失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

戦争・平和

二十一世紀に伝えたい戦争体験|磐田市民39人の記憶

平成14年(2002年)8月、磐田市総務部総務課は『二十一世紀に伝えたい戦争体験』という一冊の体験記集を刊行した。市内各地区に暮らす39人が、実名で寄せた戦争の記憶である。空襲、学徒動員、出征、被爆、そして終戦の日。本特集は、この体験記集をもとに、体験者ごとの証言を尊重しながら9つのテーマに整理し、全10ページで紹介する。

二十一世紀に伝えたい戦争体験 ── 磐田市民39人の記憶を時代層の断面で示した挿絵
時代層の断面として、この特集について、用語解説の関係を示します。

この特集について

『二十一世紀に伝えたい戦争体験』は、磐田市総務部総務課(〒438-8650 静岡県磐田市国府台3番地の1)が発行し、山田印刷所が印刷を担当した。発行の背景には、平成3年(1991年)に刊行された「戦争体験談」や、被爆写真パネル展の開催など、磐田市が続けてきた平和推進事業の積み重ねがある。巻末には協力者として39名の氏名が掲載されており、下大之郷、安久路、刑部島、幸町、石原町、上大之郷、大藤十区、東塚町、見付中学校区、岩田村、今之浦、新貝、富士見町、宿町、栄町、梅屋町など、市内の広い範囲から証言が寄せられたことがわかる。

本書の表紙裏には、昭和20年(1945年)5月19日午前11時ごろ、磐田北高校正門付近で米軍機が爆弾を投下し、下田中早苗先生と児童6名が死亡したという記録が添えられている。この場所には後に「子どもやくよけ地蔵」が建立され、今も毎年慰霊祭が営まれている。本特集の各ページでも、この出来事に触れた証言を紹介する。

市長・鈴木望氏「序にかえて」から。 刊行にあたり、当時の磐田市長・鈴木望氏は「序にかえて」と題した文章を寄せている。そこでは、アルコール工場への焼夷弾投下や、集団下校の途中で空襲に遭った児童たちのことが語られ、戦争体験を記録として残し、平和への思いを次の世代につなぐ意義が綴られている。体験記集の刊行そのものが、磐田市が非核平和都市を宣言した理念の延長線上にある取り組みだったといえる。

磐田市非核平和都市宣言。 磐田市は昭和59年(1984年)12月17日、非核平和都市を宣言した。核兵器の廃絶と恒久平和の実現を願うこの宣言は、本書の刊行や被爆写真パネル展といった平和推進事業の土台となっている。詳細な宣言文は磐田市の公式資料に譲るが、本特集で紹介する39人の証言は、この宣言が掲げる理念を、一人ひとりの体験という形で裏づけるものである。

証言を要約するにあたって。 本特集は、体験者ごとの証言を要約・再構成したものである。日付・場所・関係者といった事実関係は資料に基づいて正確に扱い、体験者本人の言葉のニュアンスを尊重するよう努めた。空襲、原爆、家族の死といった重い主題については、誇張や扇情的な表現を避け、淡々と事実を伝える筆致を心がけている。各ページには、取り上げた証言者の氏名と居住地区(執筆当時)を明記した。

年表で見る、磐田と戦争・災害の記憶。 39人の証言は、それぞれ異なる時期・異なる場所の記憶だが、並べてみると昭和期の磐田がくぐった苦難の輪郭が浮かび上がる。空襲だけでなく、大地震もまた戦時下の暮らしを襲ったことがわかる。

年月日出来事
昭和6年(1931年)満州事変
昭和12年(1937年)日中戦争開戦
昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦
昭和19年(1944年)12月7日東南海地震(死者1,233人、静岡県内で約295人。軍需工場が集中する東海地方を襲ったが、戦時報道管制でほとんど報じられなかった)
昭和20年(1945年)5月19日磐田北高校正門付近への爆弾投下
昭和20年(1945年)6月18日浜松大空襲(B29約100機、焼夷弾約65,000発、死者約1,800人)
昭和20年(1945年)8月6日広島に原子爆弾投下
昭和20年(1945年)8月15日玉音放送、終戦
昭和59年(1984年)12月17日磐田市非核平和都市宣言
平成14年(2002年)8月『二十一世紀に伝えたい戦争体験』刊行

地震・空襲の被害数値は静岡県・総務省等の公的資料に基づく概数であり、資料により差がある。証言者個人の体験の詳細は、各ページの参考資料欄に記した書籍所収の証言による。

