磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第157号(中泉・国府空間研究)
府八幡宮と遠江国府の記憶
国府・国分寺・総社を結ぶ中泉の空間
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市中泉の府八幡宮は、社名に「府」を負う古社として単独で語られることが多い。しかしこの社は、遠江国府・遠江国分寺・御殿二之宮遺跡・総社淡海國玉神社・神宮寺跡・府八幡宮例大祭という複数の要素が重なり合う空間の結節点として見るとき、その輪郭がはっきりする。本稿は、これらの要素を一つの空間として結び直し、「遠江国府の記憶」がどの資料・地名・祭礼に、どのような確度で残されているのかを史料批判の観点から腑分けする。国分寺跡と御殿二之宮遺跡の官衙的空間は発掘で確認された史実であり、桜井王による創建は社伝=伝承、国府の具体的な所在は複数説を残す推定である。この確度の層を混同せず、また「未確認」と「記載なし」を区別したうえで、本稿は府八幡宮を国府の所在を証す一点としてではなく、古代の政治・宗教・祭礼の記憶を近世・近代の社会が保存してきた装置として記述する立場をとる。
キーワード:府八幡宮/遠江国府/遠江国分寺/御殿二之宮遺跡/淡海國玉神社/総社制/府八幡宮例大祭
1. 問題設定 ── 「府」という字が呼び出す空間
磐田市中泉に鎮座する府八幡宮の名は、社号に「府」の一字を負う。この字は単なる地名の飾りではなく、古代遠江の統治空間そのものを指し示す。律令国家のもとで、一国には国司が政務を執る国府が置かれ、国家仏教の拠点である国分寺・国分尼寺が建てられ、国内の主要な神々を国司がまとめてまつる総社が設けられた。政治・仏教・神祇の三つの中枢が近接して配置されることで、地方支配の要が形づくられたのである。中泉から見付にかけての一帯には、その痕跡が複数の層として残っている。
本稿の出発点は、府八幡宮を一社の由緒として孤立させて読むのではなく、周囲に散在する遺跡・社寺・祭礼と結び直し、それらが総体として喚起する「遠江国府の記憶」を、確度の層を分けながら記述することにある。既刊の本シリーズでは遠江国分寺を寺院史・伽藍論の側から扱ったが、本稿はその視座を国分寺一寺の内部から、国府・総社・遺跡群を含む空間の全体へと押し広げる。中泉を歩くとき目に入るのは、国分寺跡の礎石、御殿遺跡公園の広場、府八幡宮の楼門、そして少し離れた見付の総社である。これらは別々の史跡として案内されがちだが、古代においては一つの統治空間の構成要素であった。
ここで注意を要するのは、これらの要素が同じ確度で「国府」を語るわけではない点である。発掘によって官衙的な遺構が確認された遺跡と、社伝として国府守護を語り継いできた神社と、地名の一字に残る「府」の記憶とは、資料としての性格がまったく異なる。にもかかわらず、地域を紹介する言説ではしばしばこれらが平板に並べられ、「ここが遠江の国府であった」という一つの物語へ回収されてしまう。本稿はその安易な一元化を退け、各要素がどの資料に支えられ、どこまでを語りうるのかを一つずつ点検する。
そのために、以下では四つの確度の層を用いる。第一に史実、すなわち発掘調査や国家的編纂物によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されるが一点では確定しない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域が語り継いできた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、中泉の空間を読むうえでの基本姿勢となる。以下、まず史料で確認できる範囲を確定し(第2節)、国府の所在論(第3節)、創建伝承(第4節)、総社と神宮寺(第5節)を順に検討したうえで、四要素の空間構造を比較し(第6節)、例大祭を位置づけて(第7節)、結論に至る。
