失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 磐田市の鉄道史
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磐田市の鉄道史 ──
東海道線・中泉軌道・光明電気鉄道・天竜浜名湖線

明治22年(1889年)4月、東海道線の静岡・浜松間開通とともに「中泉駅」が生まれてから、磐田のまちは鉄道とともに姿を変えてきた。天竜川の水運と駅を結んだ人車軌道、二俣を目指して6年余りで消えた高規格私鉄、山あいを行く二俣線、そして平成・令和の新駅。このページは、磐田物語が公開してきた20本超の鉄道記事への入口として、磐田市の鉄道130年余を一望するために作った。

一、磐田の鉄道は「四つの系統」で読める

磐田市域の鉄道史は、路線ごとにばらばらに眺めるより、四つの系統に整理すると見通しがよくなる。第一に、明治22年(1889年)開業の中泉駅に始まる東海道本線。まちの玄関口として駅名を磐田駅へ変え、平成の豊田町駅・令和の御厨駅という新駅を加えながら、現在まで市の背骨であり続けている。第二に、その磐田駅(当時の中泉駅)を起点とした消えた二つの私鉄 ── 明治42年(1909年)開業の人車軌道「中泉軌道」と、昭和3年(1928年)に部分開業した電化私鉄「光明電気鉄道」である。第三に、市北部の豊岡地区を通る国鉄二俣線、のちの天竜浜名湖線。第四に、旅客の陰で駅を支えた貨物・専用線の系統で、磐田駅の専売公社側線は平成8年(1996年)まで残った。四つの系統のうち現役で残るのは東海道本線と天竜浜名湖線の二つ。私鉄二線と専用線は姿を消したが、その痕跡と記録は駅跡・トンネル・マンホール・石碑といった形で市内の各所に残っており、それぞれの記事が現地の手がかりを添えて記録している。

最初の系統、東海道本線で真っ先に立ち上がる問いは、「駅はなぜ、東海道の宿場町だった見付ではなく、南の中泉に置かれたのか」である。地元では長く「見付の人々が鉄道を嫌った」という鉄道忌避の伝承が語られてきたが、なぜ見付ではなく中泉に駅ができたのかは、この伝承を地形と路線計画の側から検証している。磐田原台地の急坂を避けて平坦地に線路を通すという制約から読み直す見方であり、忌避伝説を事実と断定せずに扱っている点が要点である。開業時の駅名は中泉駅。昭和15年(1940年)に見付町・中泉町・西貝村・天竜村が合併して磐田町が成立し、その2年後の昭和17年(1942年)10月10日に磐田駅へ改称された。「街道の町・見付」と「鉄道の町・中泉」という二つの中心が一つの磐田へまとまっていく経緯は、見付と中泉、二つの中心から磐田へと連載まちの成り立ちが扱う。駅の開業が駅前の商業をどう変えたかは磐田駅前・中泉の近代商業、初代から橋上駅舎(四代目)に至る駅舎の変遷と大正4年(1915年)由来の跨線橋鋳鉄柱は磐田駅に残る旧中泉駅の記憶に詳しい。

なお「駅」という言葉自体は、鉄道より千年以上古い。律令制の東海道に置かれた駅家(うまや)については古代東海道と駅家が、平安から江戸に至る宿駅の変遷は遠江の宿駅変遷表が扱っている。本ページで扱うのは明治以降の鉄道の歴史だが、宿場の「えき」と鉄道の「えき」、二つの系譜を併せて読むと、この土地の交通史の層の厚さが見えてくる。

二、総合年表 ── 1889年から2020年まで

磐田市の鉄道史の骨格を、一本の年表にまとめた。各行の「読む」から、その出来事を扱う記事へ進める。年代・日付は、いずれもリンク先の記事で出典とともに確認できるものだけを載せた。資料間で揺れのある事項(中泉軌道・光明電気鉄道の細部など)は、各記事が「とされる」「と伝わる」と確度を書き分けており、本表もそれに従う。

