磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第151号(磐田用水研究 一)
磐田用水幹線改良事業 ── 戦時下の突貫工事と初通水の記録
取水難の由来・戦時下の労働動員・昭和19年の初通水をめぐる事業史の再構成
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田用水幹線改良事業は、昭和期の遠州平野において取水の不安定さを解消し、東部の広大な農地へ確実に水を届けることを目的として進められた大規模な土地改良事業である。本稿は『磐田用水のあゆみ』ほかの事業記録に依拠し、昭和4年(1929年)の計画採択から昭和19年(1944年)7月の初通水に至る過程を、史実・推定・伝承の層を区別しながら再構成する。取水量500個(毎秒13.9立方メートル)、東部かんがい面積3,420ヘクタール、用水路延長33,824メートルといった諸元は事業記録に明記された史実として扱いうる一方、太平洋戦争下の労働動員や作業現場の実態については、断片的な記録から推定として腑分けする必要がある。本稿は、事業がもたらした用水の安定という効果と、戦時という条件が現場に強いた負担の双方を、礼賛にも断罪にも傾かずに記述し、農業水利が地域社会に対してもった意味を問う立場をとる。
キーワード:磐田用水/幹線改良事業/社山隧道/戦時下の突貫工事/金原治山治水財団/初通水/土地改良
1. 問題設定 ── 用水改良史をどう読むか
遠州平野の東部に広がる水田は、天竜川水系から引かれた用水によって支えられてきた。その用水網の骨格が現在の姿へと組み替えられた画期の一つが、昭和期に進められた磐田用水幹線改良事業である。事業は、慢性的な取水難を解消し、老朽化した水路を近代的な体系へ改めることを目的として計画され、日中戦争から太平洋戦争へと向かう困難な時勢のなかで工事が続けられた。本稿は、この事業の経過を、事業記録に基づいて再構成することを課題とする。
郷土史において用水改良の歴史を扱うとき、二つの誘惑を避けねばならない。一つは、通水という到達点だけを取り出して事業を成功譚として語る誘惑であり、いま一つは、戦時下の労働動員という側面だけを取り出して事業全体を負の記憶として断ずる誘惑である。いずれの語り方も、事業が置かれていた条件と、それが地域にもたらした結果とを、単純化してしまう。本稿は、効果と負担の双方を同じ紙幅で記述し、読者が自ら評価できる材料を残すことを心がける。
そのために本稿が採る方法は、情報を確度の層に分けて記述することである。事業記録に年次や数値として明記された事柄は史実として、記録の行間や時代背景から合理的に導かれる事柄は推定として、地域に語り継がれてきた事柄は伝承として、それぞれ語の水準を分けて書く。とりわけ、戦時下の作業現場の実態については、一次記録に乏しい部分が多く、「史料に記載がない」ことと「筆者が該当史料に突き当たっていない(未確認)」こととを区別しながら慎重に扱う必要がある。
本稿の依拠する中心的な資料は、磐田用水東部土地改良区が設立50周年を機に編んだ『磐田用水のあゆみ』である。事業当事者の系譜を引く組織による記念誌であり、事業の数値や年次を伝える基礎資料として有用である一方、記念誌という性格上、事業を肯定的に整理する叙述の枠組みをもつ点には留意を要する。磐田用水の歩みを通観すると、幹線改良事業は、天竜川からの取水、社山疏水の構想、戦後の土地改良区へと続く長い水利史のなかの一段階として位置づけられる。
以下ではまず、事業記録から確認できる事業の骨格を押さえ(第2節)、取水難がなぜ生じたのかを河川環境の変化にさかのぼって検討する(第3節)。続いて計画の構造を数値の面から整理し(第4節)、戦時下の工事の実態と労働動員の問題を、推定であることを明示しながら論じる(第5節)。さらに事業を支えた資金と組織を確認し(第6節)、昭和19年の初通水とその受け止めを検討したうえで(第7節)、用水の安定が地域社会にもった意味を結論として述べる(第8節)。
2. 史料で確認できる事業の骨格
