失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 二之宮はなぜ中泉と一つになったか

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第166号(中泉地区研究 二之宮の巻)

二之宮はなぜ中泉と一つになったか ── 明治の合併と鹿苑神社

1889年の町村制による郡境を越えた合併と、遠江二宮=鹿苑神社をめぐる地名由来の史料批判

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉(二之宮)

要旨

磐田市の住所に残る「二之宮」は、かつて山名郡に属した二ノ宮村の名を継ぐ。本稿は、この村が1889年(明治22年)の町村制施行によって、郡を異にする豊田郡中泉町と合併し新たな中泉町を構成した経緯を、町村制と郡域の制度史の枠組みから検討する。合併の年次と以後の行政沿革は、自治体沿革史によって確認できる史実として扱いうる。一方、村名「二之宮」の由来を遠江国の二宮とされる鹿苑神社に求める説明は、一宮・二宮制そのものが公的制度でなく参拝慣行のなかで形づくられた性格をもつため、諸説を併記すべき推定にとどまる。本稿は、行政区画の再編という史料で裏づけられる事実と、社格伝承という確度の異なる語りとを同一平面で混同しない立場をとり、「未確認」と「記載がない」の区別を保ちながら、現在も住所に残る二之宮系の地名までを一連の層として記述する。

キーワード:二ノ宮村/中泉町/町村制/山名郡/磐田郡/鹿苑神社/遠江二宮

1. 問題設定 ── 一つの村はなぜ隣町に吸収されたのか

磐田市の住所を書くとき、多くの人が意識せずに用いる「二之宮」という地名がある。JR磐田駅の南東に広がる一帯で、いまは住宅地と田畑が入りまじる、目立った起伏のない土地である。しかしこの地名は、単なる区画の呼称ではない。近代の町村制が敷かれる以前、ここは二ノ宮村という一個の独立した村であった。本稿の問いは単純である。なぜこの村は、隣接する中泉町と一つになり、やがて磐田市の一部となったのか。そして、なぜ「二之宮」という古めかしい名を今日まで保ちえたのか。

この問いを立てる意味は、答えが二つの異質な層にまたがっている点にある。合併そのものは、1889年(明治22年)の町村制という全国規模の制度改革の一齣であり、その年次や前後の経過は自治体沿革史に記録が残る。すなわち、史料によって確認できる行政史の事柄である。ところが、村名の由来を問うと、話は途端に確度の低い領域へ入る。二之宮の名は、この地に鎮座する鹿苑(かのう)神社を遠江国の二宮とみる社格の伝承に発するとされてきた。だが後述するように、一宮・二宮という序列そのものが、公権力の定めた制度ではなく、中世の参拝慣行のなかで自然に固まっていったものと考えられている。同じ「二之宮」という一語のなかに、確度の異なる二つの起源が同居しているのである。

したがって本稿の課題は、この二つの層を丁寧に分けることに尽きる。合併の経緯については、いつ・どの郡の・どの村と町が・どのように一つになったのかを、確認できる範囲で押さえる。地名の由来については、通説として語られてきた説明の内容と、その根拠がどこまで及ぶのかを腑分けし、断定を避けたうえで、確実に言えることだけを取り出す。事実として述べられることと、解釈として導かれること、そして推測の域を出ないことを、語の水準で書き分けていく。

この作法をあらかじめ明示しておきたい。本稿では、自治体沿革史や地名辞典など複数の資料で一致して確認できる事柄を史実と呼ぶ。史料に基づいて導かれる読みを解釈とし、根拠はあるが一次史料で確定できない事柄を推定、地域で長く語り継がれてきた説明を伝承とする。あわせて、二つの否定形を区別する。ある事柄について「管見の限り一次史料に突き当たっていない」状態を未確認と呼び、「史料を探したうえでそこに記述が存在しない」状態を記載なしと呼ぶ。この二つを混同すると、まだ調べ切っていないだけの事柄を「存在しない」と誤って断じかねない。

なぜここまで手続きにこだわるのか。地域史を読むとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の伝えのなかから一つの正解を選び取ろうとする。だが確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込めれば、確かな行政史の事実と、揺れのある社格の伝承とが、同じ強さの断定として読者に届いてしまう。二之宮という土地は、その混同がとりわけ起こりやすい題材である。合併の年次という動かしがたい事実の隣に、鹿苑神社という信仰の記憶が寄り添っているからだ。以下では、まず制度の枠組みを押さえ、合併の経緯、合併後の沿革、地名の由来、社格の枠組み、現在に残る地名の順に検討し、最後に事実と推定の腑分けとして全体をまとめる。