2. 史料で確認できる範囲 ── 遺跡・国史・式内社
空間を結ぶ作業に入る前に、発掘と文献によって確認できる範囲を確定しておく。中泉一帯で最も確度が高いのは、二つの遺跡が示す考古学的成果である。第一に遠江国分寺跡では、発掘調査によって金堂・講堂・塔などの遺構が確認されており、その基壇に木装が用いられていたことが明らかになっている。第二に御殿二之宮遺跡は、弥生時代から平安・中世まで続く複合遺跡で、奈良時代の層からは国府の中心施設とみられる官衙、掘立柱建物、須恵器・灰釉陶器・山茶椀といった遺物が検出されている。これらはいずれも、地中から出土した物質的証拠に基づく史実として扱ってよい1。
文献の側にも一点、確度の高い手がかりがある。遠江国分寺については、平安初期に編まれた『類聚国史』に弘仁10年〔819年〕の火災が記録されている。発掘で検出された炭化した木装基壇は、この火災記事と時期の上で響き合い、文献と考古の双方から古代寺院の存在を裏づける材料となっている2。文献と発掘が別個の資料でありながら同じ事象を指し示すこの一致は、中泉の古代性を語るうえで貴重である。ただし、火災の記録が寺院の存在と被災を証すことと、寺院を含む国府空間の全体像が復元できることとは、別の問題である。
ここで方法上の区別を明示しておきたい。遺跡が「奈良時代の官衙的空間である」ことは発掘によって確認された史実だが、その空間が制度上の「遠江国府」そのものであったこと、すなわち国庁や国司館がどこにどう配置されていたかという国府の全体構造は、なお確定していない。遺構の性格の判定と、律令制度上の国府の同定とのあいだには、慎重に埋めるべき距離がある。発掘成果を過大に読めば「国府の所在が判明した」と言い過ぎることになり、過小に読めば貴重な官衙遺構の意義を見失う。本稿は、遺跡の存在と性格を史実として確保しつつ、それが国府の全体像をどこまで語るかについては留保を置く。
もう一点、確認できることと確認できないことの境界を引いておく。現在の府八幡宮の楼門は寛永12年〔1635年〕の建立と伝えられ、静岡県指定文化財となっている。三間一戸楼門で入母屋造の屋根をもち、和様の組物や虹梁の彫刻に近世社寺建築の特徴が集まる3。本殿は元和3年〔1617年〕の造営と伝わり、本殿・拝殿・幣殿・中門は磐田市の指定文化財である。これらの建築は年代の裏づけをもつ近世の遺構であって、古代そのものの建物ではない。すなわち中泉の空間には、発掘で確認された古代の遺構と、年代の明らかな近世の建築と、年代を直接に証しがたい社伝とが、異なる層として同居している。この層の違いを踏まえたうえで、次節以降の検討に進む。
3. 遠江国府はどこにあったか ── 御殿二之宮遺跡と所在論
中泉の空間を国府の記憶として読むとき、避けて通れないのが「遠江国府はどこにあったのか」という問いである。結論を先に言えば、この問いは一点では確定しておらず、なお論点を残す推定の主題である。現在もっとも重要な考古学的手がかりは御殿二之宮遺跡で、奈良時代の官衙的な建物群が検出されていることから、国府の中心施設がこの一帯にあった可能性は高いと考えられている。国府が中泉から見付にかけての範囲に置かれたとする見方は有力であり、その意味では通説に近い。しかし、国庁の正確な位置や国府域の全体範囲、時期による移動の有無となると、確定しているとは言い難い。
この不確定性に、地域の伝承が別の層から接続する。府八幡宮には、「国府が一時この社地内に置かれ、その後、二之宮・御殿の方面から見付方面へ移った」とする言い伝えがある。この伝承は、御殿二之宮遺跡の発掘成果とは資料の性格を異にし、同じ形で証明されているわけではない。しかし、国府の記憶が地域のなかでどのように語られ、府八幡宮という社にどう結びつけられてきたかを示す材料としては重要である。ここで注意すべきは、「国府が社地内にあったと断定できない」ことと「社地内になかったと断定できる」こととを混同しない点である。伝承が発掘で裏づけられていない状態は、あくまで未確認であって、存在の否定を意味する記載なしとは異なる。