まず、事業記録によって確認できる範囲を確定しておく。『磐田用水のあゆみ』によれば、磐田用水幹線改良事業計画が静岡県議会で採択されたのは昭和4年(1929年)のことである1。世界恐慌の年にあたり、農村の疲弊が深刻化するなかで、用水の安定を図る事業が県の計画として位置づけられた点は、事業の出発を考えるうえで押さえておくべき史実である。
取水地点については、当初、二俣町鹿島の下流約700メートル、一俣川合流点の上流180メートルの地点が検討されたが、のちに二俣町阿蔵の地点へと変更されたと整理されている。取水口の位置は、河床の状態や導水路の取り回しを左右する要であり、その変更は、当時の技術者が現地の条件と向き合いながら計画を練り直した経緯をうかがわせる。ただし、変更の具体的な理由や決定の過程を詳細に記す一次記録には、本稿の範囲では突き当たっていない。この点は未確認としておく。
事業の規模を示す諸元も記録に残る。計画上の取水量は500個、毎秒に換算して13.9立方メートルとされ、これを東西の系統へ250個・毎秒6.95立方メートルずつ分けて導く構想であった2。ここでいう「個」は、近世以来の水利慣行に由来する流量の単位で、毎秒の立方メートルに換算して記録されている。旧来の慣行的な計量と近代的な計量とが一つの計画書のなかで接続している点に、この事業がもつ過渡的な性格が表れている。
受益の範囲も数値で示される。東部地域のかんがい面積は3,420ヘクタール、用水路の延長は33,824メートルと記録されている。三千町歩を超える水田へ、三十キロメートルを超える水路で水を届けるという規模は、部分的な補修の域をはるかに超え、東部平野の水利体系そのものを組み替える事業であったことを物語る。これらの数値は事業記録に明記されており、史実として扱ってよい。
ただし、これらの数値が「計画上の値」である点は忘れてはならない。計画の諸元と、竣工後に実際に確保された取水量や灌漑面積とが完全に一致する保証はなく、後述する戦時下の資材難のもとでは、当初計画どおりに施工が進まなかった箇所があった可能性も否定できない。計画値を事業の実績とそのまま同一視することは避け、あくまで「計画としてこの規模が構想された」という事実として受け取るべきである。この区別は、事業を過大にも過小にも評価しないために欠かせない。
昭和4年(1929年)という採択の年次にも、あらためて注意を向けておきたい。この年は、前年からの金融不安が世界恐慌へと連なり、農産物価格の下落が農村を直撃していく時期にあたる。困窮する農村にとって、収穫を安定させる用水の整備は、目先の景気対策という以上に、生存の基盤を確保する事業であった。県が大規模な用水改良を計画として採り上げた背景には、農村救済という当時の政策的要請も働いていたと考えられる。ただし、この採択の政治過程を具体的に伝える議事記録には本稿では当たっておらず、経済的背景と事業採択との結びつきは、状況からの推定にとどめておく。
なお、これらの数値や年次が今日に伝わるのは、事業に関わった組織が記録を残し、後年それを記念誌として編み直したからにほかならない。記録が残されなければ、事業の規模も日付も、記憶のなかで曖昧になっていったはずである。用水史を書きうること自体が、先人の記録への意志に支えられている。その意味で、事業記録の性格を吟味しながら読むことは、記録を残した人々の営みに応えることでもある。
3. 取水難の由来 ── 河川改修と水利環境の変化
そもそも、なぜこれほどの改良事業が必要とされたのか。その根には、慢性的な取水難があった。関係地域では、必要な時期に十分な水を得られないことが長く農業経営を圧迫しており、川から水を取る位置、河床の変化、施設の能力、分水の仕組みが、そのまま収穫を左右した。水不足は毎年同じ形で訪れるのではなく、渇水、施設の損傷、土砂の堆積、労力の不足が重なったときに、地域は取水の安定をあらためて強く求めるようになる。
取水難を深刻化させた一因として、事業記録は河川改修の影響を挙げる。明治43年(1910年)と翌44年に相次いだ洪水を受け、太田川・原野谷川などで河川の改修が行われ、流路が直線化された3。治水の観点からは必要な工事であったが、蛇行部や淵が失われた結果、従来の取水地点では水が取りにくくなった。水の量が足りないだけでなく、川の形そのものが変わってしまったのである。ここには、治水と利水という、しばしば相反する要請のあいだで水利環境が揺れ動いた実態が読み取れる。
