失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 秋葉道と二俣街道

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第43号(磐田の街道研究 一)

秋葉道と二俣街道 ── 磐田から北へ向かう信仰と物流の道

秋葉信仰の道と天竜への通路

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市域全体

要旨

磐田の道の歴史は、東西に走る東海道を軸として語られることが多い。しかしこの土地には、北の霊山・秋葉山をめざす参詣の道と、天竜川筋の物資を結ぶ物流の道とが重なった、もう一つの南北軸が存在した。本稿は、江戸中期以降に隆盛した秋葉信仰を背景とする秋葉道と、その先で諸道が合流する二俣へ至る道を対象に、見付を分岐点とする「磐田から北へ」の道の系譜を検討する。秋葉信仰の広がり、旧宿場に残る常夜灯、二俣が交通の要衝であったことは、静岡県・浜松市の公開資料で確認できる史実である。一方、見付から二俣に至る近世の道筋の具体的な経路は、本稿の範囲では確定できていない。この「未確認」と「記載なし」の区別を保ちつつ、参詣の道・車の道・鉄の道と手段を替えて反復された北への志向を、信仰と物流の両面から一つの軸として記述する立場をとる。あわせて、この南北軸が東海道という横軸と交わる結節点として、見付の位置を捉え直す。

キーワード:秋葉道/秋葉信仰/二俣街道/常夜灯/秋葉講/光明電気鉄道/南北軸

1. 問題設定 ── 東海道の陰に隠れた南北軸

磐田の道について語るとき、話はどうしても東西の東海道へ偏る。見付宿・中泉、そして西の天竜川を渡る池田の渡し──いずれも東海道という横糸の上に並ぶ地名であり、この土地の交通史はしばしば、その一本の大動脈を軸として描かれてきた。旅人が足早に通り過ぎていく宿場の連なりとして磐田を見るなら、それは「東西に通過されるだけの土地」に見えてしまう。

だが、東海道だけを見ていては取りこぼす道の系譜が、この土地にはある。北の霊山・秋葉山をめざす参詣の道であり、天竜川筋の産物が行き交う物流の道である。本稿はこの南北軸を主題とし、見付を分岐点として「磐田から北へ」向かった道の歴史を、信仰と物流の両面から読み直すことを課題とする。東海道から分かれるもう一つの道という論点は、すでに姫街道を扱った稿でも触れたが、そこでの分岐が西へ向かう迂回路であったのに対し、本稿が扱うのは北へ折れる縦の道である。

この主題を扱うにあたって、あらかじめ方法上の区別を明示しておきたい。街道史・信仰史の記述では、確実に史料で裏づけられる事柄と、地域に語り継がれてきた伝えと、地理から導かれる推論とが、しばしば同じ平面で混在しがちである。本稿では、史料によって確認できる事柄を史実、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り伝えられてきた事柄を伝承として、語の水準で書き分ける1。とりわけ重要なのは、「未確認」と「記載なし」の区別である。ある道筋を裏づける史料に筆者が突き当たっていないこと(未確認)と、そのような道が存在しなかったこと(記載なし)とは、まったく別の事柄である。両者を混同すれば、資料の空白をただちに歴史の不在と取り違える誤りに陥る。

この区別が本稿で切実な意味をもつのは、対象とする道の多くが、正確な経路を確定しがたいまま今日に伝わっているからである。秋葉山への参詣が盛んであったこと、その参詣路が磐田を通っていたことは疑いない。しかし、見付から二俣へ至る近世の道が具体的にどの村々を通ったのかとなると、絵図や道中記、現地に残る石造物の分布を突き合わせる作業がなお必要であり、本稿の段階では確定を保留せざるをえない。以下ではまず史料で確認できる範囲を押さえ、続いて常夜灯・見付・二俣という具体の地点を検討し、経路の腑分けと近代の転回を経て結論に至る。断定を急がず、確度の層を保ったまま南北軸の輪郭を描き出すことが、本稿の一貫した姿勢である。

