失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 竜洋町の誕生 ── 掛塚・十束・袖浦が描いた「竜の洋」の合併史

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第148号(竜洋町村沿革研究 一)

竜洋町の誕生 ── 掛塚・十束・袖浦が描いた「竜の洋」の合併史

昭和30年の大合併にみる川湊・開拓農村・沿岸村落の統合と命名の理念

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋

要旨

昭和30年(1955年)4月1日、天竜川河口の掛塚町・十束村・袖浦村が合併して竜洋町が発足した。本稿は、この合併を単なる行政区画の統合としてではなく、川湊の商業町・沖積地の開拓農村・沿岸の村々という、生業も歴史も異なる三つの地域が一つの自治体へ束ねられていく過程として検討する。合併の期日・対象町村・合併直後の境界変更は静岡県告示や自治体史で確認できる史実として扱い、「竜洋」という町名については、命名の由来(天竜川の「竜」・太平洋の「洋」)を通説、そこに読み込まれた理念を推定として腑分けする。あわせて、行政合併に先立って学校組合の形で芽生えていた広域連携の実態、財政・学校・インフラをめぐる合併の力学、そして工業団地の造成・観光開発を経て平成17年(2005年)の大合併で磐田市へ帰属するまでのあゆみをたどる。合併史を、確度の異なる情報を混同せずに記述する一つの試みである。

キーワード:竜洋町/昭和の大合併/掛塚町/十束村/袖浦村/学校組合/町名の由来

1. 問題設定 ── 合併史を確度の層に分けて読む

現在の磐田市竜洋地区は、天竜川がその流れを太平洋へ落とす河口の一帯を占める。行政上のまとまりとしての「竜洋」は、昭和30年(1955年)のいわゆる昭和の大合併において、掛塚町・十束村・袖浦村の1町2村が統合して成立した竜洋町(りゅうようちょう)に直接の起点をもつ1。本稿は、この合併を主題として取り上げ、その成立の過程と、成立後に町がたどった近代行政のあゆみを検討する。

合併史というと、しばしば「いつ、どの町村が一つになったか」という年表的な事実の確認に終始しがちである。しかし、生業も歴史も異なる複数の町村がなぜ一つにまとまりえたのか、その町名にどのような理念が託されたのか、という問いに進むと、確実に言えることと、推し量るにとどまることとが混在してくる。合併の期日や対象となった町村、行政区域の変更は、県告示や自治体史によって確認できる事柄である。これに対し、町名に込められた願いや、住民がその合併をどう受けとめたかといった事柄は、資料の裏づけの度合いが異なる。

そこで本稿は、竜洋町の合併史を三つの確度の層に腑分けしながら記述する立場をとる。第一に、史料で確認できる史実。第二に、広く受け入れられているが一次史料で一点に確定はしにくい通説。第三に、根拠はあるが未確定の推定である。とりわけ「竜洋」という美しい町名の由来と、そこに読み込まれた含意とを、由来(通説の層)と含意(推定の層)に分けて扱うことに意を用いたい。町名の字面がどこから来たかという問いと、その字面にどのような理想が託されたかという問いとは、性格の異なる問いだからである。

あわせて本稿では、「未確認」と「記載なし」を区別する。ある事実について一次史料に突き当たっていない状態(未確認)と、史料を調べたうえでそこに記載がないと確認できた状態(記載なし)とは、慎重に書き分けるべきである。合併協議の細部や住民感情のように、公文書に残りにくい事柄については、この区別を保ったまま、確実に言える範囲を見きわめて記述していく。以下ではまず合併の確認できる事実を押さえ、続いて合併前の三地域を対比し、命名と合併の力学を検討したうえで、近代化のあゆみと結論に至る。

1町2村の大同団結(昭和30年4月1日) 掛塚町 川湊・商業と海運 十束村 開拓農村・稲作 袖浦村 沿岸・漁業と畑作 竜洋町 天竜川の「竜」+太平洋の「洋」
図1 合併の構図。生業の異なる1町2村が統合して竜洋町が成立した。三地域の対比は本文第3節と表1で詳述する。

