失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 見付から福田・掛塚へ ── 南部の低地を渡った旧道の復元

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第150号(南部古道研究 一)

見付から福田・掛塚へ ── 南部の低地を渡った旧道の復元

微高地づたいの道という作業仮説と、「未確認」と「記載なし」の腑分け

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市南部(福田・掛塚方面)

要旨

内陸の中心地・見付と、沿岸の二つの湊である福田・掛塚とを結んだ道は、両者のあいだにひろがる南部の低地──天竜川がつくった沖積地──をどのように渡っていたのか。本稿は、この主題を「道そのもの」に据え、微高地すなわち自然堤防づたいに旧道が通るという地形上の原則を作業仮説として提示し、復元的に検討する。三拠点それぞれの性格、低地集落が微高地をつたって内陸と行き来していたという一般原則、今之浦の水運、現在の県道43号磐田福田線の経路までは、既刊記事や公開情報で確認できる。一方、固有の名を負った特定の旧道の存否や、県道がどの旧道を踏襲するのかは未確認にとどまる。本稿の中心的な課題は、この「未確認」と「史料に記載がない(記載なし)」とを厳密に区別し、確認できることとできないこととを腑分けしたうえで、復元の射程と限界を明示することにある。

キーワード:南部の低地/微高地(自然堤防)/見付・福田・掛塚/旧道復元/今之浦の水運/県道43号磐田福田線/史料批判

1. 問題設定 ── なぜ「道そのもの」を主題にするのか

見付・福田・掛塚は、いずれも磐田の歴史を語るうえで欠かせない拠点であり、それぞれについては東海道・見付宿の面影福田湊の発展と遠州の漁業史掛塚湊の成立と廻船問屋として、これまで別々に記述を積み重ねてきた。ところが、この三点を結ぶ「道」そのものを主題に据えた検討は、管見の限り十分にはなされてこなかった。内陸の宿場町と、性格を異にする二つの海辺の湊──遠州灘の漁港と天竜川河口の廻船湊──を、あいだにひろがる氾濫原を挟んで結ぶ道。本稿はこの道を主役に据える。

ここで直ちに立ち上がる問いがある。見付と福田・掛塚のあいだには、天竜川がつくった浸水しやすい低地がひろがっている。人々はこの低地をどう渡って往来したのか。近世以前の道は、低地の中でわずかに周囲より高い土地、すなわち自然堤防などの微高地を選んで通されるのが一般であった。本稿は、この「微高地づたいに道が通る」という地形上の原則を、南部の旧道を考えるための作業仮説として据える。

あらかじめ本稿の立場を明示しておきたい。本稿がめざすのは、失われた旧道の具体的なルートを一本の線として断定的に復元することではない。むしろ、この主題について何が確認でき、何が確認できないのかを一つずつ腑分けし、復元という営みの射程と限界を明らかにすることにある。地形の原則から蓋然性の高い道筋を推し量ることはできるが、それを確定した史実として語ることと、地理的条件から導かれる推定として語ることとは、厳密に区別されなければならない。

この区別を支えるために、本稿はもう一つの方法上の区別を全篇にわたって保持する。すなわち「未確認」と「記載なし」の区別である。「未確認」とは、管見の限り、それを裏づける史料に筆者がまだ突き当たっていない状態を指す。「記載なし」とは、参照しうる史料を博捜したうえで、そこにその事柄が記されていないと積極的に述べうる状態を指す。両者はしばしば混同されるが、含意はまったく異なる。未確認は「あるかもしれないが、まだ見つけていない」であり、記載なしは「調べた範囲には無い」である。南部の旧道をめぐる多くの論点は、この「未確認」の位相にとどまる。それを「記載なし」と取り違え、あるいは逆に確定した史実へと繰り上げてしまうことこそ、本稿が最も警戒する誤りである。

そのうえで本稿は、地図・絵図・伝承という三種の資料が、それぞれどのような性格をもち、道の復元にどこまで用いうるのかという史料批判の問題にも踏み込む。旧版地形図は近代測量の産物であり、絵図は作成主体の意図を映す象徴的な図像であり、伝承は共同体の記憶の堆積である。これらを同じ確度で扱うことはできない。以下ではまず三拠点と低地の性格を確認し、続いて微高地づたいの道という仮説を検討し、県道との重なりと物流網を経て、最後に復元の方法と限界を腑分けする順に論を進める。

