全記事を20件ずつ読む
全1171件中 121〜140件(7 / 59ページ)
奉祝行事と翼賛選挙 ── 祝祭・動員・投票が重なった時代
紀元二千六百年の奉祝行事と昭和17年(1942年)の翼賛選挙は、別々の出来事ではない。旗、式典、記念事業、推薦候補、町内組織を通じて、祝祭と政治動員が日常へ入り込んだ過程を磐田地方の記録から読む。
不景気・匡救事業・ドッジライン ── 二つの緊縮期を地域から読む
昭和恐慌の農村不況には公共土木による「匡救」が、戦後インフレにはドッジ・ラインの緊縮が処方された。国の経済運営が、磐田地方の税、道路、雇用、学校へどう届いたかを、異なる二時期を混同せずに読む。
税務署・県財務事務所と地方行政 ── 国税と地方税の窓口ができるまで
見付に税務署が置かれたのは、全国で国税徴収を一元化する明治29年(1896年)の再編と重なる。郡役所、県財務事務所も含め、国・県・町村の出先機関が磐田地方でどの税と行政を担ったかを整理する。
部落会・町内会から自治会へ ── 統制と住民自治のあいだ
現在の自治会は、昔から同じ名称・性格で続いた組織ではない。戦時下の部落会・町内会、占領期の解体、戦後の再編を経て、行政協力と住民自治の二つの顔を持つようになった。磐田町と中泉町の記録から、その断絶と継承を読み直す。
組合役場と役場実務 ── 戸長の仕事から近代町村行政へ
明治の町村役場は、現在の市役所を小さくしただけの組織ではない。戸籍、徴税、兵事、学校、土木、財産管理を少人数で担い、町村によっては隣村と組合役場を置いた。磐田地方の役場が、地域の寄り合いから規程と簿冊で動く行政へ移る過程をたどる。
磐田から北海道へ ── 明治期の移住奨励と家族の決断
明治34年(1901年)、静岡県は北海道移住を奨励した。磐田地方からも家屋と家財を整理して北へ向かった家族がいた。行政文書の「一戸五人」という数字と、個々の家族の移動を分けて考える。
町村財政の成立 ── 共有財産・寄付金・予算が支えた地域経営
町村合併で区域が一つになっても、旧村の野場や火葬場まで直ちに一つにはならなかった。学校・道路を支えた寄付、予算書式、帳簿、例規をたどり、近代町村が「地域の財布」を作るまでを読む。
近代地方議会と「1%の代表」 ── 磐田の議会政治はどう始まったか
明治22年(1889年)、選挙で代表を選ぶ制度が磐田地方にも根を下ろし始めた。しかし投票できたのは人口のごく一部である。県会・国会・町村会、行政振興調査、二之宮区会をたどり、限定された代表制が生活上の自治へ広がる過程を読む。
磐田の消防史 ── 火消し・消防組・火の見櫓の記憶
村の火消しから明治の消防組、半鐘の火の見櫓、警防団を経て今日の消防団へ。秋葉信仰と表裏一体だった磐田の火消しの歴史をたどる。
遠州報徳運動と磐田 ── 勤倹と推譲が村を立て直した
二宮尊徳の教えを遠州に伝えた安居院庄七。弘化4年の下石田村の報徳社に始まり、遠州は全国一の報徳王国になった。至誠・勤労・分度・推譲の教えが磐田周辺の農村に何をもたらしたかをたどる。
兜塚古墳 ── 大の浦を見下ろした王の円墳と、その後の千五百年
磐田市見付の兜塚古墳。直径80m・静岡県内最大の円墳は、潟湖・大の浦を支配した海民的王の墓。三神三獣鏡から戦時中の塹壕、静岡大学農学部、かぶと塚公園まで、一基の古墳がたどった千五百年をたどる。
遠州織物・工場・女性労働 ── 中泉・見付・豊田が担った分業と、女工たちの記憶
中泉の最終加工、豊田の製造転換。遠州織物を支えた磐田の分業構造と、そこで働いた女性労働者たちの実態、そして現代へ続く高付加価値化への挑戦をたどる。
二之宮七自治会の誕生 ── 丁目・中通・宮本・浅間通
一つの二之宮区が昭和32年、浅間通・一丁目〜四丁目・中通・宮本の七自治会へ分かれた経緯を、町名と都市化から読む。
天保から昭和へ ── 見付26町内の町名変遷
天保5年頃の見付の小地名、昭和23年の町名大改正、戦後の分立と区画整理を、26町内の対照表で読む。
旧見付学校と、学びのまち磐田
旧見付学校附磐田文庫を、磐田文庫・遠州国学・寺子屋から続く見付の教育史として読む。
磐田農業高等学校の歴史 ── 明治29年の中遠簡易農学校から
磐田農業高等学校の歴史を、明治29年創立の中遠簡易農学校から読み解く。校訓「高品性、重労働」、中泉に残る登録有形文化財の記念館、生産・流通・環境・食品・生活の五学科、一言農場や糀ベジあんまで、磐田の食・農・環境の近代化を支えた学校の歩みを地域史としてたどる。
磐田西高等学校の歴史 ── 中泉商業学校を源流とする実学教育
磐田西高等学校の歴史を、昭和14年(1939)の中泉町立中泉商業学校を源流とする磐田の商業教育・実学教育の歩みとして整理。戦時下の工業学校転換、戦後の商業学校復元、磐田商業からの分離独立、平成3年の磐田西への改称、総合ビジネス科までを地域史の視点でたどる。
磐田南高等学校の歴史 ── 見付中学校と遠江国分寺跡
磐田南高等学校の歴史を、大正11年創立の静岡県立見付中学校を起点にたどる。旧見付学校の仮校舎、おだわらやまと手作りのプール、戦後の磐田南高への改称と男女共学化、遠江国分寺跡の上に立つ立地、創立80周年記念誌が伝える国際交流・自然科学活動まで、磐田の知の拠点として整理する。
磐田北高等学校の歴史 ── 高等女学校から福祉科・共生共育へ
磐田北高等学校の歴史を、明治42年に見付で開校した磐田郡立実践高等女学校から読み解く。保育科・衛生看護科・県立附設幼稚園、平成11年の男女共学化、福祉科と介護福祉士、袋井特別支援学校磐田見付分校との共生共育まで、磐田の女子教育と「人を支える学び」の歩みを地域史として整理する。
磐田東高等学校の歴史 ── 磐田唯一の私立高校の歩み
磐田唯一の私立全日制高校・磐田東高等学校の歴史を、地域史の視点から整理。昭和34年(1959年)に女子校として創立し、西貝塚から見付へ移転、昭和59年の科学技術コースと共学化、2003年の磐田東中学校開校による中高一貫化までをたどる。校訓「中庸の道」、剣道部・サッカー部とジュビロ磐田U-18など、磐田の私学とスポーツ文化の歩みを解説する。