失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

磐田駅から消えた二つの鉄路 | 子7・結び

なぜ鉄路は消えたのか――バス、三信鉄道、過剰投資の時代

中泉軌道と光明電気鉄道は、どちらも磐田駅を起点に地域を結ぼうとした。しかし、どちらも長くは続かなかった。理由は単純な失敗ではない。交通の主役が変わり、物流の流れが変わり、地域の投資環境が変わったのである。

自動車輸送に押された中泉軌道

中泉軌道を追い込んだのは、自動車輸送の普及だった。軌道は、決まった線路の上しか走れない。対してトラックやバスは、道路さえあれば直接目的地へ向かえる。荷主や乗客にとって、その差は大きかった。

遠州地域でも、大正末期から昭和初期にかけてバス事業の伸びは著しかった。1923年(大正12年)ごろから1929年(昭和4年)ごろにかけて、遠州地域では小規模なバス事業者が相次いで設立され、1929年には笠井自動車・万歳自動車・遠州自動車・坂下自動車の4社が合併して浜松自動車が成立したとされる。車体を銀色に揃えたことから「銀バス」とも呼ばれたこの会社の存在は、道路さえあれば軌道に頼らずとも人と荷を運べる時代が、すでに現実のものになっていたことを示している。中泉軌道のような小規模な人車・馬力軌道が、こうした自動車輸送の広がりの前に採算を維持できなくなっていったのは、自然な流れだったといえる。

重い設備投資を抱えた光明電気鉄道。 光明電気鉄道の場合は、より複雑である。高い規格の電気鉄道として整備されたことは、技術面では先進的だった。だが、その分だけ建設費、設備費、維持費が重くなる。十分な旅客と貨物がなければ、立派な設備は経営を圧迫する。

さらに、久根鉱山をめぐる物流の前提が変わった。三信鉄道の整備により、鉱山側の輸送ルートは別の方向へ移った。天竜川の水運を前提に、中泉・見付方面へ荷を集める計画は、成立しにくくなっていった。

久根鉱山は、古河鉱業が経営していた鉱山で、銅や硫化鉄鉱などを産出していたとされる。当初、鉱石や資材は天竜川の水運を使って運ばれていたが、のちにトラックや鉄道による輸送へと切り替えられていったと伝わる。三信鉄道は、三河・信濃の頭文字から名付けられた鉄道会社で、1927年(昭和2年)12月20日に設立され、1932年(昭和7年)10月に最初の区間が開業、1937年(昭和12年)8月20日に三河川合・天竜峡間の全線が開通したとされる。この三信鉄道の建設・開通が進むにつれて、久根鉱山周辺の輸送ルートは天竜川の東側、三信鉄道の沿線を経由するルートへと重心を移していったと考えられる。光明電気鉄道が見込んでいた、天竜川西岸を経由して中泉・見付方面へ鉱産物を集めるという構想は、こうした輸送網の変化のなかで、当初の期待ほどには実を結ばなかったとみられる。

出来事
1930年(昭和5年)光明電気鉄道、新中泉~二俣町間19.79kmが全通する。
1932年(昭和7年)中泉軌道が全線廃止となる。
1933年(昭和8年)光明電気鉄道、浜松区裁判所から会社破産の宣告を受ける。
1936年(昭和11年)1月東京電灯会社から電気を止められ、光明電気鉄道が運行を停止する。
1939年(昭和14年)光明電気鉄道の会社解散に至る。

光明電鉄は、1930年(昭和5年)に二俣町まで到達したが、1933年(昭和8年)には浜松区裁判所から会社破産の宣告を受け、1936年(昭和11年)1月には電気料金の滞納により東京電灯会社から送電を止められて運行を停止、1939年(昭和14年)に会社は解散した。全通から見れば、わずかな年月で終わった鉄道である。以前は運行休止の時期を1935年(昭和10年)前後とする記述もあったが、磐田市歴史文書館の企画展資料により、破産宣告(昭和8年)・送電停止による運行停止(昭和11年1月)・会社解散(昭和14年)という経緯を確認できた。会社としての詳しい歩みは「光明電気鉄道の会社史」で扱う。

短命さだけで語らないために

それでも、この短命さだけをもって失敗と片づけるのは惜しい。現在の天竜浜名湖鉄道に受け継がれた区間があり、駅前に残ったマンホール蓋が保存され、廃線跡をたどる人たちが記憶を掘り起こしている。消えた鉄路は、地域の判断、期待、誤算、そして時代の転換を映している。

光明電気鉄道は、経営破綻の末に電気料金の滞納で送電を止められ、資産が競売にかけられるという厳しい結末を迎えたとされる。出資者の一人が路線を個人で引き継いだ時期もあったが、営業を再開する意思はなく、そのまま廃止の手続きが進んだと伝わる。高規格な電化路線として建設された鉄道が、開業から十年に満たない年月でこれほど厳しい形で終わったことは、地域が鉄道に託した期待の大きさと、それを支えるだけの需要が実際には育たなかったことの両方を物語っている。

一方で、田川から二俣口にかけての区間が、のちの国鉄二俣線、現在の天竜浜名湖鉄道に引き継がれ、神田トンネル・伊折トンネルが登録有形文化財として現役で使われ続けていることは、光明電鉄の土木技術が無駄にはならなかったことを示している。中泉軌道もまた、旧東海道沿いの地名や祭りの記憶のなかに、痕跡をとどめている。二つの鉄路は、事業としては短命に終わったが、地域の交通網や記憶の層に、形を変えて刻まれ続けている。

磐田駅の北へ向かう鉄路はもうない。しかし、その痕跡をたどることは、磐田がどのように外の世界とつながろうとしてきたのかを知る手がかりになる。

  • 磐田市歴史文書館 第17回企画展「光明電鉄の消長〜大正期前後の地域開発構想〜」パンフレット(平成28年/2016年)
  • 磐田市立図書館所蔵資料(光明電気鉄道・中泉軌道関係)
  • レファレンス協同データベース「光明電鉄・中泉軌道」関連事例
  • Wikipedia「光明電気鉄道」「三信鉄道」「久根鉱山」
  • 浜松のLRT情報サイト「JR線・遠鉄線・天浜線と、廃線となった軽便鉄道の歴史」

三信鉄道の整備と久根鉱山輸送ルートの変化については、既存の郷土資料をもとに要因のひとつとして整理したものであり、唯一の原因と断定するものではない。光明電気鉄道の破産宣告・運行停止・会社解散の年次は、磐田市歴史文書館の企画展資料により確認できたため本文に反映した。

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