南部の低地(天竜川がつくった沖積地・氾濫原) 見付 内陸・宿場 福田 太田川河口・漁港 掛塚 天竜川河口・廻船湊 内陸の宿場と二つの湊を結ぶ道
図1 三拠点と南部の低地の位置関係。内陸の見付から、氾濫原を挟んで沿岸の福田・掛塚へ向かう道の骨格。破線は道筋の方向を示す模式であって、確定したルートではない。

2. 史料で確認できる三つの拠点の性格

道の復元に入る前に、結ばれる三つの拠点それぞれの性格を、確認できる範囲で押さえておく。まず見付は、東海道の宿場町であり、遠江国府が置かれた時代から続く内陸の中心地である。行政・信仰・商業の結節点として機能してきたことは、宿場や国府に関わる諸記録から確認できる1。なぜこの地が遠江支配の要とされたのかについては、なぜ家康は見付を選んだのかで論じたとおり、国府・東海道・今之浦の水運という三つの条件が重なっていた。

福田は、太田川河口に開けた天然の湊で、遠州灘の漁業を支えてきた。沿岸の漁港として発達し、近世には福田橋の橋詰に藩の塩蔵が置かれていたと伝わる。少なくとも近世には、福田周辺で塩の集積・保管が行われていたことがうかがえる。塩は内陸部にとって欠かせない物資であり、この点は後段で物流を考える際の手がかりとなる。

掛塚は、天竜川河口に位置する廻船湊である。天竜川上流の信州で切り出された材木が川を下って集積され、そこから廻船に積み替えられて江戸や大坂へと運ばれた。材木や御用米の輸送を担い、江戸・大坂と結ぶ広域の水運網の中継地として栄えたことは、廻船問屋に関わる記録から確認できる。掛塚は、見付との二地点関係だけで完結する湊ではなく、四方へ広がる物流網の結節点であった。

ここで重要なのは、三つの拠点がそれぞれ別個の物流網に属していたという点である。見付は東海道の陸運、福田は太田川と遠州灘の漁業、掛塚は天竜川の水運。系統を異にするこれらの拠点が、南部の低地を挟んで隣り合っていたという地理的事実そのものが、この一帯の交通を考える出発点となる。性格の異なる拠点が近接するとき、それらを結ぶ往来が生じるのは自然であり、その往来の経路こそ本稿の問う対象である。

もっとも、これら三拠点の歴史や性格が確認できることと、三点を結ぶ道が固有の名や特定のルートをもって存在したかどうかは、別の問題である。拠点の存在は、それらを結ぶ道の存在を蓋然的に示唆はするが、その道がどのような名で呼ばれ、どの微高地をたどったのかまでを保証するわけではない。拠点についての確かな知見を、そのまま道についての確かな知見へと横滑りさせないことが、以下の検討の前提となる。地域史の記述では、確かな事柄の周囲に、それと連続するように見える不確かな事柄が寄り集まりやすい。拠点の実在という確かな足場から、道の名やルートという不確かな領域へ踏み出すとき、足場の確かさが行き先の確かさをも保証するかのような錯覚が生じる。この錯覚を避け、確かな事柄と不確かな事柄との境界を、そのつど意識的に引き直していくことが、以下の作業を貫く姿勢である。

3. 南部の低地という地形条件

見付と福田・掛塚のあいだにひろがる南部の低地は、天竜川が長い年月をかけて運んだ土砂が堆積してできた沖積地であり、たびたび洪水に見舞われる氾濫原であった。天竜川がつくった村、流した村で扱ったように、この暴れ川は流路を変えながら、村をつくり、また村を流してきた。低地に暮らす人々にとって、浸水をいかに避けるかは、集落を営み道を通すうえでの根本的な制約であった。

氾濫原の地形には、規則性がある。川が氾濫すると、流路のすぐ脇には粗い砂がまず堆積し、周囲よりわずかに高い帯状の高まりができる。これを自然堤防と呼ぶ。その背後には、細かい泥がゆっくり沈んでできた低湿な後背湿地がひろがる。自然堤防は、洪水のたびに繰り返し土砂を受けて少しずつ高くなり、後背湿地は水はけの悪い湿地として残る。数十センチから一メートル程度のわずかな比高であっても、浸水のしやすさは大きく変わる。