2. 史料で確認できる合併の事実 ── 昭和30年4月1日という起点

まず、確認できる範囲を確定しておく。竜洋町は、昭和30年(1955年)4月1日、磐田郡の掛塚町・十束村・袖浦村が合併して発足した。合併の期日と対象町村は、静岡県の告示および自治体史の記載によって確認でき、これを史実として扱ってよい2。昭和20年代後半、政府は町村の自治能力を強化し、行政サービスを効率的に提供するため、全国規模で町村合併を推進した。町村合併促進法(昭和28年)に始まるこの一連の施策が、いわゆる昭和の大合併であり、天竜川河口のこの地域における1町2村の統合も、その大きな流れのなかに位置づけられる。

ここで重要なのは、合併が一度の告示で完全に決着したわけではない、という点である。合併からわずか2週間後の昭和30年4月15日、竜洋町のうち旧十束村の一部であった大字赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田が、竜洋町から分離して豊田村へ編入された3。この境界変更もまた告示で確認できる史実である。合併の直後に、生活圏や水利の実態に応じて境界線が細かく引き直されたという事実は、当時の合併協議が単純な足し算ではなく、集落ごとの結びつきを踏まえた微調整をともなう作業であったことを物語る。旧竜洋町になるまでの町村沿革を追うと、この地域の行政区画が近世以来くり返し組み替えられてきたことがわかり、昭和30年の合併もその延長線上にある。

ここで、史料の性格について一言しておきたい。県告示や自治体史が確実に語るのは、「どの町村が、いつ、どの区域をもって統合したか」という行政区画の枠組みである。これに対し、合併協議の席で何が争点となり、どのような妥協が成立したかといった経緯は、公文書には要点しか残らないことが多い。したがって、合併の枠組みは史実として断定できても、その内側で働いた力学については、残された断片から推し量る作業が必要になる。本稿では、この枠組みと力学とを混同しないよう、確認できる事実を先に固めたうえで、次節以降で三地域の性格や合併の背景に踏み込んでいく。

なお、合併前の各町村がいつ・どのように成立したかという、さらに時代をさかのぼる沿革についても、自治体史に記載がある。掛塚町は近世の廻船で栄えた掛塚湊を母体とし、十束村は河口低地の新田開発を経て成立した稲作地帯であり、袖浦村は沿岸の集落が明治期の町村制施行にともなって編成されたものである。これらの前史は本稿の主題を超えるため深くは立ち入らないが、昭和30年の合併が、それぞれ長い歴史をもつ地域どうしの統合であったことは押さえておきたい。

竜洋町 沿革年表 ── 誕生から磐田市編入まで 1948竜洋中学校組合立設置 1955.4.11町2村合併竜洋町発足 1955.4.15赤池等豊田村へ 2000しおさいの湯開湯 2005.4.1磐田市へ新設合併 ■ 合併・区画(史実) ■ 施設・行政のあゆみ
図2 沿革年表。学校組合の先行(1948年)から、合併(1955年)、境界変更、平成の磐田市編入(2005年)まで。合併と区画の変更はいずれも告示で確認できる史実である。

3. 合併前の三つの地域 ── 掛塚・十束・袖浦の対比

竜洋町の合併を理解するうえで欠かせないのは、統合された1町2村が、それぞれ性格を大きく異にしていたという事実である。三つの地域は、天竜川河口という同じ舞台を共有しながら、川・大地・海という異なる自然に向き合い、異なる生業を営んできた。ここでは、その対比を整理しておきたい。