二十一世紀に伝えたい戦争体験|磐田市民39人の記憶の主要な三論点を関係づけた第二図解
本文後半を読むため、この特集について、用語解説、戦争・平和特集を読むの関係を整理しました。既存図とは異なる論点の接続を示します。

用語解説

  • 学徒動員 中学校・専門学校・大学等の生徒・学生を、授業に代えて軍需工場や陣地構築などの労働に従事させた戦時政策。戦争末期にかけて対象と期間が拡大した。
  • 勤労動員 学徒動員を含む、国民を工場労働や農作業などに動員する仕組み全般を指す。
  • 学童疎開 空襲の危険を避けるため、都市部の学童を農村部などへ集団で避難させた政策。縁故疎開と集団疎開があった。
  • 玉音放送 昭和20年(1945年)8月15日正午、天皇がラジオを通じてポツダム宣言受諾を国民に伝えた放送。
  • 非核平和都市宣言 核兵器の廃絶と恒久平和を掲げ、地方自治体が独自に行う宣言。全国の多くの自治体が昭和59年(1984年)前後から宣言を行っている。

磐田の戦争の記憶を調べる ── さくいん

本特集(全10ページ)のほかにも、磐田の戦争の記憶を扱う記事がある。地区や切り口からここで辿れる。

Q. 磐田が空襲を受けたのはいつ?
A. 昭和20年(1945年)5月19日、見付・中泉地区が爆撃を受け、児童・教職員にも死傷者が出た。→ 空襲の記憶・磐田市の学校史(国民学校の章)

Q. 学童疎開はあった?
A. 昭和19年(1944年)、東京都大田区の児童約900名が磐田市域の国民学校16校に受け入れられた。→ 磐田市の学校史

学校
磐田市の学校史 ── 国民学校と戦時下の学校
竜洋
天竜飛行場と竜洋の学童 ── 学徒動員・疎開
竜洋
東南海地震と竜洋の学校 ── 空襲下の震災
竜洋
明野陸軍飛行学校天竜分教所跡
竜洋
福長飛行場跡
竜洋
竜洋地域の外人墓地
竜洋
水害・地震・台風の記憶(戦中の災害含む)
特集
非核平和都市宣言と慰霊 ── 記憶を継ぐ

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戦争体験の証言は、出来事の記録であると同時に、体験者が後年に意味づけた記憶でもある。採録年、聞き手、編集の有無を確認し、語られた言葉を公的統計の代わりに使わない。一方、統計だけでは恐怖、飢え、家族との別れ、学校や職場の日常は分からない。証言と公文書を競わせず、それぞれが伝えられる範囲を示して併読する。

同じ空襲や地震を経験しても、場所、年齢、立場によって記憶は異なる。食い違いを一つへ整えず、年月日や被害数は公的資料と照合し、個人の感覚は本人の経験として残す。軍隊生活や加害に関わる証言も、英雄化や断罪を先に置かず、当時の制度と命令、本人の行動を分けて記す。語られなかったことを推測で補わない。

氏名や家族情報の公開は、刊行資料の範囲と遺族への配慮を守る。引用は必要最小限とし、前後の文脈を失わせない。本特集は証言を再構成した案内であり、原資料の全文に代わるものではない。読者は各ページの典拠へ戻り、複数の体験を横断して、戦争が地域の日常へ及ぼした違いを確かめてほしい。

証言者が使った当時の差別語や軍隊用語は、歴史的文脈を説明せずに反復しない。引用が必要な場合は範囲を限定し、現在の読者に意味と問題点を示す。地名や部隊名の誤記が疑われても、本人の語りを無断で書き換えず、注記で公的記録との差を示す。

終戦後の引揚げ、復員、遺族の生活、慰霊も戦争体験に含まれる。昭和20年(1945年)8月15日で記事を閉じず、生活が再建され、記憶が公に語られるまでの時間を追う。沈黙していた期間も、証言がなかったのではなく、語れる条件が整わなかった可能性を考える。

  • 『二十一世紀に伝えたい戦争体験』磐田市総務部総務課発行、平成14年(2002年)8月、印刷:山田印刷所
  • 磐田市非核平和都市宣言(昭和59年〈1984年〉12月17日宣言)

史料上の限界。 本文は資料の転載ではなく、体験者本人の言葉のニュアンスを尊重しながら磐田物語用に再構成したものです。各証言の全文、採録時の聞き取り記録、編集過程は未確認であり、公的統計と個人の記憶は同じ確度では扱いません。

  • 証言、公的記録、個人情報を扱う際の史料批判を増補。
  • 史料上の限界、URL、挿絵を再点検。

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