失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 竜洋になるまでの町村沿革

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第158号(竜洋地区研究 二)

竜洋になるまでの町村沿革

江戸の支配錯綜から昭和の合併まで ── 町村沿革と生活圏形成の二層をめぐって

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋

要旨

現在の磐田市竜洋地区は、単一の由緒ある町として近世を過ごしたのではない。江戸時代のこの区域は、掛塚湊のような要地を幕府直轄領や旗本知行地とし、周辺の新田村落を諸藩・旗本による相給とする、錯綜した支配のもとに置かれていた。本稿は、この支配区分の入り組みを出発点に、明治22年(1889年)の町村制施行による掛塚村・十束村・袖浦村の成立、明治29年(1896年)の郡廃置分合による磐田郡への統合、そして昭和30年(1955年)の竜洋町誕生に至る町村沿革を跡づける。方法として、行政境界と支配区分の年代は史実として、生活圏の連続性は推定として腑分けし、両者を混同しない。合併そのものを主題とした既刊論考に対し、本稿は合併を可能にした半世紀余の前史へ焦点を絞る。支配の分断と生活の連続という二つの層を分けて記すことで、竜洋という枠組みが行政上の作為と生活実態の双方から成り立ったことを示したい。あわせて、一次史料に突き当たっていない事柄(未確認)と、史料に記載のない事柄(記載なし)とを区別し、断定を急がない記述の作法を貫く。

キーワード:竜洋/掛塚湊/相給/町村制/磐田郡/十束村・袖浦村/天竜川治水

1. 問題設定 ── 「竜洋」以前をどう問うか

竜洋という地名は、天竜川の「竜」と遠州灘を指す「洋」を組み合わせたものとされ、昭和30年(1955年)の合併に際して選ばれた新しい呼称である。したがって「竜洋の歴史」を近世まで素直にさかのぼると、そこに竜洋という単位は存在しない。この区域は江戸時代を通じて一つのまとまった領域ではなく、掛塚・平松・中島・駒場・白羽といった村々が、それぞれ別々の領主のもとに置かれていた。本稿が問うのは、この分断された村々が、どのような沿革をたどって「竜洋」という一つの行政単位へ収斂していったのか、という過程である。

ここで注意すべきは、行政上の枠組みと、人々の生活の広がりとが、必ずしも一致しないという点である。江戸時代の支配区分は、村ごとに領主が異なる複雑なものであったが、その一方で、天竜川の水と掛塚湊の交易は、領主の別を越えて村々を実質的に結んでいた。逆に明治以降、行政村や郡の境界が引き直されるたびに、生活圏との間にずれが生じもした。町村沿革を読むとは、この行政区分と生活実態という二つの層の、離合の歴史を読むことにほかならない。

本稿の立場をあらかじめ一文で示しておく。すなわち、竜洋という枠組みは、行政上の作為(合併という制度的決定)と生活実態(水運と治水を共有する連続した生活圏)の双方から成り立ったものであり、そのいずれか一方に還元して語るべきではない、という立場である。以下では、支配区分・行政境界の年代を史料で確認できる史実として扱い、生活圏の連続については根拠を示しつつも推定として区別する。そのうえで、一次史料に突き当たっていない事柄(未確認)と、史料に記載のない事柄(記載なし)とを、言葉の上で分けて記すことを一貫した方針とする。この区別は些末な言葉づかいの問題ではない。前史をたどるほど、確実に言える事柄は乏しくなり、記録の空白が広がる。その空白を「もともと記録が作られなかった」と読むか、「作られたが伝わっていない、あるいは筆者がまだ突き当たっていない」と読むかで、沿革の描き方は大きく変わる。断定を急げば、あるはずの空白を埋めた気になってしまう。

また、あわせて先行する記述との関係も述べておきたい。竜洋の成り立ちを語る文章は、多くが昭和30年(1955年)の合併を起点に置き、そこから現代までを描く。合併という一点から筆を起こすこの書き方は、行政の区切りとしては自然だが、その一点に至るまでの長い沿革を背景に押しやりがちである。本稿はあえてその前史の側に軸足を置く。合併の場面そのものは既刊の論考に譲り、ここでは江戸の支配から大正・昭和初期の生活圏統合までを、行政区分と生活実態という二つの層の離合として描く。合併を結末としてではなく、半世紀余にわたる沿革の帰結として位置づけ直すことが、本稿のねらいである。