下流の浅羽地域では、大正14年(1925年)から15年にかけて諸井富里用水幹線改良事業が行われ、揚水機も整備されたと記録される。だが、揚水機のような施設を整えても、河川から取り込める用水量そのものが安定しなければ、下流の設備は十分に機能しない。地域が天竜川という大河にあらためて安定した水源を求めた背景には、こうした河川改修後の水利環境の変化があった。用水の問題は、施設の能力だけでなく、水源となる河川の状態と分かちがたく結びついている。
この経緯は、用水史を施設の新設としてのみ読むことの一面性を示している。用水は、水源となる河川の状態と切り離しては論じられない。天竜川水系の治水事業や河床の変化、上流の状況が、下流の取水条件を規定する。磐田用水の改良を構想した人々は、単に古い水路を直そうとしたのではなく、変化した河川環境のなかで安定した水源をどう確保するかという、より根の深い問題に直面していた。明治以来の水利計画である社山疏水の構想も、この同じ問いへの応答として連なっている。幹線改良事業は、そうした半世紀にわたる模索の一つの帰結であった。
天竜川という水源の選択には、明確な利点があった。中小の河川が改修によって取水を難しくしていたのに対し、天竜川は水量そのものが豊かであり、そこに安定した取水地点を確保できれば、渇水年にも一定の用水を見込むことができる。幹線改良事業が取水地点を天竜川に求めたのは、水量の乏しい支流に頼る限り解消できなかった取水難を、より確かな水源に切り替えることで根本から断とうとする発想であった。もっとも、大河から水を引くには長大な導水路と隧道が必要となり、それが後述する社山隧道の掘削という難工事を要求することにもなった。水源の確かさと工事の困難とは、表裏の関係にあった。
4. 事業計画の構造 ── 取水・分水・幹線系統
事業の骨格を、計画の構造という面からもう少し立ち入って整理しておく。幹線改良事業の中心は、取水と導水の不安定さを改善し、農地へ確実に水を届けることにあった。そのために、水路の改修、施設の強化、流量の確保、分水の整理という四つの作業が計画の柱となった。これは老朽施設の補修にとどまらず、用水体系そのものを組み替える性格の事業であった。
導水の骨格をなしたのが社山幹線である。事業記録では、社山幹線の系統が向笠御厨線・今井田原線・久努西線・浅羽西線の四系統として整理されている。一本の幹線から四つの系統へ分岐して各地の水田へ水を配るこの構造は、取り込んだ水を広い受益地へ行き渡らせるための骨組みであった。取水量を東西へ二分し、さらに系統ごとに分けていく設計には、限られた水を受益地全体へ配分しようとする水利の論理が反映されている。
分水の整理という作業には、単なる土木を超えた意味があった。用水は、上流で多く取れば下流が不足するという構造をもち、どこにどれだけ水を分けるかは、しばしば集落間の利害に直結した。分水の仕組みを改めることは、水をめぐる地域内の取り決めを組み替えることでもあった。幹線改良事業が「近代的な用水体系への組み替え」と評されるとき、そこには施設の更新だけでなく、こうした水配分の秩序の再編という側面も含まれていたと考えられる。ただし、系統ごとの配分量が現地でどのように運用され、集落間でどう調整されたかを具体的に伝える記録には、本稿の範囲では十分に突き当たっておらず、この点はなお未確認の部分を残す。
用水路延長33,824メートルという数字も、単なる長さ以上の意味をもつ。水路が長くなれば、その全区間で漏水や損傷が生じうるし、末端まで水を届けるには途中の水位と流量を保たねばならない。三十キロメートルを超える水路を維持することは、通水後の地域に恒常的な管理の負担を課すことでもあった。計画の規模の大きさは、そのまま将来の維持管理の重さに直結していた。この点は、事業の完成が終わりではなく始まりでもあったという、後段の論点にもつながる。
以上の諸元を、確度の層とともに一覧に整理したものが表1である。取水量やかんがい面積は事業記録に明記された計画値であり史実として、工事の進捗や現場の労働実態は記録に乏しく推定として、それぞれ層を分けて示した。数値の確からしさを同じ平面で混同しないための整理である。