付け加えれば、南北の道が語られにくいことには、資料の偏りという事情もある。東海道は幕府が管理した公式の街道であり、宿場・伝馬・道中記といった記録が豊富に残る。これに対し、秋葉道のような参詣路や在地の生活道は、公的な管理の外にあることが多く、まとまった文書を残しにくい。史料が薄いために語られず、語られないためにいっそう忘れられていく──南北軸が東海道の陰に隠れてきたのは、道そのものの重みというより、こうした記録の残り方の非対称に由来する面が大きい。だからこそ、乏しい史料の隙間を推定で安易に埋めるのではなく、確認できる範囲を確認できると明示していく作業に、なお意味がある。

磐田の「縦の道」── 海から山へ 東海道(横の道) 秋葉山 火伏せの霊山 二俣(諸道の合流点) 見付 東海道から北へ折れる 掛塚湊 遠州灘(海) 秋葉の札 ↑ 材木・産物 ↓
図1 磐田の南北軸。海から見付・二俣を経て秋葉山へと北へ延びる縦の道が、東海道という横の道と見付で交わる。物資は北から南へ、秋葉の札は南から北へ行き交った。

2. 史料の枠組み ── 秋葉信仰と秋葉道の広がり

南北軸の中核をなすのは、秋葉山(現在の浜松市天竜区)への参詣路である。秋葉山は火伏せの神をまつる霊山として知られ、江戸時代の中期から後期にかけて、これへの参詣が急速に盛んになった2。火事を恐れる町方の人々にとって、火伏せの神・秋葉大権現は切実な信仰の対象であり、その広がりとともに、各地から山へ向かう道筋が「秋葉道」「秋葉街道」と呼ばれるようになっていった。ここまでは、静岡県や国土交通省中部地方整備局が公開する街道関係の資料でも確認できる史実として扱ってよい。

秋葉道と一口に言っても、それは単一の道ではない。信州の高遠・飯田方面から南下してくる長い道があり、また東海道の側からも、袋井・見付・新居といった宿場を入口として、北へ向かう参詣路が枝のように何本も延びていた。秋葉信仰を背景とするこれらの道は、山を頂点とし、東海道や天竜川筋を裾野とする網の目として理解するのが実態に近い。すなわち「秋葉道」とは、一本の路線名というより、秋葉山へ向かうという目的を共有した道の総称なのである。この点を踏まえておかないと、磐田を通る秋葉道を、どこか一本の固定した街道として過度に実体化してしまう危険がある。

この網の目という捉え方は、経路研究に一つの含意をもつ。もし秋葉道を一本の固定した街道と考えれば、その正確な線を引けないことは記述の欠落に映る。しかし実態が複数の道の束であったのなら、単一の線を引けないのはむしろ当然であり、欠落ではない。求められるのは一本の線を復元することではなく、山を頂点とし宿場を入口とする網全体の広がりを、確認できる範囲で描くことである。経路の細部を保留する本稿の姿勢は、この網の目という実態認識と表裏をなしている。

参詣の規模を支えたのは、秋葉講という仕組みである。江戸時代、秋葉山への参詣は伊勢参りと並んで庶民の人気を集め、各地に秋葉講と呼ばれる参詣の講が結ばれた。講の仲間が金を積み立て、順番に代表者を秋葉山へ送り出す「代参」の仕組みは、遠く離れた土地の人々をも秋葉山へと結びつけた。代参という制度は、全員が一度に参詣せずとも講全体として信仰を果たせる合理的な方法であり、これによって秋葉参詣は地域や身分を越えて広い層へ浸透した。磐田を通る北への道もまた、この大きな秋葉参詣のにぎわいの一部として機能していたと考えられる。

秋葉講という仕組みは、信仰を個人の営みから共同体の営みへと組み替える働きをもった。積み立てと代参は、参詣を家や村の年中行事のなかに組み込み、そこへ加わることが共同体の一員である証にもなった。伊勢参りが「一生に一度」の遠い旅として憧れられたのに対し、秋葉参詣は、火事という日々の恐れに直結する分、より生活に密着した反復的な信仰であった点に特徴がある。火伏せの札を毎年新たに受けてくること自体が、暮らしの安全を更新する行為として意味をもったと考えられる。こうした信仰の反復性が、道の反復的な利用を支え、秋葉道を一過性でない生きた交通路として保った。