2. 江戸時代の支配錯綜 ── 天領・旗本領・藩領の相給

江戸時代のこの区域を理解するうえで、まず押さえておくべきは、支配が一元的でなかったという事実である。天竜川の河口に広がるこの一帯は、川の運んだ砂礫が堆積してできた低湿な土地で、村の境も定まりにくかった。そこへ近世の支配が重ねられた結果、掛塚湊のような経済的な要地は幕府の直轄領(天領)あるいは有力な旗本の知行地とされ、周辺に開かれた新田村落は、浜松藩や掛川藩、さらには複数の旗本による相給のもとに置かれた1。相給とは、一つの村を複数の領主で分割して支配することをいい、この地では珍しくない形態であった。十束村の新田開拓のように、近世に入って新たに開かれた村では、開発に関わった主体や開発の時期に応じて支配が定められたため、周辺の古い村々とは異なる領主のもとに置かれることも起こった。新田の増加は、この一帯の支配図をいっそう細かく塗り分ける結果をもたらしたと考えられる。

一村が複数の領主に分かれて支配されるということは、同じ村のなかに年貢の納め先が二つ三つと並び立つことを意味する。村人の側から見れば、隣家の田は別の領主の帳簿に載っているということも起こりえた。こうした相給・分郷の状態は、支配の系統を極めて複雑にした一方で、村としての共同の営み──用水の維持、堤の普請、祭礼──を、領主の別を越えて村内で処理せざるをえない事情をも生んだ。行政上の分断が、かえって村落共同体の自律的な結束を促した面があったと考えられる。ただしこれは沿革の一般的傾向から導いた推定であって、個々の村の内部運営を一次史料で逐一確認したうえでの断定ではない。

相給が生まれた背景には、近世の知行割り当ての事情もある。旗本に分与される知行地は、一円にまとまった領域として与えられるとは限らず、複数の村にまたがって石高を割り付ける形をとることが多かった。年貢収取の安定を図るため、豊かな村と痩せた村を組み合わせて割り当てるといった配慮も働いた。その結果、一つの村がいくつもの知行に分かれ、逆に一人の旗本の知行が数か村に散らばる、入り組んだ支配図が描かれることになった。天竜川河口のように新田開発が進み、村の数と石高が動きやすい土地では、この入り組みはいっそう複雑になったと考えられる。ただし、当該区域の個々の村がどの領主にどれだけの石高を割かれていたかを、村ごとに一次史料で復元する作業は、本稿の範囲を超える。ここでは相給という支配形態の一般的な仕組みを述べるにとどめ、具体的な領知構成の確定は今後の課題として残す。

支配区分そのものの年代や領主の別は、検地帳・郷帳・領知の記録によって確認できる史実の層に属する。これに対し、その分断のもとで村人がどのように結びついていたかという生活の実態は、記録に残りにくく、多くは推定にとどまる。本稿はこの二つを混同しない。すなわち「掛塚湊が天領・旗本領であった」ことは史実として、「支配の別を越えて村々が結びついていた」ことは根拠ある推定として、層を分けて扱う。この区別を怠ると、支配の分断がそのまま人々の分断であったかのように誤読され、逆に、生活の連続を根拠に支配まで一元的であったかのように描いてしまう。近世の村は、上からの支配の線と、下からの共同の線とを、別々に抱えていた。その二重性を保ったまま記すことが、河口の村々の沿革を理解する鍵になる。

支配の錯綜 ── 河口低地に重なる三種の領主 天領(幕府直轄) 掛塚湊など要地 旗本知行地 複数旗本に分郷 藩領 浜松藩・掛川藩ほか 一つの村(相給) 年貢の納め先が村内で複数に分かれる
図1 相給の模式図。天領・旗本知行地・藩領という三種の支配が河口低地に重なり、一つの村のなかで年貢の納め先が分かれることも珍しくなかった。支配の別は史実、村内の結束は推定として区別する。