国府の移動という主題も、慎重な腑分けを要する。古代から中世にかけて、遠江の政治・交通の重心が移り変わった可能性は考えうる。国府が置かれた地の求心力が、やがて東海道の宿場として発展した見付へと移っていったという見取り図は、地域史の大きな流れとしては理解しやすい。だが、その移動の時期・経路・制度上の意味を一次史料で跡づけることは、本稿の範囲では確認できていない。移動伝承は、重心の変化を地域が事後的に物語化したものである可能性を含んでおり、史実としての国府移転と、記憶としての移動譚とを、同じ平面で扱うことはできない。
したがって本稿は、遠江国府の所在について次の立場をとる。すなわち、御殿二之宮遺跡に奈良時代の官衙的空間が存在したことは史実として確保し、国府の中心がこの一帯にあった蓋然性は高いと通説的に認めつつ、その正確な位置・範囲・時期差、および府八幡宮社地内に国府が置かれたか否かについては、確定を避けて推定・未確認の層にとどめる。この禁欲は、国府の記憶を軽んじるためではない。むしろ、確度の異なる情報を無理に一つの地点へ押し込めないことで、遺跡が語る史実と、地名や社伝が担う記憶とを、それぞれの位置で正当に評価するためである。付け加えれば、国府の所在をめぐる論争は遠江に限らず各地の古代史研究に共通する難問であり、その多くは発掘の進展と地割・条里の分析、出土文字資料の検討を積み重ねることで、少しずつ蓋然性の高い比定へと近づいてきた。遠江についても、御殿二之宮遺跡の継続的な調査が、国府空間の輪郭をより精確に描き出す鍵を握っている。現段階で所在を一点に断定することは、そうした将来の検証の余地をかえって狭めかねない。
4. 府八幡宮の創建伝承 ── 桜井王と国府守護(社伝)
遠江国司・桜井王による国府守護の勧請
伝承の骨子。府八幡宮の社伝は、天平年間〔729年〜748年〕に遠江国司の桜井王が国府守護のために八幡神を祀ったことを創建の起こりとする。桜井王は天武天皇の曽孫とされる人物で、伝承のなかでは中央王権と遠江国府とを結ぶ存在として語られる。国司みずからが国府の守護神を勧請したという筋立ては、この社が「府」の字を負う由来を、王権と地方統治の接点として意味づけるものである。
この伝承の説明力。桜井王創建譚は、府八幡宮が自らの由緒をどう理解してきたかを鮮やかに示す。国府守護という位置づけは、社名の「府」、近接する国分寺・国府遺跡、後述する総社渡御的な祭礼要素と整合し、この社を古代遠江の統治空間の一部として自己規定する枠組みを与える。天平年間という年代の設定自体が、国分寺の造営が全国で進んだ聖武朝の記憶と重なり、府八幡宮を国家的な地方経営の文脈に置こうとする志向を読み取らせる。
資料的裏づけと限界。問題は、この創建譚を発掘成果や国史と同じ水準の史実として扱えない点にある。桜井王勧請を直接に記す奈良時代の一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。したがってこれは伝承の層に属し、天平年間という年紀と現存する社殿・祭礼とを直結する根拠にはならない。むしろこの社伝は、府八幡宮が長い歴史のなかで「国府守護の社」という自己理解を選び取り、保持してきたことを示す史料的手がかりとして読むべきである。伝承であることは価値の低さを意味しない。地域が国府の記憶を、どの人物・どの年代に託して語ろうとしたのかを読む対象として、むしろ重要である。
この社伝を軽々に史実へ格上げしないことは、逆に伝承の意義を守ることにつながる。もし桜井王創建を発掘成果と同列の史実として語れば、それは確度の混同であり、いずれ根拠を問われて伝承ごと信を失いかねない。伝承を伝承として、その属する層のなかで正当に扱うことが、記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途である。府八幡宮の由緒は、国府の所在という未確定の問いに一つの答えを与えるものではなく、地域が国府の記憶をどのように意味づけ、どの物語に託して伝えてきたかを証言する、その点にこそ価値がある。
