磐田駅から消えた二つの鉄路 | 子4・資料
光明電鉄19駅一覧――新中泉から二俣町までをたどる
光明電気鉄道は、新中泉から二俣町まで、停留所を含めて19の駅を持っていた。現在の磐田駅周辺から見付、岩田、神増、上野部、二俣方面へ向かうこのルートを、駅名と現在の地名で一覧にする。
19駅の位置づけ
駅の多くは、いまでは住宅地、道路、農地、公共施設の周辺に姿を変えている。一方で、平松駅や二俣口駅のように、当時の構造物の一部が残るとされる場所もある。また、田川から上野部方面にかけては、のちの国鉄二俣線、現在の天竜浜名湖鉄道に関わる重要な区間でもある。
以下の表は、駅名とキロ程だけを並べるのではなく、現代の地名、見える痕跡、確認のしやすさを加え、読者が地図上で追える形にしたものである。2026年7月17日に提供された現地確認メモでは、跡が見えない駅、ホーム状の構造が残る駅、路線跡が道路として読める区間、後の天浜線に受け継がれたトンネルが分けて記されている。距離・位置の一部は現時点で確認できる資料に基づく推定であり、断定できない箇所は「とされる」「推定」と書き分けている。
光明電気鉄道は、1925年(大正14年)6月に設立され、1926年(大正15年)に中泉側から建設が始まったとされる。全線一気の開業ではなく、まず1928年(昭和3年)11月20日に新中泉から田川までの区間が開業し、残る区間の建設を経て、1930年(昭和5年)12月20日に新中泉から二俣町までの19.8kmが全通したと伝えられる。地方の中小私鉄としては珍しく、当初から直流1500Vという高規格の電化方式を採用していたとされ、これは見付に設けられた変電所によって支えられていた。見付変電所には回転変流器が備えられ、交流側557V・直流側750V、出力300kWという記録が残っているとされる。
光明電気鉄道 駅一覧
| No. | 駅名 | 新中泉からの距離 | 現在の記事化メモ | 確認方針 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 新中泉 | 0.0km | 現在の磐田駅付近。起点駅の痕跡はほぼ失われているが、駅北口の光明電鉄マンホールが足元の記憶として残る。 | マンホール写真・駅前資料で確認 |
| 2 | 中泉二之宮 | 0.5km | 中泉市街地側の短い区間。一之宮バス停北西付近という現地メモがあるが、明瞭な痕跡は乏しい。 | 旧道・市道転用状況を確認 |
| 3 | 遠州見付 | 1.7km | 見付側の拠点駅。加茂川交差点南東、溝口医院からアコム付近とする現地メモがある。 | 図書館資料と現地写真で補強 |
| 4 | 川原 | 2.6km | ホームのみ残るとするメモがあり、旧赤松家記念館の資料展示とも関係づけられる地点。 | 変電所位置・資料展示を確認 |
| 5 | 加茂東 | 4.6km | 気賀坂トンネルを抜けた先の駅とされる。 | トンネル位置と合わせて確認 |
| 6 | 三ツ入 | 5.6km | 寺谷用水周辺。橋台跡の可能性がある箇所。 | 推定扱いとし断定しない |
| 7 | 遠州岩田 | 6.6km | 伊藤自動車付近。駅跡看板とホーム跡コンクリートがあるとの現地メモがある。 | 地元資料・駅前橋表示で補強 |
| 8 | 匂坂 | 7.7km | 小学校・墓地の南方とされる。 | 現地確認 |
| 9 | 入下 | 8.4km | 用水路東側の空き地周辺とされる。 | 地図照合 |
| 10 | 寺谷 | 9.6km | 県道44号交差付近とされる。 | 痕跡が乏しいため位置確認を優先 |
| 11 | 掛下 | 10.6km | 霞堤との関係が深いとされる区間。 | 霞堤と路線の重なりを図示 |
| 12 | 平松 | 11.7km | 平松地区の民家裏庭付近にホーム跡が残るとされる重要地点。 | 私有地へ入らず外観確認 |