掛塚町は、天竜川の水運と遠州灘の海運を結ぶ川湊・掛塚湊を母体とする商業の町である。近世には天竜川上流の木材を筏で河口へ流し下し、掛塚で廻船に積みかえて江戸や上方へ送る中継地として栄えた。町方の暮らしは商いと海運に支えられ、屋台祭りに代表される町人文化が育った。三地域のなかでは最も都市的な性格をもち、人口も相対的に多かったと考えられている。

十束村は、天竜川がもたらした沖積地を、近世以来の新田開発によって美田に変えてきた稲作の農村である。河口低地は本来、洪水と地下水位の高さに悩まされる土地であったが、堤防と用排水の整備を積み重ねることで、次第に豊かな水田地帯へと姿を変えた。開拓によって耕地を広げてきたという来歴は、この地域に、土地を拓く粘り強さという気風を残した。合併直後に赤池ほかの大字が豊田村へ移ったことからもうかがえるように、十束村の集落は内陸側で北の村々と生活圏を接していた。

袖浦村は、遠州灘に面した砂丘地帯に立地し、沿岸の漁業と、砂地を利用した畑作を生業とした村々である。かつては製塩も営まれたと伝えられる。海と砂丘に画された環境は、稲作中心の十束村とも、商業の掛塚町とも異なる暮らしを形づくった。防風のための黒松林の維持は、この沿岸地域にとって生活と直結する営みであった。三つの地域を並べると、掛塚は「川と海をつなぐ商い」、十束は「大地を拓く稲作」、袖浦は「海と砂丘の暮らし」と要約でき、まさに川・大地・海の三面が一つの町に統合されたことになる。以下の表1に、その対比を整理する。

もっとも、この三区分は、地域の性格を見通すための整理であって、境界のくっきりした区画を意味するわけではない。掛塚の町方にも漁に出る者はいたし、十束の農家が河口の水運と無縁だったわけでもない。天竜川河口という一帯は、川と海と大地が入り組んで接する土地であり、三つの生業は互いに背を向けていたのではなく、河口の物流や労働のなかで日常的に交わっていた。掛塚湊で扱う米や薪炭は周辺の農村から集まり、沿岸で獲れた魚は川筋の集落へと運ばれた。生業を異にする三地域が、それでも一つの経済圏として結びついていたという実態は、のちの合併が突飛な組み合わせではなかったことを裏づける。性格の違いを強調するだけでは、なぜ統合が可能だったのかを見落とすことになる。違いと結びつきの両面を押さえておくことが、竜洋の合併を理解する前提となる。

表1 合併前の1町2村の対比 ── 立地・主な生業・地域的性格
旧町村立地・自然主な生業地域的性格現在のおおよその範囲
掛塚町天竜川河口の川湊。川と海の結節点。廻船による海運・木材中継・商業。町人文化の栄えた商業町。相対的に都市的。掛塚とその周辺の市街地。
十束村河口の沖積低地。内陸側で北の村々に接する。新田開発を経た稲作を中心とする農業。土地を拓いてきた開拓農村。平松・中島などの水田地帯(一部は豊田村へ)。
袖浦村遠州灘に面した沿岸・砂丘地帯。沿岸漁業・砂地の畑作。かつて製塩も。海と砂丘に画された沿岸村落。海岸沿いの集落と防風林の一帯。

この対比から見えてくるのは、竜洋町の合併が、似た者どうしの合流ではなく、むしろ性格を異にする地域の統合であったという点である。生業が異なるということは、行政に求めるものも異なるということでもある。商業の町は港湾や道路の整備を、稲作の村は用排水と耕地の維持を、沿岸の村は防風林と漁港を、それぞれ切実な課題として抱えていた。異なる課題をもつ地域を一つの町として運営するには、利害の調整が避けられない。合併協議が時に紛糾したと伝えられるのは、この生業の違いを踏まえれば理解しやすい。それでもなお統合が実現した背景には、次節で述べる広域連携の先行的な実績があったと考えられる。

