掛塚湊の成立と廻船問屋 ──
材木輸送から御用米輸送、
「遠州の小江戸」の最盛期へ
磐田市の南のはずれ、天竜川の河口にあたる竜洋・掛塚のあたりは、今は静かな町だ。だが町を歩くと、ところどころに黒っぽい石を積んだ古い蔵や塀が目につく。この何気ない風景の一つひとつが、かつてここが「湊町」だった時代の名残である。
成立 ── 川と海が出会う場所として
掛塚という地名は、室町時代の文明17年(1485年)、禅僧・万里集九が記した漢詩文集『梅花無尽蔵』に「懸塚」という名で現れるのが早い記録とされる。万里集九はこの地に立ち寄り、船主の家に宿をとったと伝わる。五百年以上前から、ここには船と、それを商う家があったということになる。
ただし、この地が本格的な湊町として発展するのは近世に入ってからである。天竜川の河口は、川が運ぶ土砂で水深が浅く、大きな船の出入りには適さない場所だった。掛塚は恵まれた天然の良港ではなく、川と海という条件の厳しい境界を、人の手で使いこなして湊として成立させた町だと理解したほうがよい。中世の荘園(池田荘)との関わりなど、より古い時代の土地の記憶については、池田荘と掛塚湊の起源で別途たどっている。
学説の整理 ── 前史・白羽湊はどこにあったか
掛塚湊の前史として語られるのが白羽湊である。南北朝時代の延元3年(1338年)、宗良親王が遠江の白羽湊に着いたと、親王の歌集『李花集』にみえる。この白羽湊の位置については、大きく二つの見方がある。
ひとつは、竜洋の白羽にあったとする見方である。現在の白羽の地名との連続を重んじる理解で、掛塚湊の前身をこの付近に求める。もうひとつは、浜松市の米津海岸の一角にあった湊(田尻湊)とする説である。天竜川河口部の地形が大きく変わってきたことを踏まえ、対岸側に湊を想定する。
本稿では、現時点でいずれとも断定できないため両説を併記し、湊のあった場所の確定は今後の研究に委ねたい。いずれの理解をとるにせよ、室町時代後期にはこの河口付近に船の停泊する湊があり、文明17年(1485年)に万里集九が船宿に一夜を明かしたこと、そして港口には浅瀬があって満潮時でも水深5尺(約1.5m)、干潮時には1尺(約30cm)ほどしかなく、高波のときには出入りが困難だったと記録されることは、その後の掛塚湊の性格を考えるうえで重要である。恵まれない港湾条件は、前史の段階からこの湊の宿命だった。
山から湊へ ── 天竜川の木材輸送システム
掛塚湊の繁栄を支えたのは、天竜川上流から河口まで一貫した木材輸送のしくみだった。慶長5年(1600年)前後、徳川家康は信州・伊那谷を幕府の直轄領(天領)とし、この地域では年貢の一部を米ではなく「榑木(くれき)」――杉・檜・椹(さわら)を板状に挽いた材――で納めさせた。榑木は一本ずつ川に流し込む「管流し(くだながし)」という方法で天竜川を下り、途中の船明(ふなぎら)・肘荒(ひあらい)などに張られた留綱(とめづな)でせき止められ、陸へ引き上げて山積みにされた。必要に応じてそこから筏に組み直され、あらためて川を下って掛塚湊まで送られたのである。
つまり掛塚は、川を流れ下ってきた木材がはじめて「海を渡る荷」に姿を変える場所だった。上流の管流し・筏流しという川の物流と、廻船による海の物流とをつなぐ変換点として、掛塚は他に代えがたい役割を担っていたことになる。
商人 ── 廻船問屋という業態
近世に入り、天竜川上流(信州・伊那谷方面)の森林資源が江戸の町普請・城郭建築などの需要に応じて本格的に切り出されるようになると、掛塚は材木輸送の拠点として急速に発展した。山で伐り出された材木は筏に組まれて天竜川を下り、河口の掛塚で大型の廻船に積みかえられ、海路で江戸へ運ばれた。掛塚湊は、大坂と江戸を結ぶ廻船の中継地としての性格もあわせ持ち、天竜川舟運の荷を積み替える湊として、単なる一地方港にとどまらない広域物流の結節点になっていた。
廻船問屋は、現代でいえば物流会社・商社・倉庫業・金融の役割を少しずつ兼ねた存在だった。荷主と船主を結び、船を仕立て、荷を預かり、代金をやり取りし、嵐や座礁、相場の変化といった海運のリスクを引き受けながら商いを成立させていた。掛塚の廻船問屋は経済力とともに大きな発言力を持ち、村役人(村名主)が廻船問屋のなかから選ばれ、港名主が村名主を兼ねる例もあったと伝えられる。船を持つ者が湊の商いだけでなく、村の自治そのものを担っていたわけである。掛塚を代表する廻船問屋・吉岡家の具体的な商いぶりについては、掛塚の豪商・吉岡家と廻船問屋の繁栄で深掘りしている。
