この記事の要点
- 明治初年頃まで、この地方には東海道(国道1号)より北に、車馬(大八車)の通行できる道が無かった。
- 向笠村生まれの高塚太郎平が、産業の発展には道路が必要と考え、全私財を投じて独力で新道を完成させた(明治20年)。
- 県は完成後13年間の通行料徴収を認めていたが、太郎平は一切徴収せず、道は誰でも無料で通れた。
- その後、銀行から借りた金をめぐる裁判に敗れ、土地も家も財産もすべて失い、明治32年に56歳で世を去った。
- 現地に立つ向笠史談会の看板(2014年6月)と、磐田市立向笠小学校の記録とでは、道の長さ・幅・工期の数値が食い違う。本稿は両論を併記する。
大八車の通れる道が、一本もなかった
現地に立つ向笠史談会の看板は、こう書き起こしている。明治初年頃まで、この地方には東海道(現在の国道1号)より北に、車馬(大八車)の通行できる通路が無く、人々は不便をきたしていた――。
大八車は、江戸期から昭和にかけて物資を運んだ、人が曳く二輪の荷車である。それが通れないということは、米も薪も茶も、すべて人が背負うか、馬の背に振り分けて運ぶしかないということを意味する。東海道(国道1号)という大動脈は台地の南を東西に走っていたが、そこから北の村々――向笠・大藤・岩田といった向陽の旧村は、荷車の通らない土地に取り残されていた。
当時37歳の高塚太郎平は、産業の発展には道路の開発が必要だと考え、独力でそれを完成させようと考えた、と看板は記している。
高塚太郎平とは何者か
弘化2年(1845年)、磐田郡向笠村の生まれ。近くの村々に田畑や山林を持つ資産家の長男で、25歳で19代目の当主となった。磐田市立向笠小学校の公式サイトが、その生涯を伝えている。
太郎平の名が地域の記録に残る理由は、道だけではない。28歳のとき、彼は学校建設のための資金を全額寄付している。弘化2年生まれの28歳は、明治6年(1873年)にあたる。磐田物語の別稿で扱ったとおり、向笠小学校は明治6年11月、新豊院を仮校舎として「磐田学校」の名で開校したと伝えられる。学制が公布されて間もない時期に、一人の資産家が学校の建設費を丸ごと引き受けていたことになる。
学校に私財を投じ、次に道に私財を投じる。太郎平という人物の輪郭は、この二つの寄進にはっきりと表れている。
道はどこからどこまで、どれほどの規模だったのか
ここで、資料によって数値が食い違う。現地の看板と、向笠小学校の記録とを、そのまま並べて示す。
| 項目 | 向笠史談会の看板(2014年6月) | 磐田市立向笠小学校 公式サイト |
|---|---|---|
| 区間 | 小笠郡原谷川西岸より天竜川東岸まで | 久努村名栗から、久努西・今井・向笠・大藤・富岡の各村を通って磐田村匂坂西を終点とする |
| 長さ | 12km | 13km |
| 幅 | 2m | 3.6m |
| 工期 | 5年間 | 6年間 |
| 完成 | 明治20年 | 明治20年4月11日(可睡斎で落成式) |
| 費用 | 全私財を投じて | 6,000円を超えた |
区間の書き方は、一見すると別の道のように見えるが、そうではない。看板は川という地理で、小学校は村名で、同じ道の東西の端を示している。東の起点である久努(現在の袋井市)のあたりは原野谷川の流域にあたり、西の終点である匂坂西は天竜川の東岸に位置する。両者はおおむね同じ道を、別の言葉で描いていると読める。
一方で、長さ(12kmと13km)・幅(2mと3.6m)・工期(5年と6年)の差は、そのままでは埋まらない。本稿ではどちらか一方を正しいと決めず、両論を併記する。明治20年の完成、全私財の投入、独力での事業という骨格は、二つの資料で一致している。
なお、落成式が開かれた可睡斎は、磐田物語の別稿(秋葉常夜灯)で扱った秋葉総本殿である。火伏せの神を祀り、遠州一円の信仰を集めてきた寺で、新道の完成を祝う式が営まれたことになる。
