失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 磐田駅前・中泉の近代商業
暮らしの記憶 | 商業・駅前

磐田駅前・中泉の近代商業 ──
中泉駅開業から
「天平のまち」まで

遠江国府が置かれ、中泉御殿・代官所が天領を治めた中泉。その中泉の姿を大きく変えたのが、明治22年の鉄道開業だった。駅ができ、町が合併し、名前が変わり、駅舎が建て替えられ、令和には「天平のまち」という複合施設が生まれる。中泉が「駅前のまち」へと重心を移していった百三十年余りを、出典とともにたどる。

磐田駅の改札を出ると、北口には七色にライトアップされる複合施設「天平のまち」が建つ。駅前という現代的な風景の名前に、なぜ古代の元号「天平」が使われているのか。その答えをたどっていくと、中泉という町がどのように近代の商業地へ変わっていったかが見えてくる。中泉は、代官所と門前がつくった近世の町場から、鉄道の駅が呼び込んだ近代の駅前商業地へと、商いの重心をゆっくりと移してきた土地である。

近世の中泉 ── 代官所と門前が支えた町場

鉄道が来る以前の中泉には、すでに人と物が集まる下地があった。近世の中泉には中泉御殿・中泉代官所が置かれ、遠江・三河の幕府領(天領)を治める行政拠点として機能していた(詳細は中泉御殿のあった町、中泉の三層構造については中泉の生い立ちで扱っている)。地域資料では、中泉が室町期以前に「中市場村」と呼ばれていたとする記述も伝わっており、断定はできないものの、代官所・陣屋の周辺に役人・商人・職人が集まる町場としての性格が古くからあったことをうかがわせる。

明治2年(1869年)には、後に「郵便の父」と呼ばれる前島密(前島来輔)が初代の中泉奉行に任じられ、わずか8か月ほどの在任期間ながら、天竜川の水害に苦しむ住民を助けるため、泉蔵寺など中泉奉行所管内の寺院と協力して「中泉救院」を開いたと伝わる。代官所・奉行所という統治の拠点が、同時に窮民救済や地域運営の拠点でもあったことは、中泉が単なる行政の看板ではなく、人が寄り集まり物事を動かす「場」であり続けてきたことを示している。こうした近世以来の町場としての厚みのうえに、明治の鉄道が新しい商業の中心を重ねていくことになる。

中泉駅の開業と中泉町の成立

明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により、豊田郡中泉村と山名郡二ノ宮村が合併して「豊田郡中泉町」が発足した。その半月後、4月16日には東海道線の静岡・浜松間が開通し、「中泉駅」が開業する。駅の用地は、中泉を代表する素封家で政治家・社会事業家でもあった青山宙平(1818〜1910年)が提供したと伝わり、いまも駅前にはその功績を伝える記念碑がある。素封家が私有地を鉄道用地として差し出すという判断の背景には、駅を得ることが町の将来の商いにとってどれほどの意味を持つかという、当時の中泉の人々の見通しがあったと考えられる。

中泉は、遠江国府・国分寺、中泉御殿・代官所と、時代ごとに「治める場所」であり続けてきた町である。そこに鉄道の駅が加わったことで、中泉は行政・信仰の中心地であると同時に、交通の結節点としての性格を併せ持つようになった。明治42年(1909年)には、天竜川水運と駅を結ぶ中泉軌道も開通している(詳しくは中泉軌道とは何だったのか)。さらに昭和3年(1928年)11月20日には、光明電気鉄道の新中泉駅も開業し、一時期の中泉駅前は複数の鉄路が集まる交通結節点としての性格を強めていた(光明電気鉄道の詳細は磐田駅から消えた二つの鉄路で扱っている)。駅という新しい重心ができたことで、中泉の商いは代官所周辺の町場から、駅前という新たな磁場へと少しずつ引き寄せられていく。

見付との合併と磐田駅への改称

明治29年(1896年)、郡制の施行により中泉町の所属郡は磐田郡へと変わった。昭和4年(1929年)3月1日には梅原村を編入し、町の範囲を広げている。そして昭和15年(1940年)11月1日、中泉町は見付町・西貝村・天竜村と合併し、「磐田町」が誕生した。中泉町としての歴史は、ここで幕を閉じる。

合併から2年後の昭和17年(1942年)10月10日、駅名も「中泉駅」から「磐田駅」へと改められた。旧町名を捨て、新しい市域全体の名を冠する駅名への変更は、中泉という土地が、単独の町から「磐田」という広域の玄関口へと役割を変えたことを象徴している。もっとも、駅名が変わっても、駅前に商業が集積するという構造そのものは変わらなかった。旧見付町側の商業(東海道の宿場町としての性格)と、旧中泉町側の駅前商業という、性格の異なる二つの商業地を抱え込んだまま、磐田町・磐田市は歩みを進めていくことになる。

駅舎の変遷と商店街の発展

磐田駅の駅舎は、これまでに四度姿を変えている。開業時の初代駅舎は現在よりやや西寄りにあったとされ、大正4年(1915年)6月には鉄筋の2代目駅舎に改築された。戦後の昭和32年(1957年)10月25日には鉄筋2階建の3代目駅舎となり、平成12年(2000年)1月30日には南北を結ぶ橋上駅舎(4代目)へと生まれ変わっている。

駅舎の建て替えと並行して、駅前の商業地としての整備も進んだ。検索経由の情報の中には、昭和33年(1958年)ごろに駅前で道路拡幅が行われ、「駅前名店ビル」と呼ばれる店舗集合ビルの完成祝賀会が開かれた、とする記述もみられる。ただし、この名称・時期は一次資料や地域の公刊物での裏取りができておらず、本記事では史実として断定せず、地域で語られる伝承・未確認情報として扱う。確実に言えるのは、戦後復興期から高度経済成長期にかけて、中泉の商業機能が、御殿・代官所があった時代の「まちの中心」から、駅前という新しい中心地へと重心を移していったことである。

