徳川家康は、見付に城を築こうとして、途中でやめている。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第一章はこの経緯を述べ、あわせて明和7年(1770年)の見付宿明細差出帳から、宿内に残されていた「古城郭二ヶ所」の記載を全文引用している。江戸中期の見付には、二つの城跡が藪山となって残っていた。一つは古く城主も伝わらない城、もう一つは天文年間の堀越要山の城 ── そして家康が手を入れかけて放置した城も、そのうちの一つであったという。本稿ではこの築城中止の意味と、二枚の城跡の記録を読む。
- 永禄12年(1569年)正月、家康は見付の端城を毀って新城を築いた。駿遠参三国経営の策源地とする大見付城の計画であった。
- しかし用水の関係で築造半ばで中止となり、家康は天竜川西岸の三方原台地南麓へ新城を求めた。これが曳馬城、のちの浜松城である。
- 明和7年の明細差出帳は宿内の「古城郭二ヶ所」を記し、一方は「往古よりの城治にて城主相知不申候」、他方は「天文年中頃堀越要山の城治の由」と伝える。
- 著者は、もし見付城が家康の居城となっていれば「史上の三方原の戦は見付台地の磐田原の戦となったであろう」と述べる。
寛永18年の絵図に見える「御城」
同書はまず、見付宿最古の絵図とされる寛永18年(1641年)の「岩井野秣場出入御裁件御裏書絵図」を手がかりに、城の位置を説明する。それによると、あくろ沼と南部において連絡し、城之崎の福王寺は半島状をなして南に突出している。この福王寺の北に「御城」と記入されている一郭がある ── これが家康の築いた新城である、と。
その場所はもともと城地であった。同書は、この地が鎌倉初期の安田義定の城地であったと述べ、あわせて明和7年の明細差出帳に「是は往古よりの城治にて城主相知不申」とあること、そして「城之崎」という地名そのものが古城址を示唆することを挙げる。ただし同書自身「何かの古城址であったであろう」と推定のかたちで述べており、断定はしていない。中世の見付の城については遠江今川氏と見付端城、見付守護所もあわせて参照されたい。
築城中止 ── 用水が足りなかった。 永禄12年(1569年)正月、家康は先の端城を毀って新城を築いた。同書はその意図を明確に述べる。「さて永禄十二年の家康のこの城池の修理は駿遠参三国経営の策源地として大見付城築造の計画からきたものであった」。駿河・遠江・三河の三国を経営する拠点 ── つまり家康の本拠地とする構想であった。
「しかるに用水の関係で築造半ばで中止のやむなきに至り、天竜川西岸の三方原台地の南麓に新城を求めそこへ移ることとなった。これが曳馬城で、後の浜松城である」。
この一文はあっさりしているが、内容は重い。見付が家康の本拠地にならなかった理由は、政治でも軍事でもなく、水であった。磐田原台地の南裾という見付の立地は、街道の要衝としては申し分ないが、大規模な城とその城下を養う用水には向かなかったということになる。磐田原の水の乏しさは近代まで続く課題であり、磐田原の水不足と開発史が扱うとおりである。宿場町としての見付を成り立たせた地形が、城下町としての見付を拒んだ ── そう読むこともできる。
「磐田原の戦」になっていたかもしれない。 同書はここで、歴史の分岐を想像してみせる。元亀3年(1572年)、武田勢の侵入を受けた家康は浜松城下に押し寄せた敵勢を退けた ── 三方原の戦いである。そして著者はこう書く。もし「浜松城に代って見付城が徳川氏の居城となりその策源地となっていたなら、史上の三方原の戦は見付台地の磐田原の戦となったであろうし、後世浜松城下の位置は見付が代って占めることとなったであろう」。
これは史実の記述ではなく、著者の推論である。しかし用水という一点で本拠地が浜松に移り、その結果として近世の城下町・浜松と宿場町・見付という役割分担が決まったとすれば、見付のその後の性格 ── 特集トップで見たとおり「純然たる一宿駅」として三百年を過ごしたこと ── の起点は、この築城中止にあったことになる。同書が自序で見付を「純然たる一宿駅として別個の発達の道をすすんだ」と位置づけたのは、この分岐を意識してのことであろう。三方原合戦そのものは徳川家康と三方原合戦に詳しい。
なお同書は、三方原の戦の際に武田勢を撃退したと伝える「酒井の陣太鼓」の古太鼓が、当時(1974年)見付の町有となり町の中央の五階堂に安置され、明治以来打ち鳴らされていることを記し、註として「伝酒井の太鼓は、現在、見付地区共有となり矢奈比売神社に保管されている」と補っている。伝承にかかわる品であって、三方原の戦との関係が史料で確かめられているわけではない。同書も「伝える」と書いており、本稿もこれを伝承として扱う。
「古城郭二ヶ所」── 明和7年の記録
江戸中期、見付宿は幕府へ提出する明細差出帳のなかで、宿内に残る城跡を二ヶ所として届け出ている。同書が引用する明和7年(1770年)の記載は次のとおりである。
| 城郭 | 差出帳の記載(同書引用) |
|---|---|
| 壱ヶ所 堅68間 横155間 町より東南 | 「是ハ往古より城治にて城主相知不申候共 権現様御代にも御取立被為極候処 囲堀水出不申候ニ付其儘被為置候由伝候」 ──古くからの城地で城主は伝わらないが、権現様(家康)の御代にも取り立てが決まったところ、囲堀に水が出なかったのでそのままに置かれたと伝える、という趣旨 |
| 壱ヶ所 堅64間 横50間 町より北 | 「是ハ天文年中頃堀越要山の城治の由申伝候」 ──天文年中頃の堀越要山の城地であると申し伝える、という趣旨 |
| 「右二ヶ所共ニ御朱印地ニ而大見寺領ニ御座候 只今ハ藪山ニ罷成候」 ──二ヶ所とも御朱印地で大見寺領である。ただいまは藪山になっている、という趣旨 | |
出典:田中友次郎編著『東海道遠州見付宿』所引の明和7年見付宿明細差出帳。原文の表記は同書のまま。現代語の要旨は本稿による。
記録が裏づけたこと。 この差出帳の記載は、二つの点で重要である。
第一に、家康の築城中止が、江戸中期の宿の公式文書に残っていたことである。「権現様御代にも御取立被為極候処 囲堀水出不申候ニ付其儘被為置候」── 家康の代に城として取り立てることが決まったが、堀に水が出なかったのでそのままにされた。同書本文の「用水の関係で築造半ばで中止」という説明は、この一文に裏づけられている。宿の人々は、二百年後もこの経緯を語り継ぎ、幕府への届け出に書いていたのである。
第二に、二つの城跡がいずれも大見寺領の御朱印地となっていたことである。十一ヶ寺と二社で見たとおり、大見寺は朱印高15石の浄土宗寺院で、東坂の奥に位置した。城が失われたあと、その地は寺の領地となり、年貢を免れた藪山として幕末まで残った。武家の施設が寺の領地へ転じるという、中世から近世への移行の一つのかたちがここにある。
「只今ハ藪山ニ罷成候」── ただいまは藪山になっております。同書はこの節を「江戸中期を出でずしていわゆる旧城も新城も夏草茂り荒廃に帰した」と結ぶ。家康が三国経営の拠点にしようとした場所は、宿場町の裏手の草深い一角として、静かに江戸時代を過ごしたのである。城跡の記憶は、小字・地名資料に見える「城ノ腰」「城山」といった地名のかたちで、いまも土地に残っている。
更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第11ページ)。