失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 見付 / 家康と三方原

戦国時代|遠江攻略

徳川家康と三方原合戦 ── 見付を通った遠江攻略

家康は今川氏真との対立から遠江へ侵攻し、見付を通過して浜松へ本拠を移した。

『図説 磐田市史』は、永禄11年(1568年)から元亀3年(1572年)までを、家康の遠江攻略と武田信玄の侵攻が交差する時期として整理する。見付は戦場そのものだけでなく、天竜川を越えて東西へ軍が動く経路上にあった。

本稿の要点
  • 家康は永禄11年に遠江へ侵攻した。
  • 井伊谷から浜名湖北岸を通り、引間城攻略へ進んだ。
  • 元亀3年、武田軍は木原・西島方面から見付を経て西進した。
  • 本多忠勝の蜻蛉切や伝酒井の太鼓には伝承を含む。

家康の遠江侵攻

永禄11年12月、家康は井伊谷から遠江へ入り、気賀の堀川一揆などの抵抗を受けながら引間城を攻めた。引間城を得た後、浜松城として本拠を整える。見付は浜松へ至る東海道上の町として、兵・物資・情報が通過する位置にあった。

この侵攻の背景には、駿河・遠江・三河を治めた今川氏の急速な衰えがある。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川の勢力は大きく傾いた。三河で自立した家康は、やがて今川氏真との対立を深め、隣国・遠江へと手を伸ばす。一方、甲斐の武田信玄も、同じ遠江・駿河をうかがっていた。家康と信玄は、いったんは今川領を東西から分け取る密約を結んだとされるが、その協調はやがて崩れ、両者は遠江をめぐって正面から対峙していくことになる。見付を含む磐田の地は、まさにこの二大勢力がぶつかり合う、最前線の只中に置かれたのである。

遠江をめぐる攻防と見付の位置(模式図)東海道(西 ← → 東)浜松(引間)見付天竜川渡河の要地木原・西島井伊谷家康侵攻武田西進 →
図1 遠江をめぐる攻防と見付。家康は井伊谷から浜松へ、武田は東から見付を経て西へ。見付は両勢力の動く経路上にあった。

なぜ遠江が争われたのか

そもそも、なぜ遠江という土地が、これほど激しく争われたのだろうか。遠江は、東の駿河・甲斐と、西の三河・尾張のちょうど境目に位置する。東西の大勢力がにらみ合うとき、その境目にある国は、必ず草刈り場となる。加えて遠江には、東海道という日本の大動脈が東西に貫き、天竜川という大河が南北に流れる。街道を押さえ、川の渡河点を制することは、軍勢の進退を左右する決定的な意味を持った。とりわけ天竜川は、大軍が渡るには難所であり、その東岸の見付一帯は、渡河の前後に軍が滞留する要地となる。地理が、この土地の運命を決めていたといってよい。平野が開け、街道が通り、大河が流れる ── そうした恵まれた条件は、平和なときには繁栄をもたらすが、乱世にあっては、争いを呼び込む火種ともなったのである。

武田信玄の西進

元亀3年11月、武田信玄は木原・西島方面から見付を通って西へ進んだと資料は示す。家康軍は浜松城へ退き、三方原で戦った。図示された進路は『浜松御在城記』などをもとにした概略で、各部隊の厳密な通過地点には検討の余地がある。

このときの武田信玄の西進は、単なる遠江への侵攻にとどまらない、大きな戦略の一部だった。信玄は、京へ上って天下の情勢を左右しようとする「上洛」を目指していたとされ、その途上で、まず遠江・三河を押さえようとしたのである。二万を超えるともいわれる大軍が、東から遠江へなだれ込んだ。その進路上に、見付があった。木原・西島は、天竜川の東岸にあたる一帯で、大軍が川を越える前後に通過する要地である。当時、信玄が率いる武田の軍勢は、戦国最強とも称された精強な集団である。その大軍が、地響きを立てて西へと進んでいく。見付を含むこの地域の人々にとって、天下を揺るがす大軍が自分たちの町のすぐそばを通り過ぎていくさまは、どれほどの緊張と畏れをもって受けとめられただろうか。戦国の争乱は、遠い場所の出来事ではなく、この磐田の地を実際に踏みしめて進んでいったのである。

大軍が通り過ぎるとき、その沿道の村々が無傷でいられるはずもない。兵糧の調達、人足や馬の徴発、田畑の踏み荒らし ── 戦国の合戦の陰には、名も記されないまま巻き込まれた、無数の民の苦難があった。見付やその周辺の人々もまた、東から迫る武田の大軍と、西の浜松に構える家康との間で、息をひそめて時の過ぎるのを待ったにちがいない。どちらが勝つのか、自分たちの村はどうなるのか ── その不安のなかで、人々は日々の暮らしを守ろうと必死だっただろう。武将たちの華々しい武勇伝の裏側に、そうした庶民の生きた時間があったことを、忘れずにおきたい。戦国という時代は、英雄の物語であると同時に、その足もとで懸命に生きた、名もなき人々の物語でもあるのだ。見付やその周辺の村に生きた人々の名は、ほとんど記録に残っていない。しかし、その地に暮らし、時代の荒波を耐え抜いた人々がいたからこそ、いまの磐田がある。三方原という大きな戦いを、教科書の一行としてではなく、地域の側からたどり直すと、そうした歴史の重層が、静かに見えてくるのである。

