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街道のほとりの小さな祠 ── くろん坊様と梅塚、旅がうんだ信仰
殺された異国の旅僧を神とした中泉のくろん坊様、生贄伝承の見付の梅塚、厄除地蔵の大師堂。流動する旧東海道だからこそ生まれた土着の信仰と伝承をたどる。
街道を導いた石 ── 一里塚・道標・供養塔がつくる旧東海道の景観
阿多古山一里塚と愛宕神社、宮之一色一里塚と松並木、鎌田山薬師道の道標、県内唯一の時宗石造宝塔(西光寺)。旧東海道の記憶を留める磐田の石造物をたどる。
秋葉常夜灯 ── 石の灯台が守った、火伏せの遠州
遠州の街道に約1000基建てられた秋葉常夜灯。宮之一色の鞘堂付き「龍燈」は火防の祈りと夜の街灯を兼ねた。講と自治会が200年守り続けた民衆の防災インフラをたどる。
敷地・岩室廃寺と古代の灯台 ── 山あいの密教寺院が照らした大之浦
空海開基と伝わる山岳寺院・岩室廃寺。海抜80mの高台に残る口燈明台・奥燈明台は、大之浦の船を導いた古代の灯台だったと伝わる。敷地地区の密教と山王信仰(野辺神社)をたどる。
古墳が神社になった土地 ── 磐田の信仰空間の継承と地名の記憶
御厨古墳群の真上に建つ鎌田神明宮、葬送氏族・土師氏の末裔が菅原道真として祀られた見付天神、古墳→神社→城と変転した社山。古墳(死者の空間)が神社・寺院へ、そして地名へと受け継がれた磐田の信仰空間をたどる。
三ヶ野坂・物見の松・本多忠勝伝承 ── 七つの時代の道が重なる坂
三ケ野坂には鎌倉から平成まで七つの時代の道筋が重なって残る。全国的にも珍しい「七つ道」と、本多忠勝の物見の松と伝わる観測地を読む。
発掘調査報告書から読む磐田の古代 ── 一次資料の探し方と読み方
磐田の古墳を語る記事の多くは発掘調査報告書という一次資料に支えられている。全国遺跡報告総覧の使い方、報告書と伝承の違いを読む。
消えた古墳・塚地名の調査 ── 経塚古墳・堂山古墳と、名だけが残る塚
東海道線工事や明治の土取りで失われた古墳がある。経塚古墳・堂山古墳の記録と、「塚」という地名が語ること・語れないことを読む。
古墳と川・海・道 ── 磐田海・大乃浦と、東海道以前の水運の記憶
磐田原台地に古墳を築いた有力者は何を通じて鉄や鏡を得たのか。磐田海・大乃浦、東海道以前の道「二見の道」、天竜川の水運から読む。
天竜川の筏流しと木材流通 ── 東大寺のための浚渫から、ダムによる終焉まで
慶長11年、角倉了以が東大寺再建材木のため天竜川を浚渫し筏流しが始まった。舟運への発展から昭和11年のダム建設による終焉までをたどる。
一言坂の戦いと磐田の戦場地形 ── 姫街道・県道413号・宮之一色一里塚
一言坂の戦跡は旧東海道ではなく姫街道系統の坂道にある。現代の「東海道と歴史の道」までを含め、合戦を地形・道筋の側から読む。
旧東海道の一里塚・松並木・木戸 ── 1420本から370本へ
正徳2年には1420本あった東海道の松並木は、今は三ケ野・森下・下万能に約370本を残すのみ。一里塚・木戸の既存記事とあわせ、見付・豊田の街道景観を読む。
古代東海道と駅家 ── 律令が定めた、もう一つの東海道
延喜式が記録した遠江国の栗原駅。律令の駅制度と、国府磐田を通った古代の官道をたどる。
遠江国分尼寺 ── 語られてこなかった、もうひとつの国家寺院
国分寺の北、行泉寺北側に眠るとされる遠江国分尼寺。講堂跡・版築基壇の発掘事実と、国分寺ほど語られてこなかった理由をたどる。
磐田駅貨物・工場引込線・専売公社側線 ── 1996年まで残った専用線
1958年、磐田駅には専売公社・遠州西石油・磐田製材・富士製粉の4社が専用線を持っていた。日本たばこ産業磐田倉庫への側線は1996年まで存続した。
校歌・学校区から見る見付の地域意識
見付尋常高等小学校の男女合併、国民学校への改称、磐田北小学校への統一。校名・学校区の変遷が映す地域意識の移り変わりを読む。
見付地区の学校史と地域教育 ── 見付学校から磐田北小学校へ
見付学校、見付尋常高等小学校、見付国民学校、磐田北小学校。校名変遷と幻の見付中学校まで、見付の学校の歩みをたどる。
旧見付学校以前の寺子屋教育 ── 宣光寺・省光寺と見付の手習い
明治8年の旧見付学校ができる前、見付の子どもたちはどこで学んでいたのか。宣光寺・省光寺の仮校舎と寺子屋教育をたどる。
矢奈比賣神社と見付天神 ── 女神と学問の神が重なる社
女神・矢奈比賣命を祀る古社でありながら「見付天神」として菅原道真を配し、二つの信仰が重なる矢奈比賣神社を、境内の末社・石造物から読む。
見付の古写真・絵葉書から消えた建物を復元する
明治42年の戸別明細図に記された郡役所・登記所・製造所。古い絵葉書・引札という窓から、見付の町で今は見えなくなった建物を考える。