5. 総社と神宮寺 ── 国司祭祀と神仏習合の層
中泉の空間を国府の記憶として読むうえで、府八幡宮と対をなして考えるべきなのが、見付方面に鎮座する淡海國玉神社である。この社は遠江国の総社とされる。総社とは、国司が国内の主要な神社を個別に巡拝する代わりに、それらの神々をまとめてまつるために設けられた制度的な社であり、その成立自体が国府の統治と不可分である4。すなわち総社の存在は、国司による神祇祭祀の中枢がこの地域にあったことを、制度の側面から示している。淡海國玉神社は貞観年間〔859年〜877年〕の創建と伝えられるが、この年紀もまた社伝の層に属し、総社としての制度的位置づけとは区別して扱う必要がある。総社制は全国の国府に共通して見られる制度であり、遠江において総社が見付方面に置かれたことは、この一帯が国府の神祇祭祀の場でもあったことを裏づける。ただし、総社の成立時期や、それが府八幡宮の祭礼とどのような関係にあったかについては、なお慎重に切り分けて考える必要がある。
府八幡宮と淡海國玉神社は、どちらか一方が他方を説明し尽くす関係ではない。総社は国司祭祀と総社制度を示し、府八幡宮は国府守護の社伝と八幡信仰を示す。さらに国分寺は国家仏教を、御殿二之宮遺跡は国府の実務空間を示す。四つの要素はそれぞれ古代統治の異なる機能を担い、互いに重なり合いながら中泉から見付にかけての空間を構成している。氏神と総社という二つの社を両端に置き、そのあいだに国分寺と国府遺跡を配するこの布置は、古代遠江の政治・宗教・祭礼の中枢が、いかに近接して営まれていたかを地理の上に映し出す。
府八幡宮そのものにも、時代の層が畳み込まれている。この社にはかつて神宮寺があり、明治元年〔1868年〕の神仏分離によって廃された。現在はその一部を伝える築地塀が残る。社宝として、瑞花鳳鸞八稜鏡、平安時代作と伝わる僧形八幡像、女神像などが伝存する。とりわけ僧形八幡像は、八幡神が仏教的な姿で表される神仏習合の文脈を象徴する。八幡信仰は早くから仏教と結びつき、神でありながら菩薩号を帯びるなど、神と仏を分けずに受け止める信仰の形を発達させた。府八幡宮の神宮寺は、その習合の時代を伝える痕跡であり、明治の神仏分離はその制度を断ち切った画期であった。ただし、神宮寺の伽藍配置や規模の細部については、残された資料の範囲を超えて断定しない。ここでも、築地塀や社宝という物的痕跡が確認できることと、伽藍の全容が復元できることとは、別の水準の問題である。
こうして見ると、府八幡宮という一社のうちにも、古代の創建伝承、中世以来の神仏習合、近世の社殿造営、明治の神仏分離という複数の時代が層をなして堆積していることがわかる。総社淡海國玉神社が国司祭祀の記憶を、府八幡宮が国府守護と習合信仰の記憶を、それぞれ別の仕方で保持している。中泉から見付への空間は、単一の時代の遺跡ではなく、古代から近代までの制度と信仰の変遷が重ね書きされた場所なのである。
6. 中泉の空間構造 ── 四要素を結ぶ比較
ここまで個別に検討してきた四つの要素を、確度・機能・資料の観点から対等の粒度で並べ直しておきたい。中泉の空間を語る言説では、これらがしばしば平板に列挙され、いずれも「国府の証拠」であるかのように扱われる。しかし各要素は、依拠する資料の性格も、古代統治のなかで担った機能も異なる。以下の比較表は、各要素をその機能・確度・資料・留意点において横並びに配置し、特定の要素を国府の所在の決め手として突出させないことを目的とする。読者が、どの情報がどの層に属するのかを一目で判断できる状態をつくることを心がけた。
| 要素 | 古代統治上の機能 | 確度の層 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 御殿二之宮遺跡 | 国府の政務・実務空間 | 史実(発掘) | 発掘調査、官衙遺構・掘立柱建物・須恵器等。 | 官衙的空間は確実だが、国庁の位置・国府域の範囲・時期差は未確定。 |