| 項目 | 資料で確認できる内容 | 確度の層 | 留意点 |
|---|---|---|---|
| 計画採択 | 昭和4年(1929年)に静岡県議会で採択。 | 史実 | 年次は事業記録に明記。 |
| 取水地点 | 二俣町鹿島下流付近で検討ののち二俣町阿蔵へ変更。 | 史実/未確認 | 変更の理由・決定過程を記す一次記録は未確認。 |
| 取水量 | 500個=毎秒13.9立方メートル。東西各250個=毎秒6.95立方メートル。 | 史実(計画値) | 竣工後の実績と一致する保証はない。 |
| かんがい面積 | 東部地域3,420ヘクタール。 | 史実(計画値) | 計画上の受益範囲。 |
| 用水路延長 | 33,824メートル。 | 史実(計画値) | 幹線・系統を含む計画延長。 |
| 社山幹線の系統 | 向笠御厨線・今井田原線・久努西線・浅羽西線の4系統。 | 史実 | 系統別の運用実態は未確認。 |
| 戦時下の労働実態 | 「突貫工事」と形容され、各種動員の関与がうかがえる。 | 推定 | 人員数・作業日程の一次記録は未確認。 |
| 初通水 | 昭和19年(1944年)7月25日午前10時。 | 史実 | 日時まで事業記録に明記。 |
5. 戦時下の突貫工事 ── 社山隧道と労働動員
工事の経過に目を移す。事業記録によれば、幹線改良は昭和9年(1934年)に社山隧道の掘削へ着手し、翌昭和10年(1935年)12月に開通して、当初は順調な滑り出しを見せた。隧道は、丘陵を貫いて水を導くための難所であり、その早期の開通は、事業が技術的に着実に進んでいたことを示す。この段階までは、事業はおおむね計画に沿って進行していたと見てよい。
しかし昭和12年(1937年)の日中戦争開戦、続く太平洋戦争への突入により、事業を取り巻く条件は一変した。事業記録は、戦争に伴う予算・資材・労力の不足が工事の進行を大きく妨げたと明記する。セメントや鉄材は軍需へ優先的に回され、働き手の多くは徴兵や軍需産業へ動員された。用水工事は、資材も人手も細る一方の条件のもとで続けられねばならなかった。順調だった事業が長期の停滞を強いられたのは、地域の事情ではなく、戦争という外部の条件によってであった。
この局面で、事業は「突貫工事」と形容される段階に入る。ここで史料批判上の注意を述べておきたい。「突貫工事」という語は事業を振り返る記述に見えるが、その具体的な作業日程、動員された人員の数と構成、労働の実態を数値として詳細に記した一次記録には、本稿の範囲では突き当たっていない。したがって、現場でどのような労働が行われたかについては、断片的な記述と時代の一般的状況から推定するほかない。これは「記録に一切ないと断定できる(=記載がない)」ことを意味せず、あくまで筆者が該当史料に突き当たっていない未確認の状態である。
推定として述べうるのは次の点である。戦時下の土木工事では、通常の労働力に加えて、勤労奉仕や各種の動員によって人手が補われるのが一般的であった。事業記録に見える「農業増産報国推進隊」の名は、食料増産を国策として掲げた戦時体制のもとで、こうした動員の枠組みが用水工事にも及んでいたことをうかがわせる。ただし、その動員が具体的にどの区間で、どの程度の規模で行われたかは、本稿の依拠する資料からは特定できない。動員の実在を推定として述べることと、その規模や過酷さを具体的に断定することとは、峻別しておかねばならない。
戦時下の工事を評価するうえで、もう一つ確認しておくべきことがある。それは、事業の停滞が地域の努力不足によるものではなかったという点である。予算・資材・労力の不足は、いずれも戦争という国家的条件から生じたものであり、現地の関係者がどれほど尽力しても、単独では解消しえない制約であった。順調に始まった事業が長い足踏みを強いられ、それでもなお放棄されずに通水まで漕ぎ着けたという経過は、制約の厳しさと、それでも水を得ようとした地域の執念の双方を、同時に語っている。