ここで確認しておくべきは、信仰の道が同時に生活の道でもあったという点である。参詣者が歩けば、その道すじに茶屋や宿ができ、みやげ物が売られ、村と村が結ばれる。秋葉道は、単なる巡礼路ではなく、遠州の内陸部と沿岸部を結ぶ生きた交通路として、地域の経済と文化を支えていた。人が動けば物と情報も動くのであって、火伏せの祈りを名目に開かれた道が、実際には産物の流通や村々の交流を担う経済の回路として働く──この信仰と経済の不可分性こそ、秋葉道を理解する鍵である。見付の常夜灯の前を、笠をかぶり杖をついた参詣者の列が北へ北へと歩いていく光景は、同時に物と情報が行き交う光景でもあった。

秋葉道 ── 一本ではなく網の目 秋葉山 火伏せの霊山 高遠・飯田(信州)↑ 袋井 見付 新居 諸宿場 ── 東海道(横の道)を裾野とする ──
図2 秋葉道の網の目。秋葉山を頂点に、信州側の長い道と、東海道側の袋井・見付・新居などを入口とする道が、山へ向かうという目的を共有して延びていた。見付はその一つの入口である。

3. 常夜灯という道しるべ ── 祈りと道案内の二役

秋葉道の広がりを、いま地上に残る物として最もよく伝えているのが、旧宿場や辻に立つ秋葉灯籠、すなわち常夜灯である。東海道の旧宿場(袋井・見付・新居など)に秋葉灯籠が今も残ることは、静岡県の調査資料でも確認されている3。磐田市域に限っても、竜洋に残る十四基や、宮之一色の龍燈など、常夜灯は点々と分布して今日に伝わる。これらの現存は、秋葉信仰がこの土地に確かに根づいていたことを示す史実の物証である。

常夜灯を単なる火伏せの祈りの跡としてのみ読むのは、その機能の半分を見落とすことになる。夜道に灯る常夜灯は、同時に「ここから秋葉山への道が始まる」ことを示す道しるべの灯りでもあった。祈りと道案内という二つの役割を兼ねて、常夜灯は北へ向かう参詣者を導いていたのである。街灯のない近世の夜、辻に立つ一基の灯は、信仰の対象であると同時に、進むべき方角を告げる実用の標識であった。この二重性は、秋葉道が信仰の道であると同時に生活の道でもあったという、前章で述べた性格を、物のかたちで裏づけている。

常夜灯の分布は、経路研究にとっても手がかりになりうる。灯籠が立つ地点を線でつないでいけば、かつての参詣路のおおよその筋が浮かび上がるのではないか──こうした期待は自然だが、ここには方法上の慎重さが要る。現存する常夜灯の位置は、必ずしも造立当初の位置とは限らず、道路の改修や区画整理に伴って移設された例も少なくない。したがって、常夜灯の分布から近世の道筋を復元するには、各基の造立年・銘文・移設の有無を一基ごとに吟味する作業が前提となる。本稿はこの吟味を尽くしていないため、常夜灯の分布を経路の直接の証拠とすることは差し控え、あくまで秋葉信仰の広がりを示す物証として扱うにとどめる。分布図の作成と経路復元は、今後の課題として明記しておきたい。

常夜灯が今日まで残されてきたこと自体にも、意味を読み取ることができる。道の役割が参詣から物流へ、さらに自動車交通へと移り変わるなかで、多くの道しるべは用を終え、撤去されたり打ち捨てられたりしてもおかしくなかった。それでも辻の常夜灯が守られてきたのは、それが単なる標識ではなく、火伏せの祈りを託された信仰の対象だったからにほかならない。実用の道しるべとしての役割を終えてなお、祈りの対象としての意味が灯籠を地上にとどめた。祈りと実用の二役のうち、後世まで灯籠を支えたのは前者の方であったといってよい。

常夜灯の二役 ── 祈りと道案内 常夜灯 辻に立つ 火伏せの祈り 秋葉大権現への信仰 道しるべ 「ここから秋葉へ」 竜洋の十四基・宮之一色の龍燈など、磐田市域に点々と残る(造立位置は要吟味)。
図3 常夜灯の二役。辻に立つ一基の灯は、火伏せの祈りの対象であると同時に、秋葉山への道の始まりを告げる道しるべでもあった。現存位置と造立位置の一致は別途吟味を要する。