3. 掛塚湊を軸とする生活圏の形成

支配が分断されていたにもかかわらず、この区域には村々を横断する一つの結節点があった。天竜川の河口に開けた掛塚湊である。掛塚が水運の拠点として発展した背景には、慶長12年(1607年)、京の豪商・角倉了以が幕府の命を受けて天竜川の川浚え(河道の整備)を行ったと伝えられることがある2。これにより上流の信濃から遠州・掛塚まで、木材を筏で流し下す流通路が開かれたとされる。江戸中期には上流部の用材が乏しくなり、掛塚の廻船問屋は伊勢・美濃方面からの廻米輸送へと生業を移し、多くの問屋が軒を連ねたことから、掛塚は「遠州の小江戸」とも呼ばれたと伝えられる。

ここで史料の性格に一言しておきたい。角倉了以の川浚えや「遠州の小江戸」という呼称は、地域に伝わる由来として広く語られてきた事柄であり、慶長12年という年紀を含めて、その細部を裏づける一次史料を本稿の範囲で網羅的に確認できたわけではない。したがってこれらは伝承の層に属する事柄として扱い、掛塚が近世に廻船で栄えた湊であったという大枠と、個々の年紀・逸話とを、確度の上で区別しておく。栄えた湊であったこと自体は、廻船問屋の家並みや湊関係の記録から支持される。地域の由来譚は、しばしば著名な人物や具体的な年紀を核にして語られるが、その核の史実性と、譚が指し示す大枠の事実とは、切り分けて評価する必要がある。角倉了以という名や慶長12年という年が伝承の装飾であったとしても、天竜川の水運が近世を通じて掛塚に富をもたらしたという大枠までが否定されるわけではない。

掛塚湊が果たした役割は、単なる物資の積み替え地にとどまらない。廻船問屋を核に、船大工、水主(かこ)、荷役、そして問屋に出入りする周辺村々の農漁民が、湊を中心とした一つの経済圏を形づくっていた。上流から流し下される材、河口の新田で穫れる米、沿岸の塩、そして遠隔地から運ばれる廻米や諸荷が、この湊で交わった。湊のにぎわいは、掛塚一町のものではなく、これに材や米や労力を供給する後背の村々があってはじめて成り立つものであった。逆に周辺の村々にとっても、産物を換金し、日用の品を得る窓口が掛塚湊であった。支配の帳簿の上では別々の領主に属していた村々が、経済の実態としては一つの湊を共有していたのである。

重要なのは、この湊が支配区分とは別の原理で村々を結んだ点である。廻船の荷役、川筋の筏乗り、塩木の調達、湊を介した物資の集散は、どの領主に属するかを問わず、河口一帯の人々を日々の生業のなかで結びつけた。天竜川の治水と水害への備えもまた、村の別を越えた共同を要した。天竜川がつくった村、流した村で論じたように、この川は恵みと災いを同時にもたらし、流域の村々に共通の課題を課し続けた。堤の普請、水行(すいこう)の維持、洪水後の復旧は、一村では負いきれない負担であり、しばしば近隣の村々が共同して当たった。行政上は分断されていた村々が、水運と治水という共通の条件のもとで一つの生活圏を形づくっていた──この連続性を、本稿は史実として断定はせず、生業と地理の条件から導かれる推定として位置づける。とはいえ、湊と治水という二つの結節が村々を横につないでいたことは、のちの三村編成や合併が河口という単位でまとまった事実からも、間接的に裏づけられる。

支配を越える生活圏 ── 掛塚湊という結節点 天竜川 掛塚湊 廻船・川湊 上流の材 新田の村 廻米・交易 沿岸の塩
図2 掛塚湊を結節点とする生活圏。廻船・廻米・塩・新田がこの湊を介して結ばれ、領主の別を越えた連続した生活の広がりを形づくった(この連続性は推定として扱う)。