通行料を、取らなかった
この道の話が、単なる土木の記録に終わらないのは、ここからである。向笠小学校の記録によれば、完成してから13年間は、通行料を取ることが県から認められていた。私財を投じた者がその投資を回収する道は、制度としてきちんと用意されていたのである。
しかし、太郎平はそれをしなかった。同校はこう記している。「新しい道はだれでもただで通ることができました。太郎平さんは、自分がどんなに貧しくなっても通行料を取ることをしませんでした」。
13年分の通行料を取る権利を県から認められながら、太郎平は一円も取らなかった。道は最初から、誰のものでもなく、みんなのものだった。
豊田橋とつながって
看板は、この道が孤立した一本ではなかったことも伝えている。明治16年に開通した天竜川の豊田橋(木造の橋)と結ばれて、おおいに発展した――と。
橋のなかった天竜川を渡ることがどれほどの難事であったかは、磐田物語の別稿(天竜川の橋と渡船)で扱ったとおりである。その天竜川に明治16年に木造の橋が架かり、その東岸から東へ、太郎平の新道が伸びた。川を渡る手段と、荷車の通れる道とが、この時つながったのである。
興味深いことに、佐口行正氏所蔵史料のなかには「遠江国豊田橋架設略面/明治十六年二月彫刻」と題された地図・絵図が残されている(別稿参照)。看板が伝える「明治16年開通の豊田橋」は、この一枚の刷り物によっても裏づけられる。
すべてを失って
道は残ったが、太郎平の身代は残らなかった。向笠小学校の記録は、その最期を短く伝えている。銀行から借りたお金のことで裁判に負けて、土地も家もお金も、すべて失った。そして明治32年、太郎平は56歳でこの世を去った。
学校の建設費を全額寄付し、道に全財産を注ぎ、認められた通行料さえ取らなかった人物が、財産を失って世を去る。その因果関係が資料に明示されているわけではないため、道づくりが直接の原因だったと断じることはできない。ただ、事実の並びだけは、動かしがたく残っている。
道が残したもの
いま、高塚太郎平新道がどの道路に受け継がれているのかを、この二つの資料だけで特定することはできない。区間の表記が異なり、幅も長さも一致しないからである。しかし、東海道より北の村々に荷車の通る道が通じ、天竜川の橋とつながって物と人が動きはじめたという事実は、確かにこの土地の暮らしを変えた。
その道の入口に、2014年6月、向笠史談会が一枚の看板を立てた。名を大きく残すことのなかった一人の男の仕事を、地域が自らの手で書き留めたのである。向笠城砦跡の標柱と同じく、こうした地元の看板は、公式の史書に載りきらない記憶をつなぎ止める、細くて確かな糸である。
よくある質問
現時点では特定できません。向笠史談会の看板は「小笠郡原谷川西岸より天竜川東岸まで」と地理で、磐田市立向笠小学校は「久努村名栗から久努西・今井・向笠・大藤・富岡を通り磐田村匂坂西まで」と村名で区間を示しており、長さも12kmと13kmで一致しません。おおむね同じ道を指すと読めますが、現在のどの路線に対応するかを断定できる資料を、本稿では確認できていません。
理由を明記した記録は確認できていません。磐田市立向笠小学校の公式サイトは、完成後13年間の通行料徴収が県から認められていたこと、それでも「自分がどんなに貧しくなっても通行料を取ることをしませんでした」という事実を伝えるにとどまります。本稿でも、その動機を推測で補うことはしていません。
更新履歴
- 2026年7月16日 新規公開。向笠史談会の看板「高塚太郎平新道」(2014年6月建立)の現地確認と、磐田市立向笠小学校 公式サイト「学校の自慢・歴史」にもとづく。看板と同校とで長さ・幅・工期の数値が異なるため、両論併記とした。
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。