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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(7)

見付宿の十一ヶ寺と二社 ── 朱印高191石の寺社世界

「有力なる寺院は名主問屋に伯仲する勢力を有した」── 天保15年の記録が伝える、宿場町のもう一つの権力の地図。

見付宿には十一の寺があった。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第二章は、天保15年(1844年)調とみられる記録から、その十一ヶ寺の宗派・本寺・朱印高・所在地を一覧表にして掲げている。朱印高の合計は191石2升1合。宿の総石高が1,175石余であったことを思えば、その規模の大きさがわかる。寺は寺社奉行の管轄下にあって諸役を免除されており、宿役人の支配の外にある独立した勢力であった。本稿ではこの表を読み、宿場町のもう一つの地図を描いてみる。

本稿の要点
  • 見付宿の寺院は十一ヶ寺、神社は総社(淡海国玉神社)と天神社(矢奈比売神社)の二社である。
  • 十一ヶ寺の朱印高総計は191石2升1合。最大は省光寺の48石で、西光寺33石余、金剛寺23石余が続く。
  • 時宗が3ヶ寺(西光寺・省光寺・蓮光寺)と最も多く、浄土・臨済・曹洞が各2ヶ寺、天台・法華が各1ヶ寺。
  • 寺は寺社奉行に属して諸役を免除され、「有力なる寺院は名主問屋に伯仲する勢力を有した」と同書は評する。

十一ヶ寺の一覧

同書所載の表を、横組みに改めて示す。「位置」欄の数値は、街道(往還)から寺の入口までの引き込みの距離である。

寺名宗派本寺朱印高位置(往還より引込)
国分寺天台江戸東叡山13石2斗7升境松 右側46間入
玄妙寺法華京都妙満寺3石西坂 右側9間
大見寺浄土京都知恩院15石東坂 右側10町
慶岩寺浄土京都知恩院5石馬場 左側84間
西光寺時宗藤沢清浄光寺33石8斗6升3合横町 右側59間
省光寺時宗藤沢清浄光寺48石馬場 左側75間
蓮光寺時宗当所西光寺4石5斗2升4合西坂 右側19間
見性寺臨済京都妙心寺19石1斗4合西坂 左側105間
慈恩寺臨済京都妙心寺11石2斗3合西坂 右側46間
金剛寺曹洞当国堀越村海蔵寺23石8斗5升7合馬場 左側11間半
宣光寺曹洞当国浜松普済寺16石東坂 右側39間

出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』所載の寺院一覧(天保15年調)。なお同書本文は「右十一寺の朱印高総計は百九十一石二升一合である」と記すが、上表の各値を単純に合計すると約192石8斗となり、総計と一致しない。複写資料からの判読か、原典の集計のいずれかに誤差がある可能性があり、本稿では個々の値と総計の双方をそのまま示すにとどめる。

時宗の三ヶ寺と「国府光堂」。 宗派の内訳を見ると、時宗が西光寺・省光寺・蓮光寺の3ヶ寺と最も多い。うち蓮光寺は本寺を「当所西光寺」とし、西光寺の下にあった。時宗の寺がこれだけ集まるのは、遊行上人の一行が東海道を往来し、見付が時宗の重要な拠点であったことと関わる。見付と時宗のつながりは見付と時宗 ── 一遍の教えと西光寺、遊行上人の道に詳しい。

同書はここで興味深い推定を記している。『吾妻鏡』の建久6年(1195年)条に「遠江国府光堂」とあるのは、西光寺・蓮光寺・省光寺の一所を指したものであろう ── 『地名辞典』にもとづく推定である、と。三つの「光」の字を持つ寺が国府の地に並んでいたことから導かれた説であり、同書自身「であろう」と推定のかたちで述べている。断定された史実ではないが、鎌倉初期の記録に見える堂と近世の三ヶ寺を結ぶ想像としては魅力的である。

寺のなかで最古とされるのは国分寺である。同書は「聖武天皇天平年間の創建にかかる国分寺が右のうち最古のものである」とし、『延喜式』に遠江国分寺料三万束とあることを添える。遠江国分寺そのものについては遠江国分寺跡と、古代磐田のはじまりを参照されたい。

寺が宿を助ける ── 省光寺の一札。 朱印高48石と十一ヶ寺で最大の省光寺について、同書は天保15年の問屋御用留から一文を引いている。「外寺院より手広ニ付宿方差支の節は諸家様御休泊御請申上候」── ほかの寺より広いので、宿の受け入れが間に合わないときには諸大名の休泊をお引き受けします、という趣旨である。

この一札は、寺院が宿場の機能の一部を担っていたことを具体的に示している。参勤交代の行列が集中したときや、天竜川の川留めで旅人が滞留したとき、本陣・脇本陣・旅籠屋だけでは収容しきれない。そのとき寺の広間が臨時の宿舎となった。火事・洪水・祭礼で見た度重なる大火のあと、焼け出された人々を受け入れたのもおそらく寺であったろう ── これは記録に明示されないため推測にとどめるが、宿場町における寺の役割は、信仰の場にとどまらなかったのである。

堂と庵の世界。 十一ヶ寺の外にも、宿にはいくつもの堂と庵があった。同書が天保15年調として挙げるのは次のとおりである。

堂・庵所在と帰属
松尾院東坂右側の除地
十王堂東坂左側の除地
金仙寺東坂左側の除地。西貝塚村曹洞宗福王寺の扣(管理)
地蔵堂同上。宣光寺扣、朱印地内
徳宿院左側除地。大見寺扣
不動堂明王寺横町より西北へ290間入る。見性寺扣、同寺朱印高の内

「扣(ひかえ)」とは、その寺の管理下にあることをいう。除地は年貢を免除された土地である。堂や庵は単独で存在するのではなく、いずれかの寺に属してその管理を受けていた。宿の南北に張りめぐらされたこの堂庵の網は、街道沿いの家並みだけでは見えてこない、もう一つの宿の姿である。見付町 小字・地名資料に見える薬師堂・護摩堂・地蔵小路・十王堂といった小字名は、これらの堂の記憶が土地の名として残ったものであろう。

二つの社と、寺社奉行という別系統。 神社は総社と天神社の二社である。総社は淡海国玉神社(御朱印高72石9斗6升)、天神社は矢奈比売神社(御朱印高50石)。天神社は宿の東北の高地・天神山に位置し、その北方に元天神と称する小祠があった。同書は仁明紀承和7年(840年)の矢奈比売天神授位はこの天神社のことである、と記す。神主は代々斉藤主馬、総社の神主は西尾式部、のち大久保長門。祭礼については特集第5ページ火事・洪水・祭礼で述べた。両社の詳細は見付祇園祭見付天神裸祭もあわせて読まれたい。

最後に、同書のこの一文をあらためて置いておきたい。「これらの寺方は寺社奉行に属し諸役を免除され有力なる寺院は名主問屋に伯仲する勢力を有した」。見付宿には、道中奉行と中泉代官という二重の支配(宿を動かした人々参照)に加えて、寺社奉行という第三の系統があった。伝馬役も年貢も及ばない191石の朱印地が、宿の内側に点在していたのである。宿場町の権力の地図は、宿役人の名簿だけでは描ききれない。

更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第7ページ)。

参考資料

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