この推定を記すにあたっては、二つの一面化を避けねばならない。戦時下の動員を、食料増産という大義のもとに無条件に肯定することはできない。同時に、動員という語の負の含意だけを取り出して、水を得ようとした地域の切実な必要そのものを否定することもできない。用水を待ち望んだのは現地の農民であり、その必要は戦争とは独立に存在した。事業がもった意味は、戦時という条件と、地域固有の水への必要とを、分けて考えたうえで評価されるべきである。効果の側面だけを語るのでも、負担の側面だけを語るのでもない記述が、ここでは求められる。
6. 事業を支えた資金と組織
大規模な用水事業は、地域だけの負担で完遂できるものではない。幹線改良事業には、複数の組織による資金と労力の支援が関わった。事業記録は、金原治山治水財団からの寄付が、磐田用水分の地元負担金18万2千円に充てられたと伝える4。地元が自ら担うべき負担金の相当部分が外部の寄付によって賄われたという事実は、事業の資金構造を理解するうえで見落とせない。
金原治山治水財団は、遠州における治山・治水・植林の事業で知られる金原明善の事績に連なる公益的な組織であり、その支援は、治山治水と水利整備がもつ公共的な性格を体現している。地元負担金の相当部分が財団の寄付によって賄われたことは、この事業が一私益の事業ではなく、地域社会全体の基盤を支える公共事業として位置づけられていたことを物語る。水利は、個々の農家の利益であると同時に、地域全体の生存に関わる公共の課題であった。
金原明善は、天竜川の治水と流域の植林に生涯を捧げた人物として知られ、その事業は個人の献身が公共の基盤づくりへと結実した例としてしばしば語られる。財団がその名を継いで用水事業を支えたことは、治山・治水・利水が本来一続きの課題であることを、資金の流れの面からも示している。山を治め、川を治め、そして水を田へ導くという営みは、それぞれ別個の事業に見えて、遠州平野という一つの土地の上では分かちがたく結びついていた。
資金面以外でも、事業は戦時下の諸組織の関与のもとで進められた。事業記録には、農地開発営団、農業増産報国推進隊、金原治山治水財団などの支援を受けたことが記される。農地開発営団は、食料増産を目的として設けられた国策の機関であり、その関与は、磐田用水の改良が地域の事業であると同時に、戦時下の食料増産という国家的政策の枠組みのなかに置かれていたことを物語る。地域の水利と国家の政策とが、この時期に一つの事業のうえで交わっていた。
もっとも、政策の言葉だけで現場の実態を説明することはできない。国策としての食料増産という大きな枠組みがあったとしても、実際の工事現場では、用地の確保、資材の手配、労力の調達、工程の管理といった具体的な問題が一つひとつ立ちはだかった。国家的政策と地域の現場とは、同じ事業の異なる層であり、両者を短絡させずに読むことが求められる。天竜川水系全体の水利をめぐっては、戦後の天竜川下流農業水利事業へと続く、より大きな国営事業の系譜も控えており、幹線改良事業はその前史をなす位置にある。
支援を受けて事業が前進したことは、地域だけでは負いきれない負担を外部の力が補ったことを意味する。だが、支援が事業の完成をもたらしたあとも、維持管理の責任は地域に残り続けた。水路は年々の補修を要し、配水の調整は毎年くり返される。外部の支援は事業を立ち上げる力とはなっても、それを永く支え続ける主体は、あくまで水を使う地域の側であった。この構図は、公共事業と地域自治の関係を考えるうえで、現在にも通じる論点を含んでいる。
7. 昭和19年の初通水とその受け止め
資材難と労働力不足という逆風のなかで続けられた工事は、ついに通水に至る。事業記録は、昭和19年(1944年)7月25日午前10時に通水したと日時まで明記する5。太平洋戦争の戦局がすでに悪化していた時期にあたり、そのただなかで用水が初めて流れたという事実は、事業に関わった人々にとって、長年の取水難に対する一つの到達点であった。
通水の日時が午前10時という時刻まで記録されていることには、意味がある。用水の通水は、単なる工事の完了ではなく、待ち望まれた水がはじめて水路を流れ下る、地域にとっての画期的な出来事であった。その瞬間が時刻とともに書きとめられたこと自体が、この通水が関係者にどれほど重い意味をもって受け止められたかを、間接的に物語っている。日時の記録は、事務的な記載であると同時に、記憶の刻印でもある。