この地形の規則性ゆえに、低地における集落や道は、自然堤防すなわち微高地を選んで営まれるのが常であった。天竜地区総論で整理したように、この一帯の集落は、周囲よりわずかに高い微高地をつたって旧道を通し、浸水を避けながら中泉・見付方面と行き来していたと考えられている。これは南部の低地に限らず、沖積平野一般に広く見られる原則であり、その意味で地形学的な蓋然性の高い一般則として扱ってよい2

見付の市街地から南へ出ると、まず今之浦と呼ばれる一帯に入る。今之浦は今之浦川が流れる低地で、見付の南、福田の北東に隣接する。見付の地政学を扱った論考で触れたように、今之浦は戦国期には入り江状の水域が広がっていたとされ、見付の水運を掛塚湊方面と結びつける役割を担っていたと考えられている。低地を渡る問題は、単に陸路をどう通すかにとどまらず、水域をどう介するかという問題でもあった。

したがって、南部の低地を渡る往来には、陸路と水路という二つの経路が並行して存在した可能性が高い。陸路が微高地を選んで南へ抜けていったのと並行して、水路もまた低地の水域を介して見付と沿岸部をつないでいた。道と水は、浸水しやすい沖積地をどう越えるかという同一の制約に対する、別々の答えだったと見ることができる。旧道を復元的に考える際にも、この二つの経路を截然と切り離さず、相互に補い合う交通の総体として捉える視点が要る。

道(微高地上) 自然堤防(微高地) 後背湿地 後背湿地 氾濫原の断面 ── 微高地に道が通る わずかな比高が浸水のしやすさを分ける。道は湿地を避け、自然堤防の背をたどる。
図2 氾濫原の模式断面。川沿いに形成される自然堤防(微高地)の背に道が通り、両側の後背湿地を避ける。数十センチの比高が、浸水の可否を左右した。

4. 微高地づたいの道という作業仮説の検討

以上を踏まえ、本稿の作業仮説を改めて定式化する。すなわち、見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道は、南部の低地の中の微高地──自然堤防などの周囲よりわずかに高い土地──を選びながら、浸水を避けて南へ抜けていたであろう、というものである。これは前章で確認した沖積平野一般の原則を、南部の低地という具体の場に当てはめた推論であり、地形学的な蓋然性は高い。しかし、それがあくまで仮説であることを、以下では明確に保持する。

この仮説を具体的な道筋の推定へと展開するには、いくつかの手がかりが考えられる。第一に、旧版地形図に描かれた等高線や集落の分布から、微高地の連なりを読み取る方法。第二に、条里や耕地の区画、あるいは字名に残る「島」「堤」「浦」といった地形を示す地名から、かつての微高地と水域の分布を推定する方法。第三に、現存する集落や社寺の立地から、浸水を免れた土地の位置を逆算する方法である。これらを重ね合わせれば、微高地の帯がどこを通っていたかを、ある程度まで面的に描くことはできる。

だが、ここに復元の第一の限界がある。微高地の帯を面的に描けたとしても、その帯のどこを一本の道が通ったかを確定することはできない。自然堤防は幅をもった帯であり、その上には複数の経路が並立しうる。時期によって主要な道筋が移動したことも十分に考えられる。地形の原則が教えるのは「およそこのあたりを通ったであろう」という蓋然的な範囲であって、「この線を通った」という確定した一本ではない。復元とは、面としての蓋然性を示すことはできても、線としての確定には容易に届かない営みである。

今之浦の水域との関係も、この復元をいっそう複雑にする。戦国期に入り江状の水域が広がっていたとすれば、その水域の縁を陸路がどう回り込んだか、あるいは一部を渡し舟で越えたかは、時代によって異なりうる。水域は堆積や干拓によって時代とともに姿を変えるため、ある時期の道筋を別の時期にそのまま当てはめることはできない。旧道の復元は、地形の静的な断面ではなく、水域の消長という動的な過程のなかで考えねばならない。

したがって本稿は、微高地づたいの道という仮説を、確定した史実としてではなく、地形条件から導かれる推定として提示するにとどめる。この仮説は、南部の旧道を考えるうえで有力な出発点であり、今後の実地調査や旧版地形図の精査によって検証を積み重ねるべき対象である。仮説を仮説として明示したうえで検証にひらいておくことが、性急な断定よりもはるかに生産的であると考える。