| 遠江国分寺跡 | 国家仏教の地方拠点 | 史実(発掘・文献) | 金堂・講堂・塔の遺構、『類聚国史』弘仁10年火災記事。 | 寺院の存在・被災は確実。国府空間の全体像までは語らない。 |
| 淡海國玉神社 | 総社・国司の神祇祭祀 | 史実(総社制)/伝承(年紀) | 総社としての位置づけ、貞観年間創建の社伝。 | 総社であることと、創建年紀の社伝とを層として区別する。 |
| 府八幡宮 | 国府守護の社(社伝) | 伝承(創建)/史実(近世建築) | 桜井王創建の社伝、寛永・元和の社殿、神宮寺跡。 | 創建伝承は未確認。近世社殿は年代の裏づけあり。両者を混同しない。 |
この比較から浮かび上がるのは、四要素が「どれが本物の国府か」を競う候補ではなく、古代統治の異なる機能を分担する構成要素だという点である。御殿二之宮遺跡は政治の、国分寺は仏教の、総社は神祇の中枢をそれぞれ担い、府八幡宮はそれらの記憶を国府守護の社伝として束ねる位置にある。一つの要素で国府空間の全体を代表させようとすると、他の機能が視野から抜け落ちる。中泉の空間の厚みは、これら複数の機能が近接して営まれ、しかも古代から近代まで層をなして残ってきたところにある。
史料批判の観点からは、四要素に共通する限界も明確になる。すなわち、いずれの要素も単独では「遠江国府の全体像」を確定できない。発掘は物的痕跡を確実に示すが制度上の国府の同定には慎重を要し、社伝は自己理解を伝えるが年代の裏づけを欠き、地名の「府」は記憶を保持するが遺構の位置を指し示さない。この共通の限界を踏まえれば、国府の所在を一点に決めようとする問いの立て方そのものが、方法上の無理を含んでいることがわかる。むしろ問うべきは、各要素がどの層に立脚し、その層の資料がどこまでを語りうるのか、という点である。
この整理は、郷土史の記述一般にも一定の含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところ国府はどこにあったのか」という問いに引き寄せられ、複数の手がかりから一つの正解を選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの地点へ押し込め、選ばれなかった手がかりを切り捨てることにつながりやすい。発掘で確認できることは史実として、地域が語り継いできたことは伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。この四層の腑分けは、性急な一元化を避けつつ、中泉の空間が抱える国府の記憶の全体を、確度を保ったまま記述するための手続きである。
7. 府八幡宮例大祭 ── 国府の記憶を動かす祭礼
中泉の空間に堆積した国府の記憶を、今日なお現実に動かしているのが府八幡宮例大祭である。この祭礼は毎年10月の第1土曜・日曜を中心に営まれ、浜垢離に始まり、前夜祭、抽選祭、例祭、夕祭、発御祭、命魚奉献の儀、還御祭、御幣返しへと続く一連の神事と、二十町の山車の運行によって構成される5。祭礼の詳細な次第や命魚奉献の儀、山車の意匠については府八幡宮例大祭の特集に別途整理したが、本稿ではこの祭礼を、国府空間の記憶を継承する装置として位置づける。
浜での垢離によって身を清め、氏神の発御と還御をもって神の巡行を営むという構造は、この祭礼を単なる町内の年中行事にとどめない。国司が総社をまつり、国内の神々を統括した古代の神祇祭祀と、氏神が地域を巡って秩序を確かめる近世以来の祭礼とのあいだに、どのような連続と断絶があるのかは、慎重に問うべき主題である。府八幡宮例大祭が古代国府祭の直接の後継であることを証す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。したがって、祭礼の現行の形式を古代の国府祭にそのまま遡らせることはできない。しかし、国府守護を社伝に負う社の祭礼が、地域の広い範囲を巻き込んで営まれ続けてきたという事実そのものが、国府の記憶を身体と時間の反復のなかに保存する働きをもってきた。
