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見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(5)

火事・洪水・祭礼 ── 見付宿の災害史と天神祭の拝殿踊

町の記録帳は、火事と洪水の記憶を淡々と書き継いでいた。そして同じ町から、裸祭の熱狂と、踊りの順番をめぐる四町の意地の張り合いも記録されている。

『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第二章は、宿の書上帳や町内記録の庚申帳、水野日記といった日記類から、幕末維新までの見付宿の災害記事を年表のかたちで集録している。街道沿いに家々が密集した宿場町にとって、火事と洪水は繰り返し訪れる厄災であった。本稿ではその災害史と、災害への備えとしての治水・普請を読み、あわせて同じ史料群が伝える祇園と天神の祭礼 ── そして文化14年(1817年)に起きた拝殿踊の順争い事件を紹介する。

本稿の要点
  • 文化2年(1805年)の大火は307軒を焼き、天保11年(1840年)と明治2年(1869年)にも宿の過半を焼く大火があった。
  • 宿の中央を流れる中川と西端の加茂川には築堤・瀬浚・橋の掛替が繰り返され、幕府負担の御普請所と宿負担の自普請所が区別されていた。
  • 文化14年の中川橋・加茂川橋の掛替費用は、出来形帳に材料・人足数まで詳細に報告されている。
  • 天神祭(見付天神裸祭)の拝殿踊をめぐり、文化14年に四町が順番を争う悶着が起き、請書に192名が押印してようやく決着した。

火事と洪水の年表

同書が庚申帳・水野日記などから集録した主な災害を挙げる。

災害(出典は同書所引の帳簿・日記)
明和6年(1769年)東坂町焼失。飢人に夫食拝借
寛政2年(1790年)3月に出火11軒焼失。8月には大風雨で境松の大道下まで水が押し上げ、新田の損失多大
寛政12年(1800年)5月から7月に三度の満水。西瀬・今浦が不作となり、祭礼を休む
文化2年(1805年)3月3日夜、馬場の借家から出火。辰巳の風にあおられ西へ延焼し、蓮光寺に至る307軒を焼く。諸家の休泊も当分なし
文政4年(1821年)3月3日、宿内過半焼失。御朱印屋敷上村清兵衛宅も焼け、本陣2軒も類焼
天保11年(1840年)1月、西坂の市兵衛宅から出火し中川橋まで延焼、宿内過半焼失。問屋・両本陣・脇本陣も焼けた。出火日は帳簿により1月4日と1月25日の異同があり、同書も「何れが真なるや不明」と注記する
安政2年(1855年)地震。夫食代拝借(年貢皆済目録)
万延元年(1860年)6月、大雨で中川・加茂の両橋が流失
慶応2年(1866年)6月、大水。東坂の往還に水が上がり、馬場町の家々が浸水。太田川の堤が切れて三ヶ野橋が流失し、袋井への往還は通行不能となった
明治2年(1869年)2月、大風雨のなか西坂町の梅屋から出火。翌日まで大風が烈しく、惣社近くまで宿の過半、およそ500軒を焼く

この年表には災害そのものだけでなく、救済の記録も伴っている。飢饉の年には「一食は必ず粥を食え」という倹約の布令が出され、地震の年には夫食代の拝借(幕府からの食料費貸与)が皆済目録に現れる。特集第4ページ中泉代官と見付宿の年貢で見た御囲蔵の貯穀339石は、こうした度重なる厄災を背景に積み立てられたものであった。

川と堤 ── 中川・加茂川の治水

見付宿の水害の主因は、宿の中央を貫流する中川であった。同書によれば、中川の水源は大久保の御伝馬林からの落ち込みと付近の悪水で、福田浜に注ぐ小川にすぎないが、大雨のたびに満水して宿に浸水することがしばしばであった。このため中川橋の上下に延長1,160間の築堤が施され(明和4年・寛政5年の普請記録)、864間にわたる川浚え(瀬浚)も繰り返された。宿の南の西瀬新田には944間の囲堤が築かれ、悪水を逃がす吐圦樋が3ヶ所に設けられていた。

これらの土木工事には、幕府の費用で行う「御普請所」と宿の費用で行う「自普請所」の区別があった。また宿内外の往還・野道の掃除(維持修理)は、見付宿だけでなく近隣18ヶ村に丁場(受け持ち区間)を割り当てて行わせている。街道と水路の維持が、宿と周辺農村の共同負担で成り立っていたのである。