中泉遊廓と「海燕楼」の記憶

駅前商業の発展の陰には、あまり明るい場所ばかりではない歴史も残る。中泉には、近世に今川・徳川に仕えた秋鹿家の屋敷地があった一角に、後年「中泉遊廓」と呼ばれる遊興街が形成された時期があったと伝わる。太平洋戦争後には、磐田に駐留した占領軍向けの慰安施設として使われ、その後は売春防止法が施行されるまで、いわゆる遊興街としての性格を持っていたとされる。この遊廓に由来する料亭「海燕楼(かいえんろう)」は、幕末期の建物を使いながら営業を続けていたが、建物の老朽化を理由に平成10年(1998年)に閉店したという。現在、秋鹿家の旧邸地は地域住民の手で整備され、「中泉歴史公園」として公開されている。駅前商業の近代史を語るとき、こうした遊興街の存在も、都市が拡大するときに周辺に生まれがちな一面として、目を背けずに記録しておきたい。

1889年町村制で中泉町発足。同年、中泉駅開業(東海道線)。
1896年郡制施行、所属郡が磐田郡に変更。
1909年中泉軌道開通(天竜川水運と駅を接続)。
1915年中泉駅、2代目駅舎(鉄筋)に改築。
1928年光明電気鉄道・新中泉駅開業。
1929年中泉町が梅原村を編入。
1940年見付町・西貝村・天竜村と合併し磐田町発足。中泉町廃止。
1942年中泉駅が磐田駅に改称。
1957年磐田駅、3代目駅舎(鉄筋2階建)に改築。
1958年ごろ駅前商店街の道路拡幅、店舗集合ビル建設と伝わる(要裏取り)。
1998年旧中泉遊廓由来の料亭「海燕楼」が建物老朽化により閉店。
1990年代前半Jリーグ発足とともに駅前商店街が「ジュビロード」と命名され、雑貨・玩具・レコード店などで賑わう。
2000年磐田駅、4代目の橋上駅舎に改築。
2005〜2006年ジュビロード沿いの共同建物、市街地再開発により解体。
2006年南口バスターミナル運用開始。
2007年7月再開発により16階建・総戸数75戸の分譲マンション「ブライトタウン磐田駅前」竣工。
2016年北口広場整備完了。複合施設「天平のまち」開業。
2024年ジュビロード沿いに磐田商工会議所会館が完成。1階は市民に開放され、新たな交流・産業拠点となる。

ジュビロードの時代 ── 商店街からサッカーの町へ

磐田駅北口から北へおよそ400メートル延びる駅前通りは、現在「ジュビロード」と呼ばれている。名称は、地元のJリーグクラブ・ジュビロ磐田に由来する。歩道には歴代の監督・選手のサインや足形・手形を焼き込んだ陶板が埋め込まれ、サッカーの町としての磐田を象徴する通りになっている。ジュビロ磐田が発足した1990年代前半には、この通りは日用雑貨店、玩具店、レコード店などが軒を連ね、大きな賑わいを見せていたと伝えられる。かつて「駅前名店ビル」の伝承が語るような、戦後の商業集積の延長線上に、ジュビロードの賑わいはあったと考えられる。

しかし、モータリゼーションと郊外型店舗の拡大とともに、多くの地方都市の駅前商店街と同様、ジュビロードの商業機能も徐々に縮小していった。平成17〜18年(2005〜2006年)ごろには、老朽化した商店街の共同建物が市街地再開発事業によって解体され、跡地には平成19年(2007年)7月、遠州鉄道による16階建・総戸数75戸の分譲マンション「ブライトタウン磐田駅前」が竣工した。同時期には駅前通りの反対側(東側)でも再開発が行われ、14階建の住宅棟と公共施設等が入る4階建のビルが整備されている。商店が並ぶ通りから、住宅と生活サービスが混在する通りへ──ジュビロードの姿は、平成の市街地再開発を経て大きく変わった。

それでも、駅前が完全に商業を手放したわけではない。令和6年(2024年)には、ジュビロード沿いに磐田商工会議所会館が完成し、1階が市民に開放される交流スペースとなった。現役の経営者と若手の担い手をつなぐ場として位置づけられており、駅前が「モノを売る場所」から「人と産業をつなぐ場所」へと役割を広げつつあることを示している。

令和へ ── 「天平のまち」と国府のまちの記憶

平成28年(2016年)3月、磐田駅北口には複合施設「天平のまち」が姿を現した。夜になると七色に変化するライトアップが施されたシルエットタワーが特徴で、来街者の多様なニーズに応えるべく整備されたという。その名は「天平文化」に由来し、遠江国分寺の七重塔跡など、この地に残る天平時代の史跡を意識してつけられたものだと説明されている。

駅前という、いかにも現代的な再開発の施設に、古代の元号が冠されているのは象徴的である。中泉は、遠江国府・国分寺が置かれた古代から、中泉御殿・代官所が天領を治めた近世、鉄道の駅ができ町の重心が移った近代、そして駅前再開発が進む現代まで、一貫して「治める場所」「結ぶ場所」であり続けてきた。「天平のまち」という名は、その千三百年を超える連続性を、駅前という最も新しい風景の中にそっと刻んでいる。ジュビロードの陶板がサッカーというまちの記憶をつなぎ、「天平のまち」という名が古代の記憶をつなぐ。中泉・磐田駅前は、いくつもの時代の記憶を、その都度新しい建物の名前に刻みながら、商業地としての姿を更新し続けている。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。