山名郡 郡境 二ノ宮村 山名郡 中泉町 豊田郡 1889 合併 新・中泉町 二之宮を大字として含む 郡を異にする村と町が、郡境を越えて一つの町へまとめられた。
図1 合併の基本構造。山名郡の二ノ宮村と豊田郡の中泉町が郡境を越えて合併し、新しい中泉町を構成した。旧村は大字二之宮として新町の内部に残された。

2. 史料で確認できる枠組み ── 町村制と郡

二ノ宮村が中泉町と一つになった経緯を読むには、まず舞台となった二つの制度、すなわち町村制と郡の枠組みを押さえておく必要がある。合併は個々の村の一存で起きたのではなく、この二つの制度が同時に作動するなかで生じた出来事だからである。

町村制は、1888年(明治21年)に公布され、多くの府県で1889年(明治22年)4月1日に施行された地方制度である1。それまで全国には、江戸時代以来の小さな村が数万を数えるほど存在した。近世の村は、年貢の割り当てと支配を受ける単位として長く安定していたが、規模はまちまちで、単独では近代的な行政事務を担いきれない村も多かった。町村制は、これらの自然村を統合し、一定の規模をもつ「町」「村」を全国に編成し直す制度であった。施行の前後で市町村の数は大きく減り、旧磐田市域でも、見付宿が見付町となり、中泉町と二ノ宮村が一つの中泉町へまとめられた。近世の村を、より大きな自治の器へくくり直したのである。この統廃合が全国一斉に進められた点は、自治体沿革史や関係法令によって確認できる史実である。

もっとも、この統合が住民の自発的な希望だけで決まったわけではない。各府県は、地租の負担能力や戸数・人口、地理的なまとまりを勘案して合併の組み合わせを定め、県の指導のもとで再編を進めた。小さな村が単独で学校や役場を維持するのは難しく、近隣と合わさることではじめて、徴税・戸籍・教育といった近代行政の足場が整えられた。町村制による行政村は、こうした事務を担う最小の器として設計されたと解釈してよい。この点は、同じ時期に各町村への小学校設置が求められていた事情とも符合する。

ここで見落としてはならないのが、旧村の扱いである。町村制は、合わさって消えた旧村を、新しい行政村のなかに「大字(おおあざ)」として温存した。村ごとの土地や財産の区分は、大字という単位に引き継がれ、日常の帰属意識のうえでも意識され続けた。合併によって村の自治は失われても、村の名と範囲は大字として生き延びたのである。二之宮が「中泉町の大字二之宮」として残ったのも、この原則による。今日まで地名が伝わる制度的な土台は、ここに用意されたと解釈できる。

もう一方の枠組みが郡である。郡は、江戸時代以来の区分を引き継いだ広域の枠組みで、明治期には府県と町村のあいだに位置づけられた。ただし郡は、必ずしも人々の日常の生活圏と一致していたわけではない。村人にとっては、どの郡に属するかよりも、市の立つ町、参る寺社、奉公や買い物に通う先がどこかのほうが、はるかに身近な現実であった。この郡と生活圏のずれは、次章で見る「郡境を越えた合併」を理解するうえで欠かせない前提である。制度としての郡の線引きと、人々が実際に往き来する範囲とは、はじめから同じではなかった。

以上を整理すると、二ノ宮村をめぐる合併は、町村制という統合の圧力と、郡という広域区分という、二つの制度が交差する場所で起きた。前者は「村を大きくまとめよ」と迫り、後者は「郡ごとにまとまるのが筋だ」という区分を用意していた。にもかかわらず、二ノ宮村は自らの属する山名郡の内部でまとまるのではなく、郡境を越えて豊田郡の中泉町と結んだ。制度の筋書きから外れたこの選択こそ、本稿がもっとも注意して読むべき点である。

町村制による統合と大字の残存 近世の自然村 行政村(新・町村) 大字 大字 大字 大字 旧村の名と範囲は 大字として残る
図2 町村制の統合構造。複数の近世村が一つの行政村へまとめられる一方、旧村は大字として内部に残された。二之宮もこの原則により大字として存続した。