4. 見付 ── 東海道から北へ折れる分岐点

東海道を旅してきた参詣者が秋葉山へ向かうとき、見付は、その最も重要な分岐点の一つだった。国府以来の由緒ある町場で旅装をととのえ、いよいよ北の山道へ踏み出す──見付は、そうした「山への入口」でもあったのである。東西に走る日本の大動脈から北の霊山へ、旅人は見付で東海道を離れ、磐田原台地の縁を北上し、天竜川沿いの道を経て二俣方面へと向かった。

見付という町の位置を、道の交差という観点から捉え直してみたい。東海道が磐田を東西に貫く「横の道」であるなら、秋葉道は磐田を南北に貫く「縦の道」である。この縦横二本の道が交わるところに、見付という町の要としての位置がある。国府として、宿場として、そして秋葉道の分岐点として──見付が長く遠江の中心であり続けたのは、この交差点にあったからだといってよい。一つの町が複数の道の結節点を占めることは、その町に人と物と情報を集める構造的な優位を与える。見付の由緒と繁栄は、単に古い町であったことだけでなく、この交差点性によって支えられていた。

見付が国府以来の町場であったことは、この分岐点としての性格に厚みを加える。国府には人と物と情報が集まり、周辺には社寺や市が営まれ、街道が集約される。国府の記憶を宿した町が、近世には東海道の宿場となり、さらに秋葉道の入口を兼ねる──こうした機能の重ね書きが、見付という一点に集中していた。古代の政治的中心が、中世・近世の交通の要へと役割を変えながら同じ位置を保ち続けた例として、見付は興味深い。ただし、国府の具体的な所在をめぐってはなお論点が残るため、ここでは見付周辺が古代以来の中心地であったという大づかみの理解にとどめ、所在の細部には立ち入らない。

ここで、経路をめぐる確度の区別を改めて確認しておく。見付が秋葉参詣の主要な入口の一つであったこと、参詣者が東海道からここで北へ折れたことは、秋葉道の広がりと見付の宿場としての性格から、無理なく推定できる。しかし、見付を出た参詣者が磐田原台地の縁をどのように北上し、どの村を経て天竜川沿いの道へ入ったのか、その具体的な経路となると、確実な史料の裏づけをもって描くことはできない。台地の縁を北上したという大づかみの方向は地形から推せるが、村ごとの道筋の復元は、絵図・道中記・石造物の分布による今後の検証を待たねばならない。ここでも「見付が入口であったこと(推定として確度が高い)」と「具体の道筋(未確認)」とを、確度の異なる事柄として分けておく必要がある。

見付 ── 縦横二本の道の交差点 見付 ← 京・西へ 東・江戸へ → ↑ 二俣・秋葉山 掛塚湊・海 ↓ 東海道(横の道) 秋葉道(縦の道)
図4 見付の交差点性。東海道の横軸と秋葉道の縦軸が見付で交わる。国府・宿場・分岐点という三つの性格が、この一点に重なっていた。

5. 二俣という結節点 ── 信仰の道と物流の道

見付を北へ向かった道の先にあるのが、二俣である。二俣は、東・西・南からの道が一点に合流する交通の要衝であり、その要衝性ゆえに、時代ごとに異なる役割を担ってきた4。戦国期には、徳川と武田が争った二俣城の城下町として軍事・政治の要地であり、江戸期には秋葉参詣の重要な中継地として栄えた。諸道が集まる地点は、支配の要にも、信仰の中継にも、物流の集散にもなりうる。二俣の歴史は、その結節点性が時代の要請に応じて別々の顔を見せてきた過程として読むことができる。

見付の側から見れば、この二俣への道は二つの顔を持っていた。一つは、秋葉山をめざす信仰の道である。もう一つは、天竜川の上流から流れ下ってくる材木や産物と結ばれる、経済の道である。久根鉱山の鉱石や天竜の木材が、後の時代まで人々の関心を引き続けたのは、この北への軸が、信仰と経済の両面で確かに生きていたからにほかならない。同じ一本の道が、参詣者にとっては火伏せの神へ向かう聖なる道であり、商人や運送に携わる者にとっては富を運ぶ生業の道であった。道の意味は、それを歩く者の目的によって幾重にも重なる。