出来事読む
明治22年(1889年)4月16日、東海道線静岡・浜松間の開通に伴い中泉駅(現・磐田駅)開業なぜ中泉に駅ができたのか
明治40年(1907年)10月、株式会社中泉軌道設立中泉軌道の会社史
明治42年(1909年)10月2日、中泉軌道の本線(中泉〜池田橋間)開業。人が押す軌間762mmの人車軌道だった中泉軌道とは何だったのか
大正4年(1915年)中泉駅、二代目駅舎へ改築磐田駅に残る旧中泉駅の記憶
大正10年(1921年)4月7日、光明電気鉄道の敷設願が提出される光明電気鉄道の会社史
大正12年(1923年)7月2日、光明電気鉄道が鉄道免許を取得し会社設立光明電気鉄道の会社史
大正14年(1925年)6月、中泉軌道の支線(森下〜源平新田)が本線より先に廃止中泉軌道とは何だったのか
昭和3年(1928年)11月20日、光明電気鉄道が新中泉〜田川間で部分開業光明電鉄19駅一覧
昭和5年(1930年)中泉軌道が運行休止。同年12月20日、光明電気鉄道は新中泉〜二俣町間19.8kmが全通なぜ鉄路は消えたのか
昭和7年(1932年)2月7日、中泉軌道が全線廃止。同月、光明電気鉄道は強制管理下に廃線後の中泉軌道
昭和8年(1933年)光明電気鉄道に破産宣告光明電気鉄道の会社史
昭和11年(1936年)1月、電気料金滞納により送電停止、光明電気鉄道が全線運休。7月20日に正式廃止光明電鉄19駅一覧
昭和14年(1939年)光明電気鉄道の会社解散光明電気鉄道の会社史
昭和15年(1940年)光明電鉄の田川〜二俣口間が国鉄二俣線の一部として活用されたとされる光明電鉄19駅一覧
昭和17年(1942年)10月10日、中泉駅が磐田駅へ改称。昭和15年の磐田町成立を受けたもの見付と中泉、二つの中心から磐田へ
昭和32年(1957年)磐田駅、三代目の鉄筋コンクリート造駅舎へ改築磐田駅に残る旧中泉駅の記憶
昭和33年(1958年)磐田駅に専売公社・遠州西石油・磐田製材・富士製粉の4本の専用線があったとされる磐田駅貨物・専用線
平成3年(1991年)2月14日、東海道本線に豊田町駅開業旧豊田町の地名
平成8年(1996年)2月26日、日本たばこ産業磐田倉庫への専用線が廃止。磐田駅の専用線の歴史が閉じる磐田駅貨物・専用線
平成12年(2000年)磐田駅、橋上駅舎となる四代目駅舎へ改築磐田駅に残る旧中泉駅の記憶
令和2年(2020年)3月、東海道本線の袋井〜磐田間に御厨駅開業御厨駅と現代の御厨

三、消えた二つの私鉄 ── 中泉軌道と光明電気鉄道

磐田駅の北口からは、かつて二つの私鉄が伸びていた。この二路線は特集磐田駅から消えた二つの鉄路(全12ページ)が本格的に扱っており、ここではその要約と入口を示す。

中泉軌道は、明治42年(1909年)に中泉停車場から天竜川左岸の池田橋方面へ開通した5.8kmの人車軌道である。軌間762mmの小さな車両を車丁が2人がかりで押し、木材や鉱石関係の荷、米・茶・さつまいもなどの地域産品を、天竜川の水運と東海道本線の間で中継した(中泉軌道とは何だったのか)。旅客もあり、大正2年(1913年)ごろの年間12,000人余りをピークに、自動車輸送の普及とともに減少していく。昭和5年(1930年)に運行を休止し、昭和7年(1932年)2月7日に全線廃止となった。廃線後の軌道跡は学生の遠足コースになり、平成4年(1992年)には終点の池田地区に記念石碑が建てられたと伝えられる(廃線後の中泉軌道)。会社としての歩み ── 明治40年(1907年)の設立、大正4年(1915年)の「中泉軌道運送」への名称変更、昭和4年(1929年)の中泉合同運送への統合 ── は中泉軌道の会社史が資本と事業判断の面から読み解いている。

