家。 伝馬役を実際に負ったのは、宿の全戸ではなかった。同書によれば、寛永15年(1638年)に伝馬居屋敷とされたのは、東坂・馬場・西坂の三町の街道両側に並ぶ171軒である。この171軒という枠は、驚くほど動かない。明和・安永以前と推定される伝馬役人軒別絵図でも171軒、幕末の元治2年(1865年)でも167人と、二百年あまりほぼ一定であった。

一方、宿の戸数そのものは大きく増えている。同書が諸帳簿から拾った数字では、寛永15年の225軒から明和7年(1770年)の600軒、天保13年(1842年)の1,014戸へと増加した。天保13年の宿内574軒の内訳は本百姓258軒(うち伝馬役171軒)、無高316軒である。つまり増えたのは役を負わない層であり、伝馬という負担は宿の中の限られた家々の上に、二百年間ほぼ同じ形で載り続けたことになる。この構造は、馬の補充を誰が負担したかという問いにそのまま跳ね返る。詳しくは見付宿の人馬割で述べる。

草と林 ── 補充を支えた土地。 馬を養うには土地が要る。同書によれば、見付宿の東北に続く岩井野は宿の役馬のための秣場(採草地)であり、あわせて御伝馬林として無税の百姓持林も認められていた。絵図で読む見付宿の周縁で見た「見附宿御伝馬自林絵図」は、この御伝馬林・大久保御林・向笠御林といった官林と、加茂村自林などの村持林を一枚に描き分けたものである。

絵図がわざわざ林の帰属を書き分けているのは、そこが争いの場だったからにほかならない。同書が見付宿最古の絵図として挙げる寛永18年(1641年)の「岩井野秣場出入御裁件御裏書絵図」は、秣場をめぐる訴訟の裁許にあたって作られたものである。「出入」とは訴訟のことである。馬の飼料をどこから取るかは、宿と近隣村の利害が正面からぶつかる問題であった。伝馬の維持は、馬を買う金の話であると同時に、草を刈る場所の話でもあったのである。飼養の実際は伝馬を飼うで扱う。

宿と村が同じ馬を奪い合う

助郷からの補充には、制度の設計そのものに無理が組み込まれていた。農村にとって馬は農作業に欠かせない資産である。街道が人馬を必要とする時期と、村が馬を必要とする時期は、しばしば重なった。参勤交代の行列が集中する春秋は、そのまま農繁期でもある。

この衝突は、助郷出役の遅れや不足という形で記録に現れる。しかしそれを村の怠慢と読むのは早い。同じ一頭の馬をめぐって、街道の必要と村の生産が競合していたのである。同書は第六章に「見付宿の助郷制とその変遷」を立ててこの問題を扱っており、「変遷」という語そのものが、助郷の枠組みが一度決めたきりでは維持できず、たびたび組み替えられたことを示している。

負担の割り方には目安があった。火事・洪水・祭礼で見た文政10年(1827年)の中川橋掛替では、人足193人を村高100石につき50人の割合で村役として徴発している。これは橋普請の例であって継立の助郷そのものではないが、村高を基準に人足を割り付けるという発想は共通する。石高という土地の尺度が、そのまま労働力の徴発量に翻訳されていたのである。動員の実際は大通行が見付宿に来た日で扱う。

史料から言える範囲。 本稿で史実として述べたのは、伝馬居屋敷171軒とその不変性、宿の戸数と無高層の増加、岩井野の秣場と御伝馬林、御定賃銭の額と割増の推移である。いずれも『東海道遠州見付宿』に記載があり、同書が典拠の帳簿名を挙げている。

一方、馬の購入価格、更新の周期、飼料費の実額、雇い馬の相場については、同書から確認できなかった。これらは本稿では扱わず、今後の課題として残す。個々の馬持の家の経営を復元するには、宿方文書ではなく、その家に伝わる帳簿を探す必要があるだろう。同書がこの点について沈黙しているのは、著者の関心が宿の機構にあり、個別経営の分析にはなかったためと考えられる。

馬の補充を数量で確かめるには。 「不足した馬を補った」という構造と、実際に何疋をどこから補ったかという実数は別である。後者を明らかにするには、制度の解説ではなく、日々の出役記録と家ごとの経営帳簿を突き合わせる必要がある。

確認したい事項必要となる史料現段階で言えること未確認の点
制度上の馬数幕府の触書・宿の差出帳定数という枠があった見付での直接記載と該当頁
当日の実働馬人馬継立帳・問屋場日記定数とは区別すべきである日別の不足数と補充数
馬の買替え馬持各家の金銭帳・売買証文維持には更新が必要であった購入価格・使用年数・売却額
助郷からの出役助郷割付帳・村方文書宿内不足を村々が補った村別・通行別の人馬数

この表は、資料がない空白を一般論で埋めないための調査台帳でもある。宿方文書だけでは馬持の損益は復元できず、村方文書だけでは問屋場での差配は見えない。双方が揃って初めて、「三つの補充経路」の比率を数量で論じられる。

更新履歴:2026年8月8日 初版公開。2026年8月9日 全面改稿。補充経路の比較表、171軒と無高層の対比、秣場をめぐる争いの記述を追加し、同書から確認できない事項を明示した。 2026年8月10日、学術記事スキルv5.1で再査読し、根拠範囲・比較表・検証課題を追記。

参考資料

街道と宿場の記憶をたどると、いまの家や土地の来歴にも行きあたる。

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