祭礼を支えてきたのは、近世に天領として栄えた中泉の共同体である。二十町という町組の編成、山車の維持、神事の担い手の継承といった営みは、いずれも地域社会の構造と不可分であり、この現実的な母体があってはじめて、国府守護の社伝も、総社との地理的関係も、毎年くり返し演じられる祭礼として具体化された。観念の水準にとどまりがちな「国府の記憶」は、命魚奉献の儀のような固有の神事や、山車を曳く町々の営みを通じて、世代から世代へ手渡される実体を得てきたのである。祭礼は、遺跡や社殿が静止した痕跡として保存するものとは別の仕方で、すなわち反復される行為として、国府空間の記憶を生かし続けている。遺構は掘り出されなければ地中に眠り、社殿は参詣者がなければ静止した建築にとどまるが、祭礼は毎年の準備と当日の営みを通じて、地域の身体にその記憶を刻み直す。国府守護という社伝が単なる古文書のなかの一行に終わらず、二十町の人々が実際に山車を曳き、神事を担うという現在の行為へ接続されるところに、祭礼という記憶装置の独自の働きがある。
もっとも、祭礼を国府の記憶の継承として読むこの見方も、慎重な留保のうえに立てておかねばならない。現行の祭礼の諸要素がいつ、どのように成立したのかを一つずつ跡づける作業は、近世・近代の祭礼記録や神事日記の博捜を要し、その多くはなお未確認の状態にある。祭礼を国府祭の後継と即断することは、確度の異なる情報を混同する誤りに陥りやすい。本稿は、府八幡宮例大祭を国府の記憶を動かし続ける装置として位置づけるが、それは祭礼の個々の要素を古代へ直結させる主張ではなく、国府守護の社の祭礼が地域の記憶の再生産を担ってきたという、機能の水準での指摘にとどめる。
8. 結論 ── 記憶の装置としての中泉の空間
本稿は、府八幡宮を軸に、遠江国府・国分寺跡・御殿二之宮遺跡・淡海國玉神社・神宮寺跡・府八幡宮例大祭を一つの空間として結び直し、「遠江国府の記憶」がどの資料・地名・祭礼に、どのような確度で残されているのかを腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。国分寺跡と御殿二之宮遺跡の官衙的空間は発掘によって確認された史実であり、国分寺の火災は文献と考古の双方から裏づけられる。総社淡海國玉神社の存在は国司祭祀の中枢を制度の側から示す。これに対し、桜井王による府八幡宮創建は社伝=伝承であり、国府の具体的な所在は複数説を残す推定にとどまる。府八幡宮の近世社殿は年代の裏づけをもつ史実だが、それは古代そのものの建築ではない。
これらを並べると、「結局、遠江国府はどこにあったのか」という一点への還元に引き寄せられやすい。しかし国府の所在を一地点に確定しようとすることは、中泉の空間が抱え込んできた複数の層を切り捨てることにほかならない。政治の実務空間、国家仏教の拠点、総社の神祇祭祀、国府守護の社伝、神仏習合とその分離、そして今日なお営まれる祭礼──これらが古代から近代まで折り重なり、中泉から見付への空間を形づくってきた。国府の記憶が一点に定まらないことは、この地域の弱みではなく、遠江の統治の中枢がここにあったことを、複数の資料と記憶が別々の仕方で証言している厚みの現れである。
したがって本稿の立場は明確である。府八幡宮は、遠江国府の所在を証す一点として読むべき場所ではなく、古代の政治・宗教・祭礼の記憶を、近世・近代の社会が社殿と祭礼を通じて保存してきた装置として読むべき場所である。史実は史実として、伝承は伝承として、推定は推定として、また「未確認」と「記載なし」を区別して書き分ける。この禁欲的な手続きを守るほど、中泉の空間の価値は薄まるのではなく、むしろ深くなる。中泉を歩くことは、磐田がかつて遠江国の中心であったことを、遺跡・建築・祭礼という三つの層から確かめる行為である。