4. 明治22年の町村制 ── 掛塚村・十束村・袖浦村の成立

近世の分断された村々に、近代の行政単位として初めて明確な形を与えたのが、明治22年(1889年)4月1日に施行された町村制である3。この制度によって、それまで多数に分立していた小さな村々は、地形や生業の類似を基準に、いくつかの行政村へと編成し直された。現在の竜洋地区にあたる区域は、このとき大きく三つの村へまとめられた。

第一は、天竜川河口の川湊と船頭集落を核とした長上郡掛塚村である。掛塚を中心に、十郎地・城之崎など近隣の村々が合併して成立し、のちに商業的な繁栄を背景として町制を施行し掛塚町となった。第二は、平松・中島など、河口低地に開かれた新田村落がまとまった豊田郡十束村である。十束村の成立と平松・中島の新田開拓史で詳しく論じたように、この一帯は近世の土木によって美田へと変えられた開発地であり、農を基盤とする村としての性格をもった。第三は、沿岸部の塩田や漁業を営む村々が結んだ豊田郡袖浦村である。湊の掛塚、農の十束、海の袖浦という三者の性格の違いは、そのまま近世以来の生業の別を反映していた。

町村制の編成には、近世の村を単位とした支配から、より大きな行政村を単位とする近代的な地方自治への転換という意味があった。それまで数十戸から成る小さな村がそれぞれ自立していた状態から、複数の村を束ねて戸長役場を置き、村会を設け、村としての予算と事務をもつ体制へと移された。この編成にあたっては、どの村とどの村を組み合わせるかが問題となる。組み合わせの基準には、地形の連続、生業の類似、旧来の結びつき、そして石高や戸数の均衡などが働いたと考えられる。河口三村の編成が、湊・農・海という生業の別に沿って行われたことは、近世以来の実態がこの近代的編成にも反映されたことを示している。制度は白紙から線を引いたのではなく、既にあった生活の結びつきをなぞりながら、それを行政村という器に収めたのである。

ここで確認しておきたいのは、町村制による三村の成立が、行政区分としての史実である一方、その区分が生活圏の実態とどこまで重なっていたかは別途検討を要する、という点である。三村はいずれも天竜川河口という共通の地理に立ち、掛塚湊を介して結ばれてきた。行政上は掛塚村が長上郡、十束村・袖浦村が豊田郡と、当初は郡を異にしてさえいた。制度が引いた線と、生業が結んだ線とは、必ずしも一致していなかったのである。生業のうえでは一つの河口生活圏でありながら、行政のうえでは郡の境が三村の間を走っていた。この不一致こそが、のちの郡再編と合併への伏線となる。制度と実態のずれは、放置されれば行政の非効率として現れ、やがてそれを是正する再編の力へと転じていく。

明治22年 町村制 ── 近世の村々から三村へ 掛塚・十郎地・城之崎ほか 平松・中島ほか新田 沿岸の塩田・漁村 長上郡 掛塚村 → のち町制・掛塚町 豊田郡 十束村 新田・農の村 豊田郡 袖浦村 塩田・漁の村 湊(掛塚)・農(十束)・海(袖浦)の別は近世以来の生業を反映する。
図3 町村制による三村の成立。近世の小村が湊・農・海という生業の別に沿って三村へ編成された。掛塚村は当初長上郡、十束村・袖浦村は豊田郡に属した。

5. 郡の再編 ── 長上郡・豊田郡から磐田郡へ

三村が郡を異にしていた状態は、まもなく大きく組み替えられる。明治29年(1896年)4月1日、静岡県下で郡の廃置分合が行われ、磐田郡・山名郡・豊田郡の大部分、および長上郡の一部が統合されて、改めて磐田郡が置かれた4。この再編により、それまで長上郡に属していた掛塚村(掛塚町)と、豊田郡に属していた十束村・袖浦村は、同じ磐田郡の行政傘下に入ることになった。三村が初めて一つの郡のもとに並んだのである。