4. 行政合併に先行した広域連携 ── 学校組合という実態

合併というと、まず行政区画の統合が想起されるが、竜洋の場合、掛塚・十束・袖浦を束ねる広域的な仕組みは、行政合併そのものよりも先に、教育の現場で芽生えていた。ここに、この地域の合併史を読むうえでの一つの鍵がある。

竜洋中学校は、町村合併に先立つ昭和23年(1948年)4月1日、「掛塚町外三ヶ町組合立竜洋中学校」として設置が認可された4。当初は独自の校舎をもたず、掛塚・袖浦・十束・長野といった各小学校の校舎を仮校舎として間借りする形で授業が始まっている。戦後の学制改革により、全国で新制中学校が一斉に設置された際、単独の町村だけでは校舎も教員も十分に用意できない、という現実的な事情があった。そこで複数の町村が組合を作り、一つの中学校を共同で運営するという選択が、この地域でもとられたのである。「組合立」とは、複数の自治体が一部事務組合を組織して施設を共同運営する仕組みを指す。

注目すべきは、この学校組合の名に、のちの竜洋町を構成する町村がすでに顔をそろえていた点である。行政区画としての「竜洋町」が誕生する7年も前から、掛塚・十束・袖浦の子どもたちは、同じ「竜洋中学校」の名のもとに机を並べていた。しかも「竜洋」という名称そのものが、合併に先立ってこの中学校において用いられていたことになる。町名の由来を考えるうえで、この事実は軽くない。合併時に新しくひねり出された名というより、すでに地域が共有しはじめていた広域の呼称が、行政区画の名として引き継がれた面がある、と見ることができる。

組合立という運営の形が数年にわたって続いたこと自体が、この地域における広域連携の一つの実験であった。異なる町村が費用を出しあい、教員の配置や教育方針を協議しながら一つの学校を維持していく作業は、平時の行政では経験しにくい種類の共同である。その積み重ねは、のちに役場を統合し、条例を一本化し、財産を合わせるという、より大きな合併の実務に取り組む際の下地となったはずである。制度としての合併の前に、まず人と費用を持ち寄る協働があった──竜洋の合併史は、この順序を読み落とすと理解しにくい。

昭和30年(1955年)4月1日の町村合併にともない、この学校組合は名称を改め、やがて竜洋町単独の町立中学校として整理されていく。ここから読み取れるのは、竜洋の合併がまったくの白紙から始まったのではなく、教育やインフラの分野で先行していた広域連携の実績の上に成り立っていた、ということである。異なる生業の町村が一つにまとまりえた背景には、子どもたちが同じ学校に通うという、日々の生活のレベルでの結びつきがすでに存在していた。制度としての合併は、こうした生活圏の重なりを追認し、行政の枠組みとして固定する作業でもあった。

連携は教育から ── 合併に7年先行した「竜洋」の名 1948年 学校組合 組合立「竜洋中学校」 各小学校を仮校舎に 1955年 行政合併 竜洋町の発足 名称を町へ引き継ぐ 先行 生活圏の結びつきが先にあり、制度としての合併がそれを追認した。
図3 学校組合の先行。行政区画としての竜洋町の成立に7年先立ち、「竜洋」の名を冠する組合立中学校が地域を束ねていた。

5. 「竜の洋」という命名 ── 由来(通説)と含意(推定)の腑分け

竜洋町の町名は、しばしばその美しさが語られる。この節では、その命名を、由来と含意の二つに分けて検討する。両者は性格の異なる問いであり、確度の層も異なるからである。

命名の由来/通説

「竜」は天竜川、「洋」は太平洋から

由来の骨子。「竜洋」という町名は、東の境界をなす大河・天竜川の「竜」と、南に広がる太平洋の「洋」を組み合わせたものである、と説明される5。この由来は自治体史や各種の地誌に記され、地域でも広く受け入れられている。天竜川と遠州灘(太平洋)という、この地を画する二つの大きな自然から一字ずつを取って新町名としたという説明は、字面とも整合し、無理がない。本稿はこれを、確度の高い通説として扱う。

