文久3年(1863年)の八月十八日の政変後、長州藩は京都から退けられた。翌年の禁門の変、第一次・第二次長州征伐へ進むなか、幕府軍は東海道を往来し、見付宿と助郷村々へ従来にない負担を課した。
- 将軍家茂の上洛と長州征伐で東海道の通行量が急増した。
- 閏5月1日から半月余りで、見付宿へ非常に多数の軍勢が滞在した。
- 助郷からも人足約1万人、馬500疋が動員されたとの記録がある。
- 幕府側の賃銭と討幕軍の支払方式には違いがあった。
政変から征伐へ
公武合体派と尊王攘夷派の対立が深まり、元治元年(1864年)に第一次長州征伐、慶応2年(1866年)に第二次征伐が行われた。将軍家茂の上洛は陸路の東海道を通り、見付宿と助郷の人々は軍勢の移動を支えた。
見付宿の混雑
『図説 磐田市史』が紹介する大通行の記録では、幕府軍が閏5月1日に見付宿へ泊まり、大雨で天竜川が川留めとなったため将軍も一日余分に滞在した。半月余りの滞在者について、史料ごとに約1万8千人から3万人という幅がある。数値は一致しないが、戸数千余・人口4千人余の宿場にとって異常な規模だったことは共通する。
助郷村の負担
町中の家々まで兵士が宿泊し、本陣や脇本陣だけでは収容できなかった。助郷から約1万人、馬500疋が動員されたとの記録もある。荷物、人足、馬、宿泊が数日にわたり滞留し、見付宿問屋は不足する米・薪・敷物・風呂桶・馬桶などを中泉代官へ借用願いとして出した。
幕府軍と討幕軍
資料の比較では、幕府方は「御用通行」として人馬賃銭の支払いが十分でない場合があった一方、慶応4年に東下した討幕軍は人馬賃銭を支払い、年貢諸役を減免したとされる。これは新政府側が沿道の支持を得る政策でもあった。単純な善悪ではなく、政権交代期の動員方式の違いとして読むべきである。
世直しへの期待
物価上昇、銀行収益の悪化、宿駅負担の増大は、幕府権威への不満を強めた。慶応3年のお札降り、慶応4年の新政府軍東下は、見付の人々に政治の転換を実感させた。関連する遠州報国隊は、見付の神官・国学者が新政府軍へ参加した動きである。
| 時期 | 見付への影響 |
|---|---|
| 1863 | 将軍家茂上洛、宿駅負担増加 |
| 1864 | 第一次長州征伐 |
| 1865〜66 | 再征準備・第二次征伐、軍勢通行 |
| 1868 | 討幕軍東下、遠州報国隊 |
更新履歴:2026年7月12日 新規公開。