一、寺子屋の時代 ── 読み・書き・そろばんを教えた師匠たち

江戸時代の庶民にとって、読み・書き・そろばんという「技(わざ)」と「芸(げい)」は、生きていくために欠かせないものだった。田畑を耕し、商いをする中で、年貢の書き付け、用水や諸帳簿の維持、商品の仕入れ・販売など、文字と計算の習得が必要な場面は多い。その学びの場所が、寺院や師匠の私宅で開かれた寺子屋(手習い塾)である。

磐田郡内の寺子屋を見ると、その担い手は多様だった。淡海国玉神社の神官・大久保忠尚は安政年間に馬場で60~70名を教え、西光寺住職の河野大門は横町で30名を教えた。明王寺の慧良尼のように、尼僧が師匠を務めた例もある。金剛寺住職の久我尾亮好は南小路で50名内外を教え、寺には門人が建てた寿碑(頌徳碑)が残る。府八幡宮神職の大場図書(重光)や、浅間寺住職の乾峯原機(門人に金原明善らの名を出す)など、神職・僧侶が地域の教育を担う例が磐田郡内に広く見られる。

海老島の心月寺には「江月堂門人帳」が伝わり、見付・中泉地区だけでも延べ1,500人余りの門人・子弟の名が記されている。入門年齢は7歳から成人までと幅があり、筆子(弟子)には旅籠屋・米屋・酒造屋・傘屋など様々な商家の子が名を連ねた。男女別に見ると多くが男子で、女子は全体の1割程度にとどまる。見付・中泉のマチの寺子屋は隣接する見付・中泉の子弟が約半数を占め、周辺の村々からも通う子がいたという。

寺子屋の師匠が没した後、門人たちが師の恩に報いて「筆子塚」を建てる風習もあった。福田半香(見付が生んだ文人画家)の母が師匠を代行した際の筆子は、大見寺に半香の碑を建てている。学びが個人の縁で結ばれ、師弟の情愛が石碑として今に残るのが、寺子屋時代の教育の特徴である。

磐田郡内の寺子屋・師匠の一例

師匠身分・所属所在地筆子数のめやす
大久保忠尚淡海国玉神社神官馬場60~70名
慧良尼明王寺河原10名内外
久我尾亮好金剛寺住職南小路50名内外
大場図書(重光)府八幡宮神職境松7~8名
乾峯原機浅間寺住職西町40~50名
建国禅隆中泉寺住職御殿数名(門人の江南天敬は中泉小学校最初の教師に)
静寛玉泉寺住職二之宮数十名(門人は前後数百人に及んだと伝わる)

磐田市歴史文書館「見付・中泉地区寺子屋一覧」「磐田郡内の寺子屋一覧(見付・中泉を除く)」(『磐田の近代教育』『磐田都誌(上)』ほかによる)から一部を抜粋。師匠の没年や筆子数は資料によって幅がある。

二、学制発布と、磐田の小学校創立

明治5年(1872)、政府は「学制」を発布し、国民皆学を目指す近代教育制度の基礎を定めた。全国を8つの大学区に分け、それぞれに大学校を1校、大学区を32の中学区に分けて中学校を、さらに1中学区を210の小学区に分けて小学校を設置するという、全国一律の壮大な構想だった。もっとも、大学区・中学区の構想は現実の社会や教育の実態に即さない面が多く、その後も規定の見直しが重ねられていく。全国に5万3千760校の小学校を設けるとされたが、住民の自己負担・授業料の自己負担が大きな問題となり、実際に設置されたのは全国で2万4千から2万6千校ほどにとどまった。

磐田市域では、学制発布から間もない明治6年(1873)6月、磐田市域で最初の小学校創立に着手した。この年、坊中学校(現・豊田北部小学校)、見付学校(現・見付小学校)、西之島学校(現・豊田南小学校)の3校舎が落成し、翌年には野部学校分校・上神増学校も開校している。磐田市域では、明治6年から明治10年頃にかけて、竜洋東小学校、福田学校(豊田南小)、掛塚学校、御厨学校(磐田北小)など、地域の実情を優先しながら次々と小学校が設けられていった。

この創立を担ったのが、地域の有志による自発的な資金調達だった。「学制」では、小学校の設立は地方の負担とされ、授業料や地元の自己負担が問題視されたにもかかわらず、磐田市域では熱谷忠尚らが中心となって金銭を集め、開校後の日々の運営費もまかなうというものだった。見付では「遠州三大学校」と呼ばれるほどモダンな威容を誇る校舎を第十一番中学校(明治8年、西洋風の二階建て)として新築し、評判となった。学校建設費用は地域で編成し、開校後も授業費用を徴収して運営するというしくみで、見付医王山・大久保忠尚らが中心となり、寺院の住職や村の富裕層が金繰りをつくって進めた。