3. 郡境を越えた合併 ── 山名郡二ノ宮村から新・中泉町へ

ここからが本題である。山名郡の二ノ宮村は、1889年(明治22年)の町村制施行にあたり、隣接する豊田郡の中泉町と合併し、新たな中泉町を構成した。合併前、中泉町は豊田郡に、二ノ宮村は山名郡に属していたから、この合併は二つの郡の境をまたいで行われたことになる。事実として、両者は地理的に隣り合い、ともに天竜川東岸の低地に位置していた。中泉は天領すなわち幕府直轄地を治めた代官所の町であり、その南東に二ノ宮村が接していた。地続きの近接が、合併の素地になったとみてよい。この行政区画の再編と郡の帰属関係は、自治体沿革史や地名辞典によって確認できる範囲である。

解釈になるが、合併の中心になったのは、より人口と機能の集積があった中泉の側であったと考えられる。中泉は代官所以来の地域の拠点であり、ちょうど1889年には中泉駅(現在の磐田駅)が開業して、近代の交通の結節点にもなりつつあった。二ノ宮村は、その拠点に隣接する一村として、自然に新しい中泉町へ組み込まれていったとみられる。より大きな核へ小さな村が寄り添う形は、この時期の合併に広く見られる型であり、二ノ宮村と中泉町の関係もその一例として位置づけられる。中泉の生い立ちそのものについては、本論考シリーズと対をなす一般向け記事中泉の生い立ちでも扱っている。

ここで、なぜ郡境を越えたのかという問いに立ち返りたい。二ノ宮村が同じ山名郡の他村ではなく、郡境を越えて豊田郡の中泉町と結んだ理由については、前章で述べた郡と生活圏のずれが背景にある。郡は江戸時代以来の区分を引き継いだ枠組みにすぎず、村人の日常の往き来とは必ずしも一致していなかった。中泉は代官所と在郷町(ざいごうまち)の機能を併せ持ち、周辺の村々が物資や情報を集散させる場であった。二ノ宮村にとって中泉は、郡こそ違えども事実上の「自分たちの町」であったと解釈するのが自然である。郡境という制度上の線よりも、生活圏の引力が勝った――それが郡を越えた合併の素地になったと考えられる。

ただし、ここには慎重に扱うべき留保がある。これは推測の域を出ないが、二ノ宮村が郡境を越えて中泉と結んだ意思決定の具体的な過程、すなわち村会でどのような議論が交わされ、県がどのような指導を行ったのかという細部は、本稿が参照しえた資料からは確定できない。地縁と経済圏の近さが背景にあったという読み自体は無理のないものだが、それを裏づける村会記録や県の合併関係文書に、筆者は管見の限り突き当たっていない。これは、そうした文書が存在しないという意味の記載なしではなく、あくまで筆者がまだ確認しえていないという意味の未確認である。両者を混同して「経緯は記録に残っていない」と断じるのは誤りであり、当時の府県統計書や合併関係文書を精査すれば、この未確認は一歩前進しうる余地を残している。

郡境を越えた合併そのものは、当時それほど珍しい現象ではなかった。全国を見渡せば、生活圏や地形のまとまりを優先して郡の線を越えた例は各地にあり、二ノ宮村と中泉町の結合もその一つとして理解できる。むしろ注意すべきは、この合併が二つの意味で「越境」であった点である。第一に、地理的・制度的に郡境を越えた。第二に、小さな村が単独の存続を諦め、より大きな町の枠内へ自らを預けるという、規模の境を越えた。二ノ宮村の消滅は、この二重の越境の帰結であった。村を動かしたのは、村そのものの意思というより、全国を覆った町村制の波であったと言ってよい。制度が用意した大きな流れのなかで、小さな村がどこへ吸い寄せられるかは、郡の線ではなく、日々の暮らしがどの町を向いていたかによって決まった。二之宮の場合、その町は中泉であった。

合併の性格

制度の波と生活圏の引力

二ノ宮村の合併は、町村制という上からの制度改革と、中泉という生活圏の核への下からの引力とが、同じ方向に働いた結果として読める。制度は「まとまれ」と迫り、生活の実態は「中泉へ」と促した。両者が一致したがゆえに、郡境という制度上の障壁は、さほど抵抗にならなかったと考えられる。

本稿の評価:合併の年次・当事者・郡の帰属は史実として確認できる。他方、意思決定の具体的経緯は未確認であり、生活圏優先という説明は根拠のある推定にとどめる。

4. 合併後の沿革 ── 郡再編から磐田市まで

1889年に新しい中泉町の一部となった二之宮は、その後も行政区画の再編を重ねながら、現在の磐田市二之宮へと至る。この間の歩みは、いずれも自治体沿革史で追える史実であり、まず年表として整理しておきたい。