津倉家 ── 屋号「江戸屋」の廻船問屋
吉岡家とならんで掛塚の廻船問屋の実像を今に伝えるのが、屋号「江戸屋」を名のった津倉家である。津倉家は江戸後期から明治期にかけて廻船問屋・材木商として栄えた豪商で、現存する主屋は明治22年(1889年)、地元の大工・祖父川藤治郎の手によって建てられたと伝わる。通りに面した格子窓を持つ二階建てで、店先の土間から座敷まで続く間取りには、材木商にふさわしい良材がふんだんに用いられている。敷地内の土蔵は、天竜川の水害に備えて伊豆石を丁寧に貼った二階建てで、内部は板張りと漆喰仕上げとなっている。この主屋・座敷棟・土蔵は令和5年(2023年)に国の登録有形文化財となり、水運で栄えた掛塚の記憶を伝える建物として、現在も現地で見学の機会が設けられている。津倉家住宅は、伊豆石という「帰り荷の記憶」を建物そのものの形で今に伝える、貴重な実例でもある。
廻船 ── 材木から御用米へ、そして最盛期の統計
江戸時代も中ごろになると、天竜川上流の木材はさすがに伐り尽くされてきた。すると掛塚の廻船問屋たちは、御用米の運搬という新たな商いに乗り出す。伊勢国や美濃国で集められた幕府直轄領の年貢米を、江戸まで船で運ぶ仕事である。この転換によって、掛塚の廻船問屋はさらに大きな財をなし、湊のまわりには廻船問屋の屋敷が建ち並んだ。そのにぎわいから、掛塚はいつしか「遠州の小江戸」とよばれるようになった。
繁栄ぶりは数字にも残っている。もっとも栄えた明治25年(1892年)ごろには、三十六軒もの廻船問屋が、あわせて五十九隻もの大型船を所有していたという。小さな河口の町に、これだけの船と商家が集まっていたことになる。なお、静岡県立中央図書館の教材資料には、掛塚湊の廻船問屋が株仲間(独占的な仲間組織)を形成していたことを示す史料が紹介されており、掛塚が個々の商家の集合というより、組織立った商業拠点であったことがうかがえる。
もう一つ、数字の変化として押さえておきたいのが、貴船神社境内に昭和3年(1928年)に建立された「掛塚港廻船之碑」が伝える姿である。この碑が建てられた時点では、回船仲間は18人、所有する船は38艘だったと伝わる。明治25年ごろの36軒・59隻という最盛期の数字と比べると、碑が建てられた昭和初期には廻船問屋の数も船の数も半分近くまで減っていたことになる。この碑は、繁栄の絶頂ではなく、鉄道の時代を経てなお港と海運の記憶を後世に残そうとした人々の思いによって建てられたものであり、数字の推移そのものが、掛塚湊の盛衰をよく物語っている。
この繁栄が残した、もう一つの痕跡が「伊豆石」である。江戸へ材木や米を運んだ船は、帰り道は荷が軽い。そのままでは船が安定しないため、重しとして伊豆あたりの石を積んで帰ってきた。その石が、掛塚の蔵や塀の材料になった。町に残る伊豆石は、帰り荷という海運経済の合理性が、そのまま形になったものである。
| 成立 | 文明17年(1485年)『梅花無尽蔵』に「懸塚」の名。近世に入り材木輸送の拠点として湊が発展。 |
|---|---|
| 木材輸送 | 信州・伊那谷の榑木を管流し・留綱・筏で天竜川を下し、掛塚で廻船に積み替える一貫システム。 |
| 商人 | 廻船問屋。荷主と船主を結び、船・荷・代金・リスクを引き受けた業態。吉岡家・津倉家(屋号「江戸屋」)などが代表格。株仲間の存在も示唆される。 |
| 廻船 | 材木輸送(近世前期)→御用米輸送(近世中期以降、伊勢・美濃の年貢米)。帰り荷は伊豆石。 |
| 最盛期 | 明治25年(1892年)ごろ、廻船問屋36軒・大型船59隻。昭和3年の掛塚港廻船之碑建立時は回船仲間18人・船38艘。 |
| 衰退 | 明治22年(1889年)東海道線全通と天竜運輸会社設立。運賃同盟の抵抗を経て物流は鉄道へ移り、明治末から湊は衰退。 |
数字でみる幕末・明治の掛塚湊