あわせて、通水が昭和19年(1944年)という時期に実現したことの意味も考えておきたい。この年、戦局はすでに悪化し、国内の物資と労力はいよいよ逼迫していた。そうした最も条件の悪い時期に、なお用水工事が完遂されたという事実は、この事業が地域にとっていかに切実であったかを逆説的に物語る。不要不急とみなされれば真っ先に中止されかねない状況のなかで通水にこぎ着けたことは、食料増産という戦時の要請と、水を求める地域の必要とが重なった一点に、この事業が位置していたことを示している。
ただし、通水がどのように受け止められたかを具体的に伝える証言や記録――たとえば立ち会った人々の言葉や、当日の様子を記した文書――については、本稿の範囲では確認できていない。したがって「地域が通水をどう受け止めたか」を細部にわたって描くことはできず、記録された日時という事実から、その受け止めの重みを推し量るにとどまる。ここでも、記録にある事実と、記録の乏しい実感とを、区別しておく必要がある。実感の部分に想像で肉づけをすることは、史実の記述としては慎むべきである。
そして通水は、終点ではなかった。水が流れ始めたのちも、配水の調整、施設の補修、費用の負担、農地での実際の利用といった課題が続いた。幹線改良事業は、それ自体が問題をすべて解決したのではなく、磐田用水を次の段階へと押し出す転換点であった。戦後、用水の管理は水利組合から土地改良区へと引き継がれ、維持の仕組みが整えられていく。昭和19年の通水は、その長い過程の一つの結節点として位置づけられる。到達点でありながら、次の出発点でもあったのである。
8. 結論 ── 用水の安定が地域社会にもたらしたもの
本稿は、磐田用水幹線改良事業の経過を、昭和4年(1929年)の計画採択から昭和19年(1944年)7月の初通水まで、史実・推定・伝承の層を区別しながら再構成した。得られた見取り図は次のとおりである。取水量500個・毎秒13.9立方メートル、東部かんがい面積3,420ヘクタール、用水路延長33,824メートルという計画の諸元、昭和9年の社山隧道着手と昭和10年の開通、そして昭和19年7月25日の通水は、事業記録に明記された史実として扱いうる。一方、戦時下の労働動員の具体的な規模や作業現場の実態は、記録に乏しく、推定として腑分けするほかなかった。
この事業が地域社会にもった意味は、単に水が安定して届くようになったという水利上の効果に尽きない。慢性的な取水難は、農業経営の見通しを毎年不安定にし、水をめぐる集落間の緊張の火種でもあった。用水の骨格が組み替えられ、分水の秩序が整えられたことは、水という資源をめぐる地域内の関係そのものを、より安定した基盤の上に置き直す試みでもあった。用水事業の歴史は、土木の歴史であると同時に、水を分かち合う共同体の秩序の歴史でもある。
用水の安定は、目に見えにくい形で地域の暮らしを支える。豊かな年に大きな恵みをもたらすというより、渇水の年に致命的な不作を避けるという、下支えの役割を果たす。幹線改良事業がもたらしたのは、そうした最悪の年の被害を和らげる備えであった。派手な成果として語られにくいこの種の基盤整備こそが、農業を営みとして続けていくための条件であり、遠州平野で米づくりが続けられてきた背後には、こうした水利事業の積み重ねがあった。
同時に、この事業が戦時下という条件のもとで進められたことの意味も、忘れてはならない。資材も人手も乏しいなかで工事が続けられた背景には、食料増産を国策として掲げた戦時体制の要請があった。用水を求めた地域固有の必要と、戦争遂行のための増産という国家の要請とは、たまたま同じ方向を向いていた。その重なりが事業を前へ進めた一方で、現場の労働がどのような負担のうえに成り立っていたかは、なお未確認の部分を多く残している。効果を認めることと、負担を見落とさないことは、両立させねばならない。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を記しておく。第一に、戦時下の工事現場における労働動員の実態は、当時の行政文書や地域に残る個人の記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、取水地点が二俣町鹿島付近から阿蔵へ変更された経緯は、技術的な検討の過程を伝える一次記録に当たることで、より精確に描きうる。