そもそも長上郡・豊田郡・磐田郡といった郡の名は、古代の律令制に由来する古い区画であり、近世を通じて村の帰属を示す枠組みとして生き続けてきた。明治の郡制は、この古代以来の郡を近代的な行政区画として再編し、規模の小さすぎる郡を統合して府県と町村の中間の単位を整えようとするものであった。静岡県における明治29年の廃置分合も、その全国的な流れのなかに位置づけられる。掛塚村がそれまで属していた長上郡は、天竜川を挟んで西側に広がる浜松寄りの郡であり、河口の掛塚は、生業では東岸の十束・袖浦と結ばれながら、行政では西岸の長上郡に属するという、地理と区分のねじれを抱えていた。郡の再編は、このねじれを解消し、河口の三村を天竜川東岸の磐田郡へ一括して収める効果をもった。

郡の統合が、ただちに三村の一体化を意味したわけではない。郡はあくまで府県と町村の中間に位置する行政区画であり、三村はそれぞれ独立の自治体として存続した。しかし、同じ郡に属するということは、郡役所を通じた行政事務、学事・土木・徴税といった諸事の枠組みを共有することを意味した。磐田郡という広がりで整理したように、この郡の再編は、旧来の郡界を越えて広域の行政単位を作り直す作業であり、河口三村を同じ枠へ収めたことは、のちの合併に向けた制度的な前提を一つ整えたことになる。行政区分の側が、生業のうえではすでに結ばれていた三村を、ようやく同じ枠のなかへ置き直したとも言える。もっとも、郡が同じになったからといって、三村がただちに合併へ動いたわけではない。郡の統合から昭和30年(1955年)の合併までには、なお半世紀余りの時間があった。その間に何が三村をさらに近づけたのかを、次章で見ていく。

明治29年 郡廃置分合 ── 三村が一つの郡へ 長上郡 掛塚町 豊田郡 十束村・袖浦村 磐田郡 三村が同一郡の傘下に 郡の統合は自治体の一体化ではないが、合併の制度的前提を整えた。
図4 郡の再編。長上郡の掛塚町と豊田郡の十束村・袖浦村が、明治29年の廃置分合により同じ磐田郡へ収められた。行政区分が生活圏の実態に一歩近づいた画期である。

6. 大正から昭和初期 ── 治水と生活圏の統合

三村が同じ郡に属しても、明治後期から大正にかけては、なお各村が独自の課題に取り組んでいた。掛塚町は海運の衰えに伴う町の再編に知恵を絞り、十束村は天竜川の内水(堤内にたまる水)による被害を防ぐ排水路の整備に努め、袖浦村は塩田の不振から沿岸漁業や砂地の園芸への転換を模索していた。生業を異にする三村は、それぞれの事情のなかで別々に歩んでいたように見える。

この三村を一つの生活圏として決定的に近づけたのは、天竜川の治水であった。天竜川は古来「暴れ天竜」と呼ばれ、洪水のたびに河口部の流路を変え、村や田を押し流し、あるいは新たな中州を残してきた。河口の村々にとって、川の動きは生活の最大の不確定要素であり続けた。ところが昭和期に入り、近代的な大堤防の整備が進んで流路が固定されると、洪水のたびに姿を変えていた河口の地形が安定し、村々の間を隔てていた物理的な障壁は大きく減じた。川筋が定まることは、渡河や往来を容易にし、これまで川や氾濫原によって隔てられていた集落の間の行き来を日常のものにした。あわせて道路網や橋梁が整えられ、共同の学校区や産業組合が編成されていくにつれて、三村は行政の枠を越えて日常の往来を深めた。近世以来、水運と治水という条件によって潜在的に結ばれていた生活圏が、近代の土木と制度によって顕在化していった過程と読むことができる。以下の表に、三村の性格と沿革を対比して示す。

表1 河口三村の比較 ── 母体・生業・所属郡・沿革と確度の層
行政村主な母体・核生業の基調当初の所属郡沿革(確度の層)
掛塚村 → 掛塚町掛塚湊・船頭集落、十郎地・城之崎ほか水運・廻船・商業長上郡明治22年成立は史実。廻船繁栄の逸話・年紀は伝承を含む。
十束村平松・中島ほか河口の新田村落新田・農業豊田郡明治22年成立は史実。新田開発の経緯は別稿で検討。
袖浦村沿岸の塩田・漁村塩田・漁業・砂地園芸豊田郡明治22年成立は史実。生業転換の時期は推定を含む。