湊の規模は、いくつかの記録から数字で追うことができる。江戸へ向かう廻漕船の数は、文化年間(1804〜1818年)に38隻、天保2年(1831年)に40隻、明治17年(1884年)に36隻と、江戸後期から明治前期までほぼ一定の水準を保っていた。また元禄7年(1694年)の津倉家文書「掛塚湊廻船連判掟書」や稲勝家の「船頭船番船持味帳」には、船主・船頭の名や積荷に関する取り決めが書き留められており、廻船業務が業者の会所によって統制されていたことがうかがえる。
運賃の記録も残る。金原明善記念館所蔵の「掛塚港輸出荷物調」によれば、幕末の文久2年(1862年)から明治5年(1872年)までの約10年間で、年間の出荷量には大きな変化がない一方、運賃は2倍以上に上昇している。版籍奉還・廃藩置県・地租改正と続いた変革期のインフレーションが、湊の帳簿にもはっきり刻まれているのである。
明治も後半に入ると、船の姿が変わる。明治28年(1895年)の「航路標識位地構造方及入港船舶調べ」には、一年間の入港船として日本形船405隻に対し西洋形船19隻が記録され、最大級の船としては西洋形500トン積、日本形1,600石積の名がみえる。明治36年(1903年)には西洋型帆船・第七石宝丸(181.46トン)が進水し、その奉納額が貴船神社に残されている。和船の湊だった掛塚が、洋式帆船の時代に対応しようとしていた証しである。
村から町、そして竜洋町へ ── 行政沿革
湊としての繁栄の裏側で、掛塚は行政区画としても変遷を重ねている。明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により掛塚村など5村が合併し「長上郡掛塚村」が発足した。明治29年(1896年)4月1日には郡制施行にともない所属郡が磐田郡へ変更され、同年6月29日には町制を施行して「磐田郡掛塚町」となる。昭和25年(1950年)の国勢調査時点で、掛塚町の人口は6,847人を数えた。
そして昭和30年(1955年)4月1日、掛塚町は十束村・袖浦村と合併して竜洋町が発足し、掛塚町としての歴史に幕を下ろした。平成17年(2005年)には竜洋町が磐田市へ合併し、現在に至る。掛塚は旧竜洋町の中心であり、川袋、白羽、十郎島、平松、駒場、岡、中島など天竜川河口の集落とともに、いまの竜洋地区の生活圏を形づくってきた。
掛塚灯台 ── 個人の私財が築いた海の目印
湊の繁栄を支えたもう一つの存在が、天竜川河口の東岸・駒場に立つ掛塚灯台である。天竜川の河口付近は土砂の堆積で浅瀬が多く、出入りする船の座礁が絶えなかった。これを見かねた旧幕臣・新井信敬は、明治13年(1880年)、私財を投じて菜種油を灯火とする私設灯台を築き、みずから毎晩火をともし続けたという。信敬が好んだ酒を断ってまで燃料代を捻出したという逸話から、この私設灯台は「改心灯台」ともよばれた。
その後、明治30年(1897年)3月25日、私設灯台の北西18メートルの位置に、国(逓信省)による正式な掛塚灯台が完成する。現在、全国に3,118基ある灯台のうち、明治期に建てられて現存するものはわずか64基とされ、掛塚灯台はその貴重な一基である。平成14年(2002年)には、海岸侵食と地震対策のため、約1キロメートル西の竜洋海洋公園南側へ移設された。個人の善意から始まった灯が、国の灯台として引き継がれ、今も天竜川河口の目印であり続けている点は、掛塚という湊町が官民問わず多くの人の手によって支えられてきたことを象徴している。
鉄道の時代へ ── 湊の衰退
湊町の繁栄は、思わぬ方向から終わりを迎える。鉄道である。明治22年(1889年)、東海道線が開通した。重い荷を船でゆっくり運ぶ時代から、汽車で速く運ぶ時代へ。物の流れが根こそぎ変わり、掛塚の湊が担っていた輸送は、しだいに鉄道へ取って代わられていった。明治40年代には輸送機能はさらに縮小し、大正の初めには湊としての役目はほぼ失われている。五百年にわたって川と海をつないできた湊が、時代の転換のなかで静かに幕を下ろしたのである。
天竜運輸と運賃同盟 ── 湊の終焉を早めたもの
木材の鉄道輸送の可能性をいち早く予想したのが金原明善で、東海道線全通と同じ明治22年(1889年)、天竜川西岸に天竜運輸会社を設立し、鉄道南側の停車場から木材の陸送に乗り出した。明治31年(1898年)には天竜川駅が開業し、木材は中野町(現在の浜松市)地先で陸揚げされて列車で運ばれる流れが太くなっていく。