橋を掛け替える ── 出来形帳が語る費用

宿内で最も重要な土木工事は、宿の西端で加茂川に架かる土橋と、宿の中央で中川に架かる板橋(中川橋)の掛替であった。文化14年(1817年)に宿から中泉代官所へ差し出された「東海道見附宿板橋土橋御掛替御普請出来形帳」には、使用した松材・杉材・鉄釘類の寸法数量から大工・木挽・人足の数まで詳細に報告されている。それによれば、中川橋(長7間・幅3間)の掛替は締めて金30両3分余、加茂川の土橋(長8間・幅3間・袖2間)は金29両余であった。

橋の寿命は短い。中川橋は文政4年(1821年)に掛け替えたものの、6年で松材の腐朽が甚だしく人馬の往来に支障をきたし、文政10年(1827年)に再び掛替となった。この時の経費は金228両2分余に達し、ほかに人足193人を村高100石につき50人の割合で村役として徴発している。さらに天保15年(1844年)の掛替では御林の松67本を切り出した。数年ごとに大金を投じて橋を掛け替え続ける ── 街道の便を支えるこの負担も、宿と周辺村々の上に載っていた。

二つの祭礼 ── 祇園と天神

見付宿の神社は総社(淡海国玉神社)と天神社(矢奈比売神社)の二社、寺院は国分寺・西光寺・大見寺など11ヶ寺で、寺の朱印高は合計191石余にのぼった。同書は「有力なる寺院は名主問屋に伯仲する勢力を有した」と記す。祭礼はこの二社を軸に営まれた。

一つは祇園の舞車祭である。明和の明細差出帳によれば、6月7日に祇園社から惣社大明神へ神輿が渡御し、14日に還御する。かつては「ねりもの」も出たが、明和の頃にはすでに休止していた。同書はここで謡曲『舞車』の「是ハ遠江の国見附のこふの者にて候 此祇園と申は上下旅人をかたらひ車の上にて舞する例にて候」という詞章を引き、中世には旅人も巻き込む盛大な祭であったことをうかがわせる。この祭の系譜については見付祇園祭および『舞車』を扱った『舞車』から深掘りする12の研究キーワードに詳しい。

いま一つが天神祭、すなわち見付天神裸祭である。旧暦8月10日・11日、腰蓑裸体の全町の若衆が拝殿で練り合い、月の没するのを待って、灯りを消した暗黒の町を神輿が天神社から惣社へ渡御する。同書はこれを「裸祭として天下の奇祭である」と述べる。この祭は今日まで続き、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

拝殿踊の順争い ── 文化14年の請書

「庶民の熱狂する祭礼には紛擾がよく伴うものである」と同書は書く。文化14年(1817年)7月、天神祭の拝殿踊をめぐって、馬場・宿・西坂・東坂の四町がその順番を争い、容易に収まらない悶着となった。宿役人は、文化13年からの取り決めどおり二町ずつ隔年で勤める仕法を改めて申し渡し、「この上故障を申し立てる者があれば御役所の吟味に及ぶ」と迫った。町々は「たとえ何ヶ年経ち候とも御取極の御仕法を相守り、少しも違背申すまじく候」との請書を差し出し、西坂町75人・馬場町33人・宿町46人・東坂町38人、合わせて192名が押印してようやく決着した。祭の順番ひとつに町の意地と誇りがかかっていたこと、そして宿役人が御役所(代官所)の権威を背にしながらも、あくまで宿内の和解で収めようとしたことが、この一件からよく見える。

若者たちの世界

祭礼の担い手は宿の若者組であった。同書は水野日記の明治4年(1871年)頃の記事を引き、旧幕時代の若者制度の一面を伝えている。15歳から30歳までの男子で組を立て、5月の節句には大凧を持ち出し、嫁取り婿入りの家からは「水金」と称する祝儀金を取る ── そうした風習が度を越し、中泉役所の御頭藤沼某が若者の寄合を停止させたという。「末々も親の心の休まる事有難し」という日記の言葉には、若者組の勢いに手を焼いた親たちの本音がにじむ。祭礼の熱狂とその担い手の統制は、表裏一体の問題であった。

火事と洪水に痛めつけられながら、祭には人一倍熱くなる ── 帳簿と日記から浮かび上がる見付宿の人々の姿は、宿場町の暮らしの手ざわりをいまに伝えている。特集の全体像は特集トップから、宿のすがたは見付宿のすがたと戸口からたどられたい。

更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第5ページ)。

参考資料

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