光明電気鉄道は、中泉と北遠の二俣・光明山方面を結ぼうとした電化私鉄である。昭和3年(1928年)11月20日に新中泉〜田川間で開業し、昭和5年(1930年)12月20日に二俣町まで19.8kmが全通した。しかし久根鉱山の輸送など事業の前提が崩れ、昭和8年(1933年)の破産宣告、昭和10年(1935年)の競売を経て、昭和11年(1936年)1月、電気料金の滞納による送電停止で全線運休。同年7月20日に正式廃止となった。部分開業からわずか6年余りで消えたことから「幻の鉄道」とも呼ばれる。19駅の一覧と現存する痕跡(平松駅跡・二俣口ホーム跡・トンネル群・磐田駅北口のマンホールなど)は、光明電鉄19駅一覧いま残る光明電鉄の痕跡が現地確認を踏まえて整理している。二つの鉄路がなぜ消えたのかという共通の問いは、バスの普及・三信鉄道の整備・過剰投資という背景からなぜ鉄路は消えたのかが扱う。

学説の整理 ── 光明電気鉄道の「設立年」をめぐって

光明電気鉄道の会社設立時期については、資料により記述が分かれてきた。大正12年(1923年)説は、磐田市歴史文書館の企画展資料(大正10年4月7日付の鉄道敷設願の写しを含む)に基づき、大正12年7月2日の鉄道免許取得と同時期の会社設立を確認するもので、光明電気鉄道の会社史がこの経緯を整理している。一方、大正14年(1925年)説は従来の鉄道史記述に広く見られ、磐田物語でも光明電鉄19駅一覧が「1925年6月に設立され、1926年に中泉側から建設が始まったとされる」と従来説の形で記している。本稿は、一次資料に近い企画展資料に基づく大正12年説を採るが、大正14年説が広く流通してきた事実も併記しておく。なお導入車両の数についても資料間で食い違いがあり、光明電気鉄道の夢が両論を併記している。確定を急がず、資料の性格を添えて読むのが、この二つの鉄道の記録との付き合い方である。

四、広がる市域の鉄道 ── 二俣線・新駅・貨物

東海道本線が市の南を東西に走るのに対し、市北部の豊岡地区には天竜浜名湖線の豊岡駅・敷地駅・上野部駅がある。この路線は国鉄二俣線として整備され、のちに第三セクターの天竜浜名湖鉄道へ引き継がれた。光明電鉄の田川〜二俣口間の路盤が昭和15年(1940年)に二俣線の一部として活用されたとされ(光明電鉄19駅一覧)、消えた私鉄と現役の鉄道は、地面の上でつながっている。敷地駅・上野部駅という駅名には旧村・大字の名が引き継がれており、駅名そのものが土地の記憶の器になっている。観光路線として語られることの多い天浜線だが、豊岡にとっては通学や通院など生活圏を結ぶ鉄道でもある。山あいの3駅と地域の暮らし、駅名と旧村名の関係は天竜浜名湖線と豊岡が扱う。二俣線の開業年など路線自体の沿革は、鉄道史資料との突合を進めながら各記事で補っていく。

現在の磐田市域で見ると、東海道本線の駅は長らく磐田駅ひとつだった。平成3年(1991年)2月14日、当時の豊田町に豊田町駅が開業する(旧豊田町の地名)。さらに令和2年(2020年)3月、袋井〜磐田間に御厨駅が開業した。昭和62年(1987年)の署名運動から30年余りに及んだ誘致の経緯と、中世の荘園「鎌田御厨」に由来する駅名が採用されるまでの物語は御厨駅と現代の御厨御厨の成り立ちが、新駅が変えた駅周辺の道路網・区画整理は御厨駅周辺の道路網が扱っている。開業にあわせて駅の南北では道路網の整備と区画整理が進み、新しい市街地が形づくられつつある。千年前の地名が令和の駅名として復活した、鉄道史と地名史が交差する場所である。