なお資料には、当初の東海道線は中泉から南下して掛塚を経由し浜松へ向かうルートが考えられていたが、地元の廻船業者が反対したため現在のルートになった、という経緯が記されている。ただし、この種の「鉄道忌避」の話は全国各地に伝わる一方、史料的な裏付けを欠く例が多いことが指摘されており、掛塚についても計画路線の実否を含めて慎重な検討を要する。本稿では、資料の記述として紹介するにとどめたい。
海運側も座視していたわけではない。明治33年(1900年)には掛塚の船主たちが運賃同盟を結んで陸送への対抗を図り、鉄道側との間で運賃をめぐる紛糾も起きた。しかし日清・日露の両戦争を経て物流の主軸は着実に鉄道へ移り、明治39年(1906年)には池田村から中泉駅へ人車軌道が敷かれて、天竜川東岸の木材までが中泉駅経由の鉄道輸送に流れるようになる。この人車軌道はのちの中泉軌道につながるもので、その顛末は中泉軌道と光明電気鉄道の特集で詳しくたどっている。鉄道側が運賃率を引き下げると、掛塚港の廻船問屋は決定的な打撃を受けた。
没落は数字にあらわれる。廻漕の運賃は下がり続け、港湾は増大する木材の移出に設備の面で適応できず、製材の中心も中野町付近の工場地帯へ移っていった。明治39年(1906年)の156隻という入港船数の記録を最後の高原として、掛塚の船数・取扱量は明治末から大正にかけて減少に向かい、大正中期に計画された天竜軽便鉄道も実現しないまま、湊は静かに役目を終えていく。かつて港のあった入江に「港湾」の地名が残るのみとなった。
ただし、衰退を単純な「敗北」として見るのは正確ではない。掛塚は、川と海が物流の主役だった時代に、必要とされる役割を果たしきった町である。鉄道の登場は掛塚固有の失敗ではなく、日本全体の物流構造そのものが変わったことの結果であり、むしろ注目すべきは、湊としての役割が終わった後も、掛塚が自らの来歴を語り継ぐ手立てを手放さなかったことだろう。伊豆石の蔵や津倉家住宅のような旧廻船問屋の建物、掛塚灯台、そして貴船神社境内の掛塚港廻船之碑は、いずれも経済活動そのものが終わったあとに、意識して残されてきた記憶の器である。
湊としての経済活動は鉄道の時代に役割を終えたが、その富と技術と誇りは、貴船神社の例祭「掛塚まつり」の絢爛な屋台という形で今も受け継がれている。祭礼と屋台文化の詳細は、貴船神社と海の安全を祈る水神信仰で扱っている。
主な参考資料
- 磐田市観光協会「掛塚湊の碑」「遠州の小江戸と呼ばれた掛塚湊」
- 磐田お宝見聞帳「竜洋地区と天竜川」「掛塚湊の町並み跡」
- Wikipedia「掛塚町」「掛塚灯台」(町村制・郡制・合併の年次、灯台の沿革確認)
- 国税庁「年貢米の江戸回送」(御用米輸送の仕組み確認)
- 静岡県立中央図書館 学習資料「江戸時代の株仲間の役割 ~安定供給と物価~」(掛塚湊廻船問屋の株仲間に関する史料)
- 小杉達「掛塚港の『みなと文化』」(みなと文化研究事業・日本財団図書館アーカイブ)(回船仲間・掛塚港廻船之碑に関する記述)
- 文化遺産オンライン「旧津倉家住宅主屋」「旧津倉家住宅土蔵」(国登録有形文化財、屋号「江戸屋」津倉家の沿革・建築詳細)
- 静岡新聞DIGITAL・中日新聞しずおかWeb(旧津倉家住宅の国登録文化財指定・一般公開に関する報道)
- ふじのくにメディアチャンネル・海上保安庁「灯台ONEタップビュー」(掛塚灯台・新井信敬と改心灯台の沿革)
- 天竜川上流域の木材流送に関する公開資料(榑木・管流し・船明・筏に関する近世木材輸送の仕組み確認)
- 竜洋町史編纂資料・掛塚湊/木材諸物資輸送編(存在確認。原本は現地資料での裏取りを推奨)
- 竜洋地区の郷土誌「七、交通運輸の変遷」(書名確認中)。津倉家文書「掛塚湊廻船連判掟書」・稲勝家文書、金原明善記念館所蔵「掛塚港輸出荷物調」(いずれも上記資料所引)。
- 磐田物語「竜洋地区」「磐田市の町村合併史」(地区分類・町村沿革の整理)
更新履歴
- 「学説の整理 ── 前史・白羽湊はどこにあったか」「数字でみる幕末・明治の掛塚湊」の2節を追加し、鉄道の時代の節に天竜運輸・運賃同盟・人車軌道の記述を補記。竜洋地区郷土誌(書名確認中)に基づく。
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