低地(後背湿地) 微高地微高地微高地微高地 見付方面 福田・掛塚方面 微高地の帯を選んで南へ抜ける道(推定)
図3 微高地づたいの道の平面模式。道は湿地を避け、点在する微高地の背を選んで蛇行しながら南下したと推定される。ただし帯のどこを通ったかを一本の線に確定することはできない。

5. 現在の県道43号との重なりと史料批判

見付と福田を直接結ぶ現在の道として、静岡県道43号磐田福田線がある。起点は見付の新通り交差点、終点は福田中島の福田西交差点で、総延長は約6.2キロメートルである。1993年に主要地方道として指定され、途中で今之浦川に架かる於福橋を渡る区間は、2009年に架け替えに伴うルート変更を経ている3。この県道が、見付と福田という二つの拠点を最短距離に近いかたちで南北に結ぶ経路として、今も機能し続けている点は注目してよい。

近代以降の道路は、旧来の街道や脇往還を国道・県道に置き換えながら、経路を引き継いできた例が多い。舗装や拡幅を経ても、通る場所そのものは旧道を踏襲していることが少なくない。これは、微高地づたいという地形上の制約が近代になっても働き続けたためでもある。この一般的な傾向を踏まえれば、県道43号の経路は、南部の低地を渡っていた旧道の位置を考えるうえでの一つの手がかりになりうる。

しかし、ここで慎重でなければならない。県道43号が江戸期以前の旧道をそのまま踏襲しているかどうかを直接に裏づける史料は、本稿の調査範囲では確認できていない(未確認)。近代の道路整備は、旧道を引き継ぐこともあれば、まったく新たに引き直すこともある。於福橋周辺のルート変更が示すように、現在の経路は近年に至るまで改変を受けており、それを古い道筋の証拠とみなすことはできない。県道と旧道を安易に同一視することは、方法として避けねばならない。

ここで、道の復元に用いうる資料の性格そのものに立ち入っておきたい。旧道を考える手がかりとなる資料は、大きく地図・絵図・伝承の三種に分けられる。第一の旧版地形図は、近代測量に基づく相対的に精確な図であるが、それが描くのは測量時点の道であって、それ以前の道筋を直接には示さない。第二の近世の絵図は、村や領地の様子を描くが、しばしば象徴的・図式的に描かれ、方位や距離が正確とは限らない。絵図に道が描かれていても、その位置をそのまま現在の地図に重ねることには慎重を要する。第三の伝承・口碑は、地域の記憶として道の存在や呼称を伝えるが、それがいつの時代の道を指すのかは判然としないことが多い4

これら三種の資料は、それぞれ異なる時点・異なる意図のもとに作られており、確度も射程も一様ではない。したがって復元にあたっては、どの資料が何を語りうるのかを見極めたうえで、確度に応じて重みを変えて用いる必要がある。本稿の結論を先取りすれば、県道43号は旧道の位置を推し量る有力な手がかりでありつつ、それと同一視してはならない対象である。手がかりとして参照することと、証拠として断定することとは、峻別されねばならない。

見付(新通り) 福田(西交差点) 於福橋付近 県道43号(現道・確認できる) 旧道(位置は未確認) 県道と旧道 ── 手がかりであって同一ではない
図4 県道43号(実線・確認できる)と旧道(破線・未確認)の関係の模式。近代道路は旧道を引き継ぐことが多いが、部分的な引き直しもあり、両者を同一視することはできない。

6. 何が運ばれたか ── 広域物流網のなかの枝道

道の性格を考えるには、その道を何が往来したかを問う必要がある。断定はできないが、三拠点の性格から推測することはできる。福田からは、遠州灘でとれた海産物や塩が内陸へ向かい、見付からは、年貢米や農産物、あるいは信仰・行政にまつわる人の往来が沿岸部へ向かったと考えるのが自然である。掛塚方面へは、天竜川水運で運ばれてきた材木や物資が、見付を経由してさらに内陸・東海道方面へ流れていった可能性もある。