この二重性は、南北軸を評価するうえで決定的である。仮に秋葉道を信仰の道としてのみ捉えれば、それは近世の一時期に隆盛し、信仰の衰えとともに役割を終えた道と見えるかもしれない。しかし、同じ軸を物流の道として捉え直すと、その先には、信仰とは別の論理で北への交通を求め続けた近代の営みが見えてくる。次章で扱う車の道と鉄の道は、まさにこの物流の論理が主導した試みであった。信仰の道と物流の道は、二俣という結節点において分かちがたく重なっており、この重なりこそが、手段を替えながら反復される北への志向の基盤をなしていた。

物流の道としての性格を具体に落とせば、それは天竜川という大動脈と、その河口の湊とに結びつく。天竜の上流で伐り出された材木や、久根の鉱山から掘り出された鉱石は、川を下り、あるいは陸路を経て、遠州灘へと運び出されていった。北の山が生み出す富を南の海へ送り出す、その流れの陸上の一部を、見付から二俣へ至る道が担っていた。参詣者が北へ上る道は、同時に、富が南へ下る道でもあったのである。この双方向性を押さえておくと、南北軸を単なる信仰の遺物としてではなく、地域経済を支えた現実の回路として捉えることができる。

表1 磐田の南北軸 ── 手段を替えて反復された「北への道」の系譜と確度の層
時代主たる性格担い手・目的確度の層(史料批判上の留意)
江戸中期〜秋葉道参詣の道(歩く)秋葉講・代参の参詣者。火伏せ信仰。信仰と道網の広がりは史実。磐田市域内の具体的経路は未確認。
明治20年(1887年)高塚太郎平新道車の道(大八車)向笠村の高塚太郎平。台地の物流。新道開削・完成年は記録に基づく。通行料を用いなかった件は伝承。
昭和5〜11年(1930〜36年)光明電気鉄道鉄の道(電車)鉱石・木材の輸送を企図。のち廃止。開業・廃止は史実。企図された貨物需要の見込みは経営判断の問題。
現代県道・天竜浜名湖鉄道生活の道磐田原を貫く日常の交通。南北軸の後継として位置づけうるが、直接の連続性は解釈を要する。

この表が示すのは、四つの道が単に時代順に並ぶのではなく、「磐田から北へ」という同一の方向感覚のもとで、担い手と手段を替えながら反復されてきたという構造である。各行の確度の層を明示したのは、系譜として一続きに語ることの魅力に引きずられて、史実と推定と伝承を混同しないためである。連続性の物語は美しいが、その美しさが確度の吟味を曇らせてはならない。

三たびの試みを並べてみると、それぞれの挫折や限界もまた、同じ軸の上で意味を帯びてくる。細い参詣路は荷車を通せず、私財による車道は一個人の意志に負い、電鉄は資本と需要の壁に阻まれた。手段が替わるたびに、その時代なりの制約が北への道の前に立ちはだかった。にもかかわらず方向感覚だけは受け継がれたという事実は、この土地の人々が北の山と南の海を結ぶことにいかに執着してきたかを物語る。道は幾度も失われたが、道が向かおうとした方向は、失われなかったのである。

6. 経路の腑分け ── 磐田市域内ルートの史実と未確認

ここで、本稿が繰り返し保留してきた経路の問題を、正面から腑分けしておきたい。秋葉道をめぐって「確認できること」と「確認できないこと」を区別すると、両者の境界は次のように引ける。まず確認できるのは、秋葉信仰と秋葉道が遠州一円に広がっていたこと、東海道の旧宿場(袋井・見付・新居など)に秋葉灯籠が残ること、そして二俣が諸道の合流点であったことである。これらはいずれも静岡県・浜松市の公開資料に裏づけをもつ史実である。

一方、確認できていないのは、見付から二俣へ至る近世の道筋の正確な経路、すなわちどの村を通ったのかという具体である。また、秋葉道の磐田市域内ルートの詳細も、本稿の段階では確定できていない。これらは絵図・道中記・現地の常夜灯の分布による確認を要する事柄であり、現時点では未確認と記すのが正確である。ここで強調したいのは、この「未確認」が「そのような道は存在しなかった(記載なし)」を意味しないという点である。参詣者が現に見付から二俣へ歩いた以上、何らかの道筋は必ず存在した。存在した道の具体を、筆者がまだ史料の上で特定できていない──それが未確認の内実である。