第三に、計画値と竣工後の実績との異同は、戦後の管理記録と照合することで検証されるべき主題である。用水の歴史を、通水という到達点の光だけで語るのでも、動員という影だけで語るのでもなく、記録に残る事実と記録の及ばぬ部分とを腑分けしながら書き継いでいくこと――その禁欲的な手続きの先にこそ、遠州平野の水を支えてきた人々の営みの全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。本論考シリーズでは、社山疏水の構想や戦後の土地改良区の成立を、稿を改めて論じたい。
注
- 磐田用水幹線改良事業計画が昭和4年(1929年)に静岡県議会で採択されたことは『磐田用水のあゆみ』(磐田用水東部土地改良区設立50周年記念誌)による。↩
- 「個」は近世以来の水利慣行に由来する流量の単位で、事業記録では500個を毎秒13.9立方メートル、東西各250個を毎秒6.95立方メートルと換算している。慣行的な単位と近代的な計量単位が併記されている点に、事業の過渡的な性格が表れる。↩
- 明治43年(1910年)・44年(1911年)の連続洪水を受けた太田川・原野谷川などの河川改修と流路の直線化については、事業記録および県の河川関係資料による。改修が取水条件に及ぼした影響は、天竜川に安定水源を求めた動機として整理される。↩
- 金原治山治水財団の寄付が磐田用水分の地元負担金18万2千円に充てられたことは『磐田用水のあゆみ』に記される。あわせて農地開発営団・農業増産報国推進隊などの支援も記録される。↩
- 通水日時(昭和19年〔1944年〕7月25日午前10時)は事業記録による。一方、当日の作業や動員の実態を詳細に記す一次記録は本稿の範囲では未確認であり、「記載がない」ことの確認とは区別する。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 c030 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、昭和4年の計画採択・取水量や面積などの計画諸元・昭和19年の通水日時を史実、戦時下の労働動員の規模や作業実態を推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田用水東部土地改良区編『磐田用水のあゆみ ── 設立50周年記念誌』磐田用水東部土地改良区。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 静岡県編『静岡県史』(該当巻)、静岡県。
- 金原治山治水財団 関係資料。
- 農林省・農地開発営団 関係資料(該当年次)。
- 太田川・原野谷川の河川改修に関する記録(静岡県 河川・土木関係資料)。
- 諸井富里用水幹線改良事業(大正14〜15年)に関する記録。
- 磐田用水東部土地改良区 管理区域・年表資料。
- 天竜川下流農業水利事業 事業誌(該当年次)。
- 金原明善および遠州の治山治水事業に関する伝記・研究。
- 磐田物語 c028「磐田用水の歩み ── 天竜川の水が変えた農地と暮らし」 https://iwata-monogatari.net/c028.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 c029「社山疏水の構想 ── 犬塚祐一郎と明治の水利計画」 https://iwata-monogatari.net/c029.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 c030「磐田用水幹線改良事業 ── 戦時下の突貫工事と初通水」 https://iwata-monogatari.net/c030.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 c031「天竜川下流農業水利事業 ── 船明ダムから地域の水網へ」 https://iwata-monogatari.net/c031.html (最終閲覧:2026年7月26日)。