福田側については、前述のとおり福田橋の橋詰に藩の塩蔵が置かれていたと伝わる。塩は内陸部にとって欠かせない物資であり、こうした集積地から見付方面へ運ばれた可能性は、地理的にみて自然である。塩と道との関わりは、袖浦村の塩づくりで扱った塩業の流通とも通じる主題である。ただし、その塩が特定の道筋を通って運ばれたと確認できる輸送記録には、本稿の調査では行き当たっていない。塩の集積という事実は確認できるが、その先の輸送経路は未確認にとどまる。

掛塚方面の物流を考えるとき、見落とせないのは、掛塚湊がそもそも見付との二地点関係だけで完結する湊ではなかったという点である。天竜川上流の信州で切り出された榑木は、管流し・筏流しによって天竜川を下り、掛塚湊に集積された。そこから廻船に積み替えられ、江戸や大坂へ運ばれていく5。つまり掛塚は、信州・遠州・江戸を結ぶ広域物流の中継点であり、見付との関係は、その広域網の一部にすぎなかった可能性が高い。

この点は、道の復元にとって示唆に富む。見付から福田・掛塚へ向かう道を考える際も、二地点だけを直線で結ぶ発想ではなく、掛塚湊を起点に四方へ広がる物流網のなかに、見付方面への一本の枝道が含まれていたと捉えるほうが、実態に近いと考えられる。掛塚の物流は水運が主軸であったから、見付方面への陸路輸送は、水運を補完する副次的な経路だった可能性がある。低地を渡る陸路は、それ自体が独立した幹線というより、水運の網の目を陸で補う枝として位置づくのである。磐田から北へ延びる信仰と物流の道については秋葉道と二俣街道で論じたが、南部の道もまた、より大きな交通の総体のなかで捉える必要がある。

この枝道という捉え方は、道の性格を考えるうえで一つの帰結をもたらす。幹線が水運であったとすれば、見付方面への陸路は、恒常的に大量の物資が往来する道というより、水運が扱いにくいものや、内陸の需要に応じて随時運ばれるものの経路であった公算が大きい。塩や海産物のように内陸で必要とされる品、あるいは行政・信仰にまつわる人の往来などが、その主たる内容であったと推し量られる。もっとも、これらはいずれも拠点の性格から導かれる推測であって、その道を通ったと明記した文書にもとづく確定した史実ではない。往来があったであろうことは地理的に自然だが、その頻度・量・季節性までを裏づける資料には、本稿の調査では行き当たっていない。この点もまた、確認できることと推測にとどまることの境界を、慎重に引いておかねばならない箇所である。

掛塚湊 廻船・中継 信州 榑木・材木 江戸 廻船 大坂 廻船 見付 枝道(陸路) 掛塚を中心とする広域物流網と南部の枝道
図5 掛塚湊を結節点とする広域物流網の模式。信州からの材木が集積され廻船で江戸・大坂へ向かう主軸(青)に対し、見付方面への陸路(橙破線)は網の一枝として位置づく。

以上の拠点の性格と、そこから導かれる往来の推測を、確度の層とともに一覧できるよう、次の表に整理しておく。ここで意図したのは、確認できる事柄と推定にとどまる事柄、そして未確認の事柄を、同じ粒度で並べて可視化することである。特定の説を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら確度を判断できる状態をつくることを心がけた。

表1 見付・福田・掛塚を結ぶ交通をめぐる論点と確度の腑分け
論点確度の層確認できる内容依拠する資料未確認・留意点
三拠点の性格史実見付=宿場、福田=漁港・塩蔵、掛塚=廻船湊。既刊記事、宿場・湊関係の記録。拠点の存在は道の固有名・ルートを保証しない。
微高地づたいの旧道通説・一般原則低地集落が微高地をつたって内陸と往来した原則。沖積平野の地形学、天竜地区総論。原則は確かだが、南部の特定の一本の道筋は確定できない。
今之浦の水運推定戦国期に入り江状の水域があり水運を担ったとされる。見付の地政学に関する既刊考察。水域の範囲・消長の時期は精査を要する。
県道43号との踏襲関係推定見付・福田間を南北に結ぶ現県道が存在する。県道の諸元、近代道路の一般傾向。旧道踏襲を裏づける史料は未確認。同一視は不可。
固有の旧道名未確認────特定の街道名・往還名の存否は未確認。記載なしとは断定しない。
塩・材木の輸送経路推定塩の集積、材木の掛塚集積は確認できる。塩蔵の伝、廻船問屋の記録。特定の道筋を通った輸送記録は未確認。