合成地名という性格。合併にあたって、旧町村名のいずれかをそのまま新町名とすれば、他の町村に不公平感が残りやすい。掛塚・十束・袖浦のいずれか一つを選ぶのではなく、地域全体を画する自然から新しい名を作るという方法は、性格を異にする1町2村を対等に束ねるうえで、実際的な意味をもったと考えられる。昭和の大合併では、こうして地形や旧郡名などから新地名を合成する例が各地に見られた。竜洋もその一例に位置づけられる。

命名の含意/推定

込められた理念をどこまで読み込めるか

含意の骨子。由来が「竜+洋」であることとは別に、その町名にどのような理想が託されたかという問いがある。地誌類には、雄大な自然の恵みを受けながら世界へ飛躍する町になるように、といった趣旨の理念が記されることがある。天に昇る竜の勢いと、大洋の広がりとを、町の未来への願いに重ねる読み方である。こうした含意は、命名者の心情に踏み込む解釈であり、由来そのものよりも確度は下がる。

腑分けの必要。ここで注意したいのは、由来と含意を混同しないことである。「竜=天竜川、洋=太平洋」という由来は、字の出所を説明する事実に近い記述であり、通説として扱える。これに対し、「世界へ飛躍する願いが込められた」という含意は、その字面に後から意味を読み込む解釈であって、一次史料でどこまで裏づけられるかは、本稿の調査範囲では未確認である。命名の場に立ち会った記録や、命名の趣旨を明記した当時の文書に突き当たっていない、という意味であり、そうした記録が存在しないと断定するもの(記載なし)ではない。したがって本稿は、命名の含意を、根拠はあるが未確定の推定の層にとどめて記述する。

本稿の評価:「竜洋」の由来が天竜川と太平洋にあることは通説として受け入れてよい。一方、そこに込められた理念については、地誌に語られる願いを一つの解釈として尊重しつつ、命名の趣旨を直接に記す一次史料は未確認である点を明記し、推定の層にとどめる。合成地名という方法が、対等な統合を可能にする実際的な工夫であった点は、あわせて指摘しておきたい。
合成地名「竜洋」の分解 天竜川 →「竜」 太平洋 →「洋」 竜洋 由来(通説)=二つの自然から一字ずつ/含意(推定)=そこに託された理念。
図4 命名の構造。字の由来は通説として確度が高いが、そこに込められた含意は推定の層にとどめる。両者を書き分けることが本節の眼目である。

6. 合併の力学 ── 財政・境界調整・生活圏

合併がなぜ実現したのか、その内側で働いた力を、確認できる事実の範囲で読み解いておきたい。合併協議の詳細な議事は残りにくいが、残された断片や制度の枠組みから、いくつかの力学を推し量ることはできる。

第一に、財政と行政効率の力学である。昭和の大合併の眼目は、単独では十分な行政サービスを提供できない小規模町村を、一定の規模へ束ねることにあった。中学校の設置・維持、道路や上水道の整備、社会保障事務の処理といった戦後の新しい行政需要は、小さな町村の財政では負担が重かった。掛塚・十束・袖浦をそれぞれ単独で存続させるより、統合して財源と人員を集約するほうが、こうした需要に応えやすい。この判断が、生業の違いを越えて合併を推し進めた基層の力であったと考えられる。

第二に、学校の力学である。前節で述べたとおり、竜洋中学校は合併に7年先立って組合立として設置されていた。一部事務組合による共同運営は、複数の自治体が費用を分担し、議会や事務を調整する仕組みであり、その運営の経験は、より包括的な行政合併への実務的な地ならしとなったと見てよい。子どもたちが同じ中学に通い、その運営を町村が共同で担ってきたという実績は、合併への心理的な距離を縮める働きをもったであろう。