合併の翌数年で、まず郡の枠組みが動いた。1896年(明治29年)、郡の再編にともなって、中泉町の所属は豊田郡から磐田郡へと移った2。ここで注意したいのは、二之宮が郡を移ったのは、村として主体的に選んだ結果ではなく、それが属する中泉町ごと郡の帰属が変わった点である。合併によって大字となった二之宮は、以後、上位の町の運命に連動して所属を変えていく。1889年に山名郡から豊田郡中泉町へ、そして1896年に中泉町ごと磐田郡へ――わずか数年のあいだに、二之宮の名目上の郡は二度書き換えられた。村が動いたのではなく、村を包む枠組みが動いたのである。

その後、中泉町自体も版図を広げていく。1929年(昭和4年)には梅原村を編入し、町域が拡大した。そして1940年(昭和15年)11月1日、見付町・中泉町・西貝村・天竜村の四町村が合併して磐田町が発足し、二之宮は磐田町の一部となった3。近世以来それぞれの歴史を歩んできた見付と中泉が一つの町にまとまったこの合併は、旧磐田市域の骨格を定める画期であった。二之宮からみれば、かつて自らを吸収した中泉町が、今度はさらに大きな磐田町の一部となったことになる。小さな村が中泉に吸収され、その中泉が磐田町に吸収されるという、入れ子の統合がここに現れている。

最後の画期は市制施行である。1948年(昭和23年)4月1日、磐田町は市制を施行して磐田市となった。以後、住所表記は「磐田市二之宮」となり、今日に至る。江戸期の山名郡二ノ宮村から数えれば、二之宮という地名は、村・大字・町の一部・市の一部と、その上位の器を次々に替えながら、名そのものは一貫して保たれてきた。器が四度替わっても名が残ったという事実は、前章で述べた大字制度の働き、すなわち旧村名を温存する仕組みが、実際に機能し続けたことを示している。

この沿革全体を貫く特徴を、一つ指摘しておきたい。二之宮の帰属変更は、そのほとんどが「二之宮自身の選択」ではなく「上位の町の選択への連動」であった。1896年の郡移動も、1940年の磐田町発足も、二之宮という単位が主語ではない。合併で大字となった時点で、二之宮は行政上の意思決定の主体ではなくなり、以後は包含する町の動きに従う従属変数となった。地名としては強靭に生き残りながら、行政単位としてはすでに1889年に自立性を手放していた――この二面性こそ、大字となった旧村に共通する運命である。地名の生命力と、行政単位としての消滅とは、別の事柄として読み分ける必要がある。

表1 二ノ宮村(二之宮)の沿革 ── 帰属の変遷と確度の層
年次できごと二之宮の帰属確度の層
江戸期山名郡二ノ宮村として存在。鹿苑神社が鎮座。山名郡・独立村史実(村の存在)/伝承(社格由来)
1889(明治22)町村制施行。二ノ宮村が豊田郡中泉町と合併し新・中泉町となる。豊田郡中泉町・大字史実
1896(明治29)郡再編。中泉町の所属が豊田郡から磐田郡へ移る。磐田郡中泉町・大字史実
1929(昭和4)中泉町が梅原村を編入し町域拡大。磐田郡中泉町・大字史実
1940(昭和15)見付町・中泉町・西貝村・天竜村が合併し磐田町発足。磐田郡磐田町・一部史実
1948(昭和23)磐田町が市制施行し磐田市となる。磐田市二之宮史実
帰属の器を替えながら残る地名 1889中泉町へ合併 1896豊田郡→磐田郡 1929梅原村編入 1940磐田町発足 1948磐田市 二ノ宮村 → 中泉町二之宮 → 磐田町 → 磐田市二之宮
図3 二之宮の沿革年表。郡境を越えた合併から、郡再編・町村合併・市制施行を経て磐田市へ。上位の器は四度替わったが、地名「二之宮」は一貫して保たれた。

5. 「二之宮」の地名由来 ── 鹿苑神社と二宮伝承

行政沿革を史実として押さえたところで、話は確度の異なる層へ移る。地名「二之宮」の由来である。これは通例、この地に鎮座する鹿苑神社を遠江国の二宮とみる社格の伝承に発すると説明されてきた。しかし、この説明はどこまで確かなのか。ここでは説の内容と、その根拠の及ぶ範囲とを分けて検討する。