本多忠勝と一言坂

武田の大軍を前に、家康は偵察に出た軍勢を浜松へ退かせようとする。その退却戦の舞台となったのが、見付にほど近い一言坂(ひとことざか)である。ここで殿軍(しんがり)── 退く味方を守るため、最後尾で敵を食い止める最も危険な役 ── を務め、家康軍の無事な撤退を助けたとされるのが、本多忠勝である。一言坂合戦での忠勝の奮戦は、武田方の武将からも称賛されたとの伝承を残す。「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」── 唐渡りの兜と本多平八郎忠勝は、家康にはもったいないほど立派だ、とうたわれた逸話は、忠勝の武勇を象徴するものとして知られる。ただし、こうした逸話は、後世の軍記物が英雄を際立たせるために整えた表現でもあり、細部をそのまま史実と受け取ることには慎重でありたい。それでも、この一言坂という具体的な地が、天下に名を馳せる武将の武勇伝の舞台となったことは、見付周辺が戦国史のなかで確かな位置を占めていたことを物語っている。

伝承品が伝える記憶

浜松城には三方原から退いた家康軍が城内に多くの軍勢がいるように見せるため太鼓を高く打ち鳴らしたとの伝承がある。「伝酒井の太鼓」は見付学校時代にも時報用として使われたとされる。合戦の一次史料ではなく、戦いが地域で記憶された過程を伝える資料である。

こうした伝承品や逸話は、それ自体を「合戦の証拠」として扱うことはできない。太鼓を打ち鳴らして敵を欺いたという話も、後世に語られ、磨かれてきた物語の色合いが濃い。しかし、こうした伝承が生まれ、大切に語り継がれてきたという事実そのものが、三方原の戦いが、この地域の人々にとっていかに大きな出来事だったかを示している。とりわけ「伝酒井の太鼓」が、明治の見付学校で時報として使われたと伝わることは、興味深い。戦国の記憶をまとった品が、近代の子どもたちの学び舎で時を告げていた ── 合戦から三百年を経てなお、その記憶が形を変えて生き続けていたのである。歴史は、一次史料のなかだけにあるのではない。こうして語り継がれ、暮らしの道具となって残るものの中にも、確かに息づいている。

見付は「戦場」だったのか

ここであらためて確かめておきたいのは、見付そのものが大合戦の主戦場になったわけではない、という点である。家康と武田がぶつかった三方原の決戦は、浜松の北の台地で行われた。見付が果たしたのは、むしろ軍勢が東西に動くときの「通り道」としての役割だった。しかし、それは決して脇役ということではない。天竜川という大河を渡る前後の要地であり、東海道の宿場であり、兵と物資と情報が必ず通過する結節点 ── そうした場所を押さえることは、戦いの帰趨を左右する。大軍を養うには、兵糧を運ぶ道と、それを中継する拠点が欠かせない。街道と川の要にあたる見付は、まさにその役割を担いうる場所だった。合戦の勝敗は、戦場での槍働きだけでなく、こうした後方の要地をいかに押さえるかにも懸かっていたのである。見付は、華々しい合戦の舞台ではなかったかもしれないが、戦国の大きな動きが、その足もとを繰り返し通り過ぎていった、まぎれもない歴史の要衝だったのである。

遠江攻略から三方原まで(1568〜1572)永禄11(1568)家康、遠江侵攻元亀元(1570)浜松を本拠化元亀3(1572)秋武田西進・一言坂同年12月三方原合戦見付は、この五年間の軍勢の動きが繰り返し通過した地だった
図2 遠江攻略から三方原まで。1568年の家康侵攻から1572年の三方原合戦へ、軍勢は見付周辺を繰り返し通った。

戦国のあとに来たもの

三方原の戦いは、家康にとって手痛い敗北だった。しかし、この敗戦を耐え抜いた家康は、やがて武田氏の滅亡、そして天下人への道を歩んでいく。その長い道のりの、まさに出発点の近くに、この見付の地はあった。家康が浜松を本拠と定め、遠江の経営を進めるなかで、見付は築城候補にも挙がったと伝えられ、東海道の宿場として、また地域の要として、重んじられていく。戦国の争乱が過ぎ去ったのち、家康が開いた江戸時代の泰平のなかで、見付は東海道二十八番目の宿場町として大きく栄えることになる。戦乱の通り道だった町が、平和の時代には人と物の行き交う賑わいの町へ ── その転換の底には、家康の遠江攻略という、戦国の大きな出来事が横たわっている。見付の歴史をたどることは、一人の武将が天下を取っていく物語の、確かな一断面に触れることでもあるのだ。

三方原の敗戦を家康が生涯忘れなかったという逸話は、よく知られている。この苦い経験が、のちの慎重で粘り強い家康をつくったとも語られる。もしそうだとすれば、その転機となった戦いの舞台のすぐ近くに、見付はあった。天下人・徳川家康の礎が築かれていくその現場に、この磐田の地が確かに立ち会っていた ── そう考えると、いま私たちが何気なく歩く見付の旧東海道も、一言坂のゆるやかな坂道も、日本の歴史の大きな転換点と、地続きであることに気づく。土地の記憶は、教科書に載る大きな歴史と、決して無縁ではない。むしろ、足もとの地名や坂道をたどることでこそ、遠い戦国の時代が、生き生きとした実感をもってよみがえってくるのである。

出来事見付との関係
1568家康が遠江侵攻東海道・天竜川渡河の要地
1570浜松を本拠化見付の西に政治軍事拠点
1572武田軍西進・三方原合戦木原・西島から見付を経由

更新履歴:2026年7月12日 新規公開。2026年7月23日 「なぜ遠江が争われたのか」「見付は『戦場』だったのか」「戦国のあとに来たもの」などの節を加筆し、進路図・年表の図版2点を追加。

参考資料

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