この区別を厳密に保つことには、実践的な理由がある。地域史の記述では、資料の空白がしばしば安易な断定によって埋められる。「おそらくこの道を通ったであろう」という推測が、繰り返し引用されるうちに既定の事実のように扱われ、やがて確定した経路として地図に描き込まれてしまう。こうした断定の固定化を避けるには、未確認の事柄を未確認として明示し、確度の低い推測を史実の装いで語らない禁欲が要る。本稿が経路の確定を急がず、大づかみの南北軸という視点にとどめるのは、この禁欲を守るためである。経路の細部は、なお開かれた問いとして次の調査に委ねられるべきであって、性急に閉じてよい問いではない。

とはいえ、経路の細部が未確認であることは、南北軸という視点の有効性を損なわない。むしろ、細部の確定を保留したうえでなお「北への軸が確かに存在した」と言える点にこそ、本稿の主張の核がある。個々の村を貫く道筋を一本に描けなくとも、秋葉山という北の目的地、見付という南の入口、二俣という中継の結節点──この三点が資料で確認できる以上、それらを結ぶ軸の存在は動かない。細部の未確認と、軸の存在の確からしさとは、別の水準の事柄である。両者を混同せず、確かなところは確かと言い、未確認のところは未確認と言う。この腑分けの徹底こそが、街道史を後世の検証に耐える形で残す方途である。

経路を確定できないことを、研究の未熟さとしてのみ受け取る必要はない。むしろ、どこまでが確実でどこからが未確認かの境界を精確に引くこと自体が、一つの成果である。境界が引かれてはじめて、次の調査はどこを掘ればよいかを知る。絵図のどの部分を、道中記のどの記述を、常夜灯のどの銘文を照合すべきか──未確認の範囲を明示することは、後続の検証に具体的な手がかりを渡すことにほかならない。この意味で、留保は逃げではなく、次に進むための足場である。

経路の腑分け ── 確認できる点と未確認の線 秋葉山 確認可 二俣 確認可 見付 確認可 経路=未確認 経路=未確認 三つの点(青)は史料で確認できるが、それを結ぶ線(赤破線)の具体は未確認。軸の存在と経路の細部は別の水準。
図5 経路の腑分け。秋葉山・二俣・見付という三点は史料で確認できる史実だが、それらを結ぶ具体的な道筋は未確認である。未確認は「道がなかった」ことを意味しない。

7. 近代の転回 ── 車の道と鉄の道

論点①・車の道

高塚太郎平新道 ── 信仰の道から物流の道へ

近世の北への道は、しょせん人と馬がやっと通れる細い道だった。参詣者が歩くにはよくても、荷車を通すには狭すぎた。明治の初年ごろまで、「東海道より北には、大八車の通れる道が一本もない」と言われるありさまで、台地の上で作った農産物を運び出すにも、細い道を人が担ぐしかなかった。この不便を見かねて立ち上がったのが、向笠村の高塚太郎平である5

太郎平は自らの全財産を投じて新しい道を切り開き、明治20年(1887年)についに完成させた。しかも彼は、その見返りとして県が認めた通行料の徴収権を、一度も使わなかったと伝えられる。私財を投げうって道を拓き、その利益を求めなかったという挿話は、地域に語り継がれてきた伝承の色を帯びるが、新道の開削と完成そのものは記録に基づく事柄である。この新道の意義は、北への道の目的が、秋葉参詣という信仰の道から、台地の農産物を東海道や鉄道の駅へ運ぶ物流の道へと、はっきり重心を移した点にある。時代が変わり、道に求められるものも変わったのである。

本稿の評価:高塚新道は、南北軸の目的が信仰から物流へ転回したことを示す画期である。開削・完成年は史実として、通行料をめぐる挿話は伝承として、層を分けて記録すべきである。
論点②・鉄の道