地名由来・社格伝承

遠江二宮=鹿苑神社に由来するとする説

説の骨子。二之宮に鎮座する鹿苑(かのう/ろくおん)神社は、古代から中世にかけて遠江国の二宮に位置づけられてきたと伝えられる。村がこの社にちなんで「二ノ宮村」と呼ばれ、それが地名「二之宮」として今日まで残った、というのがこの説の骨子である。読みや表記、由緒には複数の伝えがあり、社伝の水準でも一様ではない。

説の共通性。事実として、村名「二ノ宮」がこの地の鹿苑神社と結びついて語られてきたこと自体は、地域の沿革資料や地名辞典に共通して見られる。地名が「二宮」という社格に由来するという説明は、資料の系統を問わず、おおむね一致している。したがって、地名と社とが古くから一体のものとして意識されてきたという点までは、確度をもって述べてよい。ここは通説として扱える範囲である。

説の限界。ところが、鹿苑神社を遠江の二宮とする比定そのものの確度は、これと同じではない。次章で詳しく見るとおり、一宮・二宮という社格の序列は、朝廷や国司が公式に格付けした制度ではなく、平安後期から中世にかけての参拝慣行のなかで自然に形づくられたものと考えられている。そのため、同じ国でも資料によって二宮にあてられる神社が異なったり、後世に序列が入れ替わったりした例が各地に知られる。遠江の二宮を鹿苑神社とする位置づけも、ある時代・ある資料系統での認識を伝えるものであって、一次史料によって動かしがたく確定しているわけではない。この比定は推定の層にとどまる。

本稿の評価:「地名二之宮が鹿苑神社に由来すると語られてきた」ことは通説として確度が高い。他方「鹿苑神社が遠江の二宮である」という比定は諸説を含む推定であり、本稿は「遠江二宮とされる」という表現にとどめて断定を避ける。

この腑分けは、一見わずかな言い回しの違いに見えるかもしれない。だが、両者を混同すると議論が転倒する。「地名が社に由来する」ことの確からしさを、「社が二宮である」ことの確からしさへそのまま横滑りさせてしまうと、揺れのある比定が、あたかも確定した史実であるかのように読者に届く。逆に、比定の不確かさを理由に地名由来そのものを疑えば、共通して語り継がれてきた確かな伝承までを切り捨てることになる。確実に言えるのは、次の一点である。すなわち、この土地の人々は長く鹿苑神社を「二宮さま」として意識し、その社格の名を村の名として選び取り、近代の住所として今日まで伝えてきた。比定の当否がどうであれ、地名そのものが、この社への長い敬いを物語っている。

もう一点、方法上の区別を補っておきたい。鹿苑神社を二宮とする最古の確実な文献的裏づけがどこまで遡れるかについて、筆者は決定的な一次史料に突き当たっていない。これは未確認であって、「そのような史料が存在しない」という記載なしとは異なる。中世の参詣記や国内神名帳の類を博捜すれば、比定の初出をより精確に押さえられる余地は残っている。本稿が「推定」と記すのは、比定を否定するためではなく、その確度の現状を正直に示すためである。

確度の三区分 ── 混同しないための弁別 事実 1889年の合併 郡再編・沿革 沿革史で確認 解釈 中泉主導の合併 社格が地名に残る 事実に基づく読み 推測 意思決定の細部 二宮比定・由緒 諸説・要調査 本稿は各事項をこの三区分に振り分け、区分をまたぐ断定を避ける。
図4 事実・解釈・推測の弁別。行政沿革は事実、合併の主導や社格の残存は解釈、意思決定の細部と二宮比定は推測に属する。区分を語の水準で保つことが本稿の方法である。

6. 遠江国の社格 ── 一宮・二宮・総社の枠組み

二之宮の地名由来を正しく評価するには、その前提となる社格の枠組み、すなわち遠江国における一宮・二宮・総社の位置づけを一覧で押さえておく必要がある。二宮という語は、この枠組みのなかではじめて意味をもつからである。

社格の枠組み

一宮・二宮・総社とは何か

枠組みの内容。一宮(いちのみや)は、ある令制国のなかで筆頭とされた神社を指す。二宮(にのみや)は、それに次ぐ社格をもつとされた社である。総社(そうじゃ)は、国司が国内の主要な神々を一か所にまとめて祀るために、国府の近くに設けたとされる社で、各社を個別に巡拝する手間を省く目的があったと説明される。遠江国では、一宮を小國(おくに)神社、二宮を鹿苑神社、総社を淡海國玉(おうみくにたま)神社とする整理が、地域の解説で広く用いられている。