| 13 | 神増 | 13.2km | JA遠州中央広瀬支店西側がホーム、北側広場付近に基礎の可能性があるとのメモ。 | 公道から確認 |
| 14 | 上神増 | 13.9km | 一雲済川手前の駅とされる。 | 橋梁跡と合わせて確認 |
| 15 | 田川 | 15.3km | 栗松建設の事務所付近とする現地メモがある。ここから先は二俣線への継承区間として扱う。 | 天浜線資料と照合 |
| 16 | 上野部 | 16.4km | 現在の天浜線豊岡駅付近。駅東側の自転車置き場基礎をホーム跡とみるメモがあるが、要確認。 | 天浜線との比較 |
| 17 | 神田公園前 | 17.2km | 現在の天浜線上野部駅周辺とされるが、現地メモでは痕跡なし。 | 駅史の確認 |
| 18 | 二俣口(旧阿蔵) | 19.1km | 天竜二俣駅西側に位置し、線路跡と阿蔵トンネルへの連続が読める地点。 | 写真必須・安全配慮 |
| 19 | 二俣町 | 19.8km | 図書館北側、道路北側の秋野不矩美術館駐車場付近とするメモがある終点。 | 位置確認 |
距離・位置は現時点で参照できる資料に基づく概数であり、確定した測量値ではない。「現存」「跡地」の断定は、現地写真または信頼できる資料で確認できる箇所に限っている。
わずか6年で終わった全線営業
高規格の電化設備を備えた光明電気鉄道であったが、経営は当初から苦しかったとされる。関東大震災後の資金調達の難しさや、建設費の負担が重くのしかかり、1932年(昭和7年)2月には強制管理下に置かれるまでに経営が悪化したと伝えられる。その後、1935年(昭和10年)7月には競売にかけられ、落札者の高鳥順作という人物が事業を引き継いだとされるが、経営の立て直しは実らなかった。翌1936年(昭和11年)1月、電気料金の滞納により送電が停止され、全線が運転休止に追い込まれたと伝えられる。同年7月20日には正式に全線廃止となり、1928年の部分開業からわずか6年余りで、光明電気鉄道という高規格の地方私鉄はその歴史を閉じた。
もっとも、光明電気鉄道が敷いたレールの一部は、その後も別の形で使われ続けた。田川から二俣口にかけての区間は、1940年(昭和15年)に国鉄二俣線の一部として活用されたとされ、これが現在の天竜浜名湖鉄道へとつながっている。短命に終わった電気鉄道の記憶は、こうして別の鉄路のなかに、いまも間接的に生き続けていると言える。
この表の使い方について。 駅の多くは私有地や生活道路に近接しているため、この一覧は現地への立ち入りを勧めるものではない。写真の撮影や現地確認は、公道や外から安全に確認できる範囲にとどめている。田川から二俣口にかけての区間は、現行の天竜浜名湖鉄道と近接する箇所があるため、鉄道用地への立ち入りはしない。
参考資料
- アップロード資料「磐田駅発の廃線調査」
- 2026年7月17日提供「光明電鉄現地確認メモ」
- いわた文化財だより掲載資料(光明電鉄関連)
- 磐田市歴史文書館 第17回企画展「光明電鉄の消長〜大正期前後の地域開発構想〜」パンフレット(平成28年/2016年)
- 磐田市立図書館所蔵資料(光明電気鉄道関係)
- 天竜浜名湖鉄道沿線資料
- 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
- Wikipedia「光明電気鉄道」
- 「光明電気鉄道廃線跡を訪ねて」減速進行(廃線探訪サイト)
距離・位置に関する数値は公開後も現地確認・地図照合を継続し、必要に応じて更新する。
更新履歴
- 現地確認メモを反映し、駅別の痕跡・確認方針を補強。
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