光明電気鉄道 ── 同じ軸を鉄輪でなぞる

昭和のはじめ、この北への軸を、今度は鉄道でなぞろうとする試みが現れる。光明電気鉄道である。磐田駅前(新中泉)から見付を経て二俣町まで、昭和5年(1930年)に開業したこの電鉄は、まさに「見付と二俣を結ぶ」という、秋葉道以来の南北軸を、電車という当時の新技術でなぞろうとするものだった。久根鉱山の鉱石と天竜の木材を運び出すことを企図したこの鉄道は、参詣者が歩き、大八車が越えた道を、鉄の車輪で結ぼうとしたのである。それは、江戸以来の北への道の構想を、近代技術によって実現しようとする試みだった。

しかし、この壮大な試みは、わずか7年で力尽きた。過大な投資と、当てにした貨物の伸び悩みが、若い電鉄を破綻させたのである。ここで注目すべきは、破綻という結末そのものよりも、参詣の道(秋葉道)・車の道(高塚新道)・鉄の道(光明電鉄)と、手段こそ時代とともに替わりながら、「磐田から北へ」という同じ一つの方向感覚が、江戸から昭和まで三たび形を変えて挑まれ続けたという事実である。そしてこの北への志向は、いまも途絶えていない。現在の県道や、磐田原の北を東西に走る天竜浜名湖鉄道へと、その系譜は静かに引き継がれている。

本稿の評価:光明電鉄の開業と廃止は史実である。その意義は、成否ではなく、北への軸が近代技術によって三度目に反復された点にある。ただし秋葉道からの直接の連続性は、解釈として提示すべきであって史料的連続として断定はできない。
「北へ」── 手段を替えて三たび挑まれた道 秋葉道 江戸中期〜 参詣の道(歩く) 高塚新道 明治20年 車の道(大八車) 光明電気鉄道 昭和5〜11年 鉄の道(のち廃止) 現代 県道・天浜線 手段は替われど、「磐田から北へ」という方向は生き続けた。
図6 北への道の系譜。参詣の道・車の道・鉄の道と形を替えて、同じ南北軸が三たび挑まれ、現代の県道・天竜浜名湖鉄道へと引き継がれた。

8. 結論 ── 一本の道から、二本の軸へ

本稿は、磐田の道の歴史を東西の東海道だけで語る見方に対して、北へ向かう南北軸という視点を対置し、秋葉道と二俣への道を信仰と物流の両面から検討した。得られた見取り図は次のとおりである。秋葉信仰と秋葉道の広がり、旧宿場に残る常夜灯、二俣が諸道の合流点であったことは、静岡県・浜松市の公開資料で確認できる史実である。一方、見付から二俣へ至る近世の道筋の具体的な経路は、本稿の範囲では未確認であり、絵図・道中記・石造物の分布による今後の検証を要する。この史実と未確認の境界を明示することが、街道史を後世の調べものに耐える形で残す前提となる。

南北軸を貫いていたのは、参詣の道・車の道・鉄の道と手段を替えながら反復された、「磐田から北へ」という一つの方向感覚である。秋葉参詣の信仰、台地の農産物、天竜の鉱石と木材──北をめざす動機は時代ごとに移り変わったが、山と海を結ぼうとする志向そのものは、江戸から昭和まで、そして現在の県道・天竜浜名湖鉄道へと、形を替えて生き続けた。手段の交替を貫くこの方向感覚の持続こそ、南北軸を一つの主題として立てる根拠である。

あわせて、この持続を近代の断絶として描かないことも重要となる。参詣が廃れ、電鉄が消えても、北への交通そのものが途絶えたわけではない。むしろ、信仰という動機が退いた後に、物流と生活という別の動機が同じ軸を引き継いだ。動機の交替を断絶と見るか継承と見るかで、南北軸の歴史像は大きく変わる。本稿は、動機が移り変わってもなお軸が保たれた点に、この土地の交通史の芯を見る立場をとる。

この視点は、磐田という土地の見え方を変える。東海道だけを見ていると、磐田は東西に通過されるだけの土地に映る。しかし、そこに北への道を重ねると、北に秋葉山や天竜の山々を、南に遠州灘の海をひかえた磐田が、山と海を結ぶ結節点として立ち上がってくる。秋葉山の火伏せの札が北から南へ運ばれて海辺の福田の常夜灯にまで届き、天竜の山で伐り出された材木が川を下って掛塚湊から海へ積み出されていく。北の山と南の海のあいだで人と物と信仰が行き交う、その中継ぎを担っていたのが、ほかならぬ磐田の南北の道であった。東海道という横糸だけでなく、この縦糸を意識したとき、磐田は「通過される土地」から「結び合わせる土地」へと見え方を変える。