7. 復元の方法と限界 ──「未確認」と「記載なし」の腑分け

本稿の中心的な論点は、ここに至って改めて前面に出る。南部の旧道をめぐって、われわれは何を確認でき、何を確認できていないのか。そして、その「確認できていない」は、いかなる位相のものなのか。この腑分けを曖昧にしたまま復元を語ることが、郷土史の記述における最も陥りやすい誤りである。

まず、確認できることを列挙する。見付・福田・掛塚それぞれの歴史と性格。南部の低地集落が微高地づたいの旧道で内陸とつながっていたという一般的な原則。今之浦の水運が見付と沿岸部を結んでいたとされること。福田周辺で塩の集積が行われていたこと。掛塚が広域物流の中継地であったこと。そして、現在の県道43号磐田福田線が見付・福田間を結んでいること。これらは、既刊の記事や公開情報によって確認できる範囲である。

次に、確認できていないことを列挙する。見付から福田・掛塚へ向かう道が、固有の名称──何々街道、何々往還といった──をもつ特定の旧道として存在したかどうか。現在の県道が具体的にどの旧道を踏襲しているのか。塩や材木が、どの道筋を通って運ばれたのか。これらは、いずれも本稿の調査範囲では確認できなかった事柄である。

ここで決定的に重要なのは、これらが「未確認」であって「記載なし」ではない、という点である。固有の旧道名が確認できないことは、「そのような名の道は存在しなかった」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、それを裏づける史料に筆者がまだ突き当たっていない」という状態である。磐田市立図書館所蔵の郷土資料や、国土地理院の旧版地形図、あるいは村方文書のなかに、その手がかりが眠っている可能性は十分にある。それを探索していないうちに「記載がない」と述べることは、調査の不足を史料の不在にすり替える誤りにほかならない。

この区別は、単なる言葉の慎重さの問題ではない。それは、次に何をすべきかを指し示す実践的な指針でもある。「記載なし」であれば、探索はそこで終わる。しかし「未確認」であれば、探索はなお続く。未確認と正しく認識することは、旧版地形図の等高線を読み、字名を集め、郷土資料を博捜するという次の作業への扉をひらく。断定を急いで扉を閉ざすのではなく、未確認の位相を保ったまま扉をひらいておくこと──それが、後世の調べものに耐える記述の作法であると考える。

したがって本稿は、南部の旧道の具体的なルートについて、断定的な名称やルートの提示を避ける。微高地づたいの道という作業仮説を推定として示し、県道43号を手がかりとして参照しつつ、固有の旧道名や踏襲関係は未確認として明記する。そのうえで、これらの未確認を一歩ずつ確認へと押し上げていく作業を、今後の課題として残す。復元とは、失われた線を想像で埋めることではなく、確認できることの縁を丁寧に描き、その外側を未確認として正確に空欄のまま残す営みである。

確認できる 拠点の性格・微高地の 原則・県道の存在 未確認 固有の旧道名・踏襲 関係・輸送経路 =まだ史料に届いていない 記載なし 博捜のうえで無いと 言える状態(本稿は主張せず) 確認できる/未確認/記載なし の弁別 本稿は多くの論点を「未確認」に置き、「記載なし」とは断定しない。
図6 三区分の弁別。「未確認」を「記載なし」と取り違えないことが本稿の中心的な作法である。未確認は探索の継続を、記載なしは探索の終結を含意する。

8. 結論 ── 復元的検討の到達点と課題

本稿は、内陸の見付と沿岸の福田・掛塚とを結んだ道が、南部の低地・氾濫原をどう渡っていたかを、微高地づたいに道が通るという原則を作業仮説として復元的に検討した。得られた見取り図は次のとおりである。三拠点それぞれの性格、低地集落が微高地をつたって内陸と往来した一般原則、今之浦の水運、県道43号の経路までは確認できる。一方、固有の旧道名や、県道がどの旧道を踏襲するのか、塩や材木がどの道筋を通ったのかは未確認にとどまる。そしてこの未確認は、史料に記載がないこと(記載なし)とは峻別されねばならない。