第三に、生活圏と境界の力学である。合併直後の昭和30年4月15日、旧十束村の大字赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田が豊田村へ編入されたことは、すでに述べた。この境界変更は、行政区画の線引きが、住民の日々の生活圏や水利の実態と食い違う場合には、合併後であっても引き直されうることを示している。北の村々と生活を共にしてきた集落は、竜洋町よりも豊田村との結びつきを選んだ。合併とは、上から区画を与える作業であると同時に、下からの生活圏の論理によって微調整を受ける営みでもあった。この二週間後の再編は、その力学を端的に示す事例である。合併前の集落の歩みを細かく追うと、こうした生活圏の重なりとずれが、いっそう具体的に見えてくる。

ここで、竜洋の合併を全国的な文脈に置いておきたい。昭和の大合併は、おおむね中学校を一つ運営できる規模、すなわち人口8000人程度を一つの町村の目安として、小規模町村の統合を促した施策であった。竜洋の1町2村がまさに中学校の共同運営を先行させていたことは、この施策の狙いと現地の実態とが、たまたまではなく構造的に噛み合っていたことを示している。全国では、旧村の対立や役場の位置をめぐる争いから、合併が難航したり、いったん成立した合併がのちに分離したりする例も少なくなかった。竜洋において合併直後の境界変更が旧十束村の一部にとどまり、町全体としては安定して存続しえたのは、学校組合を通じた連携の蓄積が、統合の土台をあらかじめ用意していたためと考えられる。この点で竜洋の事例は、広域連携の実績が合併の安定に寄与した一つの型を示している。

これら三つの力学は、いずれかが単独で合併を導いたのではなく、相互に絡み合って働いた。財政効率という上からの要請、学校組合という先行する実績、そして生活圏という下からの論理。異なる生業をもつ1町2村がそれでも一つにまとまりえたのは、この複数の力が同じ方向を指したからであり、境界がなお細かく調整されたのは、その力の一部が別の方向を指したからである、と整理できる。断定に慎重であるべき合併協議の内実についても、この枠組みの範囲であれば、確認できる事実に立って輪郭を描くことができる。

合併に働いた三つの力 財政効率 上からの要請 学校組合 先行の実績 生活圏 下からの論理 竜洋町の成立
図5 合併の力学。財政効率という上からの要請、学校組合という先行実績、生活圏という下からの論理が絡み合い、統合を導くと同時に境界の微調整をもたらした。

7. 近代行政のあゆみ ── 工業化・観光と平成の合併

合併によって成立した竜洋町は、その後、産業構造の転換と生活基盤の整備を進めていく。ここでは、成立後のおよそ半世紀のあゆみを、確認できる事実を中心にたどる。

合併後の竜洋町が力を注いだのは、農業・漁業中心の産業からの脱却と、産業構造の多角化であった。町は磐田原台地の南端や沿岸部の遊休地を利用して工業団地を造成し、自動車関連産業や金属加工、繊維などの企業を誘致した。天竜川河口の広い平坦地は、まとまった工業用地を確保しやすいという地の利があった。企業の集積は、地域に新たな雇用と税収をもたらし、農漁村から商工業の町への転換を後押しした。あわせて、人口の増加に対応するため、学校教育施設の拡充、道路網の整備、上水道の敷設といった生活基盤の整備が進められた。

工業化がこの地で成り立った条件は、竜洋の地理そのものにあった。天竜川がはこんだ土砂が堆積してできた河口の平地は、まとまった用地を確保しやすく、東海道の交通軸にも近い。合併によって町域が一つに束ねられたことは、こうした用地をばらばらの町村単位ではなく、一体の行政の判断で計画的に配置できるようにした。すなわち工業団地の造成は、合併の産物という側面をもつ。三つの小さな町村のままであれば、用地の取得も企業の誘致も、それぞれの財政と権限の枠内でしか進められなかったであろう。合併が生んだ規模と一体性が、産業構造の転換を現実のものとした。この意味で、昭和30年の合併は、単なる区画の整理にとどまらず、その後の地域経済の方向を規定する選択でもあった。