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、遠江国府の国庁の位置と国府域の範囲は、御殿二之宮遺跡を中心とする継続的な発掘の進展によって、推定を通説へ、通説を史実へと押し上げていく余地がある。第二に、府八幡宮の社地内国府伝承と見付方面への移動譚は、国府所在論の枠組みのなかで、地名・地割・交通路の分析と併せて再検討されるべきである。第三に、府八幡宮例大祭の諸要素の成立過程は、近世・近代の祭礼記録の博捜を通じて、未確認の状態を一歩前進させうる。国府の記憶を一つの地点や一つの物語に決めてしまう誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、中泉という空間が抱えてきた国府の記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。国府所在論の詳細、および遠江国分寺の寺院史については、別稿および本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 遠江国分寺跡の金堂・講堂・塔の遺構、および御殿二之宮遺跡の官衙的遺構・出土遺物については、磐田市・静岡県の文化財関係資料および発掘調査の公開成果による。↩
- 『類聚国史』所収の弘仁10年〔819年〕遠江国分寺火災記事による。発掘で検出された炭化した木装基壇との対応が指摘されている。↩
- 府八幡宮楼門は寛永12年〔1635年〕建立と伝わり、三間一戸楼門・入母屋造で静岡県指定文化財。本殿は元和3年〔1617年〕造営と伝わり、本殿・拝殿・幣殿・中門は磐田市指定文化財。↩
- 総社制および淡海國玉神社の遠江総社としての位置づけについては、淡海國玉神社由緒書および総社制度に関する概説による。貞観年間〔859年〜877年〕創建は社伝であり、総社としての制度的位置づけとは区別する。↩
- 府八幡宮例大祭の次第(浜垢離・発御祭・命魚奉献の儀・還御祭・御幣返し等)および二十町の山車運行については、府八幡宮公式資料および磐田物語「府八幡宮例大祭」特集による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n017 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、遺跡の発掘成果および国分寺火災記事を史実、桜井王創建および総社・社殿の年紀を社伝=伝承、国府の具体的所在を推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 『類聚国史』巻百七十一・災異部(弘仁10年遠江国分寺火災の条)。
- 遠江国分寺跡 発掘調査報告書(磐田市教育委員会)。
- 御殿二之宮遺跡 発掘調査報告書(磐田市教育委員会)。
- 府八幡宮 公式資料・由緒書。
- 淡海國玉神社(遠江総社)由緒書。
- 静岡県教育委員会『静岡県の文化財』(楼門・社殿の指定関係)。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市「指定文化財一覧」 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 n017「府八幡宮と遠江国府の記憶|中泉・国分寺・総社を歩く」 https://iwata-monogatari.net/n017 (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 n019「国府台と府八幡宮 ──『国府』を名のる土地の千三百年」 https://iwata-monogatari.net/n019.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「遠江国分寺とは何か ── 古代遠江の中心寺院と伽藍の空間論」大石浩之の磐田論考 第152号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/152/ (最終閲覧:2026年7月26日)。