この対比から見えてくるのは、三村が異なる生業を核としながらも、天竜川河口という一つの地理を共有し、その川の治水を共通の課題としていたという事実である。湊・農・海という違いは、対立の要因であるよりも、河口の生活圏を支え合う分業の関係に近かった。湊は農村の米や労力を求め、農村は湊を通じて産物を換金し、沿岸の塩や魚もまた湊と農村を市場としていた。三者は互いを必要とし合う関係にあり、生業の別はむしろ結びつきの理由でもあった。行政境界がこの三村を別々の単位として扱い続けた半世紀余の間に、生活の側では往来と共同がむしろ深まっていた。分断された制度と連続する生活という二つの層のずれが、次第に制度の側の統合を求める圧力へと転じていったと考えられる。もっとも、学校区や産業組合の編成が三村の一体感をどこまで醸成したかを定量的に示す史料は、本稿の範囲では確認できていない。ここは推定として記すにとどめる。

あわせて、昭和の合併がこの地域だけの動きではなかったことも押さえておきたい。昭和28年(1953年)以降、国は町村合併促進法のもとで全国的に小規模町村の統合を進めており、竜洋町の成立もこの大きな政策の流れのなかにある。すなわち三村の合併は、生活圏の連続という下からの条件と、町村合併促進という上からの政策とが、たまたま同じ方向を指したところに実現した。ここでも本稿の二層の見方は有効である。合併を促した政策の年次は史実として確認できるが、その政策がなぜこの三村においてはさほどの摩擦なく受け入れられたのかを問うと、そこには半世紀にわたって深まってきた生活圏の連続という、推定の層に属する条件が浮かび上がる。制度の力だけでも、生活の連続だけでも、竜洋町の成立は説明しきれない。

生活圏の統合 ── 大正から昭和初期の四要因 治水・大堤防 道路・橋梁 共同学校区 産業組合 一つの 生活圏へ
図5 生活圏統合の四要因。天竜川の治水を軸に、道路・学区・産業組合の整備が重なり、行政上は別々だった三村を一つの生活圏へと近づけた(統合の度合いは推定)。

7. 昭和30年の竜洋町誕生と史料批判上の留意

こうした前史の積み重ねの果てに、昭和30年(1955年)4月1日、掛塚町・十束村・袖浦村の三町村が合併し、竜洋町が成立した5。町名は、天竜川の「竜」と遠州灘を意味する「洋」を組み合わせたものとされ、川と海という二つの水にはぐくまれてきたこの地域の性格を、そのまま名に映したものと説明されている。竜洋町として半世紀を歩んだのち、平成17年(2005年)4月1日、竜洋町は磐田市・福田町・豊田町・豊岡村と合併し、現在の磐田市の一部となった。竜洋という自治体名は消滅したが、地区名としては引き継がれ、住所表示のなかに残っている。

ここで本稿の主題である「前史」との関係を整理しておく。昭和30年の合併そのものは、既刊の竜洋町の誕生を主題とする論考で詳しく論じた。本稿がそれと重複せずに示そうとしたのは、この合併が突然の制度的決定として現れたのではなく、江戸の支配錯綜に始まり、町村制の三村成立、郡の統合、大正・昭和初期の生活圏統合という、半世紀を優に超える沿革のうえに立っていた、という点である。合併は前史の帰結であって、起点ではない。

この見方は、地名の継承のあり方にも通じる。竜洋という自治体名は平成17年(2005年)の磐田市への合併で消えたが、掛塚・平松・中島・駒場といった近世以来の村名は、大字や小字、あるいは自治会・集落の名として今も残っている。行政単位としての村や町は、町村制・郡再編・二度の合併を経て何度も姿を変えたが、その底には、より古く、より変わりにくい地名の層が横たわっている。行政の枠組みが上から幾度も引き直されても、人々が土地を呼ぶ名は、それより長く生き続ける。竜洋という新しい名が半世紀で自治体としての役目を終えた一方、掛塚や平松の名が数百年を生き延びているという対比は、行政区分と生活実態のずれを、地名という別の角度から映し出している。行政の名は制度の都合で生まれ、制度の都合で消える。だが土地に根ざした古い地名は、そこに住み続ける人々の記憶とともに、より長く受け継がれていく。