ここで本稿の立場を改めて明示する。旧道の復元とは、失われた一本の線を想像で引き直すことではない。それは、確認できることの範囲を正確に画定し、その外側を未確認として空欄のまま残し、地形の原則から蓋然性の高い推定を──推定であると明示したうえで──重ねていく、禁欲的な手続きである。微高地づたいの道という仮説は、面としての蓋然性を示すことはできても、線としての確定には容易には届かない。この限界を限界として引き受けることが、かえって復元という営みを堅実なものにする。

最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、国土地理院の旧版地形図の等高線と集落分布から、微高地の帯を面的に描き出す作業。第二に、字名や近世絵図に残る地形の痕跡を集め、かつての微高地と水域の分布を復元する作業。第三に、磐田市立図書館所蔵の郷土資料や村方文書のなかから、固有の道の名称や輸送の記録を探索する作業である。これらはいずれも、本稿が「未確認」として空けておいた欄を、一つずつ「確認できる」へと埋めていく作業に属する。断定の誘惑を退け、確認できることの縁を丁寧に描きながら、その先を粘り強く探していくこと──その地道な手続きの先にこそ、南部の低地を渡った道の姿が、少しずつ像を結んでいくはずである。今之浦の水域の消長と、掛塚を起点とする物流網のなかでの南部の道の位置づけについては、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿が扱った見付・福田・掛塚をはじめ、南部の低地に点在する集落には、微高地の上に営まれてきた古い家や土地が今も数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、そうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。道を復元的に書き留めることと、その道が結んできた土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 見付が東海道の宿場町であり遠江国府の所在地とされることについては、磐田市『磐田市史』通史編および見付宿・遠江国府に関わる諸記録を参照。国府の具体的な所在については別に論点を残す。
  2. 自然堤防・後背湿地の形成と、低地における集落・道の微高地立地については、沖積平野の地形学における一般則として広く知られる。南部の低地への適用は本稿の作業仮説である。
  3. 静岡県道43号磐田福田線の諸元(起点・終点、総延長約6.2キロメートル、1993年の主要地方道指定、於福橋の2009年架け替えに伴うルート変更)は、公開情報および素材記事 s020 の記述による。旧道踏襲の当否とは別の事実である。
  4. 旧版地形図・近世絵図・伝承の資料的性格の相違については、歴史地理学における道の復元方法論を踏まえた。絵図の象徴性や伝承の年代不確定性は、道の位置比定に際して留意を要する。
  5. 掛塚湊への榑木の集積、管流し・筏流しによる天竜川水運、廻船への積み替えと江戸・大坂への輸送については、掛塚湊・廻船問屋に関わる既刊記事および関連資料による。見付方面への陸路は水運を補完する副次経路であった可能性を推定として述べる。

付記:本稿は一般読者向け記事 s020「見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、拠点の性格や県道の存在を確認できる事柄、微高地づたいの道を推定、固有の旧道名や踏襲関係を未確認として扱った。中心論点である「未確認」と「記載なし」の区別を全篇で保持した。

参考文献・参考資料

  • 磐田物語 s020「見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道 ── 南部の低地を渡る道」 https://iwata-monogatari.net/s020 (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 s013「天竜地区総論」 https://iwata-monogatari.net/s013 (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 s001「天竜川がつくった村、流した村 ── 池田・掛塚と渡しの記憶」 https://iwata-monogatari.net/s001 (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 m017「東海道・見付宿の面影」 https://iwata-monogatari.net/m017 (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 m057「なぜ家康は見付を選んだのか ── 国府・東海道・今之浦の地政学」 https://iwata-monogatari.net/m057 (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 f001「福田湊の発展と遠州の漁業史」 https://iwata-monogatari.net/f001 (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r036「掛塚湊の成立と廻船問屋」 https://iwata-monogatari.net/r036 (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第43号「秋葉道と二俣街道 ── 磐田から北へ向かう信仰と物流の道」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/043/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第41号「袖浦村の塩づくり ── 塩業の技術・流通と村の生業」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/041/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第42号「高塚太郎平新道 ── 全財産を投じて拓いた道」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/042/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 国土地理院「地理院地図・旧版地形図」 https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。微高地・旧道の位置確認は今後の課題。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 磐田市立図書館 郷土資料(固有名を持つ旧道・輸送経路の確認は今後の課題)。
  • 「静岡県道43号磐田福田線」ほか道路関連の公開情報(諸元の比較・参照対象) https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月26日)。