もうひとつ、旅客の陰で駅を支えた系統が貨物である。昭和33年(1958年)時点で、磐田駅には専売公社・遠州西石油・磐田製材・富士製粉の4本の専用線があったとされる。専売公社(日本専売公社)は、たばこ・塩などの専売事業を担う公共企業体として昭和24年(1949年)に発足し、昭和60年(1985年)の民営化で日本たばこ産業(JT)となった組織である。磐田駅の側線も「専売公社側線」から「日本たばこ産業磐田倉庫専用線」へ名を変えながら使われ続け、平成8年(1996年)2月26日に廃止された。国鉄の分割民営化(1987年)を挟んで全国の専用線が姿を消していくなかでは、長く残った部類に入る。詳細は磐田駅貨物・工場引込線・専売公社側線が、専用線の位置や運用を調査記録と突き合わせて整理している。

五、よくある疑問と、記事一覧

Q. 磐田駅は昔、何という駅だった?
A. 「中泉駅」である。明治22年(1889年)4月16日の開業から昭和17年(1942年)10月10日の改称まで、53年間この名だった。→ 磐田駅に残る旧中泉駅の記憶
Q. 磐田市内を走っていた廃線は?
A. 磐田駅を起点とした中泉軌道(1909〜1932年)と光明電気鉄道(1928〜1936年)の2路線。→ 磐田駅から消えた二つの鉄路
Q. 光明電気鉄道の路線図や駅の場所を知りたい
A. 新中泉から二俣町まで19駅・19.8km。全駅の一覧と現在の痕跡は 光明電鉄19駅一覧 にまとめてある。
Q. 磐田市に天竜浜名湖鉄道の駅はある?
A. 豊岡地区に豊岡駅・敷地駅・上野部駅の3駅がある。→ 天竜浜名湖線と豊岡
Q. 御厨駅はいつできた?
A. 令和2年(2020年)3月、東海道本線の袋井〜磐田間に開業した。→ 御厨駅と現代の御厨

東海道本線・磐田駅

なぜ見付ではなく中泉に駅ができたのか鉄道忌避伝説と地形の制約から開業経緯を検証する。 磐田駅に残る旧中泉駅の記憶駅舎四代・ホーム・跨線橋鋳鉄柱から駅の構造史を読む。 磐田駅前・中泉の近代商業駅の開業が変えた駅前のにぎわい。 磐田駅貨物・工場引込線・専売公社側線1996年まで残った専用線の記憶。 見付と中泉、二つの中心から磐田へ街道の町と鉄道の町が統合されるまで。

中泉軌道(1909〜1932)

中泉軌道とは何だったのか天竜川水運と磐田駅を結んだ人車軌道の全体像。 中泉軌道の会社史地域資本が敷いた5.8km。設立から統合まで。 車丁が押した鉄路手押し運行と旅客利用の実態。 旧東海道を走った軌道ルートと松並木の記憶を現在の地名でたどる。 中泉駅北の歴史地層御林・赤煉瓦・中泉御殿のそばを通った軌道。 廃線後の中泉軌道遠足コース・祭り・記念石碑に残った記憶。

光明電気鉄道(1928〜1936)

光明電気鉄道の夢見付と二俣を結ぼうとした高規格電化私鉄。 光明電気鉄道の会社史田中寿三郎の構想と、7年で終わった経営。 光明電鉄19駅一覧新中泉から二俣町まで、駅別の痕跡と現地確認。 いま残る光明電鉄の痕跡平松駅跡・二俣口・トンネル・マンホール。 久根鉱山、木材、天竜川鉄道が運ぼうとしたもの。 なぜ鉄路は消えたのかバス・三信鉄道・過剰投資 ── 二つの廃線の背景。

天竜浜名湖線・新駅・前史

天竜浜名湖線と豊岡豊岡駅・敷地駅・上野部駅と山あいの暮らし。 御厨駅と現代の御厨令和に蘇った古代「神領」の地名。 御厨駅周辺の道路網・区画整理新駅が変えた線路の南北。 古代東海道と駅家「駅」の語源、律令制のもう一つの東海道。

主な参考資料

中泉軌道・光明電気鉄道の年代には資料間の揺れがあり、各記事で「とされる」「と伝わる」と確度を書き分けている。本ページの年表もそれに従い、一次史料で裏づけの取れていない事項を断定していない。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。