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磐田物語 / 江戸の旅ブームと見付宿
見付 | 近世・旅

江戸の旅ブームと見付宿 ──
膝栗毛と道中案内の時代

享和2年(1802年)に出はじめた十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、江戸のベストセラーになった。弥次さん喜多さんの珍道中に笑った読者たちは、やがて自分でも東海道を歩き出す。この空前の旅ブームのなかで、見付宿はどんな旅人たちを迎えたのか。

膝栗毛 ── 笑いが旅を身近にした

『東海道中膝栗毛』は、江戸神田の住人・弥次郎兵衛(やじろべえ)と居候の喜多八(きたはち)が、厄落としを兼ねて伊勢参宮へ、さらに京・大坂へと旅する滑稽本(こっけいぼん)である。享和2年(1802年)の初編から次々に続編が刊行され、作者の十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は、この作品の空前の成功によって、原稿料だけで生計を立てた日本最初期の職業作家の一人になったといわれる。それまで文筆は武士や学者の余技であり、あるいは経済的な後ろ盾を持つ者の営みだった。一九が「書くことで食う」道を切り開いた背景には、膝栗毛を買い求める膨大な庶民の読者層の登場があった。

人気の秘密は、名所案内でも教訓でもなく、失敗の連続にあった。狂歌を詠みそこね、風呂の底を踏み抜き、詐欺にあい、女に振られ、方言が通じずに笑われる ── 弥次喜多の旅は、しくじりの見本市である。旅先の失敗をこれでもかと面白おかしく描くことで、膝栗毛は逆説的に、「旅は誰にでもできる。失敗したって、それもまた旅の楽しみだ」という感覚を庶民に植えつけた。旅を、特別な人の特別な行事から、普通の人の気軽な娯楽へと引き下ろしたのである。これは、一冊の本が社会の空気を変えた、数少ない例の一つだった。

なぜ庶民が旅に出られたのか

もっとも、膝栗毛が旅の楽しさを説いても、実際に旅ができる条件がなければ、ブームは起こらない。江戸中期以降、その条件が整っていた。第一に、天下泰平が続き、街道の治安が保たれていたこと。第二に、幕府の宿駅制度によって、宿場と宿場が規則正しく連なり、旅籠(はたご)・木賃宿(きちんやど)から茶屋まで、旅人を受け入れる施設の網が全国に張りめぐらされていたこと。第三に、「伊勢参り」に代表される寺社参詣が、庶民の旅の大義名分になったことである。信仰を名目にすれば、村を離れる許しも得やすかった。参詣は建前、物見遊山が本音 ── そんな旅も少なくなかっただろう。見付宿のような東海道の宿場は、こうした庶民の旅の波を受け止める器として、大いににぎわったのである。

弥次喜多の遠江路 ── 天竜の舟渡し

物語のなかで、弥次喜多の一行は東海道を西へ進み、遠江路では掛川から見付へと歩を進め、天竜川を舟で渡って浜松へ向かう。実際の東海道で、この区間の渡河を担っていたのが池田の渡しであり、渡船の運営には家康の判物に始まる池田村の渡船方があたっていた。橋のない大河を舟で渡る体験は、江戸の読者にとって旅のハイライトのひとつであり、膝栗毛のような滑稽本や道中記でも、川越えや渡船はしばしば見せ場になっている。増水すれば「川留め(かわどめ)」で足止めされ、宿場に旅人があふれる ── そうした渡河にまつわる出来事もまた、旅の物語を彩る格好の題材だった。

膝栗毛の読者が実際に東海道へ出れば、掛川を発ち、見付宿で一夜を過ごし、翌朝、天竜の渡し舟に乗る ── 弥次喜多とまったく同じ行程を、誰もが自分の足でなぞることができた。物語のなかの旅と、現実の旅とが、東海道という一本の道の上で重なり合う。見付宿は、その重なりのなかにあった。江戸の読者は、膝栗毛を読んで見付の名を知り、いざ旅に出れば、その見付に自分も泊まったのである。

弥次喜多の遠江路(西へ) 掛川 見付宿 一泊 天竜川(舟渡し) 浜松 江戸 → 伊勢・京・大坂をめざす西への旅
図1 弥次喜多の遠江路。掛川から見付宿に泊まり、翌朝、難所の天竜川を舟で渡って浜松へ向かった。
確認できること・できないこと
『東海道中膝栗毛』の刊行経緯・内容の概要、弥次喜多の道中が見付・天竜川を経由することは、各種資料で確認できる。一方、見付宿を舞台とする具体的な滑稽場面の有無・内容については、今回の調査では原文の該当箇所を直接確認できておらず、本文では踏み込んだ引用をしていない。宿賃・旅程の数値も、当時の一般的な相場・目安として広く知られる範囲で記したもので、見付宿の個別の記録に基づく確定値ではない。本稿は、膝栗毛と旅ブームが宿場に与えた影響という大きな文脈を主題としている。

道中記と案内書 ── 旅のガイドブック産業

膝栗毛のような読み物の背後には、実用の出版物の厚い層があった。宿場間の距離、渡し賃、旅籠の目安、名物や名所を記した「道中記(どうちゅうき)」、名所旧跡を絵入りで詳しく紹介する「名所図会(めいしょずえ)」の類である。旅人はこれらを携えて道を進み、あるいは旅立つ前に読んで想像をふくらませた。いわば江戸時代のガイドブックであり、旅行雑誌である。これらのガイドブックには東海道の宿場が順に載り、見付宿も、天竜川の渡しを控えた宿として、江戸にいながらにして旅人に知られる存在だった。文学と実用書が両輪となって、旅への欲求をかき立てたのである。