竜洋町は、こうした基盤整備を背景に、磐田郡内でも自立度の高い自治体として知られるようになる。合併から半世紀近くを経た2003年(平成15年)時点で、町の人口はおよそ1万9000人を数え、単独の町として十分な規模を備えるに至っていた6。平成期に入ると、町は自然環境と調和した余暇空間の整備にも取り組み、沿岸部に竜洋海洋公園やオートキャンプ場を設けた。公園内の入浴施設「しおさいの湯」は2000年(平成12年)4月に開かれ、県内外から観光客を集める拠点となった。工業・住宅・観光を一つの町域のなかで調和させようとするこうした取り組みは、川・大地・海という三つの資源を併せもつ竜洋の立地を活かしたものと位置づけられる。

そして平成17年(2005年)4月1日、竜洋町は、旧磐田市・豊田町・福田町・豊岡村との新設合併(1市3町1村の合併)により、現在の磐田市の一部となった。少子高齢化と広域行政の効率化を背景とする平成の大合併の流れのなかで、町としての独立した行政は幕を閉じた。半世紀前に1町2村を束ねて生まれた竜洋町は、今度はより大きな枠組みへと統合される側に立ったことになる。昭和の大合併で統合の主体であった町が、平成の大合併では統合される単位となったこの経緯は、地方自治の枠組みが時代とともに階層的に組み替えられてきたことを、一つの町の歴史のなかに映し出している。

町制としての竜洋は終わったが、川と海に向き合い、大地を拓いてきた三つの地域の来歴は、磐田市竜洋地区という枠組みのなかに引き継がれている。工業団地も、海洋公園も、そして掛塚の川湊・十束の美田・袖浦の砂丘という土地の記憶も、合併という制度の変転を越えて、この一帯に残されている。竜洋地区の歴史を歩くという視点は、こうした重層した記憶を今日から読み直す手がかりとなる。

竜洋町の近代化 ── 農漁村から磐田市の一翼へ 農業・漁業合併当初 工業団地企業誘致 観光・住宅海洋公園ほか 磐田市へ2005年合併 昭和の大合併で生まれた町が、半世紀後の平成の大合併で統合される側に立った。
図6 近代化のあゆみ。工業化と観光開発を経て、竜洋町は平成17年に磐田市の一部となった。統合の主体から統合される単位へ、という階層的な変転を示す。

8. 結論 ── 三つの生業が一つの町になるということ

本稿は、竜洋町の誕生と近代行政のあゆみを、確度の異なる情報を混同しないという方針のもとで検討してきた。得られた見取り図は次のとおりである。昭和30年(1955年)4月1日、掛塚町・十束村・袖浦村の1町2村が合併して竜洋町が発足し、その二週間後に旧十束村の一部が豊田村へ移されたことは、県告示と自治体史で確認できる史実である。「竜洋」という町名が天竜川と太平洋に由来することは通説として受け入れてよいが、そこに込められた理念は、命名の趣旨を直接に記す一次史料が未確認であるため、推定の層にとどめて記述した。

この合併史から浮かび上がるのは、性格を異にする三つの地域が一つの町へ束ねられていく過程の複層性である。川湊の商業町・掛塚、大地を拓いた稲作の十束、海と砂丘に生きた袖浦は、生業も歴史も異なっていた。それでも一つにまとまりえたのは、財政効率という上からの要請、学校組合という先行する広域連携の実績、そして生活圏という下からの論理が、おおむね同じ方向を指したからであった。合併直後の境界の引き直しは、その力の一部が別の方向を指したことの現れである。合併とは、区画を上から与える作業であると同時に、生活圏の論理によって下から微調整を受ける営みでもあった。

