磐田駅から消えた二つの鉄路 | 子6・産業史
久根鉱山、木材、天竜川――鉄道が運ぼうとしたもの
中泉軌道と光明電気鉄道を考えるとき、鉄道そのものだけを見ていては足りない。背後には、天竜川の水運、北遠の山、鉱山、木材、そして東海道本線へ荷を載せ替える磐田駅の役割があった。
天竜川という物流の道
天竜川は、上流と下流を結ぶ道だった。山から木材が下り、鉱山に関係する荷が動き、生活物資も川を通った。久根鉱山の鉱石輸送は、その象徴的な存在である。上流で産出された鉱石を下流へ運び、さらに鉄道へつなげるには、川と駅のあいだを埋める輸送手段が必要だった。
天竜川の木材輸送の起源は、さらに古くまでさかのぼるとされる。江戸時代初期の慶長12年(1607年)、江戸幕府の命を受けた材木商・角倉了以(すみのくらりょうい)が天竜川を浚渫し、東大寺大仏殿再建の用材を、信濃国平出(現・長野県辰野町)から掛塚(現・磐田市掛塚)まで筏で運んだと伝わる。その翌年には、角倉了以が嵩山(すせ)・大平(おおひら)方面の松材を掛塚湊から大坂へ回漕したという記録も残る。天竜川両岸13か村には「榑木(くれき)川狩り」と呼ばれる労役が課され、良材の選定から川岸への集積、筏組み、掛塚湊までの操船までを分担したと伝えられる。
掛塚は、こうして天竜川上流の木材の集散地となり、幕府の御用材や年貢米の輸送も担う湊として発展した。徳川家康の江戸移封後は、江戸の都市建設や江戸城普請に天竜川上流材が用いられ、大火のたびに需要が急増しては掛塚の廻船問屋を潤したとされる。江戸中期になると上流材が枯渇し、廻船問屋は伊勢・美濃からの年貢米輸送などにも手を広げ、廻船問屋が軒を連ねる賑わいから「遠州の小江戸」と呼ばれるまでになったと伝わる。明治18年(1885年)には新たな港が整備され、明治19年から28年ごろにかけて最盛期を迎えたというが、明治22年(1889年)に東海道線国府津-浜松間が開通し天竜川駅(現・天竜川橋りょう付近)が機能し始めると、掛塚は湊としての役割を徐々に失っていったとされる。
久根鉱山という荷の起点。 久根鉱山は、現在の浜松市天竜区(旧磐田郡佐久間町)にあった鉱山で、享保16年(1731年)に開坑したと伝わる。産出したのは銅や含銅硫化鉄鉱石で、特に硫酸原料として使われた硫化鉄鉱石は良質とされ、明治後期から大正期にかけて全国有数の産出量を誇ったという。経営は明治期に名古屋の商人が再興を試みたが行き詰まり、明治32年(1899年)に古河市兵衛の意向で古河鉱業が買収してから隆盛したと伝えられる。
久根鉱山からの鉱石や物資の輸送は、当初は天竜川の水運に頼っていた。上流の山あいから川舟で鉱石を下流へ運び、そこから先の輸送手段へつなぐ必要があったという構図は、天竜川流域の産業に共通する課題だった。昭和12年(1937年)に久根鉱山から中部天竜間の索道が完成するまで、この川舟輸送が続いたとされる。久根鉱山そのものは、その後も古河鉱業のもとで稼働を続け、昭和45年(1970年)に閉山し、鉱山とともに集落も失われたと伝わる。
中泉軌道という実用的な回答
中泉軌道は、その実用的な回答だった。池田橋方面から中泉駅へ荷を運び、東海道本線へつなぐ。木材や鉱石だけでなく、米や茶などの地域産品も軌道に載ったとされる。詳しい運行の様子は「中泉軌道とは何だったのか」で扱っている。
光明電気鉄道という、より大きな回答。 光明電気鉄道は、より大きな回答を目指した。大正11年(1922年)に設立され、新中泉駅(現在の磐田駅付近)を起点に、見付を経由して二俣方面へ、さらに将来は船明(ふなぎら)方面へ向かう計画だった。昭和3年(1928年)11月、まず新中泉-田川間が開業し、その後路線を延ばして昭和5年(1930年)に二俣町駅まで達し、新中泉-二俣町間19.8kmが全通したとされる。社名の「光明」は、終点として構想された光明村船明に由来するという。
船明は天竜川水運の要衝であり、久根鉱山の鉱石や北遠地方の木材が川舟で運ばれてくる集散地だった。光明電鉄の構想は、船明で川舟から鉄道へ荷を積み替え、天竜川上流の物流をより直接的に鉄道網へ取り込もうとするものだったと伝わる。しかし、この構想の前提は早い段階で崩れたとされる。鉱石の出荷元である古河鉱業側が、鉄道の終点が鉱山からなお遠く、出資にも見合わないと判断して資本参加や貨物収入の協力を拒んだという経緯が伝えられており、これによって鉱石輸送を軸にした収益計画は当初から大きく狂ったとされる。開業からわずか6年余りで経営破綻に至った背景には、この見込み違いがあったと考えられている。この変化については「なぜ鉄路は消えたのか」で詳しく扱う。
線路の外側にあったもの。 鉄道は、線路だけで成り立つものではない。運ぶ荷があり、駅で待つ人がいて、沿線の産業があり、競争する交通手段がある。中泉軌道と光明電鉄の歴史は、磐田駅を中心に、天竜川流域の産業がどのように動いていたかを教えてくれる。掛塚湊の廻船問屋が支えた木材輸送、久根鉱山の鉱石輸送、そして両者を鉄道につなげようとした二つの鉄路の挑戦は、いずれも天竜川という一本の川を軸にした、地域経済の一つの物語として読むことができる。
確認できたこと・確認できなかったこと。 角倉了以による天竜川浚渫と用材輸送の年代、掛塚湊の盛衰の時期、久根鉱山の開坑・買収・索道完成・閉山の年代、光明電気鉄道の開業・全通・廃止の経緯については、複数の公開資料・郷土資料で確認できた。一方、久根鉱山の鉱石輸送量や、光明電鉄が実際に運んだ貨物の内訳・数量については、資料によって記述に幅があり、本文中では断定的な数値を用いていない。古河鉱業が光明電鉄への協力を拒んだ経緯についても、資料によって表現に濃淡があるため、伝聞的な表現にとどめている。
参考資料
- アップロード資料「磐田駅発の廃線調査」
- 磐田市立図書館所蔵資料(光明電気鉄道・中泉軌道関係)
- 天竜川流域の水運・林業関連資料
- 久根鉱山に関する各種鉱山史・産業遺構資料(Wikipedia「久根鉱山」ほか)
- 光明電気鉄道に関する各種鉄道史資料(Wikipedia「光明電気鉄道」ほか)
- 掛塚湊・天竜材の運搬に関する郷土資料(note「天竜楽市」天竜材の運搬記事ほか)
久根鉱山の輸送量など具体的な数値は資料により幅があるため、本文では傾向として記述し、断定的な数値は用いていない。
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。