枠組みの性格。ただし、これらの序列は公的に定められた制度ではなかったと考えられている。一宮・二宮という格付けは、朝廷や国司が法令で定めたというより、平安後期から中世にかけて、その国を代表する神社への参拝慣行のなかで自然に固まっていったものと解されている。国司が着任にあたって国内の主要な社を巡拝する順序が、やがて社格の序列として定着したという見方である。それゆえ、同じ国でも資料によって二宮にあてられる神社が違っていたり、後世に序列が入れ替わったりした例が各地に知られる4

本稿の評価:一宮=小國神社・二宮=鹿苑神社・総社=淡海國玉神社という整理は、地域で広く用いられる通説だが、いずれも後世の整理を含む。個々の比定は「とされる」前提で読むべき推定を伴う。

この枠組みを地図のうえに置くと、遠江国の信仰秩序のおおよその配置が見えてくる。総社の淡海國玉神社は、国府が置かれたとされる見付にあり、国の宗教的な中心をなした。一宮の小國神社は北の周智郡森町に、二宮の鹿苑神社は南の磐田市二之宮にあって、国府を中心に主要な社が配置されていたと解釈できる。総社について詳しくは、当サイトの淡海國玉神社の記事でも扱っている。この配置図から読み取れるのは、二之宮の鹿苑神社が、国府の総社から見て一定の格をもつ社として位置づけられていたという構図である。ただし繰り返せば、この構図もまた後世の整理を含み、序列の細部には揺れがある。

ここで、地名由来の議論に一つの含意が生じる。二之宮の名が「二宮」という社格に発するとすれば、その名は、遠江国という一段大きな信仰秩序のなかでの、この社の相対的な位置を刻んでいることになる。すなわち「二之宮」とは、単にこの社の固有名ではなく、遠江国の社格体系における序列を土地の名として固定したものと読める。一宮でも三宮でもなく二宮を名のる土地であること自体が、この地が遠江の信仰秩序のなかでどう位置づけられていたかの記憶を伝えている。もっとも、その序列が揺れを含む以上、「二之宮」という地名は、確定した史実ではなく、ある時代・ある系統の社格認識が土地の名として結晶したもの、と受け止めるのが穏当である。地名は、確度の揺れをもったまま固定され、その揺れごと今日まで運ばれてきた。

表2 遠江国の主な社格 ── いずれも後世の整理を含む「とされる」もの
位置づけ神社(とされる)現在地確度の層と留意点
一宮(いちのみや)小國神社周智郡森町遠江一宮とする理解は通説。序列の初出・確定時期は要検討。
二宮(にのみや)鹿苑神社磐田市二之宮地名「二之宮」の由来とされる。二宮比定は推定を含み諸説あり。
総社(そうじゃ)淡海國玉神社磐田市見付国府近くの総社とされる。国府所在論と関わり、なお論点を残す。
遠江国の社格配置(概念図) 総社 淡海國玉 見付・国府近く 一宮 小國神社 森町(北) 二宮 鹿苑神社 二之宮(南) 国府の総社を中心に主要社が配される。序列の細部には揺れがある(推定を含む)。
図5 遠江国の社格配置。国府の総社を中心に、一宮・二宮が置かれる構図。二之宮の鹿苑神社は南の二宮とされるが、この比定は後世の整理を含む推定である。

7. 住所に残る二之宮 ── 消えた村の輪郭

合併によって村としての二ノ宮は消えた。しかし、その名は消えていない。事実として、現在も磐田市中泉地区の住所のなかに、二之宮系の地名がいくつも残っている。二之宮を核として、二之宮東、二之宮浅間(せんげん)といった地名が連なり、旧村の広がりを今日に伝えている5。これらは、前章までに述べた大字制度の働きによって旧村の輪郭が温存され、それが現在の住所に細分されて受け継がれた結果と解釈できる。

地名の内訳を見ると、その成り立ちがうかがえる。核となる「二之宮」は、旧二ノ宮村の中心にあたり、鹿苑神社が鎮座する一帯である。「二之宮東」は、その東側に広がる区域を方位で切り分けた地名であり、「二之宮浅間」は、浅間信仰にちなむとみられる細分地名である。核の地名のまわりに、方位や信仰に由来する派生地名が付随するという構造は、旧村が近代の住所へ分割されていく際に広く見られる型である。地名をひとつずつ地図に置き直していくと、村としては消えたはずの旧二ノ宮村の輪郭が、うっすらと浮かび上がってくる。地名は、行政単位が消えたあとも、土地の記憶を格納する器として働き続けている。