就学率については、明治初期は男女差が大きく、女子の就学率はわずか8%と男子から大きく水をあけられていたとされる。学校数が全国的に増えていく一方、就学しない児童も多く残り、明治30年代以降、就学率が向上していく。明治33年(1900)の小学校令改正により、尋常小学校の授業料が原則として徴収しないものとされ、義務教育の実質的な無償化が進んだ。

三、大正デモクラシーと教育の広がり

大正時代、日清・日露戦争を経て帝国主義国家としての地歩を固めた日本は、軍事的な急成長の一方で、政党政治や普通選挙運動など社会の大衆化が進んでいく。大正デモクラシーの風潮は教育にも及び、私立学校運動が広がりを見せ、児童雑誌の発行や、成城学園など個性や自主性を育む教育を望む人々が現れた。磐田でも大正自由教育運動に加え、文化の大衆化により、それまで一部の階層に限られていた教育熱が広く社会に浸透していった。

大正時代後期には教材が豊かになり、鳥類剥製、鉱石標本、動物模型、理科の実験用機器などを備えた学校もあった。女子教育が進展し、見付中学校(大正11年開校、現・磐田南高等学校)など高等教育の裾野が広がったのも、この時期の成果である。

大正7年(1918)、世界的に流行したスペイン風邪は、磐田市域にも上陸した。市域各小学校の校務日誌・沿革誌には、大正7年から大正10年にかけて増加していく欠席児童数が記され、出席停止や臨時休校が繰り返された。「悪性感冒」という記述も残る。学校もまた、地域社会と同じように感染症と向き合わざるを得なかった。

四、国民学校令と、戦時下の学校

昭和16年(1941)、「国民学校令」が公布され、それまでの「尋常小学校」は「国民学校」へと改称された。初等科6年・高等科2年(特修科1年)という修業年限のもと、教育内容は「皇国ノ道」に則った国民の基礎的錬成を目的とするものへと大きく傾いていく。教科は国民科(修身・国語・国史・地理)・理数科・体錬科(体操・武道)・芸能科(音楽・習字・図画・工作・女子の家事)と定められ、教育理念の源は教育勅語に置かれた。

昭和19年(1944)、戦局の悪化に伴い、東京など都市部から地方への学童集団疎開が始まった。磐田市域(旧磐田市・旧豊田町)には、東京都大田区の児童約900名が受け入れられた。8月28日から9月3日の間に到着した疎開児童は、御厨村・岩田村・富岡村国民学校など16校に分散して受け入れられ、蒲田国民学校、女塚国民学校などの児童が、医王寺・宣光寺といった寺院を宿舎とした。校務日誌には、疎開児童の到着や、地域住民による温かい受け入れの様子が記録されている。

昭和20年(1945)5月19日、磐田市域も空襲に見舞われた。見付・中泉地区への爆弾投下により、児童・教職員にも死傷者が出た。西部国民学校の校務日誌には「空襲アリ」「入学前児童身体検査中途ニテ」といった記述が残り、当時の混乱がうかがえる。学校は食糧増産のため校庭の一部を農地に変え、空襲警報のたびに児童を避難させながら授業を続けた。8月15日、終戦の日を迎える。国民学校の校務日誌には「正午大東亜戦争終結ニ関スル詔書拝聴」「一億国民悲痛ノ極ミ」といった、その日の緊張と衝撃が刻まれている。

五、青い目の人形と友情人形 ── 学校が結んだ日米交流

昭和2年(1927)、日米親善のため、アメリカから日本の学校へ「青い目の人形」(友情人形)が贈られた。渋沢栄一らが会長を務めた日本国際児童親善会がこの事業に尽力し、全国の学校や幼稚園などに配布された人形は約1万2,739体にのぼる。磐田市内の学校にも「青い目の人形」が届き、着物や小道具を整えて大切に迎え入れられた。

これに応える形で、同年、日本側からもアメリカへ答礼人形「友情人形(通称ミス日本)」が贈られた。各道府県代表として計58体、豪華な衣装をまとった市松人形がワシントンで盛大な歓迎式を受け、その後アメリカ各州の博物館などに配布された。渋沢栄一にちなんだ日本の外交事業として、児童を介した草の根の国際親善が図られたのである。

しかし、太平洋戦争が始まると、「青い目の人形」は一転して敵性人形と見なされ、戦時中に多くが処分された。磐田市内でも大半が失われたが、井通尋常高等小学校(現・見付小学校)に迎えられた人形は、現在も磐田西小学校に「カザリン=ハムリン嬢」として保管され、当時の校務日誌とともに現存している。井通村の広瀬尋常高等小学校に伝わった「ドロシー=ヴァイオレット」の名も、校務日誌・沿革誌等で確認できる。全国では、静岡県内でも人形の多くが行方不明となっており、磐田に現存する人形は貴重な資料である。

