失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

戦争・平和特集 4/10

銃後を守る|疎開・勤労動員・女性たちの戦時生活

前線から離れた場所でも、戦争は暮らしの隅々を変えた。学童疎開、勤労動員、乏しい食糧事情。女性や子どもたちが担った銃後の日々を、複数の証言から読む。

幸町・大場裕子氏の記憶

幸町の大場裕子氏は、昭和20年(1945年)当時9歳。浜松大空襲の折には家族で防空壕に避難し、B29の様子や近所での犠牲を記憶している。証言には、戦後の窮乏した生活についても触れられており、子どもの目線から見た戦時から戦後にかけての暮らしの変化が記されている。

勤労動員と女性たちの戦時生活。 石原町の鎌田輝子氏は、東京・蒲田で暮らしていた当時の体験を「私の青春」と題して記している。東京大空襲による疎開、そして満州からの引き揚げという、集団での困難な移動を経験した。引き揚げの道中では栄養失調で命を落とす人々を目の当たりにしたことも記されており、戦後の困窮した生活とあわせて、若い女性が背負った戦争の重さを伝えている。

上大之郷の沖つぎ氏は、国民学校高等科に入学した当時を振り返り、学校行事に軍国色が強まっていったこと、勤労奉仕としての農作業、そして出征兵士への慰問袋作りなど、日常に組み込まれていった戦時の営みを証言している。物資不足の中での生活、終戦後の混乱についても記録が残る。

疎開・引き揚げという移動の記憶。 学童疎開は、空襲の危険を避けるため、都市部の学童を農村部などへ集団または縁故で避難させた戦時政策で、昭和19年(1944年)以降に本格化した。授業や日常の暮らしを離れ、親元を離れて生活する子どもたちの負担は大きく、食糧事情の悪さも重なって、体験者の記憶に深く刻まれている。

満州(現在の中国東北部)からの引き揚げは、終戦とともに満州国が崩壊したことで生じた移動である。当時満州には民間人を含め多くの日本人が入植しており、終戦後の混乱の中でソ連軍の侵攻や治安の悪化に見舞われ、祖国への帰還までに飢えや病で命を落とす人が少なくなかったことが、各種の記録で伝えられている。鎌田氏の証言に記された道中の困難は、こうした引き揚げ全般に共通する厳しさを個人の体験として伝えるものである。

富士見町・森山八重子氏の視点。 富士見町の森山八重子氏は「心のままに」と題した証言の中で、満州事変から日中戦争期にかけての子ども時代を振り返っている。当時の教科書に見られた戦意を高める内容にも触れ、後年『はだしのゲン』を読んだ際の感想とあわせて、平和への思いを綴っている。

教科書と教育の中の戦争。 森山氏が振り返る満州事変(昭和6年〈1931年〉)から日中戦争(昭和12年〈1937年〉)にかけての時期は、学校教育の内容にも軍国主義的な色彩が強まっていった時期にあたる。修身や国語の教科書には、国のために尽くすことを美徳とする記述が増え、学校行事にも軍事色が反映されるようになった。沖つぎ氏の証言にある「学校行事に軍国色が強まっていった」という記述は、こうした全国的な教育の変化を、一人の児童の実感として伝えるものである。

森山氏が戦後に読んだという『はだしのゲン』は、広島の被爆体験を描いた漫画作品として知られ、戦争を知らない世代にも当時の記憶を伝える役割を果たしてきた。自らの子ども時代の記憶と、後年に触れた作品とを重ね合わせながら平和への思いを綴る森山氏の証言は、体験の継承がどのように行われうるかを示す一例でもある。

配給制度と物資不足の暮らし

戦争が長期化するにつれて、生活物資は国による配給制度のもとに置かれるようになった。米や砂糖、衣料品などは切符と引き換えに配給される仕組みとなり、量も次第に減っていった。大場氏が振り返る戦後の窮乏した生活も、こうした配給制度の行き詰まりと、戦後の生産・流通体制の混乱が重なった結果である。慰問袋作りは、こうした物資不足の中でも、出征した兵士に少しでも生活必需品や励ましの品を届けようとする、銃後の女性・子どもたちの活動として広く行われていた。沖氏の証言にある慰問袋作りは、こうした全国的な取り組みの一端を伝えている。

幸町・大場裕子氏が見た子どもの戦後。 大場氏が9歳という年齢で経験した浜松大空襲の記憶(本特集h002でも触れた出来事)は、防空壕での避難やB29の様子だけでなく、近所での犠牲という、身近な範囲での喪失の記憶とあわせて語られている。子どもの視点から見た戦争と戦後の暮らしの変化は、大人の証言とは異なる質感を持つ。学業や遊びといった子ども時代の日常が、空襲警報や物資不足によって絶えず中断されていたことは、大場氏に限らず、当時の子どもたちに共通する経験であったと考えられる。

本項で紹介した大場・鎌田・沖・森山の4氏は、いずれも当時10代前後の女性・女児として戦争を経験した世代である。銃後の生活は、しばしば男性の従軍を支える背景として語られがちだが、実際には女性や子どもたち自身が、勤労動員や疎開、家事や農作業の担い手として、戦時体制の中で重い役割を担っていた。4氏の証言を並べて読むことで、銃後という言葉が指し示す暮らしの実態が、より具体的に浮かび上がってくる。

この記事で扱う範囲。 本項では、大場裕子・鎌田輝子・沖つぎ・森山八重子の4氏の証言から、学童疎開、勤労動員、女性たちが担った戦時生活の諸相を紹介した。

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  • 『二十一世紀に伝えたい戦争体験』磐田市総務部総務課発行、平成14年(2002年)8月
  • 大場裕子「空襲のこと」「戦争体験」、鎌田輝子「私の青春」、沖つぎ「戦時下の小学生」、森山八重子「心のままに」(同書所収)

本文は各証言の転載ではなく、事実関係を確認しながら磐田物語用に要約・再構成したものです。