こうした旧村名の残り方は、二之宮に限ったことではない。同じ中泉地区には、古代の「国府」を名のる国府台(こうのだい)という地名もあり、これについては一般向け記事国府台と府八幡宮で扱っている。村から町、町から市へと上位の枠組みが何度替わっても、土地の名は驚くほど粘り強く残り続ける。行政区画は制度の都合で幾度でも書き換えられるが、地名は日々の暮らしのなかで呼ばれ続けることによって、制度の変転を越えて生き延びる。二之宮系の地名が今日まで伝わったのは、この地名の生命力の一例である。

ここで、確度についての留保を一つ加えておきたい。二之宮浅間の由来を浅間信仰に結びつける読みは、地名の字面と一般的な信仰史からの推定であって、この地に浅間社が確実に存在したことを一次史料で裏づけたものではない。筆者はその点を未確認としておく。字面が浅間信仰を思わせることと、実際に浅間社の祭祀がこの地にあったこととは、論理的に別の事柄である。地名研究では、字面からの連想を史実と取り違える誤りがしばしば起こる。ここでは、字面の示唆までを述べ、それ以上の断定は控える。

二之宮という土地を、いま一度全体として眺めてみたい。古代の信仰秩序における二宮という社格、近世の山名郡二ノ宮村、近代の中泉町大字二之宮、そして現代の磐田市二之宮。これら四つの層は、ほぼ同じ場所に重なり合っている。社格・近世村・近代の行政区画・現代の住所という、性格も時代も異なる四つの層が、一つの地名のもとに折り重なっている土地は、全国を見渡してもそれほど多くない。この重層こそが、二之宮という一見平凡な土地の、地味だが確かな特色である。地名は、その四層をひとまとめに束ねて運ぶ、目に見えない容器として機能してきた。

住所に残る二之宮系の地名 二之宮 旧村の中心・鹿苑神社 二之宮東 東側の区域 二之宮浅間 浅間信仰か(推定) 核の地名に方位・信仰由来の派生地名が付随し、旧村の輪郭を伝える。
図6 現在に残る二之宮系地名の構成。核の「二之宮」に、方位由来の「二之宮東」、信仰由来とみられる「二之宮浅間」が連なる。旧二ノ宮村の輪郭が住所に細分されて残った。

8. 結論 ── 行政の史実と社格の推定を分けて読む

本稿は、二ノ宮村がなぜ中泉と一つになったのかという問いを、二つの異質な層に分けて検討してきた。得られた見取り図は次のとおりである。合併そのものは、1889年(明治22年)の町村制という全国規模の制度改革の一齣であり、山名郡の二ノ宮村が郡境を越えて豊田郡の中泉町と結び、新しい中泉町を構成した。この年次と当事者、以後の郡再編・磐田町発足・市制施行という沿革は、自治体沿革史で追える史実である。合併を促したのは、町村制という上からの統合の圧力と、代官所以来の拠点であった中泉への生活圏の引力との一致であり、郡境という制度上の線は、その引力の前で障壁たりえなかった。

他方、地名「二之宮」の由来については、確度を一段落として扱わねばならない。地名が鹿苑神社という社に発すると語り継がれてきたこと自体は、資料の系統を問わず一致する通説である。しかし、その鹿苑神社を遠江の二宮とする比定は、一宮・二宮制そのものが参拝慣行のなかで自然に固まった非制度的な序列である以上、諸説を含む推定にとどまる。本稿が一貫して「遠江二宮とされる」という表現を用い、断定を避けてきたのは、この確度の差を語の水準で保持するためである。

この二層を分けて読むことには、二之宮という個別の題材を超えた含意がある。地域史を記すとき、私たちは往々にして、確かな行政史の事実と、揺れのある信仰の伝承とを、同じ強さの断定で書き並べてしまう。だが両者を混同すれば、合併の年次のように動かしがたい事実の隣で、二宮比定のように揺れを含む推定が、あたかも同格の史実であるかのように読者へ届いてしまう。本稿が採った事実・解釈・推測の腑分けと、「未確認」と「記載なし」の区別は、この混同を避けるための禁欲的な手続きである。確かなことは確かなこととして、揺れのあることは揺れごと、それぞれの確度を明示して書き留める。これは二之宮に限らず、地名と行政史が交わるあらゆる土地に適用できる記述の作法であると考える。

