失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

磐田駅から消えた二つの鉄路 | 子3

光明電気鉄道の夢――見付と二俣を結ぼうとした高速電車

中泉軌道よりも二十年ほどのちに生まれた光明電気鉄道は、磐田の近代交通史の中でも、ひときわ大きな構想を持った鉄道だった。新中泉を起点に、見付を通り、岩田、上野部を経て二俣町へ。さらに将来は船明方面まで伸ばす構想を抱いていた。

新中泉、中泉二の宮、遠州見付、河原、賀茂東、見入、遠州岩田、匂坂、色下、寺谷、掛下、平松、上添、上々添、田川、谷ノ辺(上野部)、神田谷公園前、二俣口、二俣町――全通時の光明電鉄には、これだけの駅・停留所が並んでいたと伝えられる。新中泉から二俣町までの短い距離に19もの駅を置いたことは、地域の旅客需要をきめ細かく拾おうとした路線の性格を物語っている。

見付と中泉、駅の位置が生んだ課題

光明電鉄の背景には、東海道本線開通時の駅の位置がある。1889年(明治22年)4月16日、静岡-浜松間の官設鉄道開通にあわせ、駅は見付ではなく中泉村に置かれ、中泉駅として開業した。宿場町としての歴史を持ち、地域の中心であった見付にとって、中泉との連絡は大きな課題になった。光明電鉄は、この見付と中泉を結ぶ願いを、さらに二俣方面へと広げたものでもあった。なお中泉駅が磐田駅と呼ばれるようになる背景には、1940年(昭和15年)に見付町・中泉町・西貝村・天竜村が合併して磐田町が成立した経緯があるとされる。

光明電気鉄道の設立時期については、以前は大正11年(1922年)説と大正14年(1925年)説の双方が伝えられていたが、磐田市歴史文書館の企画展資料により経緯が整理できる。大正10年(1921年)4月7日、内閣総理大臣宛に電気鉄道敷設願が提出され、大正12年(1923年)7月2日に中泉町-光明村間の鉄道免許状が下りた。同年、見付町横町に創立事務所が開かれ、会社として実質的にスタートしている。会社設立から株式募集、経営破綻に至るまでの詳しい経緯は、別稿「光明電気鉄道の会社史」で扱う。

地方鉄道としては異例の規格。 光明電鉄の特徴は、設備の大きさにある。軌間は国鉄と同じ1,067mm。電化方式は直流1,500V。昭和初期の地方私鉄としては、かなり高い規格を持つ路線であった。見付には変電設備が置かれ、回転変流器(交流側557V、直流側750V、出力300kW)を常用2台・予備1台備えていたと伝えられる。この変電設備は明電舎製だったという。

車両についても、当初の計画は電車10両・貨車80両という大規模なものだったとされる。しかし実際に導入されたのは電車3両・貨車4両にとどまったと伝わる。導入された電車のうち、デハ11・12は昭和3年(1928年)に蒲田車輌で製造された16m級の木造ダブルルーフ車体だったという。当初の構想と実際の規模の差は、この鉄道が抱えた資金面での苦しさを物語っているのかもしれない。

この鉄道が狙ったのは、旅客だけではない。天竜川流域の木材、久根鉱山に関係する鉱石、北遠方面の物流を中泉へ運び、東海道本線につなぐことが大きな目的だった。終点として構想された光明村船明は、天竜川水運の集散地であり、川舟で運ばれてくる木材・鉱石を鉄道に積み替える結節点にしようという狙いが、社名「光明電気鉄道」にも表れているとされる。

1930年の全通と、届かなかった延伸

路線はまず昭和3年(1928年)11月に新中泉-田川間で開業し、その後順次延伸して昭和5年(1930年)、新中泉から二俣町までの19.8kmが全通した。しかし、船明方面への延伸は実現しなかった。資金難、バスとの競争、鉱石輸送の前提の変化が重なり、光明電鉄は短い期間で姿を消すことになる。とりわけ、鉱石の出荷元である古河鉱業が、終点が久根鉱山からなお遠く出資に見合わないとして資本参加や貨物収入への協力を拒んだと伝えられており、当初の収益計画そのものが早い段階で崩れていたことがうかがえる。開業からおよそ6年後、昭和10年(1935年)前後には電気料金の未払いにより送電が止められ全線運休に追い込まれたと伝わり、その短命さから「悲劇の鉄道」「幻の鉄道」と呼ばれることもある。詳しい終焉の経緯は「なぜ鉄路は消えたのか」で扱う。

それでも、光明電鉄の計画は無意味ではなかった。田川から二俣口方面にかけての路盤は、のちに国鉄二俣線、現在の天竜浜名湖鉄道に受け継がれている。消えたはずの鉄路の一部は、形を変えて今も列車を通している。廃線後、大谷トンネルは太平洋戦争初期に軍の弾薬庫として、のちには日本楽器製造(現・ヤマハ)の疎開工場としても使われたと伝わる。二俣口駅のホーム跡は現在も残り、2016年に浜松市の地域遺産に指定されているという。廃止からおよそ90年を経ても、光明電鉄が残した痕跡はいまも地域のなかに息づいている。

  • 磐田市歴史文書館 第17回企画展「光明電鉄の消長〜大正期前後の地域開発構想〜」パンフレット(平成28年/2016年)
  • 磐田市立図書館所蔵資料(光明電気鉄道関係)
  • レファレンス協同データベース「光明電鉄」関連事例
  • 光明電気鉄道に関する各種鉄道史資料(Wikipedia「光明電気鉄道」ほか)
  • 磐田駅・見附宿・中泉町の沿革に関する資料(Wikipedia「磐田駅」「見附宿」「中泉町」ほか)
  • 光明電気鉄道の廃線跡踏査記録(個人サイト「光明電鉄の歴史」「山さ行がねが」ほか)

軌間・電化方式などの数値は既存資料に基づくが、公開後も一次資料・現地確認で継続して裏取りする。会社設立の経緯(敷設願提出・免許取得・創立事務所開設の年次)は、磐田市歴史文書館の企画展資料により確認できたため本文に反映した。当初計画の車両数(電車10両・貨車80両)と実際の導入数(電車3両・貨車4両)については、企画展資料の記録(客車2台・貨客車1台)と差異があり、別稿「光明電気鉄道の会社史」で両論を併記している。

この地域の家・土地・空き家について

古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。