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磐田物語 / 見付宿の助郷制度と周辺村の負担
見付宿 | 宿場を支えた制度

見付宿の助郷制度と周辺村の負担 ──
宿場の外側で支えた村々

本陣に大名が泊まり、旅籠に旅人がひしめいた見付宿。だが、そのにぎわいを裏で支えていたのは、宿場の中の人々だけではない。周辺の村々に課された「助郷(すけごう)」という労役制度である。宿場の外側から見えてくる、もう一つの東海道の姿をたどる。

宿場だけでは、まかないきれなかった

東海道の宿場には、公用の荷物や人を次の宿へ送り継ぐための人足と馬が、常に一定数備えられていた。磐田物語の別稿で触れた古代の駅家が定数の駅馬を備えていたのと同様に、近世の宿場にも、幕府が定めた基準の人馬数があった。ところが、大名行列の通行や公用荷物の急増が重なると、宿場だけで用意した人馬では、とても足りなくなる。この不足分を補うために、幕府が周辺の村々に課したのが、助郷という制度だった。

助郷に指定された村は「助郷村」と呼ばれ、指定された日数・人馬数に応じて、農作業の合間を割いてでも人と馬を宿場へ差し出さなければならなかった。見付宿もまた、東海道有数の規模を誇った宿場であっただけに、周辺の村々に一定の助郷負担を課していたと考えるのが自然である。

確認できること・できないこと
助郷という制度そのものの仕組み(定助郷・加助郷等の区分、村に課された人馬提供の義務)は、全国共通の史実として確認できる。一方、見付宿に具体的にどの村が定助郷・加助郷として指定されていたか、石高に応じた負担割合はどうだったかについては、今回のWeb調査の範囲では特定情報を確認できなかった。今後、磐田市の地域史資料等での確認が望まれる。

定助郷・加助郷・当分助郷 ── 何段階もの区分

助郷村には、いくつかの種類があった。常時、決まった人馬を提供する義務を負う村を定助郷(じょうすけごう)という。これに対し、特定の事情で定助郷の代わりを務める村を代助郷(だいすけごう)、宿場そのものに付属する形で人馬を出す村を宿付助郷(やどつきすけごう)と呼んだ。さらに、参勤交代の大名行列や朝鮮通信使の通行など、通常をこえる人馬需要が生じたときにだけ臨時で動員される村を増助郷(ましすけごう)加助郷(かすけごう)当分助郷(とうぶんすけごう)と区分した。一つの宿場を支えるために、これほど細かく制度化された村々の階層が組まれていたのである。

この区分の細かさは、東海道という幹線が抱えていた交通量の大きさを裏づけている。参勤交代の大名行列だけでも、東海道を利用する大名は百家以上にのぼり、その行列は数百人から時に千人規模に達することもあった。宿場だけの人馬でこれをさばくのは、そもそも不可能だったのである。

村にとっての助郷は、重い負担だった

助郷は、村にとって歓迎される制度ではなかった。農繁期であっても、割り当てられた日には人と馬を宿場へ出さなければならず、田畑の仕事を後回しにせざるを得ない。しかも、幕府や藩から支払われる駄賃(だちん)は、実際にかかる労力に見合わないことが多く、多くの助郷村で不満と困窮の種になっていたことが、全国各地の助郷関連の史料から知られている。助郷にまつわる村同士の争い(助郷免除を求める訴訟など)も、江戸期を通じて各地で起きている。

見付宿の周辺にも、こうした助郷の負担を負った村が確かに存在していたはずである。磐田物語の別稿で触れた本陣・旅籠・問屋場の賑わいは、あくまで宿場の内側から見た華やかな側面であり、その裏側には、名の記録が薄くなりがちな周辺農村の労役という現実があった。宿場のにぎわいを支えていたのは、旅籠の主人や飯盛女だけでなく、日々の畑仕事を割いて人馬を出しつづけた、名もなき村人たちでもあったのである。

助郷をめぐる、全国各地の騒動

助郷の負担がどれほど重かったかは、江戸時代中期に起きた「伝馬騒動(てんまそうどう)」という事件からもうかがえる。明和元年(1764年)、中山道・日光道中の助郷村々に、朝鮮通信使の来日や将軍の日光社参にともなう臨時の助郷役(増助郷)が課されようとしたことをきっかけに、関東一円で数十万人規模ともいわれる農民が蜂起し、幕府に負担軽減を訴えた。この騒動は最終的に増助郷の中止という形で決着したが、助郷という制度が、ときに一揆にまで発展しかねないほどの重圧を村々に強いていたことを、後世に伝える出来事である。

見付宿の周辺で、これほど大規模な騒動があったという記録は、今回のWeb調査では確認できていない。しかし、全国的にこうした緊張が繰り返されていたことを踏まえれば、見付宿の助郷村々もまた、多かれ少なかれ同種の負担感を抱えていたと推測することは、決して的外れではないだろう。にぎわう宿場の背後に、静かに積み重なっていた村々の労苦を、想像力とともに読み取っておきたい。

宿場の内側と外側、両方から見る東海道

本陣・脇本陣・旅籠・問屋場という宿場内部の施設は、磐田物語のなかで既にくわしく描かれてきた。だが、それらの施設が機能するためには、宿場の外側、周辺の村々からの人馬供給という支えが欠かせなかった。助郷という視点を持つことで、見付宿は「にぎわいの舞台」であると同時に、「周辺の村々の労役の上に成り立っていた仕組み」としても見えてくる。にぎわいの記録の陰にある、名もなき負担の記憶にも、目を向けておきたい。

助郷とは幕府が宿場周辺の村に課した、人馬提供の労役制度
主な区分定助郷・代助郷・宿付助郷・増助郷・加助郷・当分助郷
村への影響農繁期でも人馬を差し出す義務。駄賃は労力に見合わないことが多い
見付宿の具体例指定村名・負担割合は今回のWeb調査では未確認

主な参考資料

本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。見付宿に具体的に割り当てられた助郷村の村名・負担割合については定説を確認できておらず、本文中で事実と未確認の点を区別して記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。