あわせて、二之宮という土地そのものについて言えることがある。古代の社格、近世の村、近代の行政区画、現代の住所という四つの層が、ほぼ同じ場所に折り重なり、その全体が「二之宮」という一つの地名のもとに束ねられて今日まで運ばれてきた。行政単位としての村は1889年に自立性を手放したが、地名としての二之宮は、上位の器を四度替えながらも一貫して生き延びた。行政区画の変転と、地名の持続とは、別々の速度で進む別々の事柄である。この二つを取り違えず、それぞれの層をそれが属する確度のなかで正当に評価すること――それが、消えた村の記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途であると、本稿は結論する。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、二ノ宮村が郡境を越えて中泉と結んだ意思決定の具体的な過程は、当時の府県統計書や合併関係文書を精査することで、未確認の状態を史実へと押し上げられる余地がある。第二に、鹿苑神社を遠江二宮とする比定の文献的初出は、中世の参詣記や国内神名帳の類を博捜することで、推定の確度を一段高めうる。第三に、二之宮浅間の由来と浅間信仰との関係は、字面からの連想を超えて、この地の祭祀の実態を確かめる作業を要する。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。中泉という拠点そのものの生い立ちや、遠江国府の所在をめぐる論点については、稿を改めて論じたい。

本稿が扱った二之宮や中泉には、村の合併や住所の変転を幾度もくぐり抜けてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、旧村名や字名が境界や相続の手がかりになる現場に幾度も立ち会ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。土地の名を書き留めることと、その名を負う土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 町村制は1888年(明治21年)4月に公布され、多くの府県で1889年(明治22年)4月1日に施行された。旧磐田市域における見付町・中泉町の成立、二ノ宮村の中泉町への合併もこの施行にともなう。施行日・再編内容は自治体沿革史による。
  2. 中泉町の所属が豊田郡から磐田郡へ移ったのは1896年(明治29年)4月1日の郡再編による。二之宮は中泉町の大字として、町ごと所属郡が変わった。
  3. 磐田町は1940年(昭和15年)11月1日、見付町・中泉町・西貝村・天竜村の合併により発足し、1948年(昭和23年)4月1日に市制を施行して磐田市となった。
  4. 一宮・二宮制は公的な格付け制度ではなく、平安後期以降の参拝慣行のなかで形づくられたと考えられている。同一国内でも二宮の比定が資料により異同する例が各地に見られる。遠江二宮=鹿苑神社の比定もこの性格をふまえて「とされる」と表記する。
  5. 現在の磐田市二之宮・二之宮東・二之宮浅間などの地名は、旧二ノ宮村の範囲を継ぐ。地名の異同・読みについては角川『日本地名大辞典』・平凡社『日本歴史地名大系』の静岡県の巻を参照。二之宮浅間と浅間信仰の関係は字面からの推定にとどまり、祭祀の実在は本稿では未確認とする。

付記:本稿は一般読者向け記事 n022「二之宮はなぜ中泉と一つになったか【解説】」の内容を、郷土史研究者向けに確度の層を明示して再構成した論考版である。1889年の合併・1896年の郡再編・1940年の磐田町発足・1948年の市制施行を史実、遠江二宮=鹿苑神社の比定を推定として腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別した。

参考文献・参考資料

  • 磐田物語 n022「二之宮はなぜ中泉と一つになったか ── 明治の合併と鹿苑神社【解説】」 https://iwata-monogatari.net/n022.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市『磐田市誌』(磐田市、該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店(磐田市立図書館で閲覧可)。
  • 『日本歴史地名大系 静岡県の地名』平凡社(磐田市立図書館で閲覧可)。
  • 磐田市公式ウェブサイト(市の沿革・文化財・地域の神社に関する解説ページ) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 総務省・自治体沿革関係資料(町村制施行・郡制・市制町村制に関する制度解説)。
  • 鹿苑神社(磐田市二之宮)由緒・社伝資料。
  • 小國神社(周智郡森町)由緒・社伝資料。
  • 淡海國玉神社(遠江総社)由緒書。
  • 国土地理院「地理院地図/旧版地形図」(旧二ノ宮村域・二之宮系地名の照合に用いる) https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 一宮・二宮制および国内神名帳に関する神社史・地方制度史の概説(社格序列の非制度的性格に関する研究)。
  • 磐田市域の旧宿村沿革に関する郷土調査資料(町村制施行前後の村名・所属郡をまとめた地域史料)。