六、戦後の民主教育へ ── 六三制のはじまり

終戦直後、日本は連合国軍(特にアメリカ軍)によって占領され、軍国主義・国家主義教育からの脱却が図られた。昭和20年(1945)8月15日の終戦後、まもなくアメリカの教育使節団が来日し、その視察をもとに、軍国主義的な教育内容を排し、教科書の該当箇所を墨で塗りつぶす、いわゆる「墨塗り教科書」の指示も出された。

昭和22年(1947)、「日本国憲法」の精神にのっとり、「教育基本法」と「学校教育法」が公布された。これにより、それまでの「学校令」体系が廃止され、小学校6年間・中学校3年間を義務教育とする、新しい「六三制」が発足する。満6歳になる年度から小学校に入学し、義務教育を終えるまでの9年間の課程を修了した者が、さらに高等学校(修業年限3年)に進学する仕組みが整えられた。磐田市域でも、昭和22年5月に「国民学校令」が廃止され、小学校(六年間)と、これに加えた新制中学校(三年間)が発足した。磐田市域には新制中学校として磐田第一・磐田第二・豊田・御厨・竜洋・豊浜など多くの中学校が設立され、当初は既存の小学校や仮校舎を間借りしながら、校地や校舎を統合・分離しつつ整えられていった。

戦後の学校給食も、この時期に始まる。磐田市内では昭和22年(1947)ごろから、栄養不良児童への養護対策として一部の学校で「おかず給食」が実施され、やがて戦後の脱脂粉乳(ミルク給食)を中心とした給食へと転換していく。昭和28年度以降、パン・ミルクとおかずによる完全給食が実施され、昭和29年には学校給食法が公布された。戦後の食糧事情が厳しい中、栄養補給と発育不良児対策として、給食は学校教育の中に位置づけられていった。

磐田の教育・小学校年表(抄)

元号できごと
1864元治元見付に「磐田文庫」創設。
1868明治元前島密が中泉に「中泉仮学校」を設立。
1872明治5学制発布。「被仰出書」頒布。
1873明治6坊中・見付・西之島学校など、磐田市域の小学校が相次いで開校。
1886明治19小学校令公布(第一次)。
1890明治23教育勅語発布。
1900明治33小学校令改正。尋常小学校の授業料を原則廃止。
1922大正11見付中学校(現・磐田南高等学校)開校。
1927昭和2「青い目の人形」が磐田の学校へ。日本から答礼「友情人形」を米国へ。
1941昭和16国民学校令公布。尋常小学校が国民学校に改称。
1944昭和19東京都大田区の児童約900名が磐田市域へ学童疎開。
1945昭和205月19日、見付・中泉地区が空襲被害。8月15日、終戦。
1947昭和22教育基本法・学校教育法公布。六三制発足、新制中学校開校。
1953昭和28パン・ミルクによる完全給食が実施される。
2005平成175市町村の新設合併により、現在の磐田市が発足。
2021令和3「ながふじ学府」小中一体校が開校。

磐田市歴史文書館 第25回企画展の年表資料をもとに、教育に関するできごとを中心に抜粋・要約した。

七、校務日誌が伝える災害と感染症の記録

校務日誌・沿革誌には、教育制度の変遷だけでなく、学校が地域とともに経験した災害や感染症の記録も残されている。大正12年(1923)の関東大震災では、磐田市域でも揺れが伝わり、当時の校舎関係者の記録に被害の様子が書かれている。昭和19年(1944)の東南海地震では、太田川流域を中心に磐田市域でも校舎の倒壊や被害が発生し、掛塚国民学校や十束村国民学校などで、当日の授業再開に向けた学校側の対応が記録に残る。

伝染病についても、明治10年代のコレラ流行以降、腸チフス・赤痢・天然痘・ジフテリアなどが「伝染病予防規則」の対象とされ、学校では消毒などの措置がとられた。明治44年(1911)制定の「伝染病予防法」により、学校での出席停止や臨時休業を要する感染症の種類が定められ、以後、感染症予防の中心的な法規となった。ワクチン接種も明治時代から昭和にかけて奨励され、校務日誌には種痘(天然痘ワクチン)に関する記録が残る。大正9年(1920)1月から2月にかけての「スペイン風邪」流行時には、各校で罹患した児童・教職員の記録や、学校でのマスク着用が推奨された様子も記されている。

これらの記録は、単なる学校の事務記録にとどまらない。地震、空襲、感染症という、地域全体が経験した危機の中で、学校がどう対応し、児童と地域をどう支えようとしたかを伝える一次資料である。校務日誌・沿革誌は、法令や制度の変遷とともに、こうした「学校生活の中の変動と波瀾の歩み」(磐田市歴史文書館の言葉を借りれば)を今に伝える、貴重な地域史資料といえる。