見付宿の年貢と地方行政を管轄したのは、宿の南に隣接する中泉の代官所であった。『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第二章は、中泉代官の来歴を徳川家康の中泉御殿までさかのぼって述べ、さらに安政3年(1856年)の年貢割付状と翌年の皆済目録を全文引用して、幕末の見付宿にかかった税の内訳を明らかにしている。そこには、戦国今川氏の時代から引き継がれた永楽銭建ての税制が、幕末までそのまま生きていたという驚くべき事実が記されている。
- 中泉には天正6年(1578年)着工の家康の御殿があり、天正18年(1590年)に堀尾帯刀が代官として置かれて以来、幕末まで代官支配が続いた。
- 幕末の代官林伊太郎は漢学者林鶴梁その人であり、善政をもって庶民に慕われたと同書は伝える。
- 見付宿の本畑の年貢は、今川氏の朱印以来の「永高」(永楽銭建ての貫高)で計算され、鐚銭で納められた。
- 年貢のほかに二升出目米・油船運上・酒造冥加・質屋冥加などの附加税があり、一方で伝馬宿ゆえに御蔵前入用・六尺給米は免除された。
中泉御殿から代官所へ
中泉の地と徳川氏の縁は、家康の浜松在城時代に始まる。同書によれば、家康はしばしば浜松城からこの地方へ出猟し、見付に南接して今之浦に臨む中泉の地に仮の休息所を構えた。天正6年(1578年)には御殿の造営に着手し、同15年に落成をみた。外郭314間、総坪数3,750坪という規模である。家康が駿府に隠居した後も、折にふれてこの地に遊猟したという。
ついで天正18年(1590年)、堀尾帯刀(茂助)が中泉代官とされ、この地に陣屋を設けて遠江・三河にまたがる直轄地を支配させた。以後、中泉代官所は幕末まで続く。歴代の代官のうち大草太郎左衛門家は、御厨郷一千石の采地を食み、同郷新貝村に邸宅を構えて重要案件はすべて新貝で処理し、中泉陣屋には平素手代を置いた。子孫は代々太郎左衛門を名乗り、正徳から明和にかけて中泉代官として郷民に親しまれたが、明和4年(1767年)に中泉陣屋へ移り新貝の邸宅を廃したという。中泉代官所の支配高について同書は、遠江・三河二州にまたがる十万石と述べつつ、『日本経済史辞典』には7万7千石で江戸赤坂と現地中泉とに陣屋を持つとあることも併記している。代官所そのものの歴史は中泉代官所と、徳川の天領を治めたまちに詳しい。
幕末、嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)まで中泉代官を勤めたのが林伊太郎である。名は長孺、号は鶴梁。幕末の名文家として知られる漢学者林鶴梁その人であり、同書は「救恤を行ない善政を布いて庶民にその徳を慕われた」と記す。鶴梁と磐田の関わりは中泉代官と薬師堂の再興でも触れられている。
永高 ── 今川氏の朱印が生き続けた税制
安政3年の「辰御年貢可納割附之事」(遠江国豊田郡見附宿宛、代官林伊太郎名)を読むと、見付宿の税制の古層が見えてくる。本畑(定納畑)623石9斗6升の年貢は「永百二十四貫七百九十二文」と、米でも金でもなく「永」すなわち永楽銭建ての貫高で記され、実際の納入は鐚銭でなされた。同書はこれを「今川氏朱印以来のもので永高すなわち貫高で計算されていた」と説明する。永楽銭1貫文を籾5石に換算して石高に直す ── 戦国大名今川氏の検地以来の計算法が、約300年後の幕末の割付状にそのまま生きていたのである。一方、新畑(午御改原畑)は米で納め、年貢率をあらかじめ固定する定免と、毎年の作柄を見て決める見取の別も帳簿に明記されていた。
附加税のいろいろ ── 二升出目米から質屋冥加まで
本租のほかに、見付宿には各種の附加税・雑税がかかっていた。同書の解説を整理すると次のようになる。
| 名称 | 内容(同書の説明による) |
|---|---|
| 二升出目米 | 年貢米1俵につき2升を余分に量らせて納めさせるもの。幕府は悪法として厳禁したと伝える |
| 口米・口鐚・口永 | 代官所の経費として本租に割り付けられた附加税。米で取るものと銭・永で取るものがあった |
| 油船運上 | 採油用の搾り槽(船)にかかる租税。安永元年(1772年)に初めて賦課されたという |
| 酒造冥加・質屋冥加 | 株(免許)を得て営業することへの上納金。一種の献金と同書は説明する |
| 御蔵前入用 | 幕府の年貢米貯蔵の諸経費。村高100石につき米2斗 ── ただし伝馬宿の見付は免除 |
| 六尺給米 | 江戸城中の雑役人足の給料に充てる賦課 ── これも伝馬宿の見付は免除 |
この表の末尾二つが示すとおり、見付宿は伝馬宿であるがゆえに御蔵前入用と六尺給米を免除されていた。伝馬という重い公役の見返りに、いくつかの全国的な賦課を免れる ── 宿場町の税負担は、この差引勘定の上に成り立っていた。伝馬役の実際は特集第3ページ宿を動かした人々で述べたとおりである。
皆済目録と小手形 ── 納め終わるまで
年貢を納め終わると、代官所から皆済目録が交付される。同書は安政4年(1857年)3月付の「辰御年貢皆済目録」(林伊太郎名)も全文引用しており、そこには本途(本租)と附加税の別、災害時に借りた拝借金の返済、夫食(災害時の食料救助)の処理までが記されている。年貢上納の途中で代官所が出す仮の受取が「小手形」であり、皆済の際にこれを引き上げて正式の目録に替えた。徴税の一連の手続きが、宿に残された帳簿から手に取るように復元できるのである。
御囲蔵の米339石 ── 備荒貯穀
年貢とならんで同書が紙数を割くのが、凶作や災害に備えた備荒貯穀である。見付宿では天保15年(1844年)頃にはまだ専用の貯蔵庫がなく、「宿役人の土蔵の内、非常の手当に宜しき場所を見立て預り置く」と帳簿に記される状態だった。嘉永・安政の頃に御囲蔵が設けられ、安政5・6年(1858〜59年)頃の書上によれば、字鐘鋳塚の御囲蔵に米339石(807俵余)が詰め置かれていた。内訳は、幕府からの御下穀を積み立てた分125石、宿内の身元ある者が出穀した分200石、本陣・旅籠屋が出穀した分14石である。宿の有力者の拠出が過半を占めるこの構成は、備荒がたんなる上からの制度ではなく、宿ぐるみの相互扶助でもあったことを示している。これらの貯穀が、繰り返し宿を襲った火災や凶作の際の救助に役立ったであろうことは、特集第5ページ火事・洪水・祭礼で見る災害史からも推測される。
更新履歴:2026年8月6日 新規公開(特集『東海道遠州見付宿』を読む・第4ページ)。