したがって本稿の立場は明確である。合併史は、「いつ、どの町村が一つになったか」という年表的事実の確認にとどめず、確認できる事実と、推し量るにとどまることとを腑分けしながら、統合の力学と町名の理念とを別々の層で記述すべきである。史実・通説・推定を語の水準で書き分け、「未確認」と「記載なし」を区別すること。この禁欲的な手続きこそが、一つの町の生い立ちを、後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を記しておく。第一に、合併協議の具体的な争点や住民の受けとめについては、当時の議事録や地元紙、関係者の記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、「竜洋」という名がいつ・誰によって最初に用いられたのか、学校組合の命名と行政町名の命名との前後関係は、なお精査を要する主題である。第三に、工業団地の造成が地域の産業構造と人口に与えた影響は、統計資料に即した別稿での検討に値する。昭和の大合併で生まれ、平成の大合併で磐田市へと帰した竜洋町の半世紀は、地方自治の枠組みが時代とともに組み替えられていく過程を、天竜川河口の一隅に凝縮して見せている。その組み替えのなかで失われずに残された土地の記憶を、確度の層を保ったまま書き留めていくこと──掛塚湊・十束の新田・袖浦の砂丘をめぐる個別の主題については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である竜洋には、川湊の商家や、開拓の歴史を刻んだ農家、沿岸集落の古い住まいが、いまも数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。町の来歴を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 竜洋町は磐田郡に属した町で、昭和30年(1955年)に掛塚町・十束村・袖浦村が合併して成立し、平成17年(2005年)に磐田市へ編入された。町村の変遷は自治体史および静岡県の告示による。
  2. 合併の期日(昭和30年4月1日)と対象町村は、町村合併促進法(昭和28年)以降のいわゆる昭和の大合併の枠組みのなかで実施された。期日・対象は史実として扱う。
  3. 昭和30年4月15日、旧十束村の大字赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田が竜洋町から分離し豊田村へ編入された。合併直後の境界変更として告示で確認できる。
  4. 竜洋中学校は昭和23年(1948年)4月1日、「掛塚町外三ヶ町組合立竜洋中学校」として設置認可され、各小学校を仮校舎として発足した。学校組合による共同運営が行政合併に先行した。
  5. 「竜洋」の町名を天竜川の「竜」と太平洋の「洋」の合成とする説明は自治体史・地誌に見え、通説として扱う。ただし命名に込められた理念を直接に記す一次史料は本稿の調査範囲では未確認であり、含意は推定の層にとどめる。
  6. 2003年(平成15年)時点の竜洋町の人口はおよそ1万9000人とされる。数値は自治体資料・地誌の記載による概数である。

付記:本稿は一般読者向け記事 r011「竜洋町の誕生と近代行政のあゆみ」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定)を語の水準で区別し、合併の期日・対象町村・境界変更を史実、町名の由来を通説、命名の含意を推定として扱った。

参考文献・参考資料

  • 竜洋町『竜洋町史 通史編』竜洋町。
  • 竜洋町『竜洋町史 史料編』竜洋町。
  • 『ふるさと竜洋』竜洋町(郷土誌)。
  • 『遠州掛塚港の廻船史』(掛塚湊・海運関係資料)。
  • 『天竜川河口域の歴史と民俗』(河口域の地域史)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、町村合併の章)。
  • 静岡県『静岡県史』通史編(近現代・地方自治の章)。
  • 総務省(旧自治省)編『市町村合併に関する資料』(昭和の大合併の制度的背景)。
  • 磐田市立竜洋中学校 学校沿革(組合立設置の経緯)。
  • 竜洋海洋公園レストハウス「しおさい竜洋」公式サイト https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 「竜洋町」ウィキペディア(町村変遷・人口・合併経緯の参照) https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 「磐田市立竜洋中学校」ウィキペディア(学校組合の沿革の参照) https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r011「竜洋町の誕生と近代行政のあゆみ ── 掛塚・十束・袖浦が描いた『竜の洋』の合併史」 https://iwata-monogatari.net/r011 (最終閲覧:2026年7月26日)。