見付宿の成立と宿場範囲で見た天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によれば、見付宿には56軒もの旅籠があった。東海道の宿場としても多い部類に入るこの数の宿を、毎晩埋めていたのは誰だったのか。参勤交代の大名行列は、じつは宿場に落とす金という点では一部にすぎない。実際に旅籠の畳を踏み、飯を食い、酒を頼んだ大多数は、伊勢参りの講中(こうじゅう)、寺社巡りの隠居、湯治(とうじ)の湯客、そして商用の旅人だった。つまり、膝栗毛が後押しした庶民の旅こそが、見付宿の経済を底で支える土台だったのである。

旅ブームを支えた循環 文学(膝栗毛) 旅を身近にする 道中記・名所図会 旅の実務を助ける 宿場(見付ほか) 旅人を受け入れる 文学が旅を生み、ガイドが旅を支え、旅人が宿場を潤す ── その循環の一点に見付宿があった
図2 旅ブームを支えた循環。文学・ガイドブック・宿場が互いを支え合い、その循環の一点に見付宿があった。

旅の実際 ── 日数と路銀

では、江戸から見付を通って伊勢・京へ向かう旅は、どれほどの日数と費用がかかったのか。健脚の男が一日に歩く距離はおおむね八里から十里(約32〜40km)。江戸から京都までのおよそ百二十六里(約500km)を、休息や見物を挟みつつ、二週間前後で歩くのが標準的だった。見付宿は江戸から数えて二十八番目の宿で、旅もそろそろ後半にさしかかる地点にあたる。旅籠の宿賃は一泊二食でおよそ二〇〇文前後が相場とされ、ここに渡し賃や食べ物、みやげ、時には遊興の費用が加わる。庶民にとって旅は、けっして安い娯楽ではなかった。だからこそ、村ぐるみで少しずつ金を積み立て、代表者を伊勢へ送り出す「伊勢講(いせこう)」のような仕組みが発達したのである。一生に一度の贅沢として、人々は路銀を握りしめて見付の旅籠に泊まった。旅籠の側からすれば、そうした庶民の一世一代の旅こそが、毎晩の宿を埋めてくれる大切な客だったのである。

旅日記のなかの見付

旅ブームは、書き手の裾野も大きく広げた。プロの文人だけでなく、武士や商人、ときには村の女性までもが道中日記をつけ、泊まった宿の名、使った銭、道中で見た珍しいものを、こまめに書き残すようになったのである。こうした無名の人々の旅日記は、いまも全国の旧家の蔵に眠っており、そのなかには、見付に泊まった一夜の記録も、きっと少なからず含まれているはずである。「○月○日、見付泊、旅籠代いくら」── そんな素っ気ない一行が、当時の見付宿の宿賃相場や客の流れを教えてくれる、貴重な史料になる。

見付宿のにぎわい旧家・屋号で扱った宿場の姿を、こうした旅人の側の記録から照らし返す作業は、磐田の地域史にまだ大きく残された宿題である。中世の紀行文学が貴族と歌人という限られた人々のものだったのに対し、近世の旅の記録は、名もなき庶民のものになった。書き手が広がったということは、旅する人が広がったということであり、それはそのまま、見付宿を訪れた客層そのものの変化を映している。膝栗毛の時代とは、旅と、旅の記録が、庶民のものになった時代なのである。

旅ブームの時代の見付宿

享和2年(1802)『東海道中膝栗毛』初編刊行。以後続編が相次ぐ大ヒット
弥次喜多の行程掛川→見付→天竜川(舟渡し)→浜松と遠江路を西進
旅の実務道中記・名所図会が宿場情報を提供。見付宿は天竜川越えを控えた宿
天保14年(1843)見付宿の旅籠56軒(東海道宿村大概帳)。庶民の旅が宿場経済を支えた

笑いの旅が残したもの

膝栗毛は、見付を特別に持ち上げた作品ではない。弥次喜多にとって見付は、東海道に連なる無数の宿場の一つにすぎなかった。しかし、視点を変えれば、こう言うこともできる。旅を庶民のものに変えたこの一冊の本がなければ、天保の見付宿に56軒もの旅籠が立ち並び、毎晩それが埋まるという風景そのものが、なかったかもしれないのだ。

文学が人の心を動かし、動かされた人が旅に出て宿場を潤し、潤った宿場が町を育てる ── その大きな循環のなかに、見付宿は確かに組み込まれていた。旧家・屋号町家・蔵で見た見付の家並みの記憶。その底の底には、江戸の裏長屋で膝栗毛を読み、弥次喜多の失敗に腹をかかえて笑い、「いつか自分も東海道を歩いてみたい」と夢を見た、名もなき無数の読者たちがいる。彼らの笑いと憧れが、めぐりめぐって、この宿場町のにぎわいを支えていたのである。一冊の滑稽本と一つの宿場町は、そんなふうに、目に見えない糸で結ばれていた。旅を描いた文学と、旅人を迎えた宿場 ── その両方があって初めて、東海道という時代の物語は成り立っていたのである。

主な参考資料

膝栗毛原文の見付の場面の詳細は未確認であり、本文でその旨を明示している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。