したがって本稿の立場は明確である。土地の歴史は、一本の道からだけでは読み解けない。縦と横、二本の軸を重ねて初めて、磐田という土地の輪郭が見えてくる。そのうえで、確かなところは史実として、地域が語り継いだところは伝承として、地形から導けるところは推定として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。未確認を史実と偽らず、伝承を史実の劣位に置かず、確度の層を混同しない──この禁欲的な手続きは、祭礼研究や渡船制度の研究と同じく、街道史にも等しく求められる。最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、見付から二俣への近世の道筋は、絵図・道中記と常夜灯の造立位置の吟味によって、未確認を一歩前進させうる。第二に、常夜灯の分布図の作成は、秋葉道の磐田市域内ルートを推定する基礎作業となる。第三に、光明電気鉄道の路線と秋葉道以来の軸との関係は、廃線跡の実地踏査によってなお具体的に描きうる。これらはいずれも、確度の層を保ったまま資料を積み上げていく作業に属する。辻の常夜灯の前を通りかかったら、その灯がかつて照らしていた北の方角を思い出してほしい。そのとき磐田の地図は、東海道の陰に忘れられていたもう一つの軸を、静かに取り戻すのである。

本稿が扱った見付や向笠、そして北へ向かう道沿いの村々には、街道の記憶とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 本稿における確度の層の区別(史実・推定・伝承)と、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に無い)の区別は、本論考シリーズが一貫して採る記述作法である。
  2. 秋葉山は現在の浜松市天竜区に位置し、火伏せの神・秋葉大権現への信仰を集めた。江戸中期以降の参詣隆盛については、静岡県・国土交通省中部地方整備局の街道関係資料による。
  3. 東海道の旧宿場(袋井・見付・新居など)に秋葉灯籠が残ること、竜洋に十四基・宮之一色の龍燈などが現存することは、静岡県の調査資料で確認できる。ただし各基の造立位置と現存位置の一致は別途吟味を要する。
  4. 二俣が東・西・南からの諸道の合流点であったこと、戦国期に二俣城の城下町、江戸期に秋葉参詣の中継地として栄えたことは、浜松市「二俣地域の営みにみる歴史的風致」等による。
  5. 高塚太郎平新道は明治20年(1887年)に完成したと伝わる。私財による開削と、通行料徴収権を用いなかったとする挿話については、別稿 k056 に詳しい。後者は地域に伝わる伝承として扱う。

付記:本稿は一般読者向け記事 c119「磐田から北へ ── 秋葉道・二俣街道の記憶」の内容を、郷土史研究者向けに、確度の層の区別と経路の腑分けの観点から再構成した論考版である。秋葉信仰・常夜灯・二俣の要衝性を史実として押さえ、磐田市域内の具体的経路を未確認として明示し、高塚新道の通行料をめぐる挿話を伝承として扱った。

参考文献・参考資料

  • 静岡県「秋葉信仰と街道」(しずおか遺産関連資料)。
  • 国土交通省中部地方整備局「秋葉街道 歴史の道・信仰の道」。
  • 浜松市「二俣地域の営みにみる歴史的風致」。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、街道・交通の章)。
  • 磐田物語 c087「秋葉常夜灯」 https://iwata-monogatari.net/c087.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c069「秋葉信仰・常夜灯・旧東海道の石造物(竜洋の十四基)」 https://iwata-monogatari.net/c069.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 k056「高塚太郎平新道」 https://iwata-monogatari.net/k056.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c054「光明電気鉄道の夢」 https://iwata-monogatari.net/c054.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c058「なぜ鉄路は消えたのか」 https://iwata-monogatari.net/c058.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c057「久根鉱山と天竜の木材」 https://iwata-monogatari.net/c057.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第8号「姫街道と見付」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/008/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第19号「池田の渡し」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/019/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c119「磐田から北へ ── 秋葉道・二俣街道の記憶」 https://iwata-monogatari.net/c119.html (最終閲覧:2026年7月25日)。