史料批判の観点から、確度の腑分けを最後に確認しておく。支配区分・町村制施行・郡廃置分合・合併という行政沿革の年代は、法令・郡制・自治体の記録によって確認できる史実である。これに対し、掛塚湊の繁栄をめぐる個々の逸話や町名の由来説明は、地域に伝わる由来として扱うべき伝承の層に属する。そして、江戸から昭和にかけて生活圏が連続していたという見立ては、生業と地理の条件から導かれる推定である。さらに、三村の一体感が制度統合をどこまで先取りしていたかを示す当事者の記録については、本稿では確認できていない。これは「そうした記録が存在しない(記載なし)」ことを意味せず、「管見の限り一次史料に突き当たっていない(未確認)」という状態にとどまる。両者の区別を保つことが、前史を語るうえでの最低限の作法であると考える。

行政沿革の系統 ── 分断から一つの地区へ 江戸の村々 相給・分断 三村(明治22) 掛塚・十束・袖浦 → 磐田郡(明治29) 竜洋町 昭和30年 磐田市 平成17年 行政境界(史実)の下で、水運と治水が結ぶ生活圏(推定)が連続する。 前史なくして合併なし ── 竜洋は半世紀余の沿革の帰結である。
図6 行政沿革の系統図。江戸の分断された村々から、明治の三村・磐田郡、昭和の竜洋町、平成の磐田市へと至る流れ。合併は前史の帰結であり、起点ではない。

8. 結論 ── 分断と連続の二層をどう書くか

本稿は、現在の磐田市竜洋地区が形成されるまでの町村沿革を、江戸の支配錯綜から昭和30年(1955年)の竜洋町誕生まで跡づけた。得られた見取り図は次のとおりである。近世のこの区域は、天領・旗本領・藩領が相給として入り組む、行政上は分断された土地であった。しかしその分断のもとで、掛塚湊の水運と天竜川の治水は、領主の別を越えて村々を一つの生活圏へと結んでいた。明治の町村制は三村を、郡の再編は一つの郡を、そして昭和の合併は一つの町を、それぞれ制度の側から作り出したが、その制度が追認したのは、すでに生活の側で連続していた広がりであった。制度は生活の実態に、遅れて追いついた。江戸の分断から昭和の合併まで、行政区分は幾度も引き直されたが、そのたびに、制度の線は生業と地理が結んでいた河口の生活圏へと近づいていった。竜洋町の成立とは、この長い接近の過程が、ついに一つの町という形に結晶した瞬間であった。

この沿革を書くにあたって本稿が保った方針は、分断と連続という二つの層を混同しないことであった。支配区分・行政境界・郡再編・合併の年代は、記録によって確認できる史実として扱った。掛塚湊の繁栄をめぐる逸話や町名の由来は、地域に伝わる伝承として区別した。そして生活圏の連続は、生業と地理から導かれる推定として、史実とは別の水準で位置づけた。さらに、三村の一体感の度合いを示す当事者の記録については、「記載なし」と断ぜず「未確認」にとどめた。これらの腑分けは、前史を後世の調べものに耐える形で残すための、禁欲的な手続きである。地域史の記述では、ともすれば由緒を古く見せ、連続を強調し、断絶を覆い隠す誘惑が働く。その誘惑に抗い、確かめられることと確かめられないことの境界を明示しておくことが、後から史料が現れたときに記述を訂正しうる余地を残す。断定の少ない記述は、頼りなく見えて、実は改訂に開かれた強さをもつ。

したがって本稿の立場を改めて一文で示せば、こうなる。竜洋という枠組みは、合併という行政上の作為と、水運・治水を共有する連続した生活圏という実態の、双方から成り立った。そのどちらか一方だけで竜洋を語ることはできない。合併の年月日だけを記せば、そこに至る半世紀余の生活の連続が抜け落ちる。逆に生活圏の連続だけを強調すれば、制度が引いた線の作為性が見えなくなる。分断された制度と連続する生活の、離合の過程そのものが竜洋の沿革である。残された課題として、近世の相給の具体的な領知構成、掛塚廻船の記録の博捜、三村統合期の学区・組合資料の検討を挙げておく。これらは未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業であり、稿を改めて論じたい。竜洋という地区名の背後には、掛塚湊の帆影と、新田を拓いた鍬の音と、堤を築いた人々の営みとが、幾層にも折り重なっている。その層を一つずつ解きほぐし、確かめられる年代と、確かめきれない連続とを丁寧に腑分けしていくことが、この土地の記憶を次の世代へ手渡すための、地道で確かな道筋であると考える。

本稿の舞台である掛塚や平松、袖浦の一帯には、廻船で栄えた家や、新田を拓いた古い農家が今も残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。沿革を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 相給とは一村を複数の領主で分割支配する形態をいう。当該区域の近世支配については、掛塚湊を天領・旗本知行地とし、周辺新田村を諸藩・旗本の相給とする理解が地域史で通行するが、個々の村の領知構成は検地帳・郷帳等による別途の確認を要する。
  2. 慶長12年(1607年)の角倉了以による天竜川川浚え、および掛塚を「遠州の小江戸」と呼ぶ伝えは、地域に伝わる由来であり、年紀・逸話の細部を裏づける一次史料を本稿の範囲で網羅的に確認したものではない。伝承の層として扱う。
  3. 明治22年(1889年)4月1日の町村制施行による掛塚村・十束村・袖浦村の成立は行政沿革上の史実である。掛塚村はのち町制を施行して掛塚町となった。
  4. 明治29年(1896年)4月1日の静岡県における郡廃置分合により、磐田郡・山名郡・豊田郡の大部分と長上郡の一部が統合されて磐田郡が置かれた。これにより掛塚町・十束村・袖浦村は同一郡の傘下に入った。
  5. 昭和30年(1955年)4月1日、掛塚町・十束村・袖浦村が合併して竜洋町が成立。平成17年(2005年)4月1日、竜洋町は磐田市・福田町・豊田町・豊岡村と合併し現在の磐田市の一部となった。町名の由来説明は伝承を含む。

付記:本稿は一般読者向け記事 r012 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。合併そのものを主題とする既刊 148 との重複を避け、江戸から大正・昭和初期にかけての町村沿革と生活圏形成という前史に焦点を置いた。行政沿革の年代を史実、生活圏の連続を推定、掛塚湊の逸話・町名由来を伝承として区別している。

参考文献・参考資料

  • 『竜洋町史』通史編・史料編(竜洋町、該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 『遠州掛塚湊の廻船史』に関する地域刊行資料。
  • 『天竜川河口域の歴史と民俗』関連資料。
  • 静岡県における郡制施行・郡廃置分合に関する公開資料(磐田郡・長上郡・豊田郡関連)。
  • 町村制(明治21年法律第1号)および施行に関する公開資料。
  • 掛塚湊・角倉了以による天竜川開削と廻船問屋の歴史に関する公開資料。
  • 磐田市公式ウェブサイト「市の沿革・合併の歩み」該当ページ https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r012「旧竜洋町になるまでの変遷 ── 江戸・明治・大正期の町村沿革と生活圏の形成」 https://iwata-monogatari.net/r012.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第148号(竜洋町の誕生を主題とする論考) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/148/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r004「十束村の成立と平松・中島の新田開拓史」 https://iwata-monogatari.net/r004.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 c010「磐田郡という広がり ── 旧磐田市の外側にあった村々」 https://iwata-monogatari.net/c010.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 s001「天竜川がつくった村、流した村 ── 池田・掛塚と渡しの記憶」 https://iwata-monogatari.net